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幕・183 せめてもの矜持
聖女に対する民衆の支持は高い。
惜しげなく神聖力を民のためにふるうのだから当然だろう。
だけでなく、単純に、皇帝に次ぐ神聖力を持つ人物に、敬意を払うのは当然だ。
確かに、名家が放置していい人物ではなかった。
しかも彼女が向かう場所は修道院だ、男は入れない。
故に移動の最中、ガードナー家に招き、立ち寄った聖女と一度、挨拶を交わした。
その場にミランダも同席している。
「じゃ、聖女本人は、修道院にずっと?」
魔竜は念を押した。
「外に出てこられたという話は聞かないな」
聞いた魔竜は、ちらりと皇帝を見遣る。
皇帝は、冷たいほどに整った顔立ちの中、一度、黄金の目で魔竜を見返した。
「ならばよい。ところで」
輝くようなその目が、魔竜とレオンを通り過ぎ、―――――…ミランダへ。
ぎくり、身が竦む。だが、このように皇帝の視線が向いた以上、隠れるなどという無礼はできない。
皇帝から何を言われるか、大体想像はついた。
「ヴァレシュに連なる者をいつまで生かしておくつもりだ」
想像はついたから、言外に殺せと告げる台詞にも、ミランダは笑顔を保つ。
意地でも動揺を表に出さないように。
せめてもの矜持だ。
周囲の空気が、緊張に固まる。
オリエス帝国の現皇帝は、ヴァレシュ神国を毛嫌いしていた。
オリエス帝国とヴァレシュ神国は幾度も小競り合いが続く隣国同士だったが、それはどこか慣例に似たぶつかり合いでもあった。一種のガス抜きだ。
戦争で、人が死ぬことを慣例と呼ぶのもどうかと思うが。
皇子リヒト・オリエスのヴァレシュ嫌いはレアンドロの件が起こる前からで、彼が帝位を継げば両国の争いは深刻化するかもしれない―――――その懸念は誰もが抱いていた。
結局は、自国の王の暴走が、国を滅ぼしたわけだが。
実直そうなレオンが応じる前に、魔竜が割って入った。
「ミランダ令嬢の命は俺の所有物とお伝えしたはずです、陛下」
三年前、ミランダが皇帝を前に、かろうじで彼女の命を繋いだ時と、同じ言い訳を魔竜は口にする。
とはいえ…その通りだ。
ミランダの命一つ、それだけのために、魔竜は。
膨大な魔素を、死んだヴァレシュ神国の大地へ注ぎ、荒野となることを防いだ。
結果、生き残った人々は、それでもどうにか飢えをしのぐことができている。
ぎりぎりの生活だが、人の往来はまだあり、残った人々は知恵を絞って苦しいながらも復興の道をたどっていた。
なにより、あの地は今、オリエス帝国の領土だ。
元ヴァレシュ神国の領土をできうる限り助ける方針を打ち出したのは、帝国であり、ヴァレシュ神国の民や貴族の生き残りがいる以上、王家の血に連なる者がいた方が統治はやりやすくなる。
レアンドロは取り返しがつかないことをやったが、民の王家に対する忠誠が絶えたわけではない。
正しい王が即位していたならば、もっと違った結果になっていただろう。
それらを考えた結果、ミランダはまだ生きながらえていた。とはいえ。
さすがに、ヴァレシュ王室の血を引く娘をオリエス皇帝が娶るという話は、双方の断固たる拒絶で掻き消えた。
「小娘一人の命と引き換えに」
皇帝の冷たい目が、今度は魔竜に向いた。
「お前は代償に見合わない多大な損失を被った」
皇帝の言は正しい。
魔竜の行いは、ひとえに、彼個人の慈悲から生まれたものだ。
悔しいが、ミランダを含め、誰もそれに見合うだけの、どんなものも魔竜へ返せずにいる。
「過ぎたことですし、その話も終わったものですよね?」
なのに魔竜自身は、このように、もう終わったこととして語った。ただ。
なくなった国であるヴァレシュ神国の者は、決して魔竜のことを忘れないだろう。
ミランダもその一人だ。
ぐっと唇を噛んだミランダが見つめる先で、魔竜が困惑を隠さず、皇帝に尋ねた。
「なぜそこまで、…もうなくなってしまった国が嫌いなんですか」
それぞれに、既に再建の道を歩み出している、旧ヴァレシュ神国の民は、今やオリエス帝国の民だ。
だがオリエス皇帝は、他と違い、ヴァレシュ神国の民をその地にとどまらせ、帝国の地を踏ませることを未だ禁じている。
「なぜ嫌いか、だと?」
皇帝は眉をひそめた。異国の言葉を聞いたような態度だ。
今まで誰も、それを皇帝に尋ねなかったのだろうか?
確かに、皇帝はヴァレシュ神国を嫌っている。
が、レアンドロのことがある前までは、それでも隣国の皇族として最低限の礼儀は保っていた。
レアンドロが刺激し、その仮面を外させた。
下手を踏んだのは、ヴァレシュ神国の方だ。
尋ねた魔竜が率直であったなら、対する皇帝も取り繕わなかった。
「ヴァレシュがヴァレシュである限り、僕はあの国が許せない、それだけだ」
要するに、理由はない、そういうことだろうか。
それにしては根深いものを感じる。
その上、この皇帝は感情で動く人物ではない。
何か理由があるはずだが。
「ヴァレシュ神国は、今はオリエス帝国の一部です」
そこまで聞いたところで、皇帝は魔竜の言葉を、うるさい、と言いたげに手を横へ振って黙らせる。
レオンを一瞥、踵を返した。
「案内を」
「は」
頭を下げ、レオンは、おろおろと控えていた侍従に手ぶりで指示。
皇帝と魔竜の姿が前庭から消えると同時に、ミランダはその場にへたり込んでしまう。
まだ自身の汚れを気にしているのだろう、レオンは手を差し伸ばすこともできず、ミランダの傍に膝を落とし、目線を合わせた。
「…大丈夫か」
「はい」
震える腕を逆の手でこすりながら、ミランダは周囲を見渡す。誰もいない。
とたん、紫の瞳が輝いた。
レオンを見上げ、鋭く、早口に小声で告げる。
「今回の事案、最初に話がいったのは、ルークのところだったみたいよ」
レオンは一瞬、その青灰の瞳を瞠った。すぐ、厳しい表情になる。
「…危険だ、ガードナー家にこれ以上深入りするのは」
「わたくしが魔竜と交わした約束と、これは関係があることですもの。傍観はできません」
―――――魔竜との約束。
それを出せば、事情を知るレオンは何も言えなくなる。
それを知っているからこそ、この言葉は卑怯だとも思うが、それだけミランダも必死だった。
これを伝えるために、ミランダは駆けてきたのだ。
こんな話は、城内で伝えられるものではなかった。
北部の平穏は、ヴァレシュの領地の安寧にもかかわる。
そのためにも、レオンには無事、ガードナー家を継いでもらわなければ困るのだ。
レオンは深くため息をついた。
「ルークは、アカデミー時代、皇都のチェンバレン家と関りを持っている。いくらあなたでも消される可能性が…」
脅すようなレオンの物言いにも、ミランダの紫の瞳は真っ直ぐ揺らがない。
言葉途中で、レオンは言葉を止めた。
「…危なくなったらすぐ逃げると約束してくれ」
「もちろんです!」
根負けしたようなレオンに、ミランダは満面の笑みで頷く。
そうだ、簡単に死ぬつもりなどない。もとより。
この命は、魔竜のものなのだから。
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