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幕・211 素直に受け取れない
ならばこれはもう、ミサキ自身の、…ヒューゴの感情とは違う。まったくの別物だ。
完全に理解した目で、よくよく見れば。
内側、身体の奥底から湧き上がってきていると感じていたそれは。
(…? なんだ、これ)
『外側』の何かと、細い糸でつながっていた。面食らい、ヒューゴはそれを見上げる。
ヒューゴの内側で、否定的な負の感情が強くなった時、姿を現すのだろうか? ヒューゴが冷静になった今はもう、消えようとしている。
(待て待て、これは…どこから来ているんだ? どこへつながる?)
ふっと、自然と行方を追った、とたん。
―――――トプン。
水に沈むに似た感覚で、ヒューゴの意識だけが、闇の中に落ちる。
そこは彼にとって、いや、悪魔にとっては、心地よい場所。
周囲に蠢くこれは紛れもなく―――――呪詛だ。だが。
(やば…っ)
ヒューゴは慌てて距離を取ろうと動く。しかし、遅かった。
簡単には、抜け出せそうにない。と分かれば、すぐ気持ちを切り替える。
うっかりそのど真ん中に飛び込んだのはヒューゴだ。仕方がない。
もちろん、この場でヒューゴは消滅したりなどしない。
むしろ、元気いっぱいになるだろう。
彼は、悪魔なのだから。問題は。
その、あと。
想像だけで、癇癪を起こしそうになった。
気分としては、地団駄踏みながら叫ぶ。
(リヒトと一緒にいられなくなるのは、やだやだ イ ヤ だ っ)
うっかり呪詛を食えば、リヒトと一緒にいるヒューゴは死んでしまう可能性がある。
なにせ、リヒトはヒューゴを―――――と考えたところで、また暗い気持ちになった。
ヒューゴはリヒトに気持ちが返せないからだ。
返していいとは思えない。それに。
リヒトの感情を、素直に受け取れない理由がヒューゴにはあった。
この、人間の姿は、仮のものにすぎない。
本当のヒューゴではない。
竜の姿とて、違う。
それらに隠れてしまった、生まれたばかりの頃の自身の姿―――――あれが、ヒューゴの真実だ。
あれを知っても、リヒトはヒューゴを好きだというだろうか。そう、考えれば。
きれいだ、とか、格好いいとか言われても、逆に、落ち込んでしまう。胃のあたりが冷たくなって。
…今までも、時々不思議に思っていたことがある。
なぜ、リヒトは。
(最初から、悪魔の俺をあれだけ受け入れられたんだ?)
確かに、リヒトはヒューゴを縛った。
だが、―――――そばにいること。
それ以外を、リヒトがヒューゴに強要したことはない。
人間の、悪魔に対する考えからすれば、破格の扱いだ。その上、前例のない受け入れ方だった。
こんな風に縛っておいて、そのくせ、封印はしないというのは、考えられないことだ。
リヒトはヒューゴの使役すら望まなかった。
大抵のことは、ヒューゴの好きにさせたといってもいい。
不思議に思っていても、今までは、…まあどうでもいいか、と思っていた。
正直、特に理由を知らなくても、問題はなかったからだ。
その気持ちが、事ここに至って、ようやく翻る。
(理由を、聞いてみようかなあ)
そのためには、無事に戻らないと。とはいえ。
この場であと少し、探れることがあるかもしれない。
冷静になったヒューゴは、呪詛の影響を受けないよう、結界を張った。ミサキの怨嗟の声も遠くなる。
とたん、失敗したな、と臍を噛んだ。
あれだけは完膚なきまでに消し去るべきだった。
周囲が、これだけ呪詛で満ちていたら、もう探し出すことは困難だ。
だがいずれ、またヒューゴとつながることもあるだろう。その時は必ず、と心に決めて、顔を上げた。
とにかく状況を把握しなければ。
(それにしたって、こんな呪詛の塊…人間なら、近くにいるだけで頭がおかしくなるぞ)
いったいここはどこだ。
ヒューゴが呪詛の外へ意識を向け、顔を巡らせた時。
ヒューゴが沈み込んだまっくろな呪詛の前に―――――一人の少年が見えた。
十歳ほどだろうか。
明るい金髪に、碧眼。
神官見習いの簡素な服を着ていても、華やかな外見の少年だ。
愛くるしい顔立ちは今、こちらを見つめながら、悲しげに曇っていた。
ああ、と彼は苦しげに息をもらす。
「大丈夫だよ、心配しなくていい。どうあっても、お前が安心して過ごせる世界を作ってみせるから」
彼は、ひどく疲れて見えた。
年相応の夢や希望に満ちた表情はない。
同じ言葉を擦り切れるまで何度も繰り返したような、老人めいた憔悴が幼い顔立ちに浮かぶ。
その様子が、外見から考えればあまりにもアンバランスで、違和感が生じた。
(なんだ? この子…見た目通りの年齢じゃないな。となれば)
人間、ではない。
(じゃあ、『何』だろう)
考えながらじっと見つめ、耳を澄ませた。
「そのためにも、皇帝の息の根を止める。…だから、仕掛けの結果を確かめなきゃ」
たちまち、リヒトの意識が、すっと冷める。
一瞬で、判断した。
ああ、これは、始末しないと。
リヒトの危険につながるすべては、事前に断ち切っておくに限る。
相手の事情などどうだっていい。
すべては、ヒューゴの心の安寧のために。
幸い、殺意は、呪詛の中に紛れて消えたようだ。
少年は、無防備に身を乗り出す。
こちらを覗き込んできた。
「こういう時、子供の外見は便利だね。みんな、油断する」
相手の近さに、とたん、呪詛が蠢く。
―――――赤子のように、何の理由もない喜びに、無邪気に。
ただ、呪詛というのは。
もともとは人間の感情だ。投げ出された、負の感情。
それぞれの怨嗟を吐き出しながら、いくつもの無差別な方向を向いたそれらが、いっせいに少年に集中し、また叫びだす感覚は、人間にとっては、おぞましいの一言だ。
ただ、地獄で過ごした経験のある者から見れば、成犬を知っている以上、子犬の威嚇を見ているに過ぎない感覚なのだが。
それを感じながら、ヒューゴは見えた光景に、眉をひそめた。
少年の紺碧の瞳に映っていたのは。
今にも腐り落ちそうな肉体の、…包帯だらけの、少女の姿。
埃だらけのくすんだ金髪。
溶け落ちた唇、前歯がむき出しの口元。
やせこけ、泥のように変色した肌に、形ばかりに、美しいドレスが着せられている。
大切にされているとは思えない。
むしろ、捨てたくても捨てられないお荷物のような扱いを受けていると察せられた。
だいたい、生きているのか。死んでいるのか。それすら、すぐには判別がつかなかった。
いや、先ほどから聴こえる、ヒューヒューと空洞を風が掠めるような音が、少女の呼吸音なのだろうか。ならば生きている、と言えるだろうが…。
(なんだ、これは)
ヒューゴから見れば、目の前の少年が、悪趣味な一人遊びに興じているように映る。
なのに、少年はと言えば、宝物でも見るような目で少女を映し、切々と語りかけるのだ。
「終わったら、この国を離れよう。どこがいい? 今度は暖かい南がいいかな」
そこへ、突如、惚けた声が割って入った。
「やぁ、ここにいたのか。飽きないね」
ふらり、身を投げ出すように室内を覗き込み、にやり、笑ったのは。
「外へ出てみてみなよ。夜のガードナー城っていうのは、豪奢だよ、昼間と違って」
(キリアン・デズモンド!)
ヒューゴは、息を呑んだ。
茶髪。黒目。やせぎすの身体。
あの日皇宮で見た、人造人間とそっくり同じ容姿。
ではこの男は、自身そっくりの人造人間をつくり、死地へ送り込んだわけだ。いろいろな意味で悪趣味な男である。
少年は彼を冷めた目で振り返った。
「そこで止まれ」
「言われなくとも。こんな汚物が転がってる部屋に、誰が」
キリアンは肩を竦め、わざとらしく鼻をつまんだ。
少年は、理解できないという顔になる。
「汚物が、いったいどこにあるというんだ」
対照的に、少女の胸の内には、ひどい傷がついた。ただしそれにはヒューゴ以外、誰も気付かない。
やれやれと言いたげに、キリアンは首を横に振る。
「そうだったね。とにかく、ぐずぐずしてる暇ないよ。やることは多いんだ。妹ちゃんとの時間なんて、今までいくらだってあったでしょ」
「君にはわからないだろうね」
仕方なさそうに、ため息を吐く少年。
それでも、立ち上がった。
「いくらあっても足りない」
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