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第5話

 石の人 五  ヴァンパイアロード、ロスビリスが街を襲撃してから一年が過ぎた。  魔狩人たちも、むざむざロスビリスを逃しただけではない。魔力の痕跡を追い、隠ぺい魔術で身を隠していたことを突き止めた。元々邪悪な魔物が入らぬよう、街には結界が施されているが、教会はさらに結界の強度を高めた。  国からの駐屯兵が増員され、昼夜を問わず警備の兵隊がうろつきまわっていた。  住民はしばらくの間、吸血鬼が襲ってくるかもしれないと怯えていたが、家屋や設備が軒並み復旧すると、次第に元の生活を取り戻していった。  イーサンは高等学院を卒業した。吸血鬼に殺され、卒業式に参加できなかったクラスメートにも、同様に証書が渡された。  イーサンはアーサーの墓に報告した。街が復興しつつあること、卒業を迎えたこと。  墓の中に親友はいない。吸血鬼に変えられ、イーサン自身が浄化したのだから。アーサーをはじめ、吸血鬼の灰は教会が厳重に管理し、完全に消滅するまで祈りの中に置かれている。 「アーサー。仇は必ずとります。あなたがたとえ、望まなかったとしても」イーサンは墓前に花を供え、立ち去った。 「ほう、あの魔工戦車を破壊するとは、人の力とは思えんな」  イーサンはお父さんが広げた新聞を覗き込んだ。  新聞の見出しには『ズツーカ04、破壊される。十年続いた内戦に終止符か』と、大きく載っている。イーサンは耳を赤くした。チャールズ・クラウチの活躍を褒められ、我がことのように誇らしげな気持ちになったのだ。 「お父さん、鍋」お母さんが横から新聞を取りあげた。先ほどまで薬を調合していたのか、白衣を着たままだ。 「やれ、しまった」  道理で焦げ臭いはずだ。お父さんは慌てて台所に駆けて行き、鍋つかみをとって鍋を火から降ろした。 「どうしてあなたはいつもビーンズを焦がすのかしら」 「よっぽど豆がわしを嫌っとるんだな」お父さんは木べらを不器用に動かして、鍋の底にへばりついた煮豆をこそげ取った。  イーサンは両親のやりとりを微笑ましく眺めていたが、お父さんが新聞を畳んで、丁度チャールズの写真部分を鍋敷き代わりにしたので、むっとした。  お父さんはイーサンの膨れっ面をビーンズが焦げたせいだと勘違いして、申し訳なさそうに皿へ料理をよそった。 「すまんなあ、イーサン」 「いいんですよ、多少香ばしくてもおいしいですから」イーサンはお皿を受け取った。  ベイクドビーンズは少し焦げていたが、いつもと変わらぬ食べ慣れた味がした。 「イーサン、母さんと相談したんだが、クラスメートと卒業旅行でもしてきたらどうだ」 「旅行ですか」  イーサンはスプーンを置いた。仲間内で楽しめる気分ではなかった。親友であるアーサーが吸血鬼になり、クラスメートが何人も亡くなってしまったのだから。 「お前の言わんとしていることは、もちろんわかっとる。だが、友達と遊べる機会はこれからそう何度もないかもしれんぞ。何しろ、お前はこれから本格的に魔狩人として活動して行かなければならん。この町周辺だけではない。遠征で遠くの地へ行かなければならん場合もあるからな」  お父さんが熱っぽく語る横で、お母さんはふふ、と笑みを漏らした。 「あのね、イーサン。あなた学生なのに、この一年間遊びもそこそこに、ずっと街を警備したり復興してきたでしょ。お父さんはあなたに子供らしい生活をさせてさせてあげられなくて、申し訳なく思ってるの。それにお父さんね、久しぶりにお母さんと二人きりになりたいんですよ」 「そうなんですか」 「フリーダ……」お父さんは恥ずかしそうに妻の名前を呼び、目を瞑って顔を背けた。 「お父さんもお母さんも、ここのところはずっと仕事ばかりだったでしょ。たまのお休みにはあなたに勉強を教えていたし、二人きりでゆっくりする時間がちっともなかったわ」  白衣の袖をつまんで口を尖らせるお母さんに、お父さんは咳払いをした。 「とにかく、費用はわしらが決めた額だけ出してやるから、行ってきなさい」 「わかりました。どこへ行くか決めておきます。お母さんと仲良くしてくださいね、お父さん」 「お互い楽しみね」お母さんは嬉しそうに、お父さんの二の腕をポンポン叩いた。  食事を終えて自室に戻ったイーサンは、扉に鍵をかけた。  誰にも見られないようにしてから壁の一点を押すと、秘密の棚が現れる。両親に内緒でこっそり作ったものだ。イーサンは中からスクラップブックと箱型の機械を取り出し、テーブルの上に広げた。  スクラップブックはチャールズ・クラウチの記事や写真で埋め尽くされていた。新しいページを開いて、今朝の新聞に載っていた記事を切り抜き、丁寧に貼りつける。独裁政権に市民が抗い、十年もの間内戦状態にあった国の戦いが終結した。チャールズが所属する冒険者パーティーが市民軍と協力して、政府軍の所有する兵器を破壊したという途方もない話だった。  作家としてのチャールズは一面でしかない。冒険者としても、地質学者としても有名なのだ。イーサンはチャールズの書いた専門的な論文も、手に入る限り集めては、秘密の棚に保管していた。  新聞や雑誌のチャールズは、英雄然としていなかった。誇らしげな様子は一つもない。初めて見た著者近影のまま、どこか物寂しく控えめに写っている。  イーサンは箱型の機械を取り出し、中央のふたを開けて媒体をとりつけた。周囲の音を記録し、再生できる魔導具だ。イヤリング型の機械を両耳につけて起動ボタンを押すと、聞き馴染んだ声が流れ始めた。  チャールズは堆積地層から特定した、古代文明の年代や当時の環境、古代人の暮らしぶり、古生物や植物について淡々と語っている。イーサンは上品な燕尾服を着て壇上に立つ姿を思い浮かべた。伏し目がちに、抑揚なく語る姿。時折紙をめくる音が、手袋を着けた指先の動きを想像させた。  まばらな拍手とともに、論文発表が終わった。イーサンは耳から機械を外して、スクラップの写真を眺めた。 「先生……」  イーサンは熱い溜息を洩らし、苦しくはちきれそうなズボンのホックを解放した。パンツの中はトロトロに溶けきって、触れただけで爆発してしまいそうだった。 『君は俺の言う通り、良く勉強したね。いい子だから、ご褒美をあげなくちゃ』想像上のチャールズは、イーサンの熱く膨れたものに手を添える。 「先生、好きです」 『俺も好き』  薄っぺらく色のない唇にキスをする。きっと見た目よりも柔らかくて、いい匂いがするのだ。お菓子みたいに。  想像上のチャールズは、細い指を絡ませ、冷たい幽霊のような触れ方で刺激してくる。  チャールズのリボンタイを外して、白い喉にキスをした。上着を脱がし、シャツのボタンを開いて、痩せた胸を露わにする。真珠色の肌はすべすべして、石みたいに温度がない。  イーサンは悩んでしまう。先生は男なのだろうか。自分と同じ男性器がついているのは違和感があったし、女性器があるようにも考えられなかった。動物じみたにおいを感じられなかった。それでいつも想像したチャールズの体は、大理石の柱のようにのっぺりとしている。  イーサンは自分の想像とまぐわった。チャールズの何もない股に擦りつけて、温めようとした。そうして、いつしかチャールズのナカに入って達するのだが、ナカがどこなのかはわからないのだった。  想像の身勝手さに罪悪感を抱き、チャールズは男だと信じるよう努力した。自分と同じように髭も生えるし、食事をし排泄し、誰かと、イーサン以外の誰かとキスして、セックスもするのだ。彼は英雄なのだから、慕われ、愛されて、イーサン以外の誰かに満たされている。イーサンは涙した。チャールズの全てが欲しいのに、何一つとして手に入れられない。  ただ、満たされているはずのチャールズは、いつも空虚な顔をしている。確かに存在して、多方面で活躍しているはずなのに、もういない、過去になった人のよう。  この世の何ものを以てしても埋められない空洞は、自分だけが満たせるのだ。チャールズのナカに入って、愛を注がなければいけない。イーサンはチャールズの情報を集め続けた。  翌日からイーサンは早速クラスメートに声をかけ、旅行の計画を立てた。色々な候補が出たが、大都会だから、色んな物や文化が集まるからなどと理由をつけて、半ば強引にチャールズのいる街へ行くことに決まった。  クラスメート全員が泊まれる手頃な宿泊所を調べ、人数分の馬車を手配し、トラブルのあった友達をなだめすかし、荷造りをし、両親に出発のキスをしてから、ようやく旅が始まった。  貿易都市アルヴァ。聖女の名前をつけられたにしては、賑やかで多様な街だ。馬車でこの地に降り立つのは、握手会の日以来、三年ぶりだった。 「すっげー 都会だな」 「人が多いね」  クラスメートたちは、しきりに感嘆した。家の都合などで来られない子を含めれば、クラスの半数、二十名ほどが参加していた。中にはあまりプライベートで遊んでいない子もいたが、イーサンはおおむねクラスメートに愛されていた。  一年前、親友のアーサーが吸血鬼になってしまったことで、イーサンは友人たちから同情を集めていた。吸血鬼によって親しい人を亡くしたのは、イーサンだけではなかったので。 「みなさん初めに決めた通り、ホステル以外は自由行動にしましょう」 「賛成」 「卒業したんだから、ちょっとくらい自由にしたっていいよね」 「親がいないって最高」  各自仲のいいグループを作って、クラスメートたちは街中に消えて行った。イーサンの周りにはいつもつるんでいる四人が残った。従妹のカーナ、音楽仲間のウィリアムとミカ、ミカの妹のロニーだ。 「どこ行こっか」 「大聖堂のフレスコ画が見たいな」 「じゃあ大聖堂を見て、近くの博物館に行ってみようよ。古い魔導具を展示してるんだって」  四人はとりあえずホステルに荷物を置き、行先を決めて歩きだした。  カーナとロニーは仲良く手を繋いでいる。彼女たちは恋人同士だ。カナリスは叔父の娘で、イーサンとは従妹であると同時に、魔狩人になるための厳しい訓練を共にしてきた戦友でもあった。一年前の戦いが初陣だったカーナは、人の死を目の当たりにして、愛する人へ想いを告げることに決めた。  アイロニーは高校に入ったばかりだ。カーナは家が近いこともあり、幼いころから泣き虫なロニーを姉のように守っていた。ロニーは強くて背の高いカーナが好きだったし、吸血鬼との戦いでカーナが無事に戻ってきた後、喜んで恋人になった。  兄のミカエルはロニーが旅行へついてくることに反対していたが、大嫌いだと泣かれ、イーサンに散々愚痴ってから渋々承知した。ミカは心配性だった。音楽仲間のアーサーが亡くなってから、より家族や仲間を気にするようになった。  ウィリアムは楽器を持ってきていた。夜になったら、ミカとイーサンと共にクラスメートの前で演奏するつもりなのだ。ウィリアムは静かだが、たまにはっとするようなことを言う少年だった。アーサーがいなくなったあともイーサンたちが音楽を続けられたのは、ウィリアムが楽譜を調整したり、部屋に引きこもりかけたミカを連れだしたからだ。  ウィリアムとミカは明らかに好き合っている。イーサンは二組の恋人を内心羨ましく思っていた。チャールズへの気持ちは誰にも明かしたことがない。明るく、柔らかい微笑みを絶やさず、仲間のために何でもこなすイーサンが、深い闇のような気持ちを抱いていることなど、誰も知らない。知られてはいけなかった。  アルヴァの大聖堂は、壁一面のステンドグラスと、天井のフレスコ画が有名だ。敬虔な領主が莫大な金額を投じて作り、建物自体が芸術品といえた。イーサンらは祈りを捧げるよりも、装飾の見事さに息を飲んだ。  大聖堂から出た後、イーサンは何かの直感を得て振り返った。後ろに流したブルネットの短髪と、すんなりした燕尾服の背中。口を半開きにしてぼうっと眺めていると、人物は聖堂の裏手に入って行った。 「おーい、イーサン。何ぼーっとしてるんだ」カーナが怪訝そうに声をかけた。 「すみません、忘れ物をしたみたいで。取りに戻りますから、先に博物館へ行っててください」 「あっ、待てよ」  イーサンは後ろで呼ぶ友人の声も気に留めず、走り出した。  聖堂の裏は表の人混みと打って変わって、喧噪が届かぬ静けさがあった。何しろ墓石しかないのだ。イーサンは辺りを見回した。鬱蒼と生い茂る木々の間に、気配を感じた。もしかすると。  無我夢中で追いかけ、小山の坂を駆け上がった。眼下には墓地と聖堂が見える。  人影がちょうど、白いレンガ造りの家に入って行った。木に囲まれてぽつりと建つ、こじんまりとした家だ。灰色の屋根に、玄関は二本の支柱で飾られ、バルコニーの向こうにはガラス張りの大きな窓が設えてある。カーテンを引いていないため、遠目にも家の中がはっきりと見えた。生活感のない片付いた部屋に、グランドピアノが一つ。  イーサンは慎重にバルコニーの下へ近づいて行って、中を覗き込んだ。  誰かがピアノに近づいてくる。止まらない動悸を押さえつけ、息を殺す。  ――来た。  イーサンは目を見開いた。人物はピアノの前に座った。裾が皺にならないよう、お尻を丁寧に撫でつけ、ピアノの蓋を持ちあげる。尖った顎は血色が無く、あまりの白さにぼんやりと光って見えた。楽譜をめくりながら、人物は首を傾げた。黒い手袋をした指で唇に触り、悩んでいるようだった。  ――なんて優美な仕草だろう。イーサンは夢見心地に息を吐いた。狂おしいほど求めて来た、チャールズ・クラウチがそこにいた。この小さな白い家は、愛しいチャールズの住処なのだ。  チャールズは色々に悩んだ末、指を動かし始めた。イーサンは一つの音も聞き漏らさぬよう、耳を澄ます。小雨のように静かで、しんみりした曲が流れてきた。チャールズの演奏は、ヴィオラを我が手のように扱うイーサンと比べれば、稚拙なものだった。時々音の躊躇いがあるし、鍵盤を押す力自体が弱い。すすり泣きにも似ていた。しかしイーサンにとっては、どんなに巧みな演奏より感情を揺さぶられる音色だった。  短い一曲が終わると、チャールズは深いため息をついた。ピアノの蓋を閉じて、ゆらりと立ち上がる。右目の片眼鏡を外して、目頭を押さえた。イーサンはすぐに行って、抱きしめたい気持ちに駆られた。チャールズが泣いているように見えたので。  チャールズは片眼鏡を元通り眼窩にはめ直して、慣らすために眉を二三度動かした。赤い瞳は乾いており、涙の影もなかった。それから部屋を後にした。イーサンは見つからないよう、家の影に隠れた。チャールズは出て来たが、よもや覗かれていたとは気がつかないで、墓地へ続く坂を降りて行った。  このままチャールズの後をつけて行こうとしたが、聖堂の前まで戻ってきたところで、見失ってしまった。探そうとしたが、友人たちを置いてきたことを思い出した。チャールズへの気持ちは自分一人だけのものだ。絶対にバレてはいけない。後ろ髪を引かれながら、イーサンは博物館へ向かった。 「イーサン遅い」ロニーが手を振った。 「忘れ物は見つかったのか」ミカも心配そうに見ている。 「大丈夫ですよ、ありました。待たせてすみませんね」 「昔っから優等生のくせにどっかぬけてるよな、お前って」カーナは明るく笑う。  ウィリアムも静かに頷き、白い歯を見せた。  イーサンはチャールズへの執着をとりあえず心の奥にしまっておき、卒業旅行を楽しむことにした。  博物館は今まで開発された、ありとあらゆる魔道具が展示されていた。父から魔工技術を学んだイーサンは、現行で利用されている道具のいくつかも、材料と器具さえあれば作れるようになっていた。 「そうだイーサン。確かお前、写真機を作ったって言ってたよな」カーナは思い出したように言った。展示室には丁度、写真機が展示されている。 「はい。持ってきていますよ。実は忘れ物というのがその写真機だったので、どうしてもすぐ取りに行きたかったんです。ついでに聖堂の写真を撮っていて遅くなりましたがね」 「そんなことだろうと思った」密かな笑い声が起こる。 「ねえねえ、外に出たら、あたしとカーナを撮ってよ」 「いいですよ。みんなの写真を撮るつもりですから」  イーサンが写真機の入ったカバンに触ると、ロニーはカーナに飛びついて喜んだ。 「やったあ」 「ロニー、博物館では静かにしなきゃ」 「あっ、ごめん……」  兄に叱られ、カーナの後ろに隠れるロニー。 「外に出たら写真を撮って、お菓子でも食べましょうか」 「いいね。売店もいいんだけど、気になる店がいっぱいあるからなあ」 「食べ物のことを考えると腹が減っちまうな」 「……クレープが食べたいな」珍しくウィリアムが意見を言ったので、じゃあクレープ屋を探すかということになった。  博物館のモニュメントの前でくっつくカーナとロニー、クレープを黙々と頬張るウィリアムの隣でポーズをとるミカ、イーサンは友人の写真をたくさん撮った。写真機に特殊な紙を入れ、使用者の魔力を流すと、写真機の魔術回路が魔力を感知して、レンズに通したものを紙に映し出す仕組みだ。写真はその場で出来上がる。それなのに、チャールズの写真を撮るのはすっかり忘れていた。  イーサンらは市場や街中をあちこち散策し、クラスメートと合流するためにホステルへ向かった。  既に部屋では、二段ベッドの好きな場所を奪い取った者たちが勝ち誇っていた。イーサンは二段ベッドの支配者たちをなだめすかし、食事作りの仲間に加えた。安いがキッチンなどは自由に使える宿泊所なので、クラスメートたちと旅行前に相談し、何を作るか決め、買い出し係や調理係、配膳に後片付けなど、様々な役をくじで割り振っていた。イーサンは調理係だが、他の係を全て手伝った。自分が言いだした旅行がうまくいくようにしたかったが、何より友達の世話をするのが好きだった。  食事の後でイーサン、ミカ、ウィリアムは演奏会を開いた。イーサンはヴィオラ、ミカはフルート、ウィリアムはキーボードだった。そこにアーサーのバイオリンが加われば完璧なはずだった。クラスメートたちは、アーサーと仲が良かった者もそうでない者も、三人の奏でる音色に感じ入って、大切な人を偲んでいた。  イーサンは演奏しながら、やはり昼間のチャールズは白昼夢だったのではないかと考えた。チャールズのいる街だからといって、偶然会えるなんて、それも家があんなところにあるなんて、都合が良すぎる。イーサンはかぶりを振った。  かけがえのない時間はあっという間に終わった。二泊三日の短い旅行。イーサンは友人たちの写真を紙が途切れるまで撮り続け、演奏し、語り合った。チャールズのことは考えないようにした。きっとまた会える気がしたので。  クラスメートたちはそれぞれの生活に戻り、イーサンとカーナは魔狩人として、新しい任務を命じられた。 『黒き杯』という、不死を求めて邪悪な儀式や魔術を使うカルト教団の撲滅が目的だ。三カ月前、大規模な取り締まりが行われ『黒き杯』のメンバーは殆どが逮捕されたが、幹部の一部が逃走し、残った信者を集めてテロ行為を目論んでいるという情報が入った。  セントベルの魔狩人は、アンデッド退治が主だった活動ではあるが、悪しき魔術を行う者たちへ対抗し、市民を守る役目も与えられている。 「相手は人間だ。殺す必要はない。もし相手が抵抗し、やむなき場合以外は生かして捕えるように」  今回のリーダーを任された叔父の話に、イーサンはほっとした。殺す必要がないなら、いくらかましな気持ちで挑めるかもしれない。しかし、イーサンは知らなかった。人の感情が、時にアンデッドの生への執着より醜いことを。  魔狩人らは、カルト教徒が潜んでいるという廃倉庫へ向かった。一年前の襲撃によって、持ち主がいなくなった廃屋は数多く存在している。街の管理も未だ追い付かず、犯罪者の温床になるのは目に見えていた。  一人が感知の術で、倉庫の中に複数の人間がいるのを確認し、別の一人が扉に素早く式を刻んだ。爆破の術で鍵を吹き飛ばす。 「突入」  叔父の掛け声で、二十名ほどの魔狩人が一気になだれ込んだ。カルト教徒たちは不意を打たれ、とっさに抵抗するも敵わないと知ってか、次々に手を挙げて投降した。 「幹部がいません」 「感づかれたか」  周囲を調べたが、幹部の姿はなかった。魔狩人たちは一般教徒を拘束し、警察署に引っ張って行った。尋問すれば、幹部の居所が分かるかもしれない。  その間、残った者たちは倉庫を徹底的に調べた。中には生活の後や祭壇の他、調合設備が整えられていた。イーサンは機材を注意深く観察して、空気中に散布されると、吸い込んだ者に強い幻覚作用を引き起こし、凶暴化させる薬品が作られていることを仲間に伝えた。 「これはただの麻薬ではありませんね。高度な薬学の知識と、技術が必要です。それに機材や残った材料から考えて、残された薬の量が少なすぎます。どこかに運ばれた後かもしれません」  イーサンが告げると、叔父は頷いた。 「一般の教徒が知り得る知識ではないな。幹部の仕業だろう。我々が来るのを知って逃げ出したとしたら、ここは囮に過ぎないかもしれん。様々な可能性を考え、情報を集め、着実に動くのだ」 「はい」  すぐそばで考え込んでいたカーナが口を開く。 「散布して多くの人に影響を及ぼす薬品だろ。一体、どこを狙うつもりなんだ」 「幻覚作用を持つ薬品というのが気にかかりますね。叔父さん、三カ月前に『黒き杯』が狙っていた場所はどこですか」 「兵の駐屯所、それに警察署だな」  三人は顔を見合わせた。 「まずいな」 「ええ……やつらは市民を守る者たちに、市民を殺させる気なんでしょう。兵隊や警察が人を傷つければ、信頼は地に落ちますからね」 「兵団と警察も警備は強化しているだろうが、万が一のこともある。すぐに知らせなければ。イーサンは駐屯所へ、カーナは警察署だ。急げ」 「はい」  イーサンとカーナは、それぞれ数名の若い魔狩人を連れ、騎士団と警察署に走った。  駐屯所には甲冑を着た二人の兵士が見張りに立っていた。 「止まれ」  駆けてくるイーサンの小隊に対し、見張りは槍を交差させたが、外套に刺繍された鐘の紋章を見て、構えを解いた。 「なんだ、セントベルの者か」 「どうかしたのか」 「魔狩人のイーサンです。緊急事態です……」イーサンは素早く息を整える。「カルトの残党が、駐屯所と警察署を狙っているんです。敵は空気中に飛散する、幻覚性の薬品を持っています。すぐに防毒の結界を張りますが、警戒をお願いします」 「わ、わかった、すぐに知らせる」  兵士たちは頷き合って、一人が中へ知らせに入った。  イーサンらは門の柱を始点として、駐屯所を囲むように聖別されたチョークで印を刻んでいく。子供の頃から日々、魔術や道具による精神汚染に対抗する訓練をしてきた。吸血鬼は厄介な能力の一つとして、人を魅了し、惑わす力を持っている。悪しき術に操られた者も、心の喪失感を利用されている者も、対抗する術がなかったのだ。 「印を刻みました。発動させますので、建物の中から出る時は耐毒か、耐精神汚染の呪符や防具を身に着けてください」 「承知した。しっかし魔狩人ってのは、こんなこともできるんだな」兵士は感心して、柱に刻まれた複雑な印をまじまじと観察した。 「人々の安全を守るためですから。さあ、少し印から離れていてくださいね。魔力を流しますので、反動があるかもしれません」  魔狩人たちは散開して、それぞれ印に魔力を注いでいく。薄い光の膜が建物を覆い、全くの透明になった。 「これで大丈夫なのか」  兵士は膜のあった部分を指で触ってみる。何の抵抗もなかった。 「ええ、大丈夫ですよ。結界が破壊されないよう、気をつけてください。さて、警察署のほうにも行かなければなりませんので……それでは」  笑顔で一礼すると、兵士は槍を掲げて敬礼を返した。  イーサンは心配していた。カーナとはお互い駐屯所と警察署に着いた時、言霊の珠で連絡を取り合うように決めてあったが、未だ連絡はない。 「カーナ、聞こえますか」  反応はなかった。となれば魔力が何らかの形で妨害され、遮断状態にあるか、本人が話せない状況の二択しかない。イーサンらは念のため自分も耐毒の術で防御し、いつでも応戦できるよう、戦闘態勢をとりながら急いだ。 「く、遅かったですか……」  警察署は破壊され、味方同士で殴り合っている状況だった。入口の近くに、見知った姿がうつ伏せで倒れている。 「カーナ」呼びかけたが、返事はない。近くに別の魔狩人三名が倒れており、言霊の珠が落ちていた。連絡しようとしたところ、背後から攻撃されたのだろう。  生死を確認しようにも、こちらに気がついた警官が襲いかかってくる。毒によって操られているのだ。イーサンらは攻撃を躱しながら一旦引き、すぐに叔父の部隊へ応援を要請した。 「イーサンか、どうした」 「警察署がやられました。味方が四人倒れていますが、生死の確認はできません。至急応援を頼みます」 「すぐ向かう。応援を待て」  なんとしてでも、操られた警官たちが街へ流れることは阻止したかった。イーサンは身を隠しつつ、部隊に眠りの魔術を準備するよう、指示を出した。カーナの小隊は五人だが、一人が見当たらなかった。警官同様に操られてしまっているかもしれない。 「イーサン、準備できたぞ」 「こっちもだよ」  イーサンは頷き、術を発動するように合図した。霧状の空気が辺りを包み、入口付近で暴れていた警官たちは、次々と意識を失って倒れた。 「警戒しつつ、カーナの様子を見に行きますよ」 「了解」  魔狩人たちは隊列を組み、全方位に気を配りながら入口へ向かう。イーサンは倒れた四人に近寄って、脈を測り、怪我の様子を調べた。 「大丈夫、みんな生きています。怪我も大したことはありません。気絶しているだけのようですね」 「良かった……」  二人が素早く外套を担架代わりにして、仲間を注意深く運び出した。幸い、凶暴化した警官が襲ってくることはなかったが、毒を撒いたカルト教徒がどこかに潜んでいる可能性は十分にある。イーサンらは応援が到着するまで、カーナたちの応急処置をした。 「イーサン」  応援部隊が到着すると、イーサンは状況を詳しく説明した。 「そうか……来る途中で、暴れていた警官数名を鎮静化してきた。街の警備は問題ないが、まさかカナリスがしくじるとはな」叔父は意識を失っているカーナを見下ろした。口ぶりは厳しいが、表情は娘を心配する父親でしかなかった。 「仲間が一名見当たりません。毒にやられ、幻覚を見ているかもしれません」 「すぐに見つけて沈静化せねばならん。同時に幹部の行方を突き止めるのだ」 「はい」 「イーサンは署内を見回って、操られた警官の鎮静にあたってくれ」  叔父の連れて来た魔狩人たちは、それぞれチームを組んで駆けていく。イーサンも小隊を連れて署内へ入った。  割られた窓ガラスや倒れた棚を避けながら、凶暴になった者を見つけ次第、眠りの術で無力化していく。死人は予測したよりも少なかった。殴り合いにはなったが、武器を使った形跡は殆どない。警官に理性がある程度残っており、最悪の事態は避けられたということだろうか。  イーサンが次の部屋に入ろうとすると、言霊の珠を通じて叔父の声が聞こえた。 「幹部の居場所が分かった。我々は先に向かうが、お前の部隊は引き続き警官隊の沈静、治療を優先してくれ」 「わかりました」  言霊の珠は沈黙した。イーサンは仲間に合図を送り、連絡を伝えた。  残すところは二部屋しかない。応接室と、隣の所長室だ。魔狩人たちは集合し、血のついた両開きの扉を蹴り開ける。まず目に飛び込んで来たのは、倒れた二人の警官。奥側の壁にもたれかかっているのは、カーナ小隊の魔狩人だった。 「駄目です、死んでいます……」 「くそっ」  急いで立ち上がろうとする仲間の腕を抑え、イーサンはかぶりを振った。 「今だけは冷静に。最後まで気を抜かないようにしましょう」 「ああ、すまない」  残った扉に近づき、気配を探る。扉を蹴破り、中を確認するが、誰もいなかった。 「フリップが死ぬなんて」 「こんなの、酷いよ」  魔狩人たちは死んだ仲間の名前を呟き、拳を握った。 「……行きましょう。幹部を捕まえて、仇を取るんです」  イーサンは言霊の珠を取り出し、叔父に連絡を取った。 「こちらは終わりました。死者十二名、うち一人はフリップ・バーンズ。カーナ小隊の魔狩人です。怪我人は三十五名、治療は施しました。命に別状ありません」 「そうか。よくやった」 「俺たちも向かいます」 「いや……」叔父は一瞬言いよどむ。「お前たちは来なくていい。来るな。仕事は終わった」 「終わったのですか。では、幹部は捕縛したんですね」  叔父は魔導具の向こうで唸っている。 「どうしたんですか、叔父さん」 「イーサン。幹部は捕まえられなかった。やつらは自爆したのだ。だから、来るな。見なくていい」  連絡は途絶えた。イーサンの周りに仲間が集まってきている。叔父の不穏な様子に気がついたのだろう。 「自爆って、どういうことかな」 「つまり、そういうことじゃないか。カルト教団の幹部って狂信者なんだろ」 「敵討ちできないってことかよ」 「狂ってる」  仲間たちは悔し涙を流し、壁を殴り、叫んだ。イーサンは幾分か冷静だったが、気持ちは同じだった。正義の砦である警察署へのテロを許したばかりか、仲間が一人殺され、傷つけられて、犯人を捕まえられないなんて。  これから何度も、同じような理不尽な仕事を繰り返さなければならないのだとしたら、耐えられるのだろうか。仲間は、自分は――イーサンは心の中で静かに悲鳴をあげた。  カーナの怪我は大したことがなく、数日で退院できるようだ。ロニーは毎日泣きながら恋人のお見舞いに行き、逆に困らせていたが、亡くなった者の遺族に比べれば微笑ましいものだった。 「すまない、私が連絡できていれば、フリップを死なせずにすんだかもしれないのに」カーナは自責の念をこぼした。入院してから、毎日同じ後悔を繰り返していた。 「カーナのせいではありませんよ。あなたは耐毒の防具をきちんと装備していました。死人を悪くいうつもりはないのですが、フリップだけは怠っていたのです。それに、後ろから急に頭を殴られたら、連絡できなくても仕方がありませんよ」 「そうだよ、カーナは悪くないよ」 「うん……ありがとう」  恋人と従兄に励まされながらも、カーナがいつものように、明るく自信に満ち溢れた姿へ戻るには、時間がかかりそうだった。  イーサンはあの時ピアノを弾いていたチャールズが現実で、これから続く戦いの日々が夢だったらどんなにいいか考えた。カーナには心が傷ついた時、いつだってロニーが側にいる。イーサンにも両親や友達はいるが、チャールズだけが本当の気持ちを分かってくれる気がしていた。

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