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幕・202 白い獣人

「いや存外に、おとなしく従った。今は、出かけているようだ」 「…城にはいられないから出て行ったの?」 皇帝の前に姿を現すなと追い出されたことを本気で反省しているのなら、自分から城を出て皇帝の滞在中は他の住居で謹慎するくらいはやるだろう。 レオンは無言でミランダを見下ろした。 その眼差しに、ミランダは察した。頭痛を覚える。 やはり、そこまで素直な男ではないようだ。 「こんな時に、どこへ出かけたの? 憂さ晴らしの遊び?」 「神殿に向かった、と聞いている」 「神殿…」 意外でミランダは声を上げた。 併せて、町で会った神官を思い出す。 つい眉をひそめたのは、ルークより、あの神官長のほうがずっと上手だと思ったからだ。 「最近、ルークは頻繁に神殿へ出入りしているらしいな」 「…信心深かったら、陛下に突っかかったりはしないと思うんだけど」 いうなり、脳裏に浮かんだ面影がある。 ―――――ライモンドだ。 強く一度、鼓動がはねた。 思わず、血の気が下がる。くらり、めまい。 好ましくない点と点が、前触れなくつながった。 もしルークがライモンドの存在を知っていたら? (…いいえ) 一瞬、気が遠くなる中、ぐっと眉間に力を入れ、小さく首を横に振る。 所詮、ルークは小物だ。 ライモンドのことを知っていて、それを隠し通すなどできるだろうか。 それともその考えこそが、ルークを舐めすぎた思考だろうか? 一瞬そう思ったが、やはり、ルークに隠し通すことは難しい。 ならば、…逆なら? ―――――ライモンドやエルトンが、ルークに、秘密を慎重に守るよう目を光らせていたなら、どうだろう。 とたん、胃の腑が冷たくなる心地になった。 遠くで、レオンの声。 「ところでミランダ。今朝の魔獣の件に、ルークがかかわっているのは間違いないんだな」 ミランダは、かろうじで返事をする。 「ええ…そうよ」 ミランダに、使える部下、という存在はほとんどいない。 代わりに、侍女や侍従、騎士、町の人々と言った知り合いが、彼女にいろいろなことを話してくれる。 ミランダが得る情報は、彼等の証言をつなぎ合わせた結果、出てくる結論だ、信ぴょう性は高い。 それに今回は、いつも口が固いルークの侍従の一人がそっとミランダに耳打ちしたのだ。 ―――――もうガードナーの後継者はレオンさまに内定したのです。儀式がまだとはいえこれ以上は、…北部に乱をもたらすのも同然の事。 彼には、これからもあちらの内情を知らせてほしいものだ。 が、もうルークにはついていけないと吐き出した彼は、折を見てルークから離れるつもりのようだ。 神経を使うスパイという仕事を、強要などできない。 「魔獣の襲撃で全滅したとされる村に関して、妙な報告がある」 レオンの言葉を聞きながら、ミランダはあることに気づいた。 話に夢中でよくよく考えていなかったが、今彼らは皇帝の部屋へ向かっているはずだ。 皇帝の応対に対して、レオンほど楽観できないミランダは、慌ててレオンから手を放そうとしたが、 「…子供の死体がなかったそうだ」 衝撃の言葉に、 「なんですって?」 ぞっとすると同時に、ついミランダは彼の手を強く握った。 魔獣が食い散らかしたにせよ、どこかに遺体の断片が残るはずだ。 つまりレオンが言いたいのは、それすらなかった、ということだろう。 …では、はじめからいなかった? だが、魔獣が襲ってくると知っていたなら、おとなも子供を連れて一緒に逃げたはず。 子供たちだけ、事前にどこかへ逃がされていたとは思えない。 レオンの言い方からして、子供たちの痕跡は、どこにも残っていないのだろう。 ならば子供たちは、誰によってどこへ連れていかれたのか。 「まさか」 ―――――この北部で、いったい、何が起きているのだろう。 「誰かが意図的に子供をさらって、そのあと、魔獣を放った、なんて…あくどいことが起きたはずないわよね」 もしそれが事実なら、どう考えればいいのだろうか。 子供たちを、誰かがさらったとして、それが善意とはとても思えなかった。 子供たちだけは無事な可能性があるとは、どうしても思えない。 ―――――いったい子供たちはどうなったのか、と、焦燥感に腹の底を焼かれるような感覚に、今にも駆け出したい衝動が湧いて、落ち着けなかった。 同じ気持ちなのか、レオンが短いため息をついた。吐息にはどこか、怒りがにじんでいる。 「祈ろう。とにかく、このことに」 青灰の瞳に深刻な色合いを浮かべ、レオンがミランダを見やる。 「ルークはどこまでかかわっていると思う」 「…知らないことを願うわ」 ミランダとしては、そう答えるしかない。刹那。 ――――――ダンッ! 廊下に猛烈な音が響き、二人はそろって顔を上げた。前方に見えたのは。 蝶番が外れた扉が二枚、廊下を左から右へ吹っ飛んでいく光景。 しかもそれは、半ばから折れている。 あれは皇帝の部屋ではなかったか。しかも。 それに紛れ、人影が見えた。と思った時には。 「ミランダ!」 迫る白い何かが視界目いっぱいに広がった、と見えた寸前。 ―――――どしんっ。 ミランダの前に割り込んだレオンの背が、ソレを隠した。 同時に足元から、響く振動。 何かが床に叩き付けられたらしい。 レオンの手によって。 「よくやった、レオン」 直後、ミランダの耳に届いたのは、おそろしく静かで、かつ、好戦的な声。 「避けろ」 それが魔竜の声とミランダが認識するなり。 振り向いたレオンが、ミランダの小柄な身体をその逞しい身体で抱きくるんだ。 素晴らしい、相変わらず、撫で回したくなる胸筋だ。 不埒なミランダの思考に気づいた様子もなく、すぐさま、前へ向き直りながら、飛び退るようにして、レオンは距離をとる。 息つく間もない目まぐるしさの中、目が回りそうになったミランダの視界に映った光景の中、それはいた。 「…獣人?」 純白のたてがみ。 はち切れんばかりの筋肉。 衣服の中、窮屈そうに収まっている身体は、人間の身体こそ象ってはいるが、鼻先を掠めたのは、獣の匂いだ。 「あの程度」 つい、呟く。 「わたくしなら、殴り飛ばせたのに」 強がりではない。事実だ。 ヴァレシュ神国の王族は、全員、身体能力が高い。 ミランダもその例にもれず、男顔負けの怪力の持ち主である。 実はそれがあって、北部においては、まず鍛錬を通して騎士たちとお近づきになり、レオンともこうして忌憚なく話ができるようになった、という余談があった。

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