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幕・141 一番好きな御伽噺
つまりダリルは、宰相から呼び出された。
その理由の真偽はともかく、宰相は魔塔の塔主に用があるに違いない。
では、牢へ向かうわけがなかった。
ダリルが、分かり切った確認を脳裏でひとつひとつ行う間に、
「牢…ですと? ふむ」
リカルドは不思議そうに首を傾げ、
「どうやら、不安にさせてしまったようですな。申し訳ない」
真心のこもった謝罪を真摯に口にした。
我に返ったダリルは恐縮。
同時に、心の中で、悪いと思うなら帰してくれないかな、と思いつつ、
「いえ。小心な僕がいけないだけですので」
口ではいい子の台詞を放つ。
「ご謙遜を。あの魔竜を前にして、動じなかったと聞き及んでおります。…そうですな」
いったい、魔竜はこの男に何をどう語ったのか。動じまくりだったダリルとしては居たたまれない。
そして今、リカルドは何を思いついたのか。
嫌な予感を覚えつつ、ダリルが見守る中で、リカルドは薄明かりに照らされた周囲を見渡した。
「向かう合間、退屈なようでしたら、暇潰しに周囲を見学なさってはいかがだろうか」
―――――周囲を、見学?
そう言えば。
牢へ向かっているのではないのなら、いったい、どこへ向かっているのだろうか。
気遣うようなリカルドの台詞に、ダリルはリカルドの背と足元に集中させていた視線を、ふっと周囲に向けた。そこでようやく気付く。
「…?」
…なんだろう。
この回廊―――――やたらと豪華だ。派手というのではない。ひたすら上品で、華やか。
清潔な静寂は、どこか神殿に似通っているが、特有のあの冷たい感じはしない。そこここに人の気配がある。
なぜ気付かなかったのか、確かに、これは牢へ向かう回廊などではなかった。
ただやはり、進むごとに人の気配は少なくなるようだ。
先ほどとは逆の意味で不安になってくる。
なにせこの、清澄な空気感、そのくせ、妙に重厚な雰囲気は、―――――洗練された高貴さを感じさせた。即ち、この先は。
帝国においても、非常に高貴な相手が、…いる。
だが、謁見の間へ続くと考えるには、公共の場と言うより、私的な雰囲気が強かった。
ならば。
まさか。
緊張しすぎて、ダリルの中で、何かの紐がぷつっと切れた。とたん、変に落ち着く。
(いやうん、まさかだよな…身分の高い相手の私室に案内されてるなんて、そんなわけ)
「魔竜という存在は」
ダリルの思考をぶった切るタイミングで、不意に、先を行くリカルドが重々しく口を開いた。
「周辺各国に、悪魔と名高い怪物です」
「神殿は、彼を聖なる悪魔と呼びますね」
応じたのは、サイファだ。
ただし、魔竜は皇帝が従える悪魔であり、幾度も彼の危地を救った。
結果、国そのものが、魔竜によって守られた。
各国に散った吟遊詩人たちはこぞってそれを勇壮に歌い上げる。
不思議なことに、悪意を持って、魔竜を貶める歌は少ない。
ダリルの脳裏に、昔聞いた吟遊詩人の歌が蘇った。聞いた時の胸の高揚を反芻する。
子供に戻ったような気分で言った。
「ただし、帝国の民は」
彼をこう呼ぶ。
「魔竜を、帝国の守護者と呼びます」
まるで、誇らしげに。
彼を悪魔として罵り、疎んじる空気は、国内には微塵もない。
誇り、讃え、敬う。
悪魔というよりも、叡智に満ちた神聖な竜としての印象が、帝国民たちには強いらしい。
考えてみればそんな相手と、ダリルは直に顔を合わせたのだ。
魔竜の行動を無茶苦茶だ、と文句をつけつつ、それでも彼を憎めず、逆にいざとなったらその名を口にしてしまうのは、魔竜に対する何か、変な信頼があるからだ。
ダリルの言葉に、不意に、リカルドは目を瞬かせる。
ふ、と息だけで笑われた気がした。
どうしたのだろう。
ダリルから見て、高い位置にある、リカルドの後頭部を見上げれば、
「それは、帝国が情報操作をしたのかもしれませんがね」
彼にしては、少しひねくれた意見を口にした。
「そうなのですか?」
想像もしていないことだ。
ただ、それが本当だとしても、悪い気はしなかった。
「民はあまりに自然に魔竜を語ります。一番好きな御伽噺として、子供たちは皇帝陛下と魔竜の話をよく強請るんですよ」
民に魔竜を慕う気持ちがなければ、彼は歌われないし、あれほど心を高揚させる御伽噺も生まれないはずだ。
「おや、塔主は」
リカルドは柔らかに笑った。
「子供の面倒を見るんですか」
「…魔塔には、行き場なく捨てられてしまった子供たちも多く身を寄せますので」
巧く扱えない魔力ゆえに、排斥された子供は多い。
そう言った子供たちは、大概行く場なく死んでしまうが、運が良ければ魔塔へ行きつく。
幸か不幸か、ダリルは魔力がそう強い方ではない。
ゆえに周囲の誰かを傷つけることもなく、親や隣近所の人間から見捨てられるという経験はないけれど。
―――――排斥された子供たちの、あの、無言の絶叫にはいつも胸が痛む。
「なるほど、伝えておきます」
真面目なリカルドに、ダリルは慌てた。
「いえ、政への批判というわけではなく」
「必要な情報です。しかも、下手をすれば、取りこぼしてしまうものだ」
リカルドはさっぱりと言う。
「すぐに解決できる問題でもありませんが、まずは取り組みを始めなければ」
余計なことを言ったかもしれない、とダリルが口を閉ざした時。
「私も捨てられた人間だったのですよ」
言いにくそうに、リカルドは言った。
「なので経験はあります。いらないという目で見られ、捨てられる寂しさ、悔しさ、絶望感。…そう、これは、他者には分からないものですな」
ずたずたになる心の痛みもまた、人それぞれなのだろう。
分かち合うようなものでもない。
穏やかに言う彼の言葉が意外で、ダリルはつい口を開いてしまった。
「捨てられた、…ですか? あなたが?」
リカルド・パジェスは、鬼神として帝国外の軍人を震え上がらせる将軍である。
彼が軍を率いて戦った戦争は、負け知らずとさえ言われ、国内の騎士たちから見れば、憧れの存在と言えるだろう。
そんな、彼が。
捨てられた、など―――――想像もつかない。冗談としか思えなかった。
リカルドは苦く笑う。
「嘘でも冗談でもありませんよ。…ご覧の通り、私は融通の利かぬ人間でして」
そうなのだろうか?
ダリルから見れば、非常に大人な、落ち着いた人物に見えるのだが。
「若い頃はさらに頭が固く、意固地でして。騎士となり、軍に入っても、納得がいかない命令にはとことん逆らいました」
リカルドは過去に思いを馳せるように、暗い窓の外を見遣った。
「考えなしの行動の挙句、…当時、婚約者だった妻をどれほど泣かせたことか」
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