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幕・212 行かないで

少年が背を向けた、その時。 少女の姿の中に納まった呪詛が―――――金切り声を上げた。だが、声は出ない。 先ほど少年の目に映った姿をよくよく思い出せば、彼女の喉には。 切り裂かれた、痕があった。 意図的に、喉を潰されたのだ。…声が出ないように。 ならば、これほど、気持ちで追いかけているのに、動かない、のは。 (動けないように、されてる、のか?) それはいったい、どういう拷問だろう。 ヒューゴの意識が沈んだ、呪詛の中、周囲のそれらが少年との名残を惜しみ、または癇癪を起こし、またはここにいろと声高に命じる。その、中で。 か細い悲鳴が迸った。 ―――――行かないで、行かないで、行かないで! 紛れもない、これこそが、肉体の持ち主、少女本人の声だ。 少女は、たった今、捨てられるかのような勢いで、気持ちだけで必死に追いすがる。 驚くべきことに、この、呪詛の塊を身体の中に収めながら、彼女にはまだ意識があるのだ。 この少女はまだ、傷つくこともあれば、絶望することもある。 絶望するということは、まだ彼女は希望を持っているということ。 それを考えれば、希望とは残酷な代物だ。 しかし、こんな冒涜的な姿にされた、少女の希望とは何だろう? そばにいてくれと願うほど、兄である少年を慕っているのだろうか。 行かないで―――――…その言葉だけを聞けば、そう思ったかもしれない。 だが、彼女が胸の内で響かせた、悲鳴は。 ―――――行かないで、私を、―――――殺して。 聞くに堪えない凄惨な響きを宿していた。 ―――――殺して殺して殺して殺して殺して… 汚いものを投げつけるように、延々と続く、命を絶ってくれと願う声は、少年が消えるなり、やがて、疲れ果てて消えてしまう。 これはまさしく、呪詛の塊、怨嗟そのものというべき存在だった。なによりも。 少女自身が、既にその一部と化している。 そのくせ、ぐっと奥へ隠れようとする動きを感じ、ヒューゴは咄嗟に追いすがった。 いったい何が彼女に起こったのか、事情を探ろうと思ったのだ。 翻った服の裾を掴むように、少女の意識の端っこを、ヒューゴが掴むなり。 ヒューゴは少女の記憶を見た。 少年と彼女は、兄妹だった。 ただし、口減らしのため、幼いころ両親に捨てられたようだ。 そして流れ着いたのが、皇都の路地裏。 見えた記憶の光景から、それが随分昔の時代だとヒューゴは理解した。 何百年前だろうか、人々が来ている古い衣服からして、ずっと昔のオリエス帝国のようだ。 兄妹二人が、路地裏で身を寄せ合って生きていた期間は、半年も、あったかどうか。 そのころ、時折、貴族や警邏隊が、路地裏の浮浪者たちを、狩りと称し、遊び半分で殺して回る遊びが流行ったらしい。 二人はそのたび、必死に逃げた。 それがもう、何度繰り返されただろう。 獲物にされた幾度目かの夜。 逃げきれなかった妹が死んだ。いや、死にかけた。 何の憐憫も感じられない遊び半分の刃で、必死に逃げる背を切り裂かれた。兄の目の前で。 自身も危険な目にあいながら、それでも傷ついた妹を背負い、逃げた兄は、夜明け前、どうにか安全なところへたどり着いた。にもかかわらず。 妹に死が近いことを悟った。 それでも手を差し伸べてくれる人は一人もいなかった。 彼にできることは何もなく―――――ただ彼は、この世のすべてを呪った。 本来なら、力のない彼らは、なすすべもなく、そのままそこで、二人揃って果てたはずだ。 しかしこの時、そんな兄の感情に、呼応したものがある。 ―――――呪詛だ。怨嗟だ。 かつて、それはそこかしこの道端に溢れていた。 政の光が届かない、目の行き届かない、こんな暗い路地裏では特に。 その頃皇都で、いったい、幾人の命が、無念に散ったことか。 太陽たるオリエス帝国皇帝の威光は、かつて、表通りにしか適応されなかった。 皇帝の威光が遍く行き渡るよう、街並みを変え、人の身には危険な呪詛を一掃する措置が整ったのは、つい二百年ほど前のこと。 それまでは、道端の暗がりに当たり前のように死体や怨念が転がっていたわけだ。 疫病が流行り、人の心が負に傾きやすくなるのは、当然の事だったろう。 そんな、無差別に吐き出され、暗がりに潜んだ呪詛や怨念たちが、一気に彼めがけて収束したわけだ。 それは、どれほどの力だったことか。今となってはわからない。 少なくとも、彼のための力となったのは間違いない。そして。 力を得たのは子供だ、真っ先に、目の前の敵に復讐した。 だがここで、妙なことが起きた。 兄がどれほど強く望んだものか、集まった呪詛が死にかけた妹に取り憑いたのだ。 しかしそれらは、あまたの人間が吐き出した呪詛であるため、ひとつの塊であるとはいえ、多数の人格を有していた。 それぞれが好き勝手な意識を吐き出す中、正気を保つのは尋常なことではない。 にもかかわらず、この少女には、まだ自我が残っていた。 彼女は咄嗟に、自身の心を閉ざし、己を守ったのだ。 だがこうなってはもう、少女がまともに生きることは不可能だった。 今や彼女にとって、生は呪い。死だけが希望。 ―――――気づけば、捕まえていたはずの少女の気配は、消えていた。 ただし普通の人間ならば、触れただけで死ぬこの呪詛こそ、彼女を生かしているものだ。 (…ああ、そうか、だから) あの少年は、オリエス皇帝が邪魔なのだ。 リヒト・オリエスは、皇宮にいるだけで、はっきりとした神聖力を皇都全体に行き渡らせている。 皇宮の外の神聖力は、身体に負担が来るものではないが、ある程度以上の力を持っていればともかく、力ない邪なものは近寄れもしない。そして。 リヒトの神聖力は、魔獣除けとしても機能している。 リュクスなど時に、リヒトを生きた殺虫剤扱いすることがあった。 ヒューゴが毎日その力を強めているせいもあるだろう。 ゆえに、前回、皇都に仕込まれていた呪詛は、それなりの力を持っていたという結論も出る。 それでも前を通り過ぎただけで、ディランがそれを消滅させたように、リヒトの存在は、邪悪なるものにとっては命とりだ。 である以上、この少女は、決して皇都へは足を踏み入れることができない。 彼女の兄にとっては、リヒトの存在自体が邪魔…許せないだろう。 ならば、避ければいいだけ、と思うが、世界から完全に消し去らなければ安心できないようだ。すべては、妹の安全のために。 気の毒には思うが、 (泥沼だ)

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