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幕・139 心臓に、杭
× × ×
いつものように、ヒューゴはすべてをきれいに清めた。
執務室には塵一つ落ちていないし、家具や服も清潔に整えられている。
どこにも、情事の痕跡一つ残っていない。
術式さえ完璧なら、魔法でも同様な効果は得られるが、ヒューゴはこういうことに関しては手作業にこだわる派だ。
真っ先に清めたのは、気を失ったリヒトの身体。
快楽に蕩けきった身体を拭い清め、今は清潔なベッドに横たえている。
ざっと確認した執務室も寝室も、夜の静寂に包まれていた。まるで―――――何事もなかったように見える。
ただひとつ。
(あ)
ヒューゴはあることに気付いた。
まったく見飽きる気がしないリヒトの顔を眺めていると、視界の隅にあるものが映ったのだ。
リヒトの首筋。そこに、ヒューゴの噛み痕が残っていた。
最中、噛みついたことを思い出す。
ヒューゴは、リヒトの傷を癒そうと咄嗟に指を伸ばし、…結局ひっこめた。
今、リヒトの身体には普段以上に強烈な神聖力が巡っているはずだ。それはヒューゴの治癒の力などお話にもならないほど、強い力だ。
にもかかわらず、まだ痕が残っているとなると。
(よっぽど強く噛んじゃったんだな…)
反省しきりである。ヒューゴはなんとなく、自分の口元をペチンと叩いた。
確かに―――――今日はいつも以上に興奮していた覚えがある。
最初に怒りがあった。
『他』に、ヒューゴとの情事の際に見せる表情を見せたことへの怒りが。
皇后や皇妃たちに対しては、一度も覚えたことのない怒りだ。それも仕方がない。
あれは、男が女に見せる表情ではなかったから。
どちらかと言えば、女が男に見せる表情で、ただ、似て非なるものだ。
リヒトは男だから、どうしたって、女に似た表情にも、雄がにじむ。
そのすべてで、ヒューゴを『欲しい』と訴えてくる、あの昂揚、…優越感。
その上で。
リヒトは―――――ヒューゴを殺し、自分のモノにすると告げた。
これで興奮しなければ、悪魔ではない。
気に食わない相手の宣言ならば、間髪入れずに踏み潰しているが、言ったのはほかならぬリヒトだ。
赤ん坊の頃から知っている、可愛いリヒト。
もちろん、再会することなど考えてもいなかったし、再会した時、リヒトは既に十歳になっていたが。
大きくなってからも、ヒューゴにとって、リヒトは昔と変わらない幼子だ。なのに。
―――――いつからそんな、頼もしいことを考えるようになったのだろうか?
ヒューゴは自身の口元から手を離す。
ちょっと、叩いた唇がじんじんしたが、リヒトの方がもっと痛むだろう。
身体を横にして眠るリヒトの頬に、そっと手を伸ばした。
吸えば本当に甘く感じる唇を、さっきは過ぎるほどに吸い過ぎた。
口づけが好きとは言い難いヒューゴは、普段そんなことはしない。
ただ、キスをしたときの、リヒトの身体の反応は、至極いい。
快楽に蕩けた身体が、最後の一押しを受けたように、陥落する。
いやいつだって陥落するのだが、さらに快楽に従順になる。正直、たまらない。
どんなふうに触れても、快楽をいつもの倍以上に拾い上げ、身もだえ、強請る。
そう、どんなふうに触れても、だ。
痛みしかないだろうと思うほど強く、陰茎の先端に爪を立てても、心地よさしかないらしく、立て続けに射精した。
キスを仕掛ければ、最後だ。
腹をすかせた赤子が乳を求めるように、リヒトはいつまでもヒューゴの唇に吸い付いてくる。
溺れるようになりながらも、もっととせがむ。
結果として。
リヒトの唇は、ぽってり腫れあがったようになっている。いつもは引き結ばれ、厳しさを感じさせるばかりなのに。
それでも、事後、その直後よりはだいぶんましな状態だ。
リヒトの唇を、ヒューゴがやんわりと手の甲でなぞれば。
「…んっ」
ぴくん、と眠るリヒトの身体が微かに跳ねた。
性交直後のリヒトの唇は、敏感な性感帯だ。
出来上がった頃に、舌を吸い上げれば、それだけで全身を震わせ、吐精したこともある。
情事が終われば、全くそんなことに興味がありません、といった態度と表情だから、ギャップがすごい。
唇の柔らかさと吐きだされる息の熱さに、なんとなく執拗に指の甲で唇をなぞり続けていると。
いきなり―――――ぱくっとリヒトが唇でヒューゴの指の甲を挟んでしまった。
あ、と思った時には。
ちゅうっと強く吸い上げられた。
取り戻す間もなく、前歯が、こりこりと骨を甘噛みする。
ヒューゴとのキスを反芻するように。夜の闇の中、リヒトの頬が薄く上気していた。
無表情で見下ろしたヒューゴの脳裏に、食べごろだなあ、という色ぼけた思考が過る。
同時に。
うっとりしたリヒトの表情を見下ろすヒューゴの思考に、妙な考えが浮かんだ。
―――――これは、誰だろう。
もちろん、リヒトということは知っている。
ここに眠っている存在は、リヒト・オリエス以外の何者でもない。
室内に満ちたこれほど濃密な神聖力の持ち主は、この世でオリエス皇帝ただ一人。
知ってはいるが。
…朝から、フィオナとディラン、この二人と共に行動したせいだろうか。
―――――子供という存在がどういうものを、改めてヒューゴは認識していた。
リヒトは子供だ、子供だ、とヒューゴはずっと思っていたし、今もそう感じているが。
本当の子供という存在は、…ディランのようなものだ。
とはいえディランも皇族である、普通の子供とは言い難いところはあるが、それでもやはり、四年しか生きていない、愛らしくも未熟な幼さを持っている。
だが、リヒトは。
(…もう、子供じゃない)
今更だが、ヒューゴははじめて、心の底から、それを実感した。
リヒトは、皇帝だ。
誰もが敬い畏れ、膝をつき、遠くに崇めるべき存在。
その完璧さは、今や巌のように崩れない。
国の誰もが、この方が我が国の皇帝陛下だと胸を張って堂々と告げることができる存在だ。
―――――ゆえに。
(あれは)
先ほどの、リヒトの宣言が、強い瞳の色と共に蘇る。
―――――僕はヒューゴを自分のモノにしたい。
(…強がり、とか、そういう…あれは、何の確証もない、気が逸っただけの宣言じゃ、なかった)
そうしたい、という希望ではない。
そうする、とリヒトは確信をもって告げたのだ。
リヒトはヒューゴを殺す。それは決定事項だ、と。
…そう、不思議なことにヒューゴを殺せる確信を、リヒトは持っていた。
ヒューゴの予測では。
リヒトと彼の勝負は、一瞬でつく。
どちらか一方の力が上回れば、そちらが勝者だ。
この勝負は、見ていても、面白くもなんともないだろう。
頭脳戦でも、技巧の有無によって結果が左右されるものでもない。
神聖力対魔力。
これらの、ある意味、数字の結果にしか過ぎないのだから。
ただ、今のリヒトとヒューゴの力の差は、紙一重のもの。それも、ヒューゴの掌の上でどのようにでも変えてしまえる。
はっきりと口にしたことはないものの、リヒトとて、それは知っているだろう。
彼の神聖力がバケモノ並みになってしまったのが、ヒューゴのせいであることも。
そんな不安定な力に、リヒトが賭けるとは思えない。
ヒューゴに勝つ確信を持てるはずがない。
つまりは、リヒトがヒューゴを殺す方法は―――――神聖力以外のものによって、ということになる。
―――――それはいったい。
そこまで考えたところで。
…ふ、とリヒトの目が開く。ぼんやり、視線が彷徨った。その黄金の目が。
覗き込むヒューゴの顔のあたりに固定される。
夜、目を覚ました時、自分を覗き込んでいる相手。
普通は驚くものではないか、と思ったヒューゴは身を放そうとした、が。
「…あぁ」
指から口を離し、リヒトは、とろり、と無防備に微笑んだ。
「ヒューゴ」
名を呼ぶ舌足らずな声に、確かにこんな時分にリヒトの顔を覗き込んでいる相手など限られているな、と思い直した。
「起こしたか」
小さく囁けば、リヒトは緩く首を横に振る。
もう寝ろ、と促す前に、リヒトの手が持ち上がり、ヒューゴの頬に触れた。
ぼんやりと、まだ夢見心地の表情で。
ゆっくり言葉を紡ぐ。
「ずっと、一緒だ」
―――――なぜだろう。
それはリヒトが幼い頃から、繰り返し言い続けてきた言葉だというのに。
今夜は、やたら、胸苦しくなった。
心臓に、杭でも打ち込まれた心地になる。
ずっと、一緒に。
―――――いられるわけがない。
ヒューゴは悪魔で、リヒトは人間だ。
だがリヒトは。
―――――本気で、言っていた。
子供がするその場限りの口約束などではなく。
本気で、ヒューゴとずっと一緒にいる、と。
それが今、はっきりと分かった。
ますます、分からなくなる。
この確信は、いったい、なんだ。
迷い、戸惑い、悩み、リヒトを見つめる目を凝らした、刹那。
(あ)
―――――理解がヒューゴの胸の中へ、ふ、と降りてくる。
落ちてくる。
まるで、天啓のように。
直後、ヒューゴは、胸をおさえた。
全身の血が、魔力が、凍り付いた心地になる。
ぐらり、身体が傾いだ。
激痛が、全身を貫く。
息が詰まった。
苦痛の表情を隠しきれない。
(リヒトが見てるのに)
夜の闇が隠してくれることを祈りながら、シーツへ前のめりに突っ伏しかけ―――――驚いたように跳ね起きたリヒトに、抱き留められた。
何か、声をかけられている気がする。
だが、遠い。
大丈夫、心配はいらない、と言ってやることもできず、意識が遠のいていく。
その一方で。
穏やかな、諦念に似た理解があった。
ああ、そうか。
これなら、殺せる。
ヒューゴを、…魔竜を。悪魔を。
それは、すべての悪魔の息の根を止めるもの。
リヒトがヒューゴに向ける感情――――――その名は。
愛だ。
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