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幕・146 しゃんとしなさい

× × × ヒューゴはばらばらになっていた。 手足も爪も牙も尻尾も、骨も肉も、なにもかもが粉々で、四方八方に散っている。 このまま消えてなくなるんだろうな。 妙な確信があった。 意味がよく分からないまま、それでもなんだか悲しい。 ひたすら、しくしく泣いていると、 「うわ、きったな…!」 いきなり、女の声が空間に響く。 「なにこれ、ばらばらじゃないの…あ、ちょっとまた泣き出さないで頂戴、汚いなんて言って悪かったから…集めるよ、ほら」 ―――――どこかで聴いた声だな、と思いながら、ヒューゴはめそめそし続けた。 かなしいがいっぱいで、他に何も考えられない。 しくしく、しくしく。 「泣かないの、男の子でしょ」 言われても、食いしばる歯の感覚さえない。どうしたらいいのだろう。 ますます悲しくなって、気持ち、小さくなって泣き続ける。 それでも女は愛想をつかしたりはしなかった。 ぶつぶつ言いつつ、動く気配がする。 去らない存在に安心した。 それでもぽろぽろ涙を流していると、次第に視界が戻ってくる。 気付けば、ぱたぱた走り回りながら、誰かがヒューゴの身体をかき集めてくれていた。 これが、おそらくさっきから声をかけてくる女だ。 「しゃんとしなさいよ、意識を保って」 言われて、しつこいくらいに声をかけてくる理由に思い至る。 ヒューゴの意識を、どうにかつなぎ続けようとさせようとしているのだ。 ヒューゴは、よくよく、女の姿に目を凝らした。 彼女はどうやら、裸足のようだ。 その上―――――どうも着物のようなものを着ている。 そのことに、内心首を傾げた。 …着物? ヒューゴの世界にはない衣装だ。それは、前世の。 「あら、ようやく目がきょときょとし始めたね。身体もくっつき始めた」 よしよし。 褒めるように、励ますように、女の声は続く。 「それじゃ、抱っこするよ」 彼女はひょいとヒューゴを抱き上げた。その時になって気付く。 ヒューゴは小さくなっていた。 それこそ、生まれたばかりの頃のように。 「はじめまして、かな」 ヒューゴを抱き上げた女が、顔を覗き込んでくる。 「あたしは日向美咲。あんたが生まれたばっかの時にも会ってるけど」 こんな形で対面するのは、はじめてだね。 言った女の顔は確かに。 黒目黒髪、琥珀の肌。なんの特徴もない、平坦な顔立ち。 女、というよりは、少女と言った方がいい姿。 それが花開くように明るく笑っている。 これだ。 確かにこの顔立ちは、紛れもなく―――――日向美咲。 ヒューゴの前世。 日向美咲としての意識は、彼女から今言われたように、生まれたばかりの頃にも存在した。 そのことを今になって、おぼろげに思い出す。 「いや、会ったって言うのも、正確じゃないね。あたしはあんたで、あんたはあたしなんだから」 その通り。 ヒューゴは彼女で、彼女はヒューゴだ。同じ、存在。 言われるなり。 突如、ヒューゴは自分の状態を自覚した。 彼は今、悪魔の姿だ。現在の、竜の姿ですらない。 醜悪極まる。 この記憶があるから、竜体になっても自分は醜いという感覚が、ヒューゴからは抜けない。 それでも地獄ならばそれでいい、皆醜いのだから。 だが今は。 「ごめん」 ヒューゴは女の腕の中で小さく丸くなって、両手で顔を隠す。 彼女の腕が毒でやられる気配はないが、下手に動くことはできない。 日向美咲の目には、ヒューゴが醜く映っていることだろう。 こんなものを見せるのは、彼女がかわいそうだ。 だから一生懸命、小さくなって、顔を隠した。 そうしながら、またひとつ、思い出したことがある。 ―――――ヒューゴが誕生して一番目の出来事だ。 ヒューゴが目にしたのは、大きく開いた母親の口の中だった。 母親は、産み落としたばかりのヒューゴを食おうとしていたのだ。 悪魔とはそういうものである。 強くなるために、弱い者は餌になる。そうして、強者の糧となるのだ。 生まれたばかりの赤子など、母親にとっては餌同然。 ただし―――――逆もまた然り。 ヒューゴの中では、生まれ落ちた刹那にも、命を呪って死んだ日向美咲の意識が続いていた。 母親が自分を食おうとしていることをすぐさま悟った彼女は、叫んだ。 ―――――我が子を食らう母親が、あるか! 猛然と母親の牙を掻い潜り、彼女は自分を守るために死に物狂いで戦った。 幸か不幸か、悪魔は、生まれ落ちたその瞬間から、意識がはっきりしている。 その上、魔力にも戦闘能力にも秀でていた。 それはほとんど無意識で発動するものであり、勝敗を左右するのは、それらの先天的な保有量と意志の強さだ。 そして、地獄がどういう場所かは、教えられるまでもなく、遺伝子の中に刻まれていた。 日向美咲は転生先で、真っ先に母親を殺した。 殺したからには、…食わねば強くなれない。 知っていても、もと人間の日向美咲には―――――厳しい現実だった。 親を食う、など。 まともな人間ならばできない。だがここは地獄。そして、彼女は…いや、彼は悪魔だった。 躊躇い続けていれば、地獄では生き残れない。 ゆえに日向美咲は。 ―――――かすかに残った人間の意識を、自分の中の片隅に封印した。 そうでなければ、出会った相手と問答無用で戦い、殺し、食う、そんな毎日など人間の精神には耐えられなかったろう。 以後のヒューゴは、ほぼ、本能の塊だったと言っていい。 戦い、殺し、食う。 殺伐とした毎日を繰り返した。 それを、ヒューゴの奥深くで、夢現に他人事として日向美咲は認識しながら、見守った。 自身の姿を少しでも隠そうとするヒューゴの様子に、美咲は苦笑。 「自分の姿を恥ずかしいなんて思う必要ないよ、アンタのことは生まれた時から知ってるんだから」 そうだ、生まれた時から一緒だった。 一緒という言葉は、語弊があるかもしれないが。 なにせ、ヒューゴと日向美咲は同一人物だ。 だが、では、…アレはなんなのだろう? 時にヒューゴの意識に届く声。 どこまでもヒューゴを追い詰め、苦しい思いにさせるあれは、繰り返し、言った。 生きたくない。もう二度と生まれたくない。 そんな、命を呪うあの声と目の前の日向美咲はどうやってもつながらなかった。

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