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幕・140 塔主の憂鬱
× × ×
何度も言うが、オリエス帝国魔塔の新人塔手ダリルは、現在、過労のために表情が死んでいる。
ゆえに、皇宮の回廊内を歩いている今も、動じた様子は一切ない。
平然とした態度に、さすがは魔塔の塔主だとすれ違う者を感心させているわけだが。
ダリルの内側で、彼の心は本当に半死半生だった。
オリエス帝国の魔塔、その歴史を繙けば。
帝国の皇宮に出入りできた魔法使いは、初代塔主以外にいない。
しかも、初代とて、何をやらかしたものか、早々に出入り禁止になっている。
(―――――平気さ、僕だってきっと、この一回きりだ。…生きて出られても、出られなくても)
つい、開き直った気分で暗いことを考えてしまうのも仕方がない。
それだけ、皇宮内は別世界だった。
―――――文字通り、別世界、なのだ。肌で感じる空気が、外と全く異なる。
どういう結界が張られているのか。
発案者は誰なのか。
質問攻めにしたい気持ちにもなるが、こんな結界を構築できる魔法使いが、まともなわけがない。
あまりの異質さに、好奇心と同じくらいに緊張感が増して、色々調べ回りたい気持ちに任せ、興味津々に周囲を見渡せるわけもなかった。
通り過ぎる侍従や侍女、騎士たちもまた、ダリルから見れば、別世界の生き物のようだ。
むろん、彼らがただの人間であることは、気配から分かる。
だが、へたな行動を取ろうものなら、ダリルの命はすぐさま風前の灯火になるだろう。
何の心構えもなく、オリエス帝国の皇宮の回廊を歩く羽目になった結果、ダリルの心臓は賑やかに踊り、神経は緊張にすり減っている。
いくら呼び出しを受けたとはいえ、皇宮内へ、魔法使いの、しかも塔主が通されるとは微塵も考えていなかったのだ。
咄嗟にダリルは、とにかく立って歩けたら上出来、という最低限のルールを自分に定めた。
そして現在、彼はただただ目の前を歩く男性の背中を追っている。
目の前の男―――――炎のような赤毛に、空色の瞳、そして髪と同じ色の髭をはやした、堂々とした体躯の美丈夫―――――彼は、リカルド・パジェスと名乗った。
静かな名乗り上げを聞くなり、笑顔のまま、ダリルが蒼白になったのも無理はない。
リカルド・パジェス。
それは、オリエス帝国が誇る、騎士団の頂点に立つ男。
即ち、将軍その人である。
対して、ダリルは先日まで、いや今だって、心根は、平民だ。
将軍とか大臣とか、国家の上層部相手となれば、太刀打ちするどころか、権威に対して、身が竦む。
平伏して終わり、で済ませてもらえないだろうか。
なぜこんな凡人が、雲上人と会話をしなければならないのか。
先日などは、魔竜に対話を望まれた。
正直、こんな機会いらない。
先ほどから、ダリルの背中を流れる冷や汗が止まらない。
隣にサイファがいなければ、一目散に逃げているところだ。
いや、立って歩くのがやっとのこの状態で、逃げようとして、足腰が言うことを聞いてくれるかどうか。
罪人のような気分でリカルドの後ろについて歩くダリルを見かねたか、
「お急ぎのところ、申し訳ないのですが」
サイファが、猛獣を刺激しないように気を配るような静かな声で、前を行くリカルドに声をかけた。
「夜も更けたこの時間に、突如魔塔の塔主を呼び出した理由を、教えて頂けないでしょうか」
ダリルは、長い袖の下で、ぐっと拳を握る。まさに、それだ。
ダリルとサイファは、皇宮の正面から入った。そこで直々に出迎えてくれたのが、リカルドだったわけだが。
リカルドは名乗っただけで、用件も言わず、ついてくるように言った。
それだけだったのだ。
正直、怖い。
一見穏やかそうだが、リカルドは雰囲気からして、沈毅重厚。
その立派な体躯といい、立場といい、どうあっても無言だと他者を威圧してやまない。
しかも、にこりともしないのだ。
彼の役職が武門の頂点であることを考えれば、目的は処罰としか到底思えなかった。
これから向かうのは牢かと暗い方へ思考がどんどん沈んでいたダリルだが。
「――――…あ、」
突如、何かを思い出した、と言った風情で、リカルドがわずかに焦燥をにじませた様子でダリルとサイファを振り返った。
どこまでも冷静なサイファと、どこか達観したような笑みを浮かべたままのダリルを見遣り、
「これは、失礼した」
男臭い顔立ちに、苦笑いを浮かべた。
とたん、雰囲気が寸前までの、猛獣すら瞬殺しそうな戦士の雰囲気を冗談のようにかき消す。
見た目は全く変わらないのに、近所のやさしいお兄さんと言った空気感が漂った。
「部屋につくまで、詳細は話せないので、説明はご容赦頂きたいのだが…」
できれば話したいのだが、状況がそれを許さない、といったもどかしげな空気が、実直そうな雰囲気から伝わってくる。
全く別人のような変化だが―――――彼は将軍だ。
数多の戦場を、皇帝と共にしている。
戦場での戦士のまま日常生活は送れないし、平和の中温かな日常を甘受する凡夫のまま戦場には立てない。
それゆえの切り替えは、…確かに必要だ。
目の前で起こっているのはそういうことだろう。
魔塔の塔主たる立場上、そんなの理解できないし、付き合いきれない、などと言うことはできない。
ダリルは小さく息を吐きだした。柔軟な対処が必要だ。
「お気になさらず。では、どちらでならご説明いただけますか?」
言葉は、ダリル自身意外なほど冷静な声で紡がれた。
「ご理解に感謝する。そうですな、事情は、報告書に一筆あった通りなのだが」
リカルドの言葉に、ダリルは必死で、胡乱な表情を浮かべるのを堪えた。
報告書に一筆あったことと言えば―――――魔竜が呪詛に倒れた?
(そんなわけあるか)
というのが、ダリルの本音である。
だがそれをリカルドに向かって言う勇気はない。
ともすれば、彼は書かれていた内容を知らないのかもしれなかった。
先ほどのリカルドの物言いでは、回廊を歩きながら、報告書の内容を話してはいけないだろうから、直接内容には触れず、ダリルは別のことを尋ねる。
「いつも頂いている報告書は、誰が書いてくださっているんですか」
リカルドは即答。
「宰相閣下ですな」
ヤメテ。
ダリルは両手で顔を覆いたくなった。
宰相閣下に、アレはどういう冗談ですか、などと言えるわけがない。
権力者がそう言うのなら、白を黒と言われても黒いというほかなかった。
天井を見上げ、涙が流れるのを堪えれば、ちょっと鼻水が出そうになる。
ダリルは鼻声気味の声で相槌を打った。
「そう…でしたか」
「正確には閣下が伝えたいことの要点を簡潔に伝え、それをかみ砕いた官吏の一人が報告書の文体に仕上げます」
どちらにせよ、一国の宰相が魔塔への報告書に関わっている事実は消えない。
ダリルの庶民の心は折れる寸前だ。
その中でも、最低限、明るい方向を見て口を開く。
「では、今我々が向かっているのは、少なくとも、牢ではないわけですね」
皮肉ではない。
その台詞は、ダリルの心からの安堵の言葉だった。
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