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幕・210 一部であって、全体ではない
「そうか」
対するリヒトの態度は素っ気ない。
ジョシュアがちらと視線を向けたが、何も言わなかった。
皆、ミランダの懊悩に気付いてはいるだろう。
ただ、個人の心に無関心では足元を掬われるが、ひとつひとつに足を取られていては、国は回せない。
「罰は追って伝えよう」
ミランダの行いをそれぞれがどう感じたにせよ、確かに罰は必要だった。
出自がどうあれ、今や彼女はガードナー家、ひいてはオリエス帝国に所属している。
しかも栄えある北部の騎士だ。
である以上、オリエス帝国の害となるかもしれない存在を見逃したことは罪となる。
それは覚悟していたのだろう。
顔を上げたミランダは、儚げな面立ちに真剣な表情を浮かべ、言い訳もなく神妙に頷いた。
「はい」
リヒトは冷静に付け加える。
「今は仕事に励め」
この状況下で、有能な人間に、戦力外通知を出すわけにはいかなかった。
ミランダが苦しげな表情を浮かべる。
「…ですが、わたくしは」
「皇帝命令です、ミランダ・ギーツェン卿」
すかさず、ジョシュアが口を挟んだ。ミランダはぐっと言葉を飲み込む。
彼女とて、望んで皇帝の逆鱗に触れたいわけではない。
おそらく、ミランダには自信がないのだろう。
相手を目の前にすれば―――――また見逃してしまうかもしれない。
そうしてしまうかもしれない可能性が、彼女の中にはあるのだ。
それはミランダの強さであり、同時に弱さだった。
乗り越えるべき試練としては、目の前の条件はあまりに過酷。
これこそが罰と言えなくもない。だが。
「承りました」
決然とした表情で、彼女は淑やかに頭を下げた。
できるだけ手助けしてあげたいが、問題は彼女の内面である以上、自身で乗り越えるほかないのが悩ましいところだ。
ちらとレオンを見遣れば、どこか悔しそうな表情をしている。
ウォルターは平然としているが、単純に、よくわかっていないだけだろう。それにしたって。
(北部の神殿が、ここまできな臭いなんてね)
思い出すのは、何年か前に起きた、地方貴族の粛正だ。
その時、ガードナー家がおさめる北部は、粛正のための調査から省かれた。
それが悪いと言いたいわけではない。
実際、ガードナー家は上手に領地を治めている。
だが、どこにでも当たり前になった習慣というものがあり、習慣となったものは日常生活に溶け込み、善し悪しの疑問を抱かなくなるものだ。結果、その判断は、外部の者でなければ正しく下せないものというのがあったりする。
政治と神殿は、オリエス帝国において、時に手を取り合いながらも、互いの領域には干渉しすぎないように配慮してきた。
北部では、その傾向が他より強いのだ。
結果、神殿の情報はガードナー家にはない。神官の総数すら不明であり、わかるのは主要な役職についた者だけであった。極めつけは、神聖な場所だということで内部には部外者立ち入り禁止となっており、敷地内の構成すら詳細は不明だという。
要するに、北部の神殿には秘密が多すぎる。
(代々そうだったみたいだから、これは慣習ってやつで…なら余計、外部の目から見ないと『おかしい』ってわからない類だよな)
海の内側から、海の全容は見られないのと同じだ。
(まあ、明日抜き打ちで神殿に行くんなら、その時何かわかるだろ)
同時に、何が起こるかわからないということだ。気を引き締めた、その時。
「ヒューゴ…っ」
なにやら、たまりかねたように、身体の下にいるリヒトが声を上げた。
呼ばれて目を向けたヒューゴを、リヒトは涙目で睨み、押し殺した声で言う。
「も、しつ、こい!」
―――――そういえばヒューゴの手はずっと、リヒトの尻を揉み解していた。左右に割り開いたかと思うと、交互に上下させ、こね回す。
考え込んでいる最中にも動きが止まらないとは、ヒューゴも筋金入りだ。
そのくせ、まだ足りないからあとちょっとだけ、とおねだりしようとするなり。
ぐるん、視界が回った。
あ、と思った時には、ヒューゴはベッドの天蓋を見上げている。
気づけば、リヒトに押し倒される格好になっていた。
この時にはさすがに、ヒューゴの手はリヒトから離れ、ベッドのシーツを掴んでいる。
室内はほとんど闇で、カーテンから差し込む月光だけが唯一の明かり中―――――それでも闇をも見通すヒューゴの目に、リヒトの姿はくっきりと映った。
夜着の前をわずかにはだけ、堂々とヒューゴにまたがり、欲情に潤んではいるものの、強い眼差しで見下ろしてくるその姿は。
子供のような顔でリヒトを見上げ、惚れ惚れしながらヒューゴは眩しそうに微笑んだ。
「リヒトはきれいだなあ」
よく言うから、口癖かそれは、と呆れられたことがあるけれど、本音だ。
いつだって真剣に、ヒューゴはそう感じている。とたん。
リヒトは、ふっと目を細めた。
「僕は」
感情の読めない無表情からは、リヒトが考えはわからない。
ただ、彼の目はひどく真剣で。
「僕が、この世で見たすべてのものの中で」
リヒトが手を伸ばし、指先で、ヒューゴの頬にかかった黒髪を整える。
「ヒューゴが一番、きれいだと思う」
…リヒトの、こういう言葉には、いつも戸惑ってしまう。
聞き流すか素直に喜べばいいのに、何かひっかかりを覚えるのは、ヒューゴの劣等感のせいだろう。
ヒューゴは悪魔だ。
生まれ落ちたその時から醜い。
生みの母をその場で殺した生き様もまた、美しさとは正反対の行いである。
…どこまでも、汚い。
暗く沈んだ気持ちが、束の間、ヒューゴを攫った。刹那。
―――――そうよ、わたしに愛される資格なんてない。愛する資格もない。
ミサキの暗い声が、ヒューゴの脳裏にこだまする。
いつだったか、聴こえなかった言葉すら、はっきりと。
ぎくりと身が固まる。
気持ちをいっきに持っていかれた。それでも、どうにかぎりぎり踏みとどまったのは。
(違う、これはミサキじゃない)
―――――もう、二度と生きたくない。
(彼女は、完全に消えた)
泣きながら死んだ彼女は、微笑んでヒューゴの中に消えた。
これはミサキの一面、それは否定できない。ただ、一面であって、全体ではない。
ミサキには、嫉妬深く陰気なところもあったが、別の面では気が利くしっかり者で、舞台の裏役的フォローがうまかった。
表面に出て華やかに活躍するタイプではなく、見過ごすものも多いが、いなくなってはじめて存在感を感じさせる人間と言うべきか。
そんな彼女が、死の間際。
どうしても抑えきれず、吐き出した、―――――怨念ともいえる感情。
それが、この世界にまで引きずられてきた、ということだろうが。
ミサキは消えたのに、これはまだ残っているとでもいうのだろうか。疑問に思ったが。
ふと、あることを思い出す。
…消滅するとき、ミサキは何と言っていた?
―――――あれが今も世界を漂ってるなんてどんな拷問だっての。
あの時出会ったミサキは、とても寛いで、穏やかだった。
死後、ヒューゴとして過ごしてからの年輪も感じさせたあのミサキと比べ、この怨念は確かに、ひどく若い。幼いといってもいい。
これは、遠い遠い過去のもの。
化石と言ってもいい。
その差が見えて、ようやく。
ヒューゴの中に冷静さが戻ってくる。
目をそらし、逃げようとしたそこに、はじめて、じっくりと眼差しを据えた。
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