「ミ、ミランダさま」 息を切らせた侍女の声に、ミランダは我に返った。 顔を上げれば、既に彼女は、明かりの灯ったガードナー城内の廊下にいる。 従っていた騎士はいつの間にかいなくなっていた。 いや、挨拶は交わした気がする。何も言わずに騎士がいなくなるわけがなかった。 ミランダの悪い癖だ。深く考えに沈むと、色々と上の空になってしまう。 「申し訳、ありません。わたし、足が遅くて」 反応の遅れたミランダに、侍女は小さくなって謝ろうとした。慌てて口を挟む。 「いいのよ、気にしないで。悪かったわ、早足過ぎたわよね…配慮が足りなかったわ」 いけない、周りに気を配っていなかった。ミランダは深く短く反省。 考え込むと、ミランダは足早にずんずん突き進んでしまう。小さな頃からそこは変わらない。あのライモンドにもよくからかわれたものだ。 まるでイノシシだな、と。 勢いや体力の面では、北部の騎士団において一番の武力・体力を誇るあのレオンにすら、 ―――――ミランダの体力はバケモ…いや、底なしだな。 と言われるほどなのに。 レオン以外だと、そのあと決まって必ず、外見と違って、という言葉がくっつく。 おとなしそうで儚いような外見なのは、なにもミランダに責任があるわけではないのに。 と、レオンを考えたのが呼び水になったのか。 「ミランダ？」 レオンの声がした。一瞬、幻聴かと思ったが。 「レオン」 振り向けば、城砦を思わせる逞しい体躯の青年が、ゆっくりした足取りでやってくるところだった。 間違いなく戦士の足取りだが、貴族らしく所作が上品だ。 そして、青灰の瞳は育ちの良さからくる寛容さにあふれているせいか、底抜けに穏やかだ。 彼の一番の問題は。その温和さを一つも崩さず、敵を殺せるところだろうか。 知っていても、彼女を見下ろす瞳の穏やかさがとても好きで、親しくなってからは、ミランダが彼を見上げながらに駆け寄ってしまうのは癖のようになっていた。 「また出かけていたのか？」 胸の内に迎え入れるようにして、レオンはちらと防寒具に視線を向けた。 北部で、外に出ているというのは、すぐわかる。分厚い防寒具が目に付くのだ。 「そうよ」 「…配慮か？」 気遣うように、声を潜めて、レオン。 皇帝のヴァレシュ嫌いのことを言っているのだ。だから外へ行っていたのか、と。 ミランダは小さく笑ってしまう。 「それもあるけど、ほら、例の件でね」 「ああ、今日だったか」 異種族との交渉。レオンには、事前に相談してあったことだ。だが。 無意識に、ミランダはきゅっと唇を噛んだ。 ライモンドのことが頭に浮かんだのだ。レオンに、伝えたい。思うと同時に、のどに何かが詰まったようで、声にならなかった。 「どうだった、会えたか？」 「え？」 一瞬、ライモンドの事かと思ってしまう。何に気づいたのか、と血の気が引いた。 レオンが男らしい顔立ちにいぶかしげな表情になる。 「例の異種族だ」 「あ、…あ」 激しく鼓動していた心臓が、急激に静まってきた。 つい胸を押さえ、ミランダは大きく息を吐き出す。 「何があった」 レオンがそう聞いてくるのも無理はない。 咄嗟に上手な嘘がつけなかったミランダは、かといって正直に話すこともできず、首を横に振った。 「何かあったように見えるの？」 「表情が暗い」 レオン・ガードナーは大雑把なようで、繊細な気づきを持っている男だ。 そういうところは、祖父の辺境伯によく似ていた。 気づいてくれることに嬉しさを感じると同時に、こういう時は、少し困る。 「いいえ、何もなかった…というか、大したことじゃないわ」 何かがあったことまでは隠せない。 だが話すこともできず、ミランダはあいまいに応じた。 ついてきていた侍女が、無言のまま、そっと手を差し出してくる。 落ち着け、とミランダは自身に言い聞かせながら、防寒具の外套を脱ぎ、手渡した。 微笑んだ侍女が、心得たように受け取り、二人の少し後ろに控える。 「やはり、今日も会えなかったか」 レオンなりに、ミランダの言葉を解釈してくれたようだ。間違いではない。ミランダは頷いた。 「だけど、諦めないわ。気長に待とうと思ってる。明日も行くわ」 「その件だが」 レオンに促されるまま歩きだしながら、なんとなくうつむいてしまったミランダを見下ろし、彼は言った。 「相談してみないか」 「できる人には皆したわよ？」 拗ねた気持ちで言えば、なだめるように頭を撫でられる。 大きな手で撫でられると、とても安心する。ミランダにとっては癒しだ。 ささくれ立っていた心が、眠たげに凪いで行く。 そこに、レオンは言葉の爆弾を投下した。 「これから魔竜に会いに行くんだ。彼に相談してみないか」 「ああ、そうね、魔竜にはまだ相談してない…って、えええええっ！？」 普通に頷いたミランダは、言葉を理解するなり、変な声を出してしまう。 そのことを恥ずかしいという思いより、驚きのほうが強い。 周知の事実だろうが、ミランダは魔竜が好きだ。大好きだ。 もちろん、これは異性に対する愛情などではない。 もっとなんというか、尊い…そう、推し？ この世界にも舞台俳優や吟遊詩人という存在があるが、しいて言うなら、彼らに対するファン心理に近いものがある。 魔竜は、人間の姿も直視しかねるほど素敵だが、竜体の彼も癒しである。性格だろうか、妙に愛嬌たっぷりなせいだ。 とはいえ、竜は基本、厳格で壮麗だ。そういう時はもう崇拝の気分で仰ぎ見ている。 ミランダがこんなだからこそ、余計、皇帝からはにらまれるのだろう。 「相手は、異種族だろう、異種族のことは、異種族だ」 レオンは力強く言い切った。何を確信しているのか知らないが、意味が分からない。 「いいいいえ、だけど、異種族って言っても、あの方は悪魔よっ？」 「叡智を湛えた竜でもある。しかも、太古の神龍である可能性が高いと聞く」 さすが魔竜。最高。いや、問題はそこではなかった。