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幕・207 いつかはなくなってしまう

× × × 魔竜は甘ったれである。 自他ともに認める上位の悪魔にもかかわらず、堂々と。 隠していないのだから、少しでも彼に関わった者は、すぐそれに気づくだろう。 だが魔竜が甘ったれたいと思う相手は限られていた。 「失敗した…ジョシュアに怒られた…」 夜、北部で皇帝に用意された寝台の上。 もう部屋の中に、ヒューゴとリヒト以外はいない。 あとは二人きりの時間だ。 安心しきったヒューゴは、夜着を着た彼の胸に顔をうずめながら、落ち込んだ声をこぼす。 「少し考えればわかったことなのに…そうだよね、皇宮であった捕虜の異形化事件なんて、簡単に口外していいことじゃなかったよね」 絶対に甘やかしてくれる相手を前に、ひとしきり反省中だった。 騒ぎの後、ウォルターと共に、おっとり刀でやってきたジョシュアは―――――書類仕事が終わったらすぐに寝るつもりだったのだろう、くつろいだ格好をしていた―――――取り急ぎ羽織った上着の前を掻き合わせながら、事情を聴くや否や、こめかみを押さえ、深く長く息を吐き出した。 そして、続いたのは厳しい一言。 ―――――その件は極秘事項です。 さもありなん、皇帝陛下のおわす皇宮で、捕虜が異形化するなど、つけ入ろうとするものは多いのだ、知っている貴族にも騎士にも箝口令は敷かれている。むろん、中には子供もいたのだ。完全に秘匿することはできないが、おおっぴらに教えていいものではない。 もしかすると、うっかり情報を漏らしていた魔塔の塔主やサイファも、ヒューゴの知らないところで、口止めされている可能性があった。 リヒトがその話を知らなかった以上、おそらくは、リュクスあたりに。 頭ごなしに叱りつけることはしないが、懇切丁寧に説明する彼の言葉に、事態を理解したヒューゴは素直に罪悪感を抱いてしゅんとなる。 逆に、ヒューゴがそうだからこそ、ジョシュアもそうキツいお灸をすえることはできないのだろう。 それ以上に。 「誰が、ヒューゴに怒った、だと?」 ヒューゴに対する言動には、配慮する必要がある。 「好みの始末方法はあるか? 望みを言え」 皇帝陛下の、彼に対する甘さが底抜けのためだ。 ゆえに、ジョシュアの小言は長引かなかった。 たとえヒューゴが悪くても、彼が落ち込めばその要因の方を排除しようとする。 つまりヒューゴは、うっかり反省や後悔をリヒトの前で口に出してはいけない。 そのうっかりを発動させたヒューゴは、さくっと表情と口調を切り替えた。 「みんなよくしてくれるから悪魔としては心苦しいくらいなんだ、つまり始末したいなんて考えてないよ…ないからねっ」 有能な人間をゴロゴロ殺されては国が成り立たない。 「ならばいいが。僕は皇帝だ、望むならいつでも言うといい」 (なんで怖い方向の望みばかりウェルカムなの…) こんな皇帝に平気で物申せるリュクスは、本当に貴重な存在だった。 ヒューゴは慌てて付け加える。 「それに、聴いたのがミランダとレオンなら、問題はないってことになったんだし、致命的な失敗にならなくてすんでよかった」 リヒトは考え深げに言った。 「…ふん、あのヴァレシュの小娘だが」 ミランダのことになると、きわめて声が冷える。 ヒューゴですら、ちょっと凍えそうになった。 「ガードナー家の騎士位を一年前に得ているな」 「そうなの? すごいじゃないか」 はじめて聞いたヒューゴは、大きく見張った目でリヒトを見上げた。 印象的な濃紺の瞳が、きらきらっと輝く。見下ろしたリヒトは、無言で目を細めた。 その眼差しに、ヒューゴは不意に、妙な既視感を覚える。 ヒューゴに触れたくて触れたくてたまらないのに、触れられない、我慢しすぎて狂いそうな―――――そんなリヒトの顔を、いつだったか見たことがある気がしたのだ。 一度瞬きするなり、その感覚は、まるで砂粒のように崩れて消えたけれど。 妙に、生々しい感覚だった。 だがしょっちゅう触れ合っているのだ、そんな顔をリヒトがする理由がない。 (北部に来て、…ちょっと、俺、落ち込んでるせいかな) 知り合いに、…辺境伯に、死が近づいているのだ。しかも大好きな相手だ。 なのに、彼はヒューゴに何もさせてくれない。ただ見ていろと言う。 ヒューゴには、どうにかする方法があるのに。人間として、人間らしく死なせてくれ、と彼は言う。 それは当たり前の事なのに、ヒューゴは突き放された気がした。 寂しくて、ヒューゴはどうしてもリヒトに甘えかかってしまう。 この腕も、いつかはなくなってしまうものだと知っていながら。 そんなリヒトは、どうやら興味なさげな割に、ヒューゴ以上に北部事情に詳しい。 気に食わない相手だろうと、きちんと見てくれているようだ。 いつものことだが、やはりリヒトは、為政者としてきちんと平等だ。 おかしくなるのは、ヒューゴに対してだけで。 「騎士かあ…ミランダ卿って呼ぶべきなのかな…」 確か、ヴァレシュ王家の血筋は身体能力が優れていたはず。 オリエス皇族の子供の精神的な成長が速いのと似た特異性なのだろう。 だとしても、ミランダは女性だ。しかも、敵対していたヴァレシュ神国の王族の血を引く娘である。存在を認めてもらうことに相当苦労しただろうし、その上で、騎士とは。 かなりの努力や犠牲を払ったことは間違いない。 「ああ、そっか、だからか」 「そうだ、ゆえに」 気に食わないが、認めざるを得ない、という、珍しく不貞腐れた表情で、リヒト。 「ガードナー家の、重要な案件も…任されて、いるのだ」 言葉途中で、わずかにリヒトの息がはねた。 それも仕方がない。 ヒューゴの手が、ずっと胸の肉粒を弄っているからだ。 そして時に吸い上げ、甘いものを味わうように舌先で舐っている。 先日来の、思い切りかみつきたくなる衝動を我慢して。 (そうだよな、騎士になったんだったらもうそれだけの信頼があるってことで) たしかに、いかに王族出身とはいえ、ただの客人扱いの相手に、家門に関わる重要な仕事は回ってこない。 「だから、ジョシュアも彼女に情報が漏れたことに対して、それほど文句を言わなかったんだね」 既に積み重ねられた信頼があるのだ。 レオンとミランダに対する信頼から、ジョシュアは彼らに口止めすることだけで、ヒューゴの情報の漏洩を許してくれた。 これが他だったら、ジョシュアのヒューゴに対する信頼はもっと下がっていたはずだ。 今回は、北部の二人に救われた格好だ。反省しきりである。

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