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幕・206 最強の呪文

ところが、刹那、ヒューゴの背後で。 「消え失せろ」 ―――――身体の芯が凍えさせる声が、聴こえた。 おそらくこれは、刃で魔竜の身を貫いた侍女に向けたもの。 完全に殺意でできたその声は、聴き間違えるはずもない。皇帝のものだ。ミランダとレオンはすぐ察した。 いやこれは、殺意どころではない。死の気配、そのものだ。 それは、聴く者を、完全に絶望させる声だった。 ミランダ自身すら、聴くなり、もう殺されてしまった、と見当違いの思い込みに力が抜けそうになる。 咄嗟に、胸の内を占めたにのは、諦めだけだった。 ミランダを引き留めるために支えていたレオンの腕がなければ、彼女は座り込んでいただろう。 なんにしろ、確信した。もうだめだ。侍女は殺される。誰も止められない。刹那。 いっとき、面食らったヒューゴが、たちまち、必死の形相になる。 頼れるのはもう、彼しかいない。 すがるようにミランダが見た先で、ヒューゴは切羽詰まった様子で、口を開いた。叫ぶ。 「リヒト好き好き大好き愛してる!!」 ―――――これは異国の呪文か何かだろうか? あまりに突拍子もなさ過ぎて、真面目に思った直後に意味を理解。呆気にとられる間もなく。 皇帝が放っていた死の気配が嘘のように霧散した。 ミランダは愕然となる。二重の意味で。 救いを求めるように見上げたレオンは一気に深刻な難しい顔になった。 言葉をなくした北部二人組の前で。 ヒューゴは、よっしゃ通った、という表情になる。今のうちに、と侍女を見下ろした。たちまち真剣な顔になる。 「これは…呪詛か」 呟きと同時に、刃で貫かれた掌にわずかに力がこもる。侍女の拳を掴む手に力を込めた。同時に。 「―――――…ぁっ」 がくんっ、侍女の身体がのけぞった。刹那、その背、肩甲骨の間から。 虹色の被膜に覆われた黒い球体が飛び出す。 ミランダは一瞬、侍女の体内からそれが飛び出したのかと思った。だが。 (服が破れた様子もないし、怪我をした感じもない) ではあれは、物体ではない、…のだろうか? 見守るミランダの前で、侍女がその場に頽れた。同時に、魔竜の掌から刃が抜ける。 流れる血を気に留めた様子もなく、怪我をした手を前方へ伸ばし、 「呪詛ならリヒトの神聖力で枯れると思ったんだけど、これは」 床に落ちる前に黒い球体をつかんだヒューゴは、皇帝を振り返った。 彼にそれを示しながら、感嘆した声で告げる。 「神聖力を無効化する結界で包んでるみたい」 「結界だと?」 細かな棘が生えた皇帝の声を聴きながら、ミランダはおそるおそる口を挟んだ。 「ですが、魔力であったなら、陛下の神聖力で無効化されるはずでは」 「いい質問だね」 ヒューゴは声を弾ませた。 「つまり、この結界を構成したのは、魔力じゃないんだよ」 「まさか」 皇帝が気に食わないものを見る目で、ヒューゴの手の内の黒い球体を見やる。 「…精霊か」 「ご明察。…考えたもんだ」 ヒューゴの声に、感心がにじむのも無理はない。ミランダも驚いた。 神聖力が通じないようにする、という発想自体が、人間にとっては珍しい。 神に通じるありがたいものである以上、それを打ち消そうなどとは本来、誰も思わない。 悪魔から見れば、単純に、防ぎようがないから逃げるほかないと考えるわけだが。 ―――――精霊の結界とは。 魔力と、精霊の力は、基本的なところが違う。 魔力が魔素を加工し、形にするものであるなら、精霊の力は、自然界の力そのものだ。 何を考えているのか、ヒューゴの目が考え深げな深い色に染まる。 「なんにしたって、ここで精霊の力がかかわってるなんて…ならその精霊は」 精霊王、なのだろうか。 ミランダは不安な気持ちで呟いた。とたん、 「ふん」 皇帝が鼻を鳴らす。 ヒューゴの手の内を見やり、どこまでも傲慢な態度で言った。 「面白い」 見下す眼差しを黒い球体へ向け、ごく無造作にそれを指さす。 「その結界が、どこまでの神聖力に耐えられるものか、見ものだな」 「あ、ちょっと待っ」 ぎょっとしたヒューゴが、それを身体から引き離すように腕を伸ばす間もあったかどうか。 突如、ミランダの視界を、ひかりが真っ白に染めた。 おそらく実際は、何の変化もなかったはず。ミランダがそう感じただけの話。 ただそれが息も詰まるような衝撃をミランダに与え、頭を思い切り固いものに叩き付けられたような感覚に、脳が揺らいだ。 立っていられず、ミランダはその場に座り込む。 その隣で、誰かが膝をつくのが分かった。 朦朧としたまま視線を向ければ。 蒼白になったレオンが、額に脂汗を浮かべ、辛そうな表情でミランダを見返した。 「…大丈夫か」 低く苦しそうな声で尋ねられ、ミランダはどうにか頷く。おそらくはこれが、 (皇帝の神聖力…) こんなものを、皇宮の人間は毎日浴びているというのか。たまったものではない。 ミランダが思うなり。 「―――――ぅ、くっ」 誰かが苦痛に呻く声が、室内に響いた。 身体に残る衝撃に耐えながら、のろのろとミランダが顔を上げれば。 「…リヒト、この、待てって、言ったのに…」 ぐったりした様子でつぶやいた、ヒューゴの、黒い球体を持っていた手首から先が。 ―――――骨だけになっていた。 しゅうしゅうと白い煙が立っているのは、その骨すら溶けようとしているからだろうか。 それを冷静に見遣った皇帝が、 「…ふむ」 満足そうに続けた。 「これで、他人がつけた傷は消えたな」 聴くなり、ミランダは内心、引いた。つまり皇帝は、わざと魔竜を傷つけたのだ。 とはいえ、悪魔にとって、神聖力は致命的な力だ。 今ので、肉体すべてが消滅しなかっただけでも、たいしたものだと言える。 「いくら変わろうと、ヒューゴには、神聖力が有効なようだ」 この時には、ヒューゴが持っていた黒い球体も消滅していた。つまり。 皇帝の神聖力は、精霊の結界すら破壊したのだ。 痛みに震える魔竜が、一瞬目を瞠った。直後。 「なんで、こんなこと…」 言いさしたヒューゴは、途中で言葉を止める。ゆるく首を横に振った。 「なんだ」 「なんでもない」 皇帝の問いかけに、わずかにうつむいたヒューゴの目尻に、じわり、涙が浮かぶ。 彼に近寄り、その頬へ手を伸ばした皇帝の黄金の目が、じろりとミランダたちを見やった。 「呼ぶまで外に出ていろ。それを連れていけ」 その眼光の鋭さを何に例えればいいのか。 即座に皇帝の命令に従わなければ、おそらく瞬く間にミランダたちの命は消えるだろう。 そう確信させる、あまりの危機感に、ミランダの力が入らなかった足に、たちまち血が巡る。 レオンも同様だったろう。 「はい」 短く鋭い返事をして、ミランダは気絶した侍女に駆け寄った。 レオンが、自分がやると言い出す隙も与えず、あっさり抱き上げる。お姫様抱っこだ。 女性一人を軽々抱き上げ、ミランダはしとやかに踵を返した。 「行きましょう」 早口にレオンへ声をかけ、小走りに廊下へ。 あまりの危機感に鳥肌立った全身が、レオンと共に廊下へ出るなり、不意に収まった。 おそるおそる振り向けば。 「…うそでしょぉ」 扉は元通りになっている。慌てて足元を見下ろせば、散らばっていた扉の破片もない。 「修復魔法だな」 レオンが感心したように言う。 「これ魔法なの?」 では魔竜が、あの状態で頑張ってくれたのか。 思わず大きな声を上げたミランダは、慌てて口元を押さえた。足元を見下ろす。 半獣人が、倒れたままだったことを思い出した。だが。 ミランダは、半獣人を映した目を瞬かせる。 「…人間、ね?」 気絶したためか、その姿は、ごく普通の人間だった。これがもとの姿なのだろうか? 無防備にのぞき込もうとしたミランダを、レオンが寸前で押しとどめる。 「効果があるかどうかわからないが、ひとまず拘束しておく」 「あ…分かったわ」 自身の無防備さを反省しながら、そちらはレオンに任せ、お姫様抱っこしていた侍女を、そっと廊下におろす。 壁にもたれかからせた。 そこまでしたところで。 「何がありましたか」 「ずいぶん大きな音がしましたが」 騎士が数名、駆けつけてくる。レオンが据わった目になり、一言。 「遅い」 だがそれは、酷な話だろう。 皇帝には魔竜がついており、基本的に彼らの周辺は人払いがされている。皇帝が他者の気配を煩わしいと言うからだ。 なにより、皇帝の強烈な神聖力にあてられる人間が出てくるからだ。 それはおそらく、皇都においても同じであることは、駆けつけた騎士は北部の者ばかりだということからもわかる。 この手の騒動は、皇都において日常茶飯事であり、心配するほどのことではないという証拠だ。 そう、皇帝のそばには魔竜がいるのだから。 だがここは北部。 「一応、警備の見直しは必要ね」 立ち上がったミランダは、意識の戻らない侍女を見下ろし、ため息をつく。 「この子は処罰されるかしら」 ひいては、主であるミランダも。レオンは言いにくそうに告げた。 「…陛下次第だな」 重い気分でミランダが頷くと同時に。 皇帝の部屋の扉が内側から開いた。

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