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幕・199 疑念
「ミランダさま。このエルトンに、何か御用事でも?」
あった。だから、追いかけたのだ。精霊王のことを聞きたくて。だが。
舌が痺れたように動かない。寸前までの思考は、見事に吹き飛んでしまった。
視線の先で、ライモンドが立ち去っていく。
―――――裏切者。
その言葉に、泣きたい気分で、強く拳を握った。猛烈な敗北感が腹の底から這いあがってくる。
座り込みそうになった。
慌てて足に力を入れる。
神官長と亡国の王家の末裔が、いったいどういう関係なのか。
いったい、いつから。
エルトンの胸ぐらをつかんで揺さぶって、問い詰めたい衝動にかられた。しかし、現実は。
ライモンドを指さすこともできず、ミランダは一度、言葉を飲み込んだ。
落ち着け。落ち着け、…落ち着きなさい、ミランダ。
この程度の侮辱や嘲笑なんて、慣れっこでしょう。
目の前のエルトンは、どこまでも冷静だ。興奮したほうが負ける。
視界の隅に、まだライモンドの背は映っていた。
だが突然のことに、ミランダは咄嗟にライモンドへの態度を決めかねてしまう。
昔から気に食わないが、今ここで声高に騎士を呼べば、彼は間違いなくライモンドを拘束するだろう。ライモンドも、ただでは捕まらないはずだ。
確実に、…騒ぎになる。血が流れる。なにより。
ライモンドは身内だった。
このままでは逃がしてしまうかもしれなかったが、騎士を呼び、戦いの渦中に投げ入れるのには、躊躇してしまう。
ミランダは、血がにじむような気持で奥歯を食いしばった。
(今回だけよ。今回だけ…見逃す)
ライモンドの思惑通りになるのは業腹だ。
しかし、ミランダという少女は、無情に徹しきれない。
振り切るように、ミランダはエルトン神官長に視線を定めた。
ライモンドのことで、神殿に関する疑惑が、種から大木へ一気に成長した感がある。
この状態で、精霊王のことを聞けるわけがなかった。
精霊王に関する神殿側からの回答に、この時初めてミランダははっきりとした疑惑を持った。エルトンはきっと正直に答えない。だとして。
呼び止めたからには、不自然ではない話題を振る必要がある。
ここまできて、いまさらかもしれないが、後ろに控えている騎士に、疑念を抱かせるわけにはいかない。
(当たり障りがない話題って何かあったかしら…何か、自然に…)
口を開きながら考え、声を出す寸前、ふっとミランダの脳裏をよぎったのは。
「…聖女さまは、お元気ですか」
苦し紛れの問いかけ。だが、この時のミランダは。
…はじめて、この神官の意表を突いたのかもしれない。
常に冷淡な姿勢を崩さなかったエルトン・スペンサーが、ミランダにとっては、はじめて見る反応をした。
ミランダを前に、言い淀んだのだ。
少なくとも、エルトンが返事に遅れたことは、今まで一度だってなかった。その上。
すぐに目を合わさず、少し視線を泳がせた。
「そう、ですね」
ただしそれは、ほんの一瞬。すぐさま、視線をミランダに固定し、
「お元気ですよ。ただ最近は、神聖力を使われすぎているのか、お疲れのご様子で」
「そうですか」
その時、息を切らせた侍女が追い付いた。控えているのかと思えば、
「あ、あの」
申し訳ないといった様子で、声をかけてくる。エルトンとそろって振り向けば。
「おや」
侍女のそばに見えた小さな人影に、エルトンが声を上げる。
「ようやく見つけましたよ。どこにいたのですか」
「よかった。お連れの子ですか」
胸をなでおろした侍女は、一緒にいた金髪の少年に微笑みかけた。見習い神官の服を着ている。
なるほど、だから、エルトンなのだ。
「ええ、見回り途中ではぐれてしまって、捜していたのです」
エルトンが見習いを連れている姿は、よく見かける。この少年も、そうなのだろう。
「連れてきてくださって、ありがとうございました」
エルトンが少年に手を差し伸べた。見習い神官の服を着た少年は、一度侍女を見上げる。
子供好きの彼女は、にっこりと微笑んだ。
子供を見る顔には、日ごろの幼さが嘘のように、お姉さんの雰囲気が漂う。
少年は何も言わず、ただ、彼女にぺこりとお辞儀をした。
すぐさまエルトンの陰に隠れてしまう。
そこからはごくごく普通の、神官と一般人のやり取りをして、ミランダはエルトンを見送った。
正直なところ、ミランダはエルトンが苦手だ。
しかし、エルトンだけが、ミランダに対する態度を、初めから今まで変えていない。
最初の頃はそれが、ほんの少しだけミランダの救いだった。
だから、彼のことも苦手ではあるけれど嫌いにはなれないのだ。
―――――だが。
今回のことで、ミランダは神殿に疑惑を持ってしまった。
エルトンと見習の少年を見送る視界の中に、もう、ライモンドの姿はない。
「戻りましょう」
待っていた侍女と騎士を促し、その後はまっすぐガードナー城を目指す。
帰りながらも、ミランダの胸の内では、神殿に対する疑念が膨らみ続けた。
なにせ、すぐには頭が回らなかったが、エルトンの回答はおかしなものだった。
(聖女さまには、謹慎命令が下っているのじゃないの?)
しかもそれは、皇帝命令だ。
聖女が、それを破るとも思えず、神聖力の強い皇帝に絶対服従の神殿が彼の命令を無視するはずもない。…ない、はずだが。
―――――聖女が神聖力を使った、とエルトンは言った。
謹慎しているはずの聖女が、誰に、なんのために。
聖女が謹慎している修道院に、誰かが出向いて何かをしてもらっているのだろうか。
いや、謹慎しているならば、公に外の人間と接触することもないはずだ。
(何か、おかしいわね)
なにより、―――――ライモンドだ。
エルトンと共に彼はいた。
つまりライモンドは、三年前に何があったのか、北部の神殿に匿われている。
そういえば、ライモンドの母は、ヴァレシュ神国において、神殿に対する寄付金では群を抜いた貴族だった。それに。
(…聞いた話では、三年前の召喚があったときには、神殿はもぬけの殻だったとか)
ではヴァレシュ神国の神官たちは、ともすると、事前に何らかの形でレアンドロの行動を知っていたのかもしれない。
(だとすれば)
「ミ、ミランダさま」
息を切らせた侍女の声に、ミランダは我に返った。
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