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幕・190 俺は花になる

困惑しきったユリウスの視界の中、ふ、と魔竜の目が、皇帝を映した。刹那。 ―――――幸せだなあ、恵まれているなあ、悪魔に生まれたのに、いいのかなあ。 どこか能天気な、ほわほわとした思念が、ぶわっと周囲に立ち込めた。 一瞬、ユリウスは呆気にとられる。 目の前の光景は、流血さえないものの、無残で凄惨とすら言えた。神の末裔が、容赦なく、悪魔を殺したのだ。 なのにこの平和な思念は、いったい。 魔竜のものに間違いない。 だがひどく、状況にそぐわなかった。 そこまで思ったところで、はたと思い直す。 (…いや、待て) 神の末裔が悪魔を殺す。 この光景のどこが、無残で凄惨なのだ。 (―――――当たり前の出来事、そうだろう?) 悪魔はすべて、駆逐されてしかるべきだ。 御使いらしくない自身の考えを振り払いたくて、ユリウスは無意識に首を横に振った。 それにしても、死を目前にしながら、幸せ、とは。 ただ大地を蘇らせるために死を命じられながらも、恵まれている、とは。 いったい。 この、悪魔は。 魔竜とは、どういう生き物なのだ。 惑うユリウスをよそに、魔竜の思念は続く。 踊るように、うきうきと。 ―――――俺の死が、蘇らせるんだ。すべてを。すごい、すごい、俺が、悪魔が、他の命の役に立つなんて。 苦しいとか痛いとか辛いとか、そういった気持ちも確かにある。 なのに、それ以上に、魔竜は幸福感に浸っていた。 思念だからこそ、そこに、うそ偽りなど欠片もない。その事実が、なぜ、こんなにも。 ユリウスの胸に、迫るのか。 とっさに、思った。 (待て、これは、間違っている) 不意に、御使いらしくない気持ちが、ユリウスの中にあった種のような何かを芽吹かせた。 (この悪魔は、こんなところで、こんなふうに、死んではいけない) どうにか助けられないだろうか? 思わず足を一歩踏み出そうとして、思い出す。これは、夢見の光景だ。 魔竜の思念は、ひたすら喜びにあふれていた。 ―――――俺は今まで、たくさんのひとに、花を捧げたかった。泣き止んでほしくて。笑ってほしくて。でも触れたら腐らせてしまったから触れられなかった。その、花に。 確かに笑っているとわかる思念が、はっきりと放出される。 ―――――今度は俺がなるんだ。 何の話だろう。 ユリウスは一瞬戸惑った。だが、確かに。 魔竜の言うとおり、彼の魔素が大地の肥やしになるのなら、その魔素は緑を、木々を、―――――花を、…果実を生むだろう。 ―――――俺は花になる。 誇らしげに、魔竜は告げた。 ―――――そしたら、リヒトのために、咲くよ。 「いらない」 皇帝が言う。 そっけないというより、ひび割れ、乾いた声だ。 どうして、という声を、言外に聞いた気がした。 冷酷な表情とは裏腹の弱い声に、ユリウスは目を瞬かせる。 皇帝を、改めて見直した。 「魔竜、そなたは私を憎むべきだ。私は決して、そなたの花など―――――」 ―――――知ってる。リヒトが、俺がだいじだから生かしたわけじゃないって。 皇帝が口を閉じた。 厳格な表情が、初めて動く。 痛みを感じたように。 ―――――オリエス皇族を狂わせていた魔人は消えた。その魔人が警戒してたのは俺だったから、リヒトは俺を始末しなかった。 だが魔竜の声は、どこまでも優しい。 ユリウスは眉を顰めた。 (魔人、だと? オリエス皇族を、狂わせた?) 今、魔竜は何の話をしているのか。 神の末裔を狂わせる存在が、あった? …それはいったい。 ―――――魔人がいない今、俺がいる理由はない。だから消す。それでいい。 正しいよ、と告げる声には、恨みも憎悪もない。さっぱりとしたものだ。 そしてそれ以上、魔竜は魔人のことを語らなかった。 皇帝が何かを言うのを遮るように、魔竜は続ける。 ―――――いいんだよ、悪魔と人間はともに存在できやしない。 それは、確かに通い合う何かを、穏やかに、きっぱりと遮断する声だ。 皇帝の態度は変わらない。 だが刹那、確かに、彼が纏う鎧のような空気が、砕け散った気がした。 確実に皇帝は、魔竜の言葉に傷ついている。 ―――――それにこの地が枯れたのは、俺の娘のせいだ。だから、父親の俺が責任を取るのは、順当だ。 ユリウスは目を瞠った。 (魔竜に娘がいた?) では、この、夢見の光景に見える土地の荒廃は、悪魔が為した所業なのだろうか。 そうは見えない。 このようなことができるのは、悪魔ではない。どちらかといえば、精霊―――――…。 思うなり。 複数の情報が、ユリウスの脳内でつながった。 地獄の底に、精霊がいるという話だ。 それは、魔竜の涙の湖から生じたという。 もし魔竜が、自分の子という存在があるとすれば。 その精霊、ではないのか。 正直、眉唾物の話だが。 (事実、なのか?) 戸惑うユリウスを置き去りに、魔竜の思念は続く。 ―――――それでも、リヒトは俺の願いをかなえてくれた。 「願い」 皇帝はぽつりとつぶやく。 声は淡々としていたが、打ちのめされたような響きがにじんでいた。 ―――――俺は花になりたかったんだ。 魔竜の声に、隠せないうれしさがにじむ。 思わず、といったように、皇帝の腕が持ち上がった。 魔竜に触れようと、して。 触れたなら腐り落ちることを思い出したように、力なく下げられた。 その合間にも、魔竜の言葉は続く。 ――――悪魔に生まれたものはもう蘇らない。なのに俺はこんな形で蘇る。…素敵だな。 ああ、でも、と。 優しいばかりの魔竜の思念が、薄れていくにしたがって、濃紺の瞳から、光が消えていく。 瞼がゆっくりと閉じていく。 ―――――俺がいなくなったら、リヒトが、ひとりになっちゃう。…心配だなぁ。 胸の奥がくすぐったくなるような、母親の胸にでも抱かれているような心地になる、ぬくもりに満ちた感情を、最後に。 しっかりと閉じられた、瞼の端から。 ―――――ぽろり。 一滴の、涙。 悪魔の。 刹那。 ―――――ほどけはじめた。魔竜の身体が。霧のように。同時に。 光が差すように、魔竜の生きた記憶が、周囲に散った。 笑い声が通り過ぎるように、身体に響きを残して。これが。 死に直面したからこそ、嘘も、誤魔化しもない、魔竜の真実。 その、中に。 「…なんだと?」 不意に、愕然とした声が、聴こえた。 冷たいばかりだった皇帝の、声だ。 呆然と目を瞠り、消え行く魔竜を見つめている。 とたん、ユリウスの脳裏をよぎった、記憶は。 ―――――地獄へ、落とされた赤子。そこへ殺到する悪魔。そのすべてを振り切って、到達する魔竜。彼の両手が、赤子を受け止めるなり。 …焼け爛れた。 それでも。 翼を、力のかぎりうちふるって、魔竜は地獄の空を飛んだ。 まだ、閉じきっていない、赤子が落とされた扉目掛けて。 ―――――そうして。 「嘘だ」 呆然と、皇帝が呟く。 その全身が、ぶるり、震えるなり。 「嘘だ、嘘だ、嘘だ…!」 頑是ない赤子のような表情で叫び、消えゆく魔竜へ手を伸ばした。 「待て、待ってくれ、僕は知らない、知らなかった、魔竜、そなたが僕の命を救った、なんて…救った相手は、魔法使いだと、母上が…!」

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