147 / 215

幕・147 帰る場所

生きたくない。もう二度と生まれたくない。 そんな、命を呪うあの声と目の前の日向美咲はどうやってもつながらなかった。 抱っこされたヒューゴは、遠慮がちに美咲を見上げ、首を傾げる。 考えは、すぐ伝わったようだ。 「ああ、アレのことか。アレはねえ…ああもうどう説明したらいいのか」 ヒューゴを腕に抱いたまま、美咲はその場に正座した。 その時になって、ヒューゴはようやく気付く。 そこは和室―――――畳の部屋で、囲炉裏が目の前にあった。 部屋の奥には襖。 池のある庭がすぐそこにあり、障子が半分開いている。 池を見下ろすように、庭では満開の桜が綻んでいた。 明るく穏やかな、懐かしい光景だ。 ヒューゴはつい、眠くなりそうなほど寛いでしまう。 それに気づいたのだろう、美咲はヒューゴを腕から下ろした。 ヒューゴはそのまま、彼女の膝に懐くように横になる。 そうすると、ごく自然に、美咲の小さな手が優しくヒューゴを撫でてくれた。 「確かに、アレを吐きだしたのはあたしだよ」 美咲は苦々しく肯定し、 「ただ、あの時は病んでたんだ。どうしようもなく、ね」 自己嫌悪気味の声で続ける。いや、口調は愚痴のようだ。 「あの感情に憑りつかれてたって言っていい。人間なら、…いや悪魔でも、そういうことって、あるだろ? そのいっときは真剣に思いつめていても、次の瞬間にはどうでもよくなってるってこと。それだよ」 言いにくそうに告げる美咲の顔はしだいに赤くなっていく。 どうやら、何か恥ずかしがっているようだ。 でも何を。 ヒューゴの耳に、次第に声を小さくしながら、美咲がぶつぶつと早口で呟くのが届く。 「あんなもん真剣に吐きだしたなんて、黒歴史もいいとこ」 ―――――なるほど、彼女は若さゆえの過ちが恥ずかしいらしい。 だが確かに、いっとき、狂うことは誰にでもあることだ。 気にすることはないよ、とヒューゴが膝を叩く前に、美咲は盛大なため息をついた。 「あれが今も世界に漂ってるなんてどんな拷問だっての」 漂っている? ヒューゴはあの感情が、自分の内部から漏れこぼれているように感じたのだが。 「そりゃ感応もするさ。もとは自分の感情なんだからね」 ヒューゴが思うなり、見下ろしてきた美咲が言った。 「感応?」 声に出したヒューゴに、彼女は大きく頷く。 「そう、ただの感応だ。でも、もう別物だからね。ただそれを吐きだした当人って事実は残るし、因縁もまだ切れてない。だから、聴こえちまうんだろうよ」 ―――――別物? 驚いた。 ヒューゴはあれもまた、自分だと思っていた。それにしたって。 美咲を上目遣いに見上げ、ヒューゴは口を開く。 「美咲は世界を恨んでも仕方がないと思う。だって、…殺されたんだろ?」 しかも、無残に。ひとりを、寄ってたかって集団で。 美咲は、びっくりしたように目を丸くした。 「いや恨んでないよ」 彼女の返事はあんまりにも簡単で、ヒューゴは拍子抜けした。きょとんとなる。 彼女はさらに信じられないことを言った。 「むしろ感謝してる」 彼女の声に嘘はなく、嘘でないことはすぐ分かった。 なにせ、同一人物だ。 ただし何に関して感謝しているのか、すぐには理解できない。 もともと、美咲にはこういうところがあった。 気持ちが先走って、言葉足らずになるところが。 ただしいつだって冷静なものだから、それでよく誤解されていた。 戸惑いをよそに、咄嗟に、ヒューゴはひねた気分で思ってしまう。 感謝? 悪魔に生まれて? ヒューゴが思ってしまったことに対し、彼女は明るく笑う。 「あんたは強いじゃないか。やりたいことをやりたいようにやれる。だからって、好き勝手やるんじゃなくて優しくって…情がある」 美咲はさっぱりと告げた。 「あたしの理想の姿なんだよ、あんたは。…ここまでチートじゃなくていいとは思うけど」 たまにやり過ぎと思うけどね、と言葉は続いた。 ヒューゴはしきりに瞬きする。理想、だなんて。 「悪魔が?」 「そこだよ、そこ」 美咲はヒューゴの目を覚めさせるように、大きく一度手を叩いた。 「あたしも劣等感強いけど、あんただって相当だ。悪魔だからなんだってんだい。そう生まれたんだ、仕方ないだろ」 他人事だから割り切れるのだ、とヒューゴは思ったが。すぐ気づく。 それは、ヒューゴの美咲への視点にも言えることだ。 ヒューゴから見て、美咲は、彼女が思うほどには、悪い人間ではないと思う。 彼女のことを人前ではこき下ろしたが、一生懸命で、色々きちんとしていて、細かいところに気付いて繊細な配慮ができる、…優しい人間だと、正直なところ、ヒューゴは思うのだ。 他人だからこそ、見えるものもある。 なら。 少しは、美咲の言うことを真に受けたって、…いいのだろうか? 彼女は自然体で続けた。 「つまり、こうありたいって姿を、世界はあたしに与えてくれたわけさ。どうして恨むんだい?」 ―――――恨んでいない、とは、そういうことか。 「じゃ、殺されたことは?」 「仕方ないね」 美咲はきっぱり言い切った。強がりも未練もない、正直な表情で。 「色々もつれて蟠った結果だよ、あれは。そりゃ最中は恨んだって言うか…腹立たしかったけどね。だからって、その相手や他の誰かを踏みつけにしたって、あたしらは気持ちが晴れるタイプじゃないだろ? 逆に倍以上、しんどくなる」 同類扱いされたが、確かにそうだ。 他から哀切に許しを懇願されたとしても、優越感などなく、気分が悪くなって、罪悪感が増えるだけだ。 殺される寸前まで、果敢に挑んでくる眼差しの方が、よっぽど奮い立つ。 それにしたって。 これだけでも、分かった。美咲は、普通の人間じゃない。 殺されたら通常、殺した相手は許せないだろう。 それが、仕方ない、そんな一言で、本気で片付けてしまっている。 自然と思った。 (あ、このひとすごい) とたん、美咲は手を横に振る。 「いやあたしは普通。なんでもない人間。ただねえ…因縁は消えないらしいよ」 ふと、美咲は眉をひそめる。 とたん、強い風が部屋の中へ吹き込んだ。花吹雪が舞う。 「ああ、呼ばれてるね」 穏やかにヒューゴの背を撫でていた手が、軽く、とんとん、と弾むように動いた。 起きなさい、と促してくる。 ヒューゴが、気分が乗らないまま、のそのそ美咲の膝から離れ、起き上がれば。 「手短に言うよ」 美咲は鋭く告げる。 「あたしが世界に放っちまった負の感情と、あたしを殺した相手、その因縁はこの世界まで持ちこされてる。それを無視するのもいい、戦うのもいい。そこは全部あんた次第だけど、結局それはあんたについて回るだろう。…悪いね」 この時のヒューゴには、彼女の言葉の意味が分からなかった。 「それは俺に分かるものなのか?」 「もう会ってるよ。けど気にしすぎることはない。もしあんたの気に食わないならやっつければいいってだけさ」 だが不思議と、この時の真剣な美咲の言葉は、彼の中に残った。 言うなり、彼女は立ち上がった。 もうお別れか。 言われるまでもなく、ヒューゴは理解した。 そして、―――――リヒトを思う。帰る場所を考えれば、今では自然とリヒトが思い浮かぶのだ。だが。 なんとなく、自分の両手を見下ろした。 醜い。 リヒトはヒューゴを知らないから、あんな思いを抱けたのだ。 あんな感情を向けたのだ。 「俺はもう帰れないな」 自然と呟いていた。もう決定事項として。 <<

ともだちにシェアしよう!