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幕・143 帝国の頭脳

しかし謎だ。 どうやって、神聖力に満ちた皇帝と、魔力そのものの悪魔が、反発もなく一緒にいられるのか。 しかも魔竜はあのとき。 まっしぐらに皇宮へ帰って行った。 強制的に縛られていたら、普通は逃げ出すものだ。 それなのに。 戸惑うダリルの気持ちをよそに、リカルドは言葉を続けた。 「云わば、魔竜は私の恩人。願わくば、彼には末永く帝国の守護者であってほしい」 リカルドは、前へ向けていた顔を上げる。足を止めた。 そこには、一際豪奢な扉があった。 扉の左右を守るのは、騎士。 ―――――そう、衛兵ではない。騎士だ。 通常、扉を守る、などという仕事に、騎士は配置されない。これは末端の兵士の仕事だ。 それでもこの宮には、騎士が配置されている。ということは。 …ここは、貴人の居住区。 リカルドを見た、扉を守る騎士たちが、敬礼した。動きはきれいに揃っている。 ご苦労、そう声をかけ、リカルドは扉をノック。 中からの誰何の声に応じ、許可を得てから、リカルドは振り返った。 「さて、ここでのことは、他言無用に願います」 ダリルは神妙に頷く。サイファも無言で頷いた。おそらく。 言いふらすような人物であれば、彼は即座にダリルたちの首を跳ねるだろう。 目の前にいる彼がまとう気配は、今この瞬間に彼らの首を刈り取ったとしても、小揺るぎもしないに違いない。 リカルドは扉を開ける。とたん。 ダリルは目を細めた。眩しい、と感じたのだ。 だが、そんなわけがない。 今は夜。 照明の明かりは最小まで絞られ、柔らかく室内を照らしている。 ―――――なんで、眩しいと感じたんだ? 面食らいながら歩を進め、ダリルは室内に踏み入った。 正直、入りたくはなかったが、そうしなければ話が進まない。 駄々をこねて帰してもらえるならともかく、相手の話を聞かない以上、ダリルたちは解放されないだろう。 いや最悪、サイファは帰してもらわなければ。 彼はここまで付き合ってくれただけだ。サイファには、彼の帰りを待つ大勢の家族がいるのだから。 ちらとサイファを横目にすれば、彼は首を横に振った。 王侯貴族のような、余裕あるゆったりした足取りで室内に踏み込み、サイファはダリルを追い越しながら告げる。 「私の同行も先方の希望の内だろう。…そうでしょう?」 台詞の後半は、部屋の奥へ向けられたものだ。 気を引き締め、そちらへ顔を向けながら、ダリルがサイファの後を追えば、背後で扉が閉まった。 振り返れば、その扉近くにリカルドは控え、奥まで入ってくる様子はない。 自身はここまで、と線引きをしたように。或いは。 事態を冷静に見極め―――――主のためにどう行動するのが正解か冷酷に判断を下すために。 少しでも間違えば、ダリルの命は消える。 さらに後戻りができなくなったことを確信しながら、ダリルは部屋の中へ向き直り―――――。 とたん、自身の周囲に張っていた結界が消えたことに気付く。 「…え」 ダリルは、力が弱くとも、魔法使いだ。 まさかここまで、何もなしで来たわけがない。自身を守るために、最低限の結界は周囲に張り巡らせていた。それが。 跡形もなく消えている。 咄嗟に結界を張りなおそうと、して。 直後、なけなしの魔力が煙のように掻き消えている状態を自覚した。 いくら探しても、自身の中に魔力が見つからない。 わずかに残っているのは感じられるが、それすら、すぐに意識をすり抜けてしまう。 これでは魔法を行使できない。 こんな経験は、今まで一度もなかった。丸裸にされた気分だ。 しかし、魔力が消えた、…ということは。 ―――――まさか、ここは。 ダリルの心臓が、うるさいくらいに脈打っていた。 部屋の中央付近に、天蓋が見える。 その周囲は、分厚く上等なカーテンに四角く仕切られていた。 取り囲まれている範囲は異様に大きいが、おそらく、中にあるのは、 (寝台、じゃ、…ないかな) いつだったか、仕事で呼び出された貴族の屋敷で、似たものを見たことがあった。 しかしそれが玩具のように感じられるほど、こちらの方が上物だ。 ダリルのような平民でも、見ればわかった。 その、寝台を守るように巡らされたカーテンの前。 一人の青年が立っていた。 小柄で、一見、十代の少年だが、まとう雰囲気は、ひどく老成している。 茶髪に緑の瞳、眼鏡をかけた顔は童顔だが、鋭い知性を感じさせた。 ダリルと目が合うなり、彼は折り目正しく礼をする。 「はじめまして、塔主さま。そして、かつて御使いであったサイファさま」 明らかに格上の相手から、先に頭を下げられた。 ダリルは反射で、より以上深く頭を下げる。 ぎりぎりの緊張感が漂う中、上出来の反応だったと言っていい。 果たして、眼鏡の青年は淡々と名乗る。 「僕はリュクス・ノディエ。未熟ながら、この国の宰相を勤めております」 (宰相…閣下) その華々しい活躍は、果断さ冷血ぶりと共に、有名な人物だ。 ダリルは、右手を出しても、左手を出しても間違いな気がして、笑顔のまま固まる。 彼の状況は、まさに、前門の虎、後門の狼。凡人には、そこに立っているだけでも拷問である。 それでも、ダリルの声は平然と室内に響いた。 「お初にお目にかかります。不詳、若輩の身ながら、先日、ご指名を頂き、魔塔の塔主となりました、ダリルと申します」 小心ゆえに、その小心すら衝撃で吹っ飛んでいるようだ。 状況が、まるで他人事である。 それでも。 恐怖に近い感覚が、ダリルの意識を時折、現実に引っ張り戻す。 彼に、それを呼び起こす存在がいるだろう、寝台があると思しき方へ、ダリルの目は自然と引き寄せられた。 そこに、何があるのか。 その間に、サイファも挨拶を済ませた。 彼の鉄色の目には、ダリルに見えない何が映っているのだろうか。 サイファはいっきに、深刻そうな表情になった。 その眼差しは、分厚いカーテンの向こうを透かし見ているようだ。 「ここでのことは、他言無用に願います。それから―――――…お二人に助言をお願いしたい」 (助言?) ダリルは心底驚いた。なにせオリエス帝国の宰相と言えば。 オリエス帝国の頭脳。 そのように言われる存在だ。 …彼が、今の言葉を口にするのに、どれだけの葛藤があったことか。それとも。 プライドも何もかも投げ捨て、素直に教えを乞う他ないほど、助けたい、手放しで大切な存在が窮地に立っているということか。 ふ、とリュクスに人間味を感じ、ダリルがなんとなく彼を見直したそのとき。 リュクスはカーテンの中へ声をかけた。 「いいですか? 開けますよ、陛下」 彼は少しの間、返事を待ったようだ。だが、中からは何の返事もない。 リュクスは顔をしかめた。荒っぽくため息をつく。それ以上何も言わず――――――乱暴にカーテンを開けた。 同時に、ようやくリュクスの言葉が脳にしみたダリルが、心の中で絶叫する。 (え、待って。今へいかって言) 見張ったダリルの目に――――――大きな寝台が映った。 寝台の、上には。 一人の青年が、憔悴した様子で座り込んでいる。 彼の、下方に固定されていた視線が、ゆっくりと持ち上がった。 その、目は。 ―――――黄金。

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