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幕・196 そこで終わりと誰が決めた
ヒューゴは、暗い城内から、まだ明るい外を見やった。まぶしさに、目を細める。
このとき彼らと廊下ですれ違った侍女たちが、外からの明かりにきらめく神秘的な濃紺の瞳に、知らず見惚れた。
それを尻目に、辺境伯は、やれやれと肩を竦める。
周囲の様子に気づいた気配もなく、ヒューゴは外を見ながらつぶやいた。
「ならもう、この大陸の外に出たのかな」
剣聖がしたかったもの、それは―――――冒険だ。
世界はこの大陸ばかりではないと聞いた時から、一度、大陸の外へ出てみたかったのだ、と。
剣聖にまで上り詰めながら、幼子同然の夢を語った男は、びっくりするくらい、キラキラした目をしていた。
オリエス皇帝に忠誠を誓い、ずっと皇室に、国に、縛られ続けた男だ。
出会ったばかりの頃は、死体同然の倦んだ眼をしていたのに、別れた時の彼は生き生きとして以前より若返って見えた。
人間は、こうだから面白い。
瞬く間に、別人のように変わってしまう。
かつて、魔力のほとんどを枯渇させた状態だったヒューゴが、リヒトを守るため、興味を示した剣の師として、彼に狙いを定めたときには、ひたすら不動の城塞のようで、胸の内にそんなあどけない夢を抱えているなど、想像もできなかった。
淀んだ空気を感じたものの、彼の剣の腕は一流だ。
ヒューゴは迷わず、ギデオンに、弟子にしてくれ、と身の程知らずに特攻した。
かつてヒューゴは、悪魔であり、奴隷であり、しかも、見捨てられた王子の所有物に過ぎなかった。
誰もが嘲笑った。
帝国が誇る剣聖相手に、図々しい、と。
ところが。
身分にも人種にも偏見を抱いていなかったギデオンは、暇ができたら教えてやってもいいと答えた。
だからヒューゴは、ギデオンの隙間時間を確実に狙い、教えを乞うた。
気が向いたらしいギデオンは、ひとつだけヒューゴに型を教えてくれた。
手本を見せてもらったヒューゴは、二、三回動いただけで、その型を完璧にモノにした。
とたん、ギデオンは言った。
「お前、つまらんやつだな」
剣聖は、たちまち、退屈そうな顔になった。
つまらんとはどういうことか。
よく分からなかったヒューゴは、今何が起こったのか、思い出してみることにした。
簡単に、さしたる努力なしに、なんでもできてしまうという評価だろうか?
それを褒めるたり、嫉妬したりせずに、逆に面倒くさい、という態度をとる人間がいるのが、ヒューゴにとっては珍しく、新鮮だった。
確かに、悪魔の肉体は頑丈であり、戦闘能力が秀でているため、元々の才は凡人とは比較にならないだろう。
型をひとつマスターするくらい、朝飯前だ。
だが、しかし。
「剣聖。問うが、」
疑問がわいたヒューゴは、真面目を開いた。
子供の、いや、悪魔のたわごと、と聞き流しはせずに、ギデオンはヒューゴの言葉に耳を傾ける。
そういうところは、律儀な男だった。
「剣とは」
木刀をしっかりと握りしめ、ヒューゴはギデオンを見上げる。
「型を完璧にこなす、それだけで終わりなのか?」
「…どういうことだ?」
倦んだようだった剣聖の目に、一瞬、興味の光が過った。
ヒューゴは、純粋に、疑問に思ったことを口にした。
「剣の真髄とは、もっと先にあるのではないかな。いいや、剣に限らず、何事の真髄も」
ヒューゴは、手にした木刀の切っ先に、ふっと視線の焦点を定める。
そういった真剣な姿は、やたらと神秘的な空気をヒューゴにまとわせると、彼自身に自覚があったかどうか。
「剣の型をモノにするのは、はじまりだ。真髄は、その果てにある。繰り返し、繰り返し、繰り返した、…その果て」
剣において、型という枠組みは、より効率的に剣を使うために編み出された技だろうが。
何度も繰り返し、最終的に型を打ち破り、自在の領域に行かねば、勝利は手にできないだろう。
なにせ乱戦の中、実践において、そのままで使えるわけがないからだ。
まさか命がけで戦う相手が、こちらの型に合わせてくれるわけもない。
悪魔の肉体が、剣の道において、自然と天才という領域に踏み込ませるならば。
ヒューゴは毅然と顔を上げた。ギデオンを見上げる。
ヒューゴはその恵まれた才を持って、もっと果てに行く。
そこで終わりと誰が決めた。
その先が、きっとある。
「よし、剣聖。もし俺を弟子にしたなら、約束しよう」
弟子にしてくれと乞う相手になど、うんざりしている男を見上げ、ヒューゴはニカッと笑った。
子供の姿通りに、無邪気に、純粋に。
だが、青年の姿だったとしても、ヒューゴの笑顔の印象は同じだったろう。
「楽しませてやるぞ!」
弟子の立場になるにしては、偉そうな小さい悪魔の提案に。
ギデオンは不意に、自身の膝を強く叩いて、さも痛快に笑った。
「面白い!」
だが、師に対する態度ではないな、と素振り千回を初っ端から言い渡されたのは、いい思い出だ。
とはいえ、そうすることで。
彼は、ヒューゴを弟子として認める、と遠回しに告げたわけだ。
そして、ヒューゴは。
剣聖ギデオンの、最後の弟子となった。
いかに剣聖とはいえ、老いたからには、人間である以上、必ず死ぬ。
だが―――――ギデオン・グラムスの死。
彼の死ほど、想像がつかないものはなかった。
ギデオンとはいえ、いつかどこかで死ぬのだろうが。
「ヒューゴ」
「なに?」
いつの間にか立ち止まり、一緒に外を見ていた辺境伯が、前を向いたまま、何かを懐かしむ声で低く言った。
「陛下のこと、…ギデオンのことでは、そなたには、感謝しかない」
ヒューゴがギデオンの弟子になったばかりの頃、一度だけ、辺境伯は皇宮へ訪れたことがある。
その日も、妙に改まった口調で、ありがとう、と言われた覚えがあった。
今の声は、その時の声に似ている。
「昔も、似たことを言ったね」
思い出しながら、ヒューゴは呟いた。
「…そうだったか? うむ、そうかもしれんな」
あの頃、オリエス帝国は乱れ切っていた。
「皇族の方について、むやみなことは言えんが、ギデオンのことは」
辺境伯が、明るい外に見ているのは、在りし日の友人の姿だったろうか。
彼は目を細めた。深いしわが、目尻に刻まれる。
「アレは、本当に、そなたに救われていたよ」
ヒューゴが、ギデオンに、何かをした覚えはない。彼には、してもらうばかりだった。
「そして最後には、ようやく、自由になれた。本物の自由だ。…ありがとう、感謝する」
ヒューゴには、彼らの事情は分からない。
伝え聞くばかりで、詳しいことは何ひとつ知らなかった。
ただ、壊れかけていた帝国が、それでも保ったのは、彼ら忠臣の支えあってこそだ。
言い知れぬ苦痛が、苦悩が、あっただろう。
それを、歯を食いしばって、耐えて、耐えて、耐え抜いた、人たち。
ヒューゴは祈るように目を伏せた。
―――――どうか。
こんなひとたちこそ、正しく報われますように。
悪魔の祈りなど、不吉以外にはならない気がして、決して、口には出せないから、ヒューゴはそっと胸の内でだけ呟く。
余計なことは言わず、ただ。
ヒューゴは、辺境伯の言葉を受け取った。
「はい」
そのとき、はじめて。
ヒューゴの目に、辺境伯の姿が小さく映った。
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