9 / 31

番外五 あなたのにおい

 あなたのにおい 「どうもありがとう」  イーサンは朝食を運んできた給仕に、朗らかな笑顔を見せた。  給仕の少女は頬を赤らめ「紅茶を取ってきますね」と足早にカウンター裏へ逃げていく。 「あの子、ええと、アミタさんでしたっけ。えらいですね~ 朝から身なりが整っていて。ちっとも臭くない。冒険者の鑑ですよ。ねえ、クラウチさん。俺の枕って臭いじゃないですか、今朝びっくりしたんですよ。忙しくても朝入ればいいかって、そのまま寝たらだめですね、お風呂入ってから寝ないと」 「そうだな」  連弩よりも早くまくしたてるイーサンに対して、チャールズは興味がなさそうに頷いた。  イーサンは人当たりが良く、男女関係なくモテる。相手から特に好意の言葉がなかったとしても、イーサンへの距離が近いので、なんとなくわかる。 『こいつ、俺の恋人に惚れてるんじゃないのか』  先ほど少女――アミタは、明らかにイーサンへ体を寄せていた。体臭がわかるほど近いのだ、チャールズでなくとも少女の態度から好意が滲み出ていると気づこうものだが、イーサンは暢気に「臭くない」などとのたまう。  アミタは最近流れて来た、駆け出しの冒険者だ。依頼だけでは食べて行けないので、時折ギルドで給仕のアルバイトをしているらしい。古株連中やギルドの従業員は大抵、チャールズたちの関係を知っているが、アミタは新参者ゆえに知らない。  イーサンは誰に対しても愛想が良いだけなのだ。特に、新顔には母親のように世話を焼く。アミタに至近距離を許しているのも、単なる優しさからだ。恋人の性格はわかっている。だけど。  ――モヤモヤする。  チャールズは紅茶をすすった。匂いは感じるが、味はわからない。吸血鬼は食物に対する味覚を失っている。新鮮な人間の血液以外は、全て無味で、砂や泥を噛んでいる食感しかしない。  紅茶だけ飲みながら、ベーコンエッグトーストをうまそうに平らげる恋人を眺めた。  イーサンの言葉に他意はない。ありのまま「臭くない」という感想を述べただけ。チャールズは紅茶の湯気に溜息を吹きかけた。 「ねえねえ、クラウチさん、クラウチさん」  階段を登りながら、イーサンは犬のようにつきまとってくる。尻尾があるなら激しく振っていただろう。チャールズは階段を登り終わって、立ち止まった。 「なんだよ、危ないだろ」 「クラウチさんっていい匂いがするんですよ。知ってましたか」 「だから」なんだよ。機嫌を取るつもりなら余計なお世話だ――言葉に出さなくても、眉間に皺が寄ってしまう。チャールズはモノクルを眼窩にはめ直すついでに、額を指で揉んだ。 「人間ってお風呂に入らないと、絶対臭くなるじゃないですか。クラウチさんは臭くならないんですよ。ほら、木や花ってお風呂入らないですよね」  すんすん。イーサンはチャールズの耳の裏を嗅ごうとする。チャールズは身をすくめた。 「俺は木かよ」 「ううん、ちょっと待ってくださいよ。すんすん……んん、木そのものじゃないですね。花みたいに甘い匂いじゃないし」 「まじめに分析しようとするなよ。ヘアワックスのにおいだろ」 「それだけじゃないんです、なんというか、クラウチさんの匂いなんですけど」  襟を引っ張られて、首すじの匂いを嗅がれる。鼻や唇が触れ、顎髭が鎖骨をくすぐる。キスをしているようにしか見えないだろう。 「おおい、通行止めしてんじゃねえよバカップル。部屋でやれ」  登ってきた冒険者に怒られ、イーサンは「すみません」と愛想笑いした。  チャールズは腕の隙間から抜け出して、襟を整えた。 「行くぞ、通行止め野郎」 「あっ、カップルっていわれたんですよ、一蓮托生でしょ」  チャールズはイーサンの部屋を合鍵で開けた。ほんの少し前まで人が寝ていた空気が篭っている。 「確かに、あんたの匂いでいっぱいだな」 「窓開けて空気の入れ替えしなきゃ」  チャールズは素早くイーサンとカーテンの間に立って、窓に背を向けた。 「続き、しないのかよ」 「続きですか」 「俺のにおいを分析したいんだろ。もう満足か」  イーサンはじっと見降ろしてくる。薄暗い中でも空色の瞳は澄んでいて、鏡には映らないチャールズの姿が映っている。 「じゃあ、ちょっと、失礼します……」イーサンは腰をかがめ、チャールズの襟元のボタンを一つ外して、リボンタイをずらした。浮き出た白い鎖骨に口づけるほど、鼻を近づけて、匂いを嗅ぐ。  くんくん。すんすん。 「どうだ、わかったか」 「ん、もうちょっと、すん……はあ……すん……」  一生懸命嗅いでいるイーサンの髪は寝汗で臭い。寝癖を整えてやると、髪自体がベタついていた。 「わかったか」 「わかんないです。しいていえば、クラウチさんの匂いです」 「ふうん」  邪魔な髪を耳にかけてやる。耳の輪郭にそって、ごく優しく、愛撫するように。耳たぶに触れる時、イーサンがぞくりと震えるのが伝わった。 「クラウチさんって、顎もつるつるですよね。俺は顎の下も剃ってるんですけど、剃り残しがたまにあるというか、日によってまちまちなんです。汚いですか」 「汚くないし、あんたの髭、嫌いじゃないよ」  イーサンの唇は、喉骨にそってどんどん顎のほうへ上がってくる。チャールズは自然と首を後ろへ反らした。窓ガラスに後頭部が当たり、もう逃げ場はないと知る。 「クラウチさんて、喉の骨もなめらかですね」 「なんだそれ、ひゃっ」  喉骨から顎にかけてをぺろりと舐められた。スモークしたベーコンのにおいがする。 「ほら、つるつるじゃないですか。あ、ごめんなさい。舐めたらクラウチさんも臭くなっちゃいますね。あとで一緒に朝風呂入りますよね、それまで我慢してください」 「好きにしろよ」  息を飲む喉の動きを確かめるように、喉骨の周りをぺろりと舐められる。いつの間にか背中に腕が回され、窓に縫い止められていた。  舐められるのもいい加減くすぐったいので首を戻すと、視線が合わさった。イーサンの瞳は熱っぽく潤んでいる。チャールズは瞼を閉じた。キスするだろうなあと考えたので。  案の定、イーサンは軽く唇を合わせてきた。キスよりも、髭が顎に当たる感触のほうが強かった。  チャールズはほんの少し、イーサンの下唇を食んだ。歯を立てないで、唇だけでごく軽く、挟むように。イーサンは恐る恐る、上唇を挟み返してきた。背中を包む腕に、力が込められた気がする。  互いに粘膜へ届かない程度に浅く、ついばみ合う口づけ。シャツ越しにイーサンの体温が伝わってくる。生きている人間の鼓動は心地良い。チャールズはイーサンの背中に腕を回して、シャツを掴んだ。 『あっ』チャールズは下腹に意識を逸らして、頭の中がカッと熱くなった。『イーサン、勃ってる』  気を取られていると、唇に湿った温かい感触がした。唇を舐められている。チャールズは唇を開いて、受け入れた。イーサンは鋭い牙を探り当て、興味津々に形を確かめようとする。根元の歯茎を舐められると、意識が飛びそうになった。 「らめ」舌を動かした瞬間、舌をも弄ばれる。「んん」  ――こんなの知らない。イーサンは唇の端まで合わせて、混ざった唾液を味わうように、じゅるじゅる吸っている。チャールズはイーサンの背中に爪を立て、猛獣に掴まれた小鳥のようにもがくしかなかった。 「はあ……」チャールズは前髪を整えて、涙を拭った。 「クラウチさん、嫌じゃなかったですか」 「嫌じゃないけど、びっくりした。好きにしろっていったのにな」 「ごめんなさい、クラウチさん」イーサンは名残惜しそうに、自分の唇を舐めて濡らした。 「なんか、朝からすごいことしちゃったな」 「吸血鬼にとっては朝が夜なんですよね」 「うん、そうだった。でも俺は夜寝てるし……」チャールズは落ちたモノクルを眼窩にはめた。 「あのう、お風呂、一緒でいいですか。なんか俺、恥ずかしいことになってるかも」イーサンはもじもじしながらも、軽く体を当ててくる。 「いいよ。別にエッチなことしても、いいし」 「えっ、でも、そのえっち……なこと……って準備ありませんか、わからないけど。クラウチさんが嫌なことってしたくないので」 「う、うん。今日じゃなくてもいいし、別に俺は、エッチなやつじゃないから誤解しないでほしい、あんたが初めてだから俺も知らないし」 「わ、わかってます、大丈夫です」  イーサンとチャールズは、しどろもどろになりながら場の雰囲気をなんとかしようとしていた。

ともだちにシェアしよう!