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幕・203 真っ向勝負

「牙や爪で怪我をするから、よせ」 淡々としているが、レオンは少し呆れ気味だ。 確かに、ミランダたちの後ろには無力な侍女もいるのだ。 対峙したのがレオンではなくミランダなら、獣人を後ろへ通してしまった可能性が高い。 認めるなり、ミランダは口早に言った。 「助けてくれて、ありがと」 頭上のレオンが、息だけで小さく笑う。 くすぐったい気分でそれを感じたミランダの視線の先では。 牙をむいた獣人が、魔竜に飛び掛かった。その顔を、魔竜はあろうことか、 「あははっ」 心から楽しげに笑い、片手でつかんだ。 魔竜の身体は、獣人の突進を受けながら、びくともしない。 「勇敢さだけは認めてやるよ」 魔竜の指に、どれだけの力がこもっていたのか。 みしり、ミランダの耳に、骨が軋むようないやな音が届く。 「だけど、女の子を人質にしようってのは頂けねえな」 どうやら、ミランダの方へ突進してきたことを言っているらしい。 ミランダを人質に? おとなしそうに見える自身の外見が、こういうときは煩わしい。 「それとも、吹っ飛ばして逃げるつもりだったか、あ?」 獣人が咆哮した。 筋肉が盛り上がる。 魔竜の指を引きはがすのに、どれだけの力が必要だったのか。 獣人は、死に物狂いで魔竜の拘束から逃れた。 つかまれていた場所の肉が削がれ、血が流れる。それでも獣人はその場に踏みとどまって、 「…へーえ?」 見守るヒューゴの口元に、薄い笑みが刷かれた。 獣人は、強く拳を握り、胸元へ引き寄せたのだ。闘志に燃えた姿。 ヒューゴは不敵に笑った。気に入った、とでも言いたげな笑顔。 素敵。思わずそう感じたミランダは、すぐ我に返った。 止めなければ。しかし、ミランダが口を開く寸前。 ヒューゴは右手を一度、獣人に向かって動かした。来い、と言うように。 間髪入れず、獣人は足元を蹴った。 不敵な笑みを浮かべたヒューゴの頭上から、叩き込むように拳を振り下ろす。 ミランダでは動きが目で追えない。だが。 ―――――ゴッ! あろうことか、雪だるまの親子の頭ほどには大きさが全く違う獣人の拳を、ヒューゴは自身の拳で受け止めていた。 印象的な濃紺の瞳が、子供のようにキラキラと輝いている。 動きが止まったその瞬間だけは、きちんとミランダにも認識できた。 できたが、一瞬、現実の認識を脳が拒絶。 こんなのありだろうか。めちゃくちゃだ。そして。 「ガアアアァァァァッ!」 ダメージを負ったのは、獣人のほうだ。 「ほぉ」 ミランダの頭上から、レオンの感心したような声。 それこそ喜悦に満ちた声音で、止めようとするどころか楽しんでいるのが分かった。 さすがに呆れたが、それだけ、レオンに余裕があるということだ。ミランダは逆に落ち着いてしまう。 しかたない、彼女たちが後片付けをすれば済む話だ。 この様子なら、魔竜が負けることはないだろう。もとより、魔竜の敗北など想像ですら難しかった。 冷静になれば、新たな疑問が湧き起こる。 あの獣人はいったい何者だろうか? (まさか、魔竜と知っていて喧嘩を売ったの? いえそもそもここは皇帝の部屋…とすると) ミランダは眉をひそめた。 まさか、暗殺者? 北部のガードナー城内において、失態である。 とはいえ、まだはっきりと状況が呑み込めない。 この時になってようやく、侍女は、と見遣れば。 離れたところで座り込んでいた。なんにせよ、無事でよかった。 後方へ飛び、ヒューゴと距離をとった獣人は、拳を作って打ち下ろした側の腕を、だらりと下げ、身体の前で抱えている。 「どう、なったの?」 ミランダが小声で尋ねれば、 「ヒューゴは」 珍しく楽しげに、レオンは告げた。 「真っ向勝負で拳を砕いた」 ミランダは、唖然。 悪魔の身体機能はそもそもずば抜けていると聞いてはいたが―――――こんな力技で、相手に力量差を思い知らせるとは。 「ああ? おい、逃げんのか? なあ?」 怯みながらも、どこか好戦的な態度で警戒を解かない獣人を煽るように言って、ヒューゴは一歩踏み出した、――――と見るなり。 「ええ?」 ミランダは思わず声を上げた。 ヒューゴの姿が消えたのだ。どこへ、と視線をさまよわせたとたん。 「ガッ!」 獣人が、濁った声を上げた。咄嗟にそちらを見れば。 「これからが楽しいんじゃねえか。もっと遊ぼうぜ?」 獣人が、床にはいつくばっていた。 何をどうしたのか、その後頭部を、ヒューゴが足で踏みつけている。 「拳同士のガチンコ勝負なんざ、久しぶりだ。しかもなんだ、お前、半人半獣か」 ミランダは目を瞠った。 半人半獣。それは、人間と獣人の間に生まれた子、ということか。 そういった生まれの子供は、人間からも獣人からも虐げられ、子供のうちに亡くなってしまうという。 ただし、双方のいいとこ取りで生まれるため、潜在能力が非常に高い。 獣人が握りしめた両の拳に、太い血管が浮かぶ。 蔑まれたと感じたのか。 反応からして事実のようだが、そんな存在が、おそらくは成人するまで生き残った事実と、正しく正体を言い当てた魔竜の洞察力にミランダは驚いた。 魔竜は、半獣人の怒りなど意にも介さず、 「どおりで強いわけだ」 無邪気な子供のように顔を輝かせ、 「おい、どうせすぐ回復するんだろ? 待ってやるから、続き、やろうじゃねえの」 半獣人の屈強な身体が全力で抵抗―――――しかしどう頑張っても、頭を上げられない。どころか。 …みしり。 今度は床が、いやな音を立てた。頑丈な造りの北部の建築物に、細かなヒビが入っていく。 ヒューゴによって踏みつけにされた獣人の頭部を中心に、放射状に。 「ヒューゴ」 ばたばたと暴れる獣人の手足が、命がけの勢いになる。 それらもまた、すさまじい力で床を破壊していくのを黙って見ているのは、ミランダにとってとてもつらい。 涙を呑んだミランダの様子を察したか、レオンが実に残念そうに言った。 「そのままだと、頭が果実のように潰れると思うが…潰してもいい相手なのか?」 青ざめたミランダが、ひゅっと息を呑む。 獣人を見下ろしたまま、ヒューゴは唇の端を上げた。悪い笑みだ。それすら、とことん絵になった。 「おっとアブナイ」 妙な棒読みで呟き、ヒューゴは聞くだけで血が凍りそうな声で尋ねた。 「お前、誰の手の者だ? オリエス皇帝を暗殺しようなんざ、ああ本当に」 ミランダが知る限り、ヒューゴは、常に明るく飄然とした印象が強い。 だがこの時ばかりは、長い歳月の重みを感じさせるような、皴深い老人めいた達観した表情でつぶやいた。 「誰も彼も懲りねえよな」 とはいえ、ヒューゴの表情以上に、ある程度予想していたとはいえ、その台詞が北部の二人には衝撃だ。 「「―――――暗殺っ!?」」

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