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幕・191 全ては終わり、始まっていた
皇帝の言葉に、ユリウスは、先ほどの記憶の意味を知った。
以前、何かの記録で見た覚えがある。皇帝は、二度、地獄へ落された、と。一度目は。
赤子の時。
では、先ほどの、あの赤子が。
魔竜の腕が焼け爛れた理由は、オリエス皇族が受け継ぐ神聖力のせいだったのだ。
にもかかわらず、魔竜は。
(なぜだ?)
身体を焼かれながらも、自身の命を脅かす存在を、助けた。
(これは…あまりに)
事実だということが、身にしみてわかるからこそ、―――――魔竜の行動が理解できない。だが。
ただ純粋に、命を助ける行い、と見れば、尊いと思った。
思った、が。
(悪魔が?)
正直、訳が分からない。
消えゆく記憶の中、赤子を母親らしき女性に預け、とたん、激しく締め出された魔竜は、それでも満足げに、地獄へ再び落ちていった。
薄れていく記憶の光景と同じように、かつて魔竜だった霧は、容赦なく、皇帝の指先をすり抜けていく。消えていく。
「…魔法使いだと、聞いていた。母上と縁のある、魔法使いが、地獄まで僕を迎えに行ったのだと」
ユリウス以上に、呆然とした皇帝は、呟いた。
「…―――――そんな、力ある魔法使いとの縁などなかったのに、母上は、嘘を」
何とも言えない気持ちに歪んだ声だ。
正直に教えてくれなかった母を恨むこともできず、誰も責めることもできず、ただ皇帝は無念を吐き出していた。
皇帝の母が、正直に言えなかった理由もわかる。
それは、誰も信じなかっただろうからだ。悪魔が、人間を、それも無力な赤子を助けたなど。
そんな夢物語にすら起こらない出来事を現実に引き起こした魔竜こそ―――――きれいな言葉で言えば、真の奇跡であり、…はっきり言えば、変わり者。
同時にそれは、息子のための嘘でもあったのだろう。
悪魔に助けられた、など。
悪魔に触れたのだ、どんな呪いをかけられたのだ、と疑われ、周囲から後ろ指さされる羽目になる可能性が高かった。
第一、きっと実際に見た者ですら夢のような現実だったに違いない。
「怖かった」
血を吐くように、皇帝は言う。
そんな姿ですら、彼は高貴だった。
「そなたに無垢を、やさしさを感じるたび、僕は」
懺悔の表情で、素直な心の内を告げれば魔竜が戻ってくるといわんばかりに、焦るような勢いで、皇帝は言葉を紡ぐ。
「そなたに惹かれた」
声は、泣くようだ。
「だが、惹かれた事実が、恐ろしかった。それを見透かすように、聖女は…神殿は」
続く言葉は、氷のようだった。
「魔竜は、悪魔だと、―――――繰り返し、…繰り返し」
ユリウスは瞑目した。
普通の悪魔であったなら、聖女や神殿の言葉は正しかったろう。
悪魔に惹かれてはならない。
命を、魂を奪われるから。
だが、魔竜は。
―――――…今なら、はっきりとわかる。
この悪魔は、違う。型にはまった悪魔ではない。
途中で言葉を不自然に切り、皇帝は顔を上げる。許しを乞うように、叫んだ。
「そなたが、僕の捜し続けた相手だなんて!」
ユリウスは目を瞠った。
捜していた。
なぜ?
自身を助けてくれた相手に、礼をしたい、などと、殊勝で律儀な性格とはとても思えない。
いや、そもそも。
(今の皇帝が、誰かを捜しているなどという話は、噂にも聞かない)
相手は皇帝だ。
何者かを捜しているとなれば、対象が明かされることはないにしろ、たとえどれほど秘密にしようとも、『捜している』という話はどこかから漏れるはず。
だがユリウスはそんな話を、どこかで聞いたことがない。
(この夢見の光景、今と同じようで、何かが、微妙に違っている)
皇帝は魔竜の片鱗をかき集めるようにした腕を、…空虚を、抱きしめるように、動かして。
「―――――…僕は、何をした?」
何もつかめなかった腕を見下ろし、砂のような呟きが、皇帝の唇からこぼれる。
その、目の前で。
雪景色の中、荒れ果てた大地に、ぴょこん、と芽が出る。
それが双葉になり、複数そこここに現れた緑が、みるみる成長を始めた。その、先端で。
小さな白い花が、ふわりと開く。
綿雪のようなそれが、いっせいに。
立ち込めるのは奥ゆかしくも芳しい香り。
ユリウスにとっては、夢見の幻にすぎない。
それでも身を包み込むような優しい香りに、いっとき、忘我の心地になった。
これが、魔竜の花。
闇の中、白く輝く花弁が音なく開花していく様に、目を奪われる。
その、物語の一ページ目でも開けるような幻想的な光景すら、皇帝の目には入っていなかった。
「何の見返りもなく、僕を助けた、唯一の相手を、…僕は」
呆然とした言葉に、ユリウスは息をのんだ。理解したからだ。
(そうか)
―――――だから、なのだ。だから皇帝は、捜した。救ってくれた相手を。
生きることを、自身の命を、救ってくれた相手によって、許された心地がしていたのだろう。それを彼は、たった今。
「自らの手で、殺したというのか?」
黄金の瞳を虚ろに瞬かせ、ゆらり、その場に膝をつく。
「―――――…戻れ、魔竜」
オリエス皇帝の、ここまで敗北しきった声など、誰が知ろうか。
かなわない願いと知りながらも、呟く彼は、幼子にも見えた。
だが、子供に応える声は、どこにもない。
雪の中、ひょこひょこと芽を出し、花が咲く合間に土を盛り上げ、瞬く間に頑丈な大木に成長する植物たちが枝葉を揺らす。
皇帝に応じるものがあるとすれば、それだけだ。
それらに向かって、祈るように皇帝は言葉を紡ぐ。
「僕のすべてをそなたに捧げるから」
そんな、とんでもない代償を皇帝が口にするたび。
「そばにさえいてくれたなら、そなたの何もかもを許すから」
ユリウスは顔色をなくした。
神聖力が、皇帝を満たしていく。人間が持つには、過剰な力だ。
皇帝の言葉は、懇願ではない。
願いでもない。祈りですらなかった。
―――――決定事項だ。
「戻れ。いや、」
皇帝は一度首を横に振り、待ちきれないとばかりに、ゆらり、立ち上がる。
一歩、踏み出した。
「迎えに行く」
刹那。
光輝が、爆発の激しさで、周囲を満たした。
もしかすると、世界を。
たまらずユリウスは目を閉じた。再び開けた時には。
「…はっ」
気の抜けた声を吐きだし、ユリウスはその場に膝をついた。
もう、目の前には誰もいない。
あふれるばかりだった緑もない。
暗闇の中、しんしんと降り積もる雪ばかりが、変わらぬ顔でそこにある。
「はは、あははははっ」
短く、乾いた笑いを上げ、不意に、真剣な顔でユリウスは独り言ちた。
「手遅れだ」
全ては終わり、始まっていた。
(そうか…お門違いだったのだ)
楽園の、判断は。
皇帝を殺したところで、意味はない。どころか、危険だろう。
新たな神は、とうの昔に。
―――――時間を巻き戻し、理を書き換え、自らのために、自らの世界を構築していた。
魔竜が生きる世界を。
リヒト・オリエスは、それを自覚しているのだろうか。
いや、今までの様子からして、覚えているとは思えない。
なにがしかの形で、記憶は残っているようだが、完全ではないだろう。
思う端から、反射的に湧いた疑問がある。
―――――だが、いかに神とはいえ、代償なしにそのようなことが可能なのか?
こんな力づくの行為は、世界に亀裂が走ってもおかしくないような―――――。
思うなり、ふ、とある出来事が、脳裏によみがえった。
かつて、楽園と地獄の間で起こった、血なまぐさい戦争。
地獄に生じた、世界を破滅させる亀裂。
黒曜という、巨大な力を持った悪魔。
その、唯一残った刀身は、現在、魔竜の所有となっているが。
ああ、その交渉もしなければならなかったのだ、と頭の片隅で嘆息が零れる。同時に。
ユリウスの全身から、血の気が引いた。
…あれは。
あの出来事が、まさか。
ともすると、黒曜という悪魔が誕生し、亀裂を生んだこと自体が。
神が時間をさかのぼった代償、だとすれば。
(そうだ、思い返せばあの亀裂の発生は、夢見の誰も予知できなかった)
予想、に過ぎない。
だがユリウスはますます確信をもって、その場に立ち尽くす。
迂闊には、誰にも話せない。
だが、一人で抱えるには、ユリウスの許容範囲を超えていた。
そのとき、彼の脳裏に浮かんだ面影は。
「…サイファ」
古い友人の名をつぶやくと同時に、翼を広げた御使いの姿はその場から消えていた。
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