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幕・197 走り続けるしかなかった
× × ×
見上げれば、空は茜色に染まっている。
ガードナー城での皇帝をもてなす会食は、とっくに終了しているだろう。
(夕食は別々になるというお話だったから、今日はもう大きなイベントはないわね)
おそらく、皇帝は部屋から出ない。
元来、外遊は嫌う傾向にあると聞いている。城内の散策どころか、観光などきっとしない。
そもそも、残念ながら、北部には見所などほとんどなかった。あるとすれば雪だけだ。
(それでも、ヴァレシュ神国よりはましなんだけど)
あの国は、年中雪に閉ざされていた。ゆえに、戦争、そして他国からの略奪は、生きるために必要な手段だったと言えなくもない。
人殺しを積極的に肯定するつもりは、もちろん、ないけれど。
なんにせよ、皇帝が部屋にこもってしまったならば、ミランダが城に戻っても、もう鉢合わせの危険はないはずだ。
かじかむ指に息をふきかけ、ミランダは立ち上がった。
分厚いフードの下から、白金色の髪が、一房、落ちる。
一度伸びをして、背を向けていた木戸を、トントン、と軽く叩いた。だが、返事はない。
吐き出しかけた嘆息を飲み込む。
ミランダは生き生きと咲く菫のような紫の目を上げた。
表情に疲れは見えるが、瞳は強く輝いている。
「今日はもう、帰ります。また、来ますね」
奥のほうに感じる気配に向かって声をかけ、一歩下がった。ぺこり、深く頭を下げる。
諦めたつもりはない。
諦める気もない。
会ってくれるまで、通い続けるつもりだ。
強い意志の炎を消さないまま、ミランダは踵を返す。
今日、これで帰るのは、これ以上遅くなっては待っている相手に心配をかけるし、安全面でも無警戒といえる行動だからだ。これが引き際だろう。
それに、この辺りを見張れる場所にある食事処で、侍女と騎士が待っている。これ以上付き合わせるのは気の毒だ。
表通りに出れば、そこから真っ先に、そばかすの若い侍女が飛び出してきた。
「どう、でしたかっ」
息せき切って、とびついてくる。彼女の勢いに、ミランダは、できるだけ落胆を表に出さないように、明るく笑って応じた。
「ダメだったわ。今日は、顔も見られなかったし、声も聴けなかった」
「…そんな」
耳を垂らした子犬のように、しょんぼりした侍女の様子に、ミランダは苦笑をこぼす。
手を伸ばし、頭を撫でた。
「部屋に、気配はあったわ」
少なくとも、逃げだしたりはしていない。ならばまだ、望みはある。
「根負けしてくれるまで、通うつもり」
ミランダの気持ちを折るように、
「相手は異種族です、ミランダ令嬢」
どれだけ説得しても、最後までそばで待っていると言い張った騎士が複雑そうな顔で口を挟んだ。
騎士がそばにいれば、相手の警戒を余計強めるだけだから、離れた場所で待っていてくれとミランダは言ったが、なかなか首を縦に振ってくれなかった。
最終的には、不承不承従ってくれたが、不本意そうな雰囲気を醸し出しているのは仕方がない。
ミランダは彼に、仕事を、役目を放棄しろ、と言ったも同然だからだ。
「もう他の者にお任せください。なにも、ミランダ令嬢が出向かれる必要はありません」
困らせていることは、わかっていた。申し訳なく思う。
その上で、ミランダは強情を張った。
「いいえ。彼らが戻ってきたら、教えてくれと伝えていたのは、わたくしよ」
彼らは、もう二度と戻らないかもしれなかった。だが、戻った。…帰ってきて、くれたのだ。
またどこかへ去ってしまう前に、尋ねなければならない。
なぜ、彼らは北部から去ったのか。
なぜ、彼らの故郷は、あれほど荒廃してしまったのか。
帰ってきたとしても、彼らの故郷は、もう生き物が住める場所ではなかった。
荒廃してしまったからこそ、彼らの故郷への道は、もう閉ざされていない。
誰だって行き来できる。
しかし、あのようになってしまっては、もう誰も行こうとしないだろう。だがあれは、
(あの一部のことだ、と切り捨てていいことなのかしら)
原因を知る必要があるとミランダが思うのは、やがてあの状態が北部全域に広がる可能性を考えるからだ。
ミランダはもう二度と、失いたくない。故郷を。
そして、もうひとつ。
もし、彼らが住みよい場所を、ミランダたちが提供できるとしたなら、また、北部に残って、交流してくれないだろうか。
その余地があるのか、ないのか。
ミランダは交渉をしたい。北部のために。なにより、彼らのためにも。
「ですが彼らはもう、以前の彼らではありません」
騎士は強情だった。
ミランダの安全を思うが故だろう。
だがミランダも譲れない。騎士の顔をまっすぐ見返した。
「どういう理由があったかわからないけれど、信頼を失ったなら、取り戻す努力はすべきだわ」
―――――以前の彼らではなくなった、と騎士は言う。
では知らなくてはならない。
どうして、そうなったのか。
彼らの故郷は、雪深い北部で、楽園と呼ばれるほど、緑豊かな、恵まれた土地だった。
その一角は結界で守られ、選ばれた者だけが行き来できたという。
それが今や。
「…あのう…」
睨み合うように対峙した二人の間で、侍女が小さく震えながら提案した。
「お話の続きは、城でなさってはいかがでしょうか」
「あら」
我に返り、ミランダは眉間から険しさを落とす。
騎士も、肩から力を抜いた。
「…申し訳ございません。令嬢が、北部のために奔走してくださっているのは、痛いほど理解しているのですが」
…昔は。
母が、私を連れて北部へ逃れてきたころは、冷たく否定的なまなざしが多かった。
当たり前だ。
母は、故郷を裏切り、敵国に情報を売ったのだ。
自己保身しか頭にない売女と聞こえよがしに囁かれた。
そしてミランダは、そんな彼女の娘だ。
好意的な眼差しを向けられることは一度だってなかった。
(それでも母は、わたくしの誇りだわ)
ただ、それが当たり前の環境の中で、だからこそ、ミランダは強く思ってしまった。
(わたくしなんて、どうなったっていいと、…思った)
けれどその命をもらうと言った魔竜は。
ミランダに―――――逃げることを許さなかった。彼は、残酷な悪魔だ。ゆえに。
ミランダは、好意的ではない環境でずっと、走り続けるしかなかった。
そして、結局ミランダには、ここで生きる以外に方法は残っておらず。
走って、走って、ずっと走り続けているうちに。
気づけば、ひとつひとつ、壁が薄くなってきた。
それは、砂一粒一粒がぽろぽろと崩れていく程度の微妙な変化に過ぎなかったけれど。
「これは自分のためでもあるの。気にしないで」
ミランダはわだかまりのない笑顔を騎士に向け、明るく告げる。
「さあ、戻りましょう」
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