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幕・198 亡霊たちの再会

「これは自分のためでもあるの。気にしないで」 ミランダはわだかまりのない笑顔を騎士に向け、 「さあ、戻りましょう」 雪のない路上で踵を返した。 雪深い北部だが、ガードナー城下だけは、雪が積もらない。 そのような加護がかかっていた。 誰の加護かといえば、―――――精霊王の加護だ。 目深にかぶったフードの下から、ガードナーの空を見上げ、ミランダは目を細めた。 (精霊王が狂ったとしても、加護は継続されるのね…) つまり、そういう加護を、精霊王がかけたというわけで。 だが―――――精霊王がいなくなれば? 精霊王が消える。想像もつかないことだけれど。 精霊王は今、狂っている。 いや、そう告げたのは神殿で、ミランダが知っていることは、精霊王が狂ったような行動をとっているという事実だけだ。 実際どうなのか、会って対話をしたわけではないから、確実なところは定かではない。 神殿がそういうなら、実際、そうだと仮定するしか方法はなかった。 ただそれが本当だとすれば、狂って自身すら傷つけた挙句、もし、―――――消滅してしまったなら。 ミランダはすぐ視線を正面に戻す。 …城下が加護をなくすかもしれない。 そういう実際的な問題もあるにはあるが。 (自動で継続される加護を与えるほど慈悲深い精霊王だもの) なぜ狂ったのか。 願わくば、元に戻ってほしい。 そのためには、何をすればいいのか。閉じ込めておく以外の方法は、本当にないのだろうか? (もう少し、詳しい話を聞きたいところだけど…神殿に立ち寄るべき?) 思った矢先、目の端に、神官の白い衣が映った。略式の神官服だ。 町中に、神官がいる。 ミランダは目を瞠った。しかも。 灰色の髪に、学者然とした雰囲気の彼は、 (神官長? ―――――エルトン・スペンサー) いつも礼儀正しいが、冷たい目をした神官。 むろん、茶色の彼の目は、明るい印象が強いのだけれども。 (なんだか、実験材料を見ているような視線なのよね) 正直言えば、苦手だった。 けれど彼は、生まれたときからずっと北部で暮らし、神官となった男だ。 この、厳しい環境から、逃げなかった。そこは尊敬に値すると思う。 大体、北部の神殿において、神官の入れ替わりは激しい。 環境は厳しく、魔獣が多く、民は貧しいため、お布施も多くない。 軟弱な精神では耐え続けられないのだ。 (あ、行ってしまう) 正直、北部で神殿の力は弱い。 それでも民の精神的支柱ではあった。 神殿の長ともなれば忙しく、なかなか会う機会もない。こうして外で顔を見るなど滅多にないことだ。 いい機会だと思った。 「ちょっと、ご挨拶してくるわ」 ついでに精霊王のことも詳しく聞けたらいい、そんな気分で言い置いて。 ミランダはいっきに足早になる。 夕飯前、急いで家に帰る民の間を、器用にすり抜けながら。 「あ、ミランダさま!」 「お待ちください、ミランダ令嬢…っ」 置いて行かれる格好になった侍女が声を上げ、騎士が慌てて追いかけてくる。 だが侍女も騎士も、人ごみに足を取られ、ミランダとの距離があっという間に開いた。 その気配を背で感じながら、ミランダはエルトン神官が曲がりこんだ角に、無警戒に踏み込んだ。刹那。 「…え?」 思わず、声を上げる。外套の下、思わず目を瞠った。 エルトン・スペンサーは、そこで誰かと待ち合わせをしていたようだ。 彼のそばに、長身の人影が見えた。 レオンなみに背が高く、体格がいい。 青年だ。 外套の下から覗くのは、くすんだ金髪。そして。 ミランダの声に振り返った―――――冷徹な紫の瞳。ミランダと目が合った、刹那。 「おや」 にぃ、と薄い唇が、状況を面白がるような笑みの曲線を描いた。 「これはこれは。我が従妹殿じゃないか」 ミランダの耳に届いたのは、懐かしい声。 だが、これっぽっちも嬉しくない。 氷水に浸ったかのように、胸が冷えた。 「元気だったか」 微動だにしないミランダを、彼は気遣う態度で、微笑んで見つめている。 だが目はひとつも笑っていない。 すぐ、笑みは掻き消えて、 「―――――裏切者」 嘲る声で告げた。 ただしそこに、憎しみはない。嫌悪もない。 彼自身にとって、ミランダたち母子の行いは、何の重みもないのだ。 それでもあえてそう言った理由は。 その言葉が、どれほどミランダを打ちのめすか知っているからだ。 だからあえて、口にした。その、男の名は。 「ライモンド…!」 思わずミランダの方が、憎悪に―――――いや怒りに満ちた声で、彼の名を呼んだ。 咄嗟に、飛びのくように一歩後退。 距離をとり、亡霊に会った気分で、呟く。 「…生きて、いたのね…」 ミランダの母には、弟が二人いた。ひとりはレアンドロ。もうひとりは。 この、ライモンドの父親。 ライモンドの父は、弟のレアンドロと違い、王位に興味はなかった。 体が弱かったこともあり、早々に弟へ後継者の地位を譲り、争いから降りたのだ。 無欲の人、という印象が強い男だが、彼がレアンドロの野心に満ちた残虐な性格を知った上でそうしたのだと知れば、果たして歴史は彼をどう判断するだろう。 彼は殺されたくなかった。 また、レアンドロの自己中心的な気性を知っていて、王位を譲ったとなれば、王族の役目を放棄し、民が生贄となることを黙認した臆病者と言うこともできる。 だが、そんな男の息子ときたら。 「随分と嫌そうに言うもんだ。なあ、ミランダ」 ライモンドは記憶通り不遜に、ミランダを見やった。 「お互い、せっかく生き延びたんだ。証明しろよ、お前は裏切者じゃないって」 父親ではなく、叔父の―――――レアンドロによく似た気性だ。 傲慢で、野心的。 ミランダの目は、探るようにライモンドとエルトンを交互に見た。 何を考えているのか、エルトンの顔は冷静だ。 いつも通りの、薄気味の悪い目でミランダをみている。 いや、薄気味悪いなどミランダの偏見かもしれない。 二人はどういう関係だろうと探る間もなかった。 「ミランダ令嬢!」 騎士がミランダに追いつく。 その時には、踵を返したライモンドは外套を寒そうに目深に被り、背を向け、立ち去っている。悠然と。 エルトンだけがこちらを向いて、頭を下げた。 「ミランダさま。このエルトンに、何か御用事でも?」

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