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番外四 闇の中で囁けば

 闇の中で囁けば 「クラウチさん」  イーサンは扉をノックした。 「ああ」  中から、恋人の返事があった。イーサンは扉を開けた。 「真っ暗ですね。どうしたんですか、明かりもつけないで」  手探りで明かりを探す。たしかベッドの脇に、オイルランプがあったはずなのだ。  ひたり。冷たい手で、腕に触れられた。イーサンは驚いて左を向いた。赤い光が二つ、暗闇の中に浮かんでいる。 「座れよ、イーサン」 「はい……」  イーサンは素直に腰を下ろした。手をつくと、眼の前にベッドがあるとわかったので、体を回転させて、ベッドに座った。  ややあって、隣に腰かけてくる恋人の重み。イーサンは本当にチャールズ・クラウチがいるかどうか確かめようと、チャールズの背中を撫でてみた。すべすべとした薄い肌着の感触がする。 「そこにいるんですね」 「いるよ」  赤い光を見つめる。チャールズの目だった。吸血鬼は暗闇の中でも、動物のように景色を見ることができる。明かりなど必要ないのだ。 「クラウチさん、俺が見えてますか」 「ああ、良く見えるよ」 「明かりを……」 「それより瞼を閉じて。感じろよ。静けさ、夜のにおい。冷えた風のさやめきを」  チャールズは抑揚なく囁いた。イーサンはいわれた通り、瞼を閉じてみた。しなければいけない気がしたので。 「クラウチさん。なんだか怖いです」 「ゆっくり呼吸するんだ。自分の息遣いを感じろ」  イーサンはゆっくりと息をした。ひゅう、と胸を通り抜ける空気の音が、やけに大きく耳に残った。 「ああ、聞こえる。あんたの震えた吐息。熱い血の巡る音」チャールズは体を寄せてきた。肌の重なった部分が、陶器を当てたみたいにひやりとした。 「どうして怖がってる。俺が怖いか」 「クラウチさんは怖くないです。でも真っ暗で、落ち着かないんです」 「俺より闇が怖いなんて変わってるぜ。まるで子供みたいに震えて」チャールズの声色には、ほんのわずかに高揚が滲んでいる。 「この闇はあんたを傷つけたりはしないのに。ただ静かに、朝になれば過ぎ去っていくだけのもの」手の甲を長い爪の指が這っていく。「俺は違う。あんたを好きにできるんだ、今も、夜が明けても、これからも永遠に、ずっと」  イーサンは背筋がぞわりとして、瞼を開けた。チャールズの手を確認しようと、暗闇に目を凝らした。何も見えなかった。 「目を閉じろよ、イーサン。何を見ようとしている。ベッドに背を預けて、眠ればいい。眠っている間なら、闇はあんたを優しく包み込む。何にも怖くないんだ」  チャールズは歌うように、滑らかに舌を動かした。サイレン――イーサンは声に出さず、唇を形作った。優美で悩ましい歌声に惑わされた船乗りは、二度と海から戻れない。サイレンに食い殺されてしまうから。 「クラウチさん」やっとのことで、イーサンは恋人を呼んだ。「わかりました。靴を脱いで、ベッドに横になればいいんでしょう」 「そうだよ。さっきから言ってるじゃないか」  イーサンは靴を脱いでベッドに上がり、仰向けに寝そべった。すぐにチャールズが隣に滑り込んできた。二人の体重で、マットレスのスプリングがみしりと不気味な音を立てる。 「クラウチさん」 「何だよ。寝ろって」  唐突に抑えた笑い声が響く。 「震えてたと思ったら、今度は笑ってんのか」  イーサンはチャールズを抱きすくめた。 「だってねぇ、クラウチさん。素直に言えばいいのに。『一緒に寝たい』って」  今度はイーサンにも、チャールズが身をすくめたのが、見えなくともわかった。 「……一緒に寝たい」 「はい」イーサンは毛布を手繰り寄せて、自分とチャールズを包むようにかけた。  サイレンの声を聞き、なお生きている者がいたなら、サイレンは死んで、石になってしまう。イーサンは妖獣大図鑑の一節を思い出しながら、意識を手放した。

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