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幕・205 捕まえた
「オレの主は、堕天の君だ」
ヒューゴは大きく息を吐き出す。何かを理解した態度だ。
ミランダとレオンは顔を見合わせた。北部の二人にはわからないが、ヒューゴには心当たりがあるらしい。
ミランダが見ないようにしている皇帝からは、妙な威圧感が増した。
ヒューゴは困った目で一度、皇帝を一瞥。それをすぐに半獣人へ向け、尋ねた。
「…うーん、サイファはどうしてここへ報せを送るのに、君を選択したの?」
おそらくは、サイファというのが、半獣人がいう堕天の君なのだろう。
思いながらも、ミランダはすました顔で、内心、苦笑い。
言外に、やり方が不器用な部下を選んだものだ、とヒューゴは言っているわけだ。
確かに、皇帝が滞在する部屋へ、忍び込むという方法を選択するなど、考えなしというほかない。
真正面から堂々と訪問するほうが、幾分かましだったろう。
ただ、サイファという人物は、もしかするともう少しうまいやり方をする人物なのかもしれない。にもかかわらず、今抑え込まれている獣人を彼は送った。
ヒューゴの声が、心底不思議そうなのは、サイファという人物と、目の前の結果がそぐわないせいだろう。
果たして、半獣人は、威勢のいい声を放つ。
「オレが一番、足が速かったからだ!」
屈辱的な恰好であるにもかかわらず、元気いっぱいだ。
ヒューゴは明後日の方向を見て、わざとらしく耳を押さえた。
「足が速い…ふむ、そんだけ急ぎだってことか。分かった。それじゃひとまず」
ふ、とヒューゴの目からぬくもりが抜け落ちた。その手が振り降ろされる。落ちた先は、半獣人の首根っこ。直後。
ばたんっ。
獣人の、両手足から完全に力が抜けた。たちまち、しん、と廊下が静まり返る。
ミランダの顔に浮かんだ疑問に気付いたか、ヒューゴは片手を横に振った。
「あ、死んでないよ。気絶させただけだから、大丈夫。ひとまず」
前髪をかきあげ、ヒューゴは大きく息を吐き出した。
踵を返し、部屋へ戻りながら、
「レオン、ミランダ」
固唾を呑んで見守っていた北部の二人に声をかける。
「悪いけど、いったん、廊下に出て、待ってて」
待機しろと言うことは、情報を共有していくれるつもりがあるのだろう。
しかし、皇宮で起こったことの話といい、レオンはともかくミランダが聞いていい話なのだろうか。
悩む彼女が何か言う前に、ヒューゴは言葉を付け加える。
「リヒトに服を着せるから」
あ、とミランダは心持ち慌てた。
確かに、それが一番急ぎの案件だ。
ここは北部。
室内は温かさを保っているとはいえ、いつまでも半裸でいては風邪をひく。
「わかった」
「はい」
静かに頷いたレオンに、行こうと促されるまま、ミランダは素直に彼の後ろに続こうと、して。一瞬、動きを止めた。
ヒューゴの言葉が引っ掛かったのだ。
(…ん? 服を着せる?)
そういえば、先ほどは聞き流してしまったが、ヒューゴはついさっき「リヒトを浴室から先に出した」と言わなかっただろうか。それは、つまり。
ミランダは、瞬間的に腹が立ってきた。
いったい、魔竜はどこからどこまで皇帝の面倒を見ているのか。
(お風呂くらい、着替えくらい、一人でやりなさいよっ)
思わず拳を握り、後ろを振り返る、途中。
―――――トサッ。
耳に、衣擦れの音が届く。
え、と音がしたほうを振り向いた刹那。視界を、見慣れた影が横切った。
動きを止めたミランダの目に映ったのは、床に落ちた彼女の防寒着。それは、ついてきていた侍女が持っていたはずだ。
では室内に、侍女が入ってきたのか。だが、いつ?
半獣人の攻撃に面食らって、廊下で座り込んでいた彼女の姿がミランダの脳裏をよぎった。
侍女の動きにまったく気づかなかった。
彼女はどこに、と先ほど視界を横切った影の行方を追えば。
侍女が、皇帝めがけて駆けていくところだった。その横顔には不自然なほど表情がなく。彼女の手には。
―――――きらめく刃。切っ先は、皇帝の身体に向いている。
その光景を目にしたというのに。
…いったい何が起きているのか。すぐには理解が追い付かない。
完全に硬直したミランダの視線の先で。
皇帝が、侍女の姿を見やった。
動じるどころか、路傍の石でも見やる表情―――――相手に何の価値も感じていない態度だ。剣を握る皇帝の腕に、刹那、力が入った。
だめだ。
侍女を殺されるわけにはいかない。それ以上に、皇帝を傷つけさせるわけにはいかない。
ミランダが責に問われるかもしれない、そんなことよりも、目の前で誰かが血を流すことが、ミランダは嫌だった。
思ったときには、ミランダの身体が翻っている。
「ミランダ!」
咄嗟に動きを追ったレオンの腕が、ミランダの身体を引き留めた。
おそらく、このとき引き留められていなければ、侍女をかばって、彼女の身体は、皇帝の剣によって斬られていただろう。
そこまで考える間もなく。
「―――――おいおいおい」
不敵なヒューゴの声が聞こえた、と思うなり。
―――――パンッ!
何かを叩き付けるような音がした。
わずかに遅れて、ぱたぱたっと何か雫が床に散る音。
気づけば、皇帝の前に魔竜が立ちはだかっている。
その掌の中央に、―――――短剣が突き立っていた。
皇帝を庇ったヒューゴが、広げた掌を、自分から刃にもっていったのだ。平手で叩くように。
短剣を両手で掴んだ侍女は、それでもまだ、体重をかけて押し込もうとしている。侍女は瞬き一つしない。
ミランダの鼻先に、わずかに血の匂いが掠めた。魔竜の血が流れたのだ。
ヒューゴと、様子のおかしい侍女以外、全員の顔色が変わった。刹那。
「ソレ、どこで何を拾ってきたのかな?」
痛みなど感じないかのように、魔竜は短剣の刃の根元まで掌を貫かせ、その向こうで柄を握る侍女の小さな拳をぐっとつかんだ。
はっとした彼女が、跳ねるように離れようとしたところで、
「捕まえた」
魔竜がニッと笑う。
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