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第4話
石の人 四
イーサンは誕生日の翌日、魔狩人として初めての仕事をこなした。
浄化した吸血鬼は、まだ十四歳の少女だった。少女の胸を銃剣で突いた感触。刃を押し返してくる肉の弾力、骨に当たった時のゴリッとした硬さ。蘇った死人なのだから、生きている人間とは違うのだ。頭ではわかっていても、気持ちが追い付かなかった。
暫く感傷に浸っていたかったが、学校に行かなければならなかった。イーサンはまだ学生だ。家業と勉強を両立させて、いずれは立派な魔狩人になることが、与えられた使命だった。
「お前ってほんとすげーよな」
「そうでもないですよ、アーサー。家の仕事だから、仕方なくやってるだけですし」
休み時間に話しかけて来たのは、中等学院から一緒のアーサー・ディアナンだ。イーサンたちの通うセントベル魔術高等学院に、ギリギリの成績で入学し、なんとなく魔工学を専攻している。
「いやー 俺にはそういうの無理だからね。親の言うままに家業を継ぐなんてさ」
その後、アーサーなんて大層な名前つけちゃって。と括るのがお決まりの文句だった。
アーサーはあまり勉強はできなかったが、音楽家を目指していた。中等学院の卒業式でオペラのアレンジを弾いたことで、音楽の才能に自信を持っていた。
「俺ってやっぱ、音楽しか取り柄がないし、音楽をやりたいんだよ。イーサンはまじで家業継いで、まかりうどを続けて行くつもりなのか。お前だったら何でもできるし、何ならオペラ歌手になるのもいいと思うぜ。すげえ歌上手いじゃん」
「ありがとう、でも俺は家業を継ぐために勉強をしてきたんです。しっかり稼いで、特等席でアーサーの演奏するオペラを聞きに行きますよ」
「うん……」アーサーは落ち着かなく座り直し、尻の位置を変えた。
「いや、ごめん。なんかお前、元気なさそうだったからさ。初仕事って、昨日だったんだろ。吸血鬼を……その」
「はい、浄化しました。詳しく話しましょうか」
イーサンは近くの村で、ヘティー・カウリーという娘が吸血鬼に殺され、吸血鬼化したいきさつを話した。ヘティーは父親のマーカスから、家畜の血を貰って飢えを我慢していたが、人間の血を吸わなければ満たされなかった。
父マーカスは地下室にヘティーを匿っていたが、魔狩人が来て浄化される前に、神父を人質にして逃がそうとした。しかし、ヘティーは飢餓故に父親を殺してしまった。
「壮絶だな。死んだ女の子が生き返って、親父を襲うなんて」
「吸血鬼はもう、人間じゃないんですよ。血を吸われた父親も、吸血鬼になろうとしていました。俺は二人を」
「もういいよ。お前は良くやったって」アーサーはイーサンの幅広い肩をバシッと叩いた。
「お前がそうしなきゃ、犠牲がもっと広がってたんだ。少なくとも神父様は助かったんだろ」
イーサンは寂しく微笑んで見せた。
「もちろんです。こう見えても、人助けをしたつもりですよ。お父さんも、おじいちゃんも、その前からずっと先祖代々、家は人の命を脅かす魔を倒すために腕を磨いてきたんですから」
アーサーはうんうん、と頷いた。それからわざとらしく天を仰いだ。
「あーあ。セントベルのお坊ちゃんはやっぱり覚悟が違うよな。理事長っつーか、お前のじいちゃんが亡くなった時も、全校生徒の前で悼辞を読んだろ。あの時はなんかさ、立派っていうか、ちょっとお前を遠くに感じちゃって」
「そんなことないですよ、俺は俺ですし」
「わかってるって」アーサーは起き直った。
「今はさー お前も悩んでるんだなって、思ったわけ。中学の頃からがんばり屋さんだったじゃん。無理してんだったらさ、違う道もいいかなって……例えば、俺とお前とでコンビ組んで、音楽の道なんて」殆ど独り言のように、アーサーは遠くを見ていた。熱が入っているのか、彼の頬は赤く染まっていた。
「アーサー」イーサンは不思議そうに首をかしげた。
「いや、別にそういうのもありかなって、一つの提案として、ちょっとな」アーサーはしどろもどろになりながら、左右に視線をさまよわせた。
「がんばり屋さんって言い方、子供みたいでかわいいですね」
「うるさいよそこ、かわいいとか言わない」
アーサーとイーサンはけらけらと笑い合った。
イーサンは馬車の振動が止まったので、瞼を開いた。向かいに座っていたお父さんが、扉を開けているところだった。イーサンはお父さんや親戚の魔狩人たちに続いて馬車を下りた。
閉めた扉には、セントベルの紋章が描かれている。黒塗りの馬車に金色の鐘を見ると、街の人々は事件があったのだろうかと不安を抱き、同時に正義が必ず成されるのだと理解して安心するのだ。イーサンは金色の鐘に誇りを持っていた。人の生活と尊厳を守る戦い。正義を告げ知らせる、神聖な鐘に。
「すでに何度も説明したから、わかっているとは思うが」お父さんは真剣なまなざしをイーサンに向けた。「私情は禁物だ」
「はい、わかっています」
「お前ならもう安心だ。父さんもついているからな」
肩をぽんぽんと叩かれて、イーサンは力強く頷いた。
イーサンらの街に吸血鬼の被害が出たのは、三日前からだった。調べによると、カウリー宅を襲った吸血鬼と同一で、ロード格だろうという話だった。
初めの被害者は若い女性。次いで子供や青年。歳が若く、見た目の美しい人々ばかりが狙われていた。村には他にも多くの人がいたのに、通りすがっただけで、街へ移動している。獲物を選んでいるのだ。
魔狩人たちは班に分かれて、ロードを追いつめる作戦を立てた。被害に合った地区を次第に狭め、封鎖して、警察と共同でロードの特定を行うことにした。
ロードが発生する経緯は、高い魔力を持っていたり権威のある人間が死後に蘇った、生きながらにして邪法の術により転生した、真祖格の従属である。など様々だが、ロード格の吸血鬼は、主に人の血を吸って殺すか、血を分け与える方法で手足となる従属を増やして行く。ロードの従属はさらに血を吸うことで感染を広げるが、末端になればなるほど、知能は失われていく。ただ血を求めるだけの化け物になるのだ。
ロードの猛威はすさまじいものだった。ものの三日で、街の一角に住んでいた人の殆どが吸血鬼化、或いは干からびた死体と化した。封鎖が遅れていたら、被害は街の全域にまで広がっていたかもしれない。
イーサンらの班は、ロードが潜伏していそうな建物を片っ端から捜索していった。既に、生き残った住民は避難を終えている。
「いません」
「こちらも見当たらない」
魔狩人たちは地図の調べた箇所に印をつけ、離れた場所に音を届ける、言霊の珠でやり取りをした。
昼間の吸血鬼たちは活動力が鈍る。特に末端の従属は日の下で活動ができず、睡眠を必要としていた。魔狩人たちはロードを捜索しながら、昼寝をしている吸血鬼を鏡に映し、正体を次々と暴いていった。
イーサンは酷く胸騒ぎがしていた。この地区には親友、アーサー・ディアナンの家がある。ディアナン宅に人の姿はなかった。避難していると良いのだが――イーサンは動揺を隠しながら任務を続けた。
「残りは三の二だけです」
「よし、全員三の二番地に集まってくれ。単独での突入は絶対避けるように」
魔狩人と警官たちは、三の二番地にある屋敷へ向かった。屋敷の周囲には高い塀があり、門の錠前は頑丈そうだ。立てこもるには最適の家だった。
しかし一流の魔工技師にとって、錠前を解除するなど造作もなかった。イーサンの父は瞬くうちに門を開き、仲間に指示を出した。ロード格の知能であれば、屋敷内に罠を仕掛けている可能性も充分にあったので、魔術による感知は惜しみなく行われた。
屋敷の上部には何も無かったが、警官の一人が地下室を見つけた。ワインの貯蔵庫のようだった。吸血鬼は性質上、日光を避けるため窓のない部屋や、地下に潜む場合が殆どだ。
要するに日光さえ遮断していれば、日中でも問題なく活動できるということ――
先に突入した警官の叫び声が上がった。不意打ちを喰らったのだ。イーサンはすかさず銃剣を構えて、地下室へ踊り込んだ。
暗闇のなかに、多数の赤い光が浮かんでいた。イーサンは突如、横から来た一撃を銃剣で振り払い、躱した。
「大丈夫かっ」
「はい」
ランタンをかざした仲間が続々と降りてくる。明かりに照らされた地下室には、もはや人の知性を失くしたグールどもがうごめいていた。
「くそ」背後で誰かが悔しげに呟く。
イーサンは銃剣に魔力を込めた。物質的な弾丸ではなく、持ち主の魔力を元にした非実体の弾を打ち出すのだ。刀身の魔術回路が浮き上がり、ぼんやりと光る。引き金を引くと、弾丸が銀色のすじを描きながら眼の前の敵に命中した。力の弱い吸血鬼なら、杭を刺さなくとも灰化する。
一体が灰になって崩れたのを皮切りに、魔狩人と警察官たちは協力して、哀れな怪物どもを浄化しにかかった。
イーサンは何も考えなかった。襲い来る爪を振り払い、鋭利な牙を折り、胸に切っ先を突き立てた。
殲滅し終わっても、ロードらしき姿は見えなかった。割れた瓶とワイン樽が散乱し、その上に灰がぶちまけられていた。怪我をした仲間は手当を受けている。イーサンは幸いにして、どこも傷ついてはいなかった。
「大丈夫か、イーサン」お父さんが駆け寄ってきた。額に汗の玉が滲み、ランタンの光で影を作っている。
「はい……お父さんこそ」
「うむ。まだ終わったわけではない。油断するな」
イーサンは呼吸を整え、頷いた。
「ロードの魔力反応は確かにあった。だが姿は見えないな」感知の魔術で探っていた魔狩人が告げた。
「隠ぺい魔術の気配がする。単なる一般宅の地下室にしては構造が不自然だ。おい、家の持ち主は誰だ」
「ヘンリー・ロスビリスです」地図を持った警官が答える。「家主は失踪して、数年前から廃屋になっていました」
「ロスビリスだって」
「よりにもよって、あのロスビリスか」
魔狩人たちは口々に唱えた。
「ロスビリスとは、何か問題のある人だったんですか」イーサンは慎重に質問した。
「そうか、お前はまだ知らなかったな」お父さんは答えた。「この家の主、ヘンリー・ロスビリスは魔術協会の幹部だった男だよ。人を殺し、呪われた死霊術の研究をしていたことが発覚して、お尋ね者になっている。失踪時に家探しをしたようだが、地下室などなかった。隠ぺい魔術で巧妙に隠していたようだな」
「だとすると、ロードの正体は」
お父さんは深いため息をついた。
「うむ、ロードはやつである可能性が高い。不死の研究をしていたロスビリスなら、邪法によって吸血鬼化したとしてもおかしくはないからな。そしてどういうわけか、この街に戻ってきた」
「何のために……」
「ロスビリスなら、魔術協会への復讐、ひいてはこの街全体への復讐をもくろんでいるに違いない。不老不死のために多くの人間を犠牲にした、極めて危険な思想の男だ。なんにせよ、ロードがここを選んだのは偶然ではない。必然だったと考えるのが自然だろう」
イーサンはゆっくりと首を縦に振った。
「よし、引き続き感知を行ってくれ。警戒は怠るなよ」
お父さんの命令で、警官と魔狩人たちは地下室を探索し始めた。イーサンも倣って、壁などを調べていく。家屋部分に魔術の気配はなかったが、地下室には濃密な魔素が立ち込めていた。
「あったぞ」
声のほうにみなが集まった。何もなかったはずの壁に、両開きの扉が出現していた。イーサンたちは入念に準備をし、戦闘に備えた。扉が開く――
盾を持った警官を前にして、武器とランタンを掲げた集団がなだれ込む。
知性を失くしたグールの群れ、その背後にひときわ強い魔力を持つ数体の人影が、一人を取り囲むように集まっている。ヴァンパイアロードと配下のヴァンピールだろう。
イーサンは人影の中の一人に見覚えがあった。人違いであればいい。よもや親友が、アーサーが、邪悪な吸血鬼の手足となり、自らも人の生き血を吸う化け物に変わってしまっただなんて。
迷いを振り払うように、イーサンは銃剣に魔力を充填した。なるだけ苦しまないよう、急所を狙って――放つ。魔弾が額に命中したグールは、もがくことなく倒れた。
銀の剣、祝別された鞭、対不浄用の呪文。あらゆる手段で、魔狩人と警官隊はグールを殲滅していった。先ほどよりも、準備をした分手際が良かった。
ロードらしき影は手下がやられるのを気にも止めず、座って頬杖をついたまま、不気味に沈黙している。近づくにつれ、ロードの隣に侍っているのは、やはり親友のアーサーに相違ないとわかった。
「アーサー」
最後のグールを片づけ、呼びかけると、うつむいていたアーサーは顔をあげた。
「イーサン」
「アーサー、俺が分かるんですか」
「わかるとも、我が親友。この体は素晴らしいぞ。もう将来について考えなくたっていいんだ。俺は自由だ」アーサーは恍惚と言葉を吐き出した。
「何を言ってるんですか。音楽家になるんでしょう。オペラを聞きに行くって、約束したじゃないですか」
「音楽家にだって、何だってなれるさ。ロスビリス様はすごいんだ。永遠の命をくれた。お前も来いよ……イーサンならきっと、一番強い吸血鬼になれるぜ。俺と二人で生きよう、ずっとずっと」
「アーサー……どうして」イーサンはかぶりを振った。
「説得は無駄よ」追いついた魔狩人が叫んだ。「ヴァンピールはもう、ロードに従うだけの人形に成り下がってるんだから」
アーサーはゆらりと手を伸ばしてきた。呼応するように、ロードを取り囲んでいた吸血鬼たちも動き出す。
「そっかぁ、お前を俺のしもべにするってのも悪くないな。ずっと一緒にいるためなんだ、仕方ないだろう」
「ごめん、アーサー。それはできないんです」
アーサーの口元が歪んだ。笑みの形にも似たいびつな唇から、尖った牙が覗いた。喉笛を狙い、アーサーだった魔物は、狼よりも素早い動きで飛びかかってくる。
かつての親友にも、イーサンは容赦しなかった。人々の生活を守るという、確固たる信念があったから。牙が届く寸前、イーサンはアーサーの胸に銃剣を突き刺していた。刃を回転してえぐり、確実に心臓を破壊する。吸血鬼はロードの直系ともなれば、尋常ではない再生能力を持つ。人間が生きる上で重要な臓器を破壊されようとも、生き血を取り入れている限りは再生し続けるのだ。
イーサンは銃剣を抜き、間合いを取った。今の一撃でかなり失血はしたはずだ。
「イーサン……イーサン」憎悪に燃える赤い目。貫いた肉がうねり、傷口が絡まるように再生していく。「がは……遠慮なくやってくれるじゃないか。それでこそ、お前だ。屈服させがいがあるってもんだぜ」
イーサンは答えなかった。唇を結び、静かに睨みつけている。銃剣に魔力を込め、打ちだす準備を整えた。
アーサーは地を蹴り、ふたたび攻撃を仕掛けてきた。だが、イーサンにはアーサーがどう動くのかがわかっていた。セントベルの魔狩人は、厳しい戦闘訓練を耐え抜いてきたプロ集団だ。吸血鬼化で身体能力が人の何倍も高められているとはいえ、元は一般市民。素人の先を読むのは造作もないことだった。
吸血鬼が着地する前に体を回転させ、鋭利な赤い爪を銃剣でいなす。反動で重要な箇所を切り裂く。再生が終わらぬうちに、引き金を引く――全てはひと呼吸の間に行われた。
アーサーは振り返り「何故」という表情をしていた。腹に大きな風穴が開いている。イーサンは、友だったものの首を一刀のもとに跳ね飛ばした。厳しい表情を微塵も崩さずに。
仲間の魔狩人が気づいて、白木の杭でとどめを刺した。アーサーの肉体は灰になって崩れ落ちた。
「イーサン、よくやった」
「辛い選択だったな」
仲間たちが口々にねぎらったが、イーサンは軽く頷いただけだった。
「あとはロードだけだ」
魔狩人と警官らが、頬杖をついた影を取り囲む。しかし、影は動かなかった。
「様子が変だ。魔力を感じない」
一人の魔狩人がランタンを掲げ、警戒しながら近づいた。
「違う、こいつはロードじゃない。謀られた」
「なんだと」
明かりの中に照らし出されたのは、単なる干からびた死体だった。
「最初から、ここにはいなかったのね……」
「だとするなら、一体何のためにグールやヴァンピールを集めたんだ」
魔狩人たちはざわめき、議論をし合った。警官隊も落ち着かなく指示を待っている。
「皆の者、静まれ」
皆は注目した。ジョナサン・セントベル、イーサンの父に。
「連中から、ロスビリスという名を聞いただろう。ロードがやつであるのは間違いない。だとすれば」お父さんは一行を見回した。「この屋敷にいた配下は囮だった、そう考えるべきではないか」
「一体、何に対する囮でしょうか」若い魔狩人が前に出た。
「我々をここに引きつけておいて、やることは、ただ一つ。閉鎖区間外の人間を狩るためだ」
誰かが唾を飲む音がした。
「そんな」
「いかにも。我々はまんまと罠にかかった」お父さんは外套を翻す。「急がねばならん。外でどれだけの犠牲が出ているか。皆、まだ戦えるな」
一同は頷くしかなかった。
被害の状況はすぐに伝わってきた。懸念していた通り阿鼻叫喚の図が広がり、多くの人々が犠牲になっていた。待機していた魔狩人、被害地区の警官隊、軍をも動員してグールやヴァンピールと化した市民の浄化が行われた。
イーサンと仲間たちは、戦闘に加わりながらロードを探したが、ロスビリスらしき姿は騒動が沈静化されるまで、ついに見つからなかった。
「やつは必ず戻ってくるぞ。再びこの街を襲いに。すぐに復讐を果たすつもりはないのだ、時間をかけて、なぶるように何度も、人々を痛めつけようと目論んでいるのだ」
お父さんは魔狩人たちに命じて、日夜街全体を警戒させた。イーサンも学校のあとで街中を巡回し、家族が犠牲になった市民を助け、倒壊した家屋を片づけたり、勇気づけて回った。忙しく作業をしている方が、親友を手にかけてしまった苦しみから逃れられると思った。
やがてひと月がたち、犠牲者の合同葬儀が行われた。グール化した者は墓に葬られ、ヴァンピール化した者の灰は、浄化のため教会で管理することになった。イーサンは葬儀になって初めて、アーサーのために涙を流した。
ロスビリスが襲ってくる気配はなかったが、いつまた騒動が起きるともしれない。人々は自然と、吸血鬼に対して警戒を強めるようになった。ゴシップ誌は吸血鬼疑惑のある有名人を取りあげて騒ぎ、単なる薬物中毒だったので市民を脱力させた。
また、吸血鬼の真似ごとをする快楽殺人者、ロスビリスに傾倒するカルト集団などが逮捕された。
目まぐるしく変わる世の中、殺伐とした生活で、イーサンは友達や家族と過ごしている時でさえ、息をつくこともできなかった。本当の安心は失われてしまったのだ。忌まわしき吸血鬼のせいで。
両親が寝静まった後、ランプにそっと明かりを灯す。擦り切れた表紙の本を取り出し、いつものように写真の強張った顔を指先で撫でる。
チャールズ・クラウチ。
クラウチ先生――イーサンは空想した。
チャールズの書いた物語のなかで、彼と何度も逢瀬を重ねた。見たこともない世界を二人で旅した。自由に空を飛び、海に潜り、咲き乱れる花の楽園で抱擁しあった。山の頂に並んで、無数の星を見上げた。
こんなに美しい物語を書く人なのに、どうして寂しい、つまらない顔をしているのだろう。
『きっとクラウチ先生にとっても、世の中は安心できない場所なんだ』イーサンは強く思い込んだ。
いつかきっと、石の中から救い出して、二人でもっと綺麗な場所を見に行こう。イーサンはランプを消し、本を枕元に置いて、眠りについた。
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