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幕・174 うたう獣
「…生きて帰るぞ」
レオンの言葉に、何人かが泣き笑いの表情になる。
だが、レオンは決して冗談を言っている顔ではなく、
「生きて戻り、―――――必ず報復する」
誓いを立てるように重く言い放ち、槍を振り上げ―――――、
「…なんだ?」
不意に、虚を突かれた顔で、空を見上げた。
鬨の声を上げようと肺一杯に吸い込んだ息を、気が抜けたように吐き出し、士気を高めるため天へ突き上げようとした槍を、結局、飛び掛かって来た魔獣を仕留めるのに振り下ろす。
主人の態度に、エリアスは怪訝な声を上げた。
「どう、なさったんです? 空に、なにか」
レオンに続き、空を一瞥したエリアスは、そのとき。
――――――…♪
何かを聴いた。
魔獣に警戒しながらも、反射的に、耳を澄ませる。
「…え? これ、歌…?」
いや、歌、というには―――――数多の楽器が奏でる何重もの、音、…そう、音楽、という表現が、束の間鼓膜を掠めたその音色には相応しい。
分かるのは、場違いにうつくしい音ということ。
エリアスがそれを正しく認識すると同時に―――――異変が起きた。
魔獣たちが、突如、尻でも叩かれたかのように、まごついたのだ。しかも。
一斉に、ぺたりと耳を寝かせた。逃げ腰になる。
尻尾を足の間に挟み込んだ。
じりじりと、後退する姿勢を見せていた。怖気づいている。
明らかに、魔獣たちは何かを恐怖していた。
ただしそれは、騎馬兵に対するものではない。
魔獣たちの目には、騎士たちなどもう目に入っていなかった。
ではいったい、なにが。
戸惑った彼らの中で、真っ先にそれを見て取ったのは、わずかなりとも魔力を有するエリアスだ。
強化したままの視力が、何を捕らえたか、
「あ」
最初、ぽかんと口を開いた。
かと思えば、瞬く間に顔色が悪くなる。
「どうした」
主人の鋭い問いかけに、じょうずに答えることもできず、
「やばいやばいやばいやばい」
真っ青になって、一瞬、馬を走らせようと、して。
その時になって、全員が気付いた。
―――――馬が動かない。魔獣に対してさえ、果敢に立ち向かっていく北部の勇壮な馬たちが。
あろうことか、硬直し、立ち尽くしていた。
触れあっている場所は、ガタガタ震えているようだ。
エリアスは素早く周囲を見渡した。馬だけではない。魔獣たちも動かない。ならば。
素早く、エリアスは馬上から飛び降りる。レオンに向かって叫んだ。
「降りて、衝撃に備えてください!」
余計なことは、レオンは聞かなかった。
すぐさま、号令をかける。
「総員、馬から降り、衝撃に備えろ!!」
何事が起きるかも知らず、全員が、レオンに従った。直後。
輝く雪原の、上。雲一つない、紺碧の空。
目に見えたのは、巨大な魔法陣だ。
緻密なそれが、上空できれいな円を描き、輝くなり。
―――――――――♪
妙なる調べが雪原一帯に広がった。刹那。
―――――ボ、ボ、ボボボッ、ボ!!
上空から地上へ向かって、雪崩落ちるような勢いで、うつくしい魔法陣が幾重にも展開―――――その中央を、漆黒の巨大な何かが矢の勢いで降ってきた。
目視されたその姿に、誰かが、息を呑む。刹那。
―――――ド、ォン!!!!
地面が揺れた。
舞い上がる、雪煙。
隕石でも降ったかのように、そこを中心に強烈な突風が巻き起こった。
それに乗った雪が、礫となって周囲に放射状に舞い散る。
同じように、なんの冗談だろうか、頑丈な魔獣の身体が、複数、きりきり舞いして飛んで行った。
あろうことか、ソレは魔獣の群れの中央に落ちたのだ。
よろける馬の手綱を握り締め、騎士たちは身を低く沈めた。
衝撃をやり過ごした彼らが、顔を庇った腕の向こうに見えた、その姿は。
「…あ、れは」
ごくり、息を呑み、震える声で誰かが言った。
「―――――魔竜」
しり込みした魔獣の群れの中央。
漆黒の鱗を輝かせ、わずかに地上から浮いた位置で滞空しているのは、神秘の異形。
かつて、北部を呑み込もうとした、地獄の軍団を、存在一つで蹂躙した姿を、ガードナーの騎士であるならば、忘れられるわけがない。
そしてその姿は、オリエス皇帝と切り離して考えられるわけがなく―――――、
「喜べ、諸君」
すかさず言って、レオンはすぐさま馬に跨った。
魔竜の威容に呑まれ、死んだように立ち尽くしていた騎士たちを振り向き、声を張る。
「近くに皇帝陛下の軍がいる。陛下は我らをお見捨てにはならない!」
魔竜と言えば、皇帝。
ここに魔竜がいるならば、近くに皇帝がいることは間違いない。
鼓舞するような物言いだったが―――――エリアスは、内心、臍を噛んだ。一瞬、主人を横目にする。
皇帝をあてにするのは、レオンにとって、苦渋の選択だろう。
本来ならば家臣として、皇帝が進む道の危険を打ち払いたかったはずだ。
だがここにいるのは、レオンだけではない。彼が守るべき部下がいる。
死を覚悟していた騎士たちの顔に、血の色が戻った。
目が輝き、彼らもまた、馬上へ戻る。だが。
―――――馬が、動かない。
ただしそれは、魔獣たちも同様だった。理由ははっきりしている。
皆の目が一斉に、滞空状態の巨大な魔竜に向いた。同時に、魔竜が顎を逸らす。
突然の動きに、ぎくり、と魔獣も騎士も、身が竦んだ。
高まる警戒の中、魔竜が何をするのかと思えば。
―――――――――♬
先ほど遠くから聴こえた音が、波紋を描くように、魔竜を中心に打ち広がった。
聞いたこともないような上質の音に、鼓膜が心地よく震え、刹那、騎士たちは音に酔って、脱力しそうになる…と同時に気付いた。
(まさか)
(これって)
―――――…歌ってる?
ガードナーの騎士たちは、レオンを含め、真顔で愕然。
しかもノリノリだ。
周囲を恐怖に硬直させながら、そんなの知ったことじゃないとばかりに、魔竜はとてもいい音…いや、声で歌を締めくくった。
そこで不意に、きょときょと、周囲を見渡す。
しっぽが、何かを考えるように、ゆっくりゆらゆら左右に揺れた。
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