14 / 31
第6話
石の人 六
夢の中で、薄暗い聖堂の中に立っている。右手の壁は一面ステンドグラスで飾られており、いくつもの柱に向かって虹の色彩を落とす。
イーサンは歩みを進めた。漂う香と静寂の中、靴音だけが響いていく。
柱の一つから影が滲みだし、窓に向かって伸びていった。影は長く尾を引き、集まって、やがて人の形に変わる。
人影はガラスに背を向けた。頬に色が映っている。青、紫、赤、オレンジ。まるで移り変わる夕暮れのようだった。
「先生」イーサンの声は驚くほど深く反響した。
人影は瞼を開けた。瞳だけが赤く輝いている。唇が何かを象ったが、聞こえなかった。こんなに静かだというのに。イーサンは腕を伸ばし、影を抱きしめようとした。するとステンドグラスからあふれた光が影の輪郭を焼き、燃やし尽くしてしまった。
天井まで続く色ガラスの一つ一つが繋ぎ合わされ、足元に幾何学模様を描き出している。光の中を舞うように、宝石質の灰が輝きながら落ちていった。
イーサンは燃え残った灰をかき集めて、叫ぶしかなかった。どれだけ泣いても、自分の声が返ってくるばかりで、愛する人はもうそこにいないのだ。
イーサンは目を覚まし、両手で顔を覆った。春先だというのに、体が底冷えるほど寝汗をかいている。
香木の甘ったるい匂いが室内を満たしていた。不死者を浄化した任務の後は、部屋に香を焚き、空間を清めるのがセントベル家の伝統だった。
カーテンを開け、濁った空気を入れ替える。目を突き刺すような朝の光と、野鳥の鳴き声。イーサンは髪を手櫛で整え、湿った寝間着を脱ぎ捨てた。
精神的に疲弊しきっていた。一年前、正式に魔狩人として部隊に配属されてから、ゆっくり落ち着いて休める日は滅多になかった。
魔狩人の仕事は、国内に蔓延るアンデッドや異端の者を浄化、または捕え、脅威を取り除くことだ。組織立って活動しているとはいえ、戦闘で死傷者が出るのは珍しくない。この一年で、十四名の仲間を失った。アンデッドと化した仲間を倒すのは苦痛以外のなにものでもなかった。
疲れているのはイーサンばかりではなかった。世論もアンデッドの殲滅に対して積極的になっており、人に紛れて生活する異端の者たちを暴こうと必死になっていた。ゴシップ誌には、国内外で異端の疑いがある有名人の噂が持ち上がっていた。チャールズ・クラウチもその中に含まれており、吸血鬼ではないかと取りあげられていた。
イーサンは新聞や雑誌を細かく追っていたが、信じたくなかった。先生が化け物であるはずがない。たとえ人間ではなかったとしても、誰かをむやみに傷つけるはずがない。しかし、人々は恐怖していた。店からは軒並み疑わしき有名人の著作物が消え、連日粗探しのような記事が書かれた。
『石の人』は最早、国から発禁指定になっていた。内容は石像が旅をする、危険な思想や表現など一つもない児童文学なのに、見つけ次第回収、処分されてしまう。
イーサンはチャールズのサインが入った『石の人』をより厳重に隠した。
朝食を摂りにリビングへ降りて行くと、両親は既に起きていた。
「おはようございます」
「あら、おはよう」
「おはよう、イーサン」
お母さんはソーセージを焼き、お父さんはティーポットに茶葉を入れているところだった。
「丁度良かった。牛乳をとってくれ。パンも頼むぞ」
「はい」イーサンは保存庫から牛乳を出し、テーブルの上に乗せた。
冷気を込めた魔導具のおかげで、気温が高くなっても食物は腐りにくい。イーサンの父は魔工技師として、今まで小さすぎるか大きすぎて家庭では使えなかった保存庫を改良し、見事に一般家庭へ普及させたのだった。
「イーサン、昨日の仕事はどうだったの」お母さんは玉子焼きの隣にソーセージを添え、テーブルまで持ってきた。
「問題ありません。ヴァンピール一体とグール四体を浄化しました。怪我人も出ませんでしたし」
「そう……」
両親は顔を見合わせた。
「うまくいったのに、元気がないのね」
「眠たいだけですよ」イーサンは作り笑いをして見せ、きつね色に焼きあがったパンをオーブンから取り出した。
「ところで、お前に昔買ってやった本があったな。えらく気に入っていた小説だ」
三人分のカップに温めた牛乳と紅茶が注がれる。イーサンは混じり合う色を見つめた。
「聞いてるのか」
「はい、聞いてますよ。本がなんですか」
「十三歳の時にあげた本だ」
「どの……本ですか」
イーサンは胃がひっくり返り、喉がひりつくようになって、つばを飲み込んだ。
「『石の人』だ。持っているだろう。知っているかもしれんが、今、発禁処分になった本を国が回収している」
「石の人、ああ。それなら、友達にあげてしまいましたよ」
「誰に」
「アーサーです。アーサー・ディアナン。二年前に亡くなった親友の」イーサンは嘘をついた。声が震えているのが、自分でもわかった。
暫し睨み合い、お父さんは視線を逸らした。
「……そうか」
「お父さん、尋問みたいなことはやめて。朝ごはんにしましょ。冷めてしまうわ」
食事どころではなかったが、イーサンは無理やりに朝食を腹に詰め込んだ。
チャールズは無事だろうか。チャールズの住む街、貿易都市アルヴァは外国である。国からの追及は防げるとしても、今後教会から疑いをかけられたら――イーサンは不安でならなかった。
ああ、今日も今日とて任務が待っている。
イーサンは招集を受け、駅へ向かった。黒塗りの箱に金字の紋章、セントベルの馬車に乗りこみ、要請のあった近隣の村へ出動した。
「マシュー、任務の内容を詳しく説明してください」イーサンは馬車の中で、目的となる村の地図を広げた。
四人の仲間が同乗しており、それぞれ退魔の武器を携帯している。彼らはみな若く、イーサンと同じ十九歳だ。数ヵ月の訓練を経て、一年前から魔狩人の部隊に配属された。
「共同墓地でグールが発生しているんだって。数は一体。吸血鬼の関与があるかは不明。浄化して、吸血鬼の関与がないか調べて来いってさ」マシューと呼ばれた若者は地図を見て、墓地の場所を指した。
「グール一体なら、僕たち新人のチームだけでもやれると判断したわけね」ヘザーは飴色をした顎に手をやった。彼女は弩(いしゆみ)を得意としている。
「どうかな。今までの任務も大したことないだろうって挑んで、結局大したことがあったし」不安気に返すのは、鞭使いのジェニファーだ。
「なるようにしかならんよ」トッドは馬車の揺れで鞄が動かないよう抑えている。鞄の中には医薬品が入っていた。彼は専門的な医学知識も備えた退魔士である。「精々お前らが怪我しないように祈っておくだけさ」
「話はそこまでだよ。村に入るみたい」
門番に向かって魔狩人の証拠である手形を見せると、マシューは剣を担ぎ直した。刃渡り一メートルほどの片刃剣だが、腰に吊るのでは邪魔になるからと、彼はいつもベルトに結びつけた鞘を背負っていた。
馬車が教会の前に止まると、司祭と墓守の老婆が待ちかねたように飛び出してきた。墓守は掃除をしているだけの非力な年寄りであるし、司祭はなんとかグールを外に出さないよう結界を張ったが、倒せるほどの法力や手段は持っていないようだった。
二人から詳しく事情を聞き、五人は隊列を組んで墓地の敷地内に入った。
墓は荒らされ、掘り返された遺体が散乱している。グールは遺体を喰らうのだ。
「酷いな」ジェニファーは口元を覆った。
他の者も黙ってはいるが、それぞれ顔をしかめている。
「ここに気配はないようです。奥へ行きましょう」イーサンは銃剣を構えて先導する。
共同墓地は広かったが、瘴気の強い方向から気配を探って進むのだ。魔狩人はそのような技術に長けていた。
グールは早々に見つかった。ぶよぶよと膨れた体で、墓から掘り出したばかりの遺体を貪っている。生前の姿は見る影もなく、性別も年齢も不明だった。
まだこちらには気がついていない。イーサンは物陰に隠れながら、ヘザーに合図した。ひとまず遠距離から攻撃を加えるのだ。ヘザーは弩の矢をセットし、巻き上げる。
グールは一心不乱に遺体の肉を食い漁っている。イーサンは吐き気をこらえながら、矢を放つよう指示を出した。
清められた銀の矢が一直線に飛んで行って、グールの後頭部に突き刺さった。グールはこちらを振り向こうとしたが、刺さった箇所から焦げるように溶け、黒い灰になった。
「やった」ヘザーは墓石の裏から飛び出していこうとしたが、他にグールがいないとも限らない。敵の気配を探りながら、慎重に立ち上がった。
「他にはいないみたいだな」
「やれやれ」
トッドとマシューがゆっくりと出てくる。
「自然発生しただけかな」ジェニファーはグールだった灰に近寄り、袋を開いてできるだけ回収した。持ち帰り、然るべき方法をとって浄化しなければならないからだ。
「そのようですね。瘴気が薄れて行きます。念のため、警察署にも寄って行きましょう。吸血鬼の被害があればわかるはずですから」
「了解」
四人は頷いた。
結局、グールは単体で発生しただけだった。稀に魔力を持ち、強い欲望を抱いて死んだ者が不死者となって蘇る事例はある。大抵の場合が屍を喰らうだけの、意思もないグールに成り果てるのだが、もっと強力な魔力を持つ者であれば、吸血鬼になって生者を襲うこともあるのだった。
何故死人が蘇り、魔物になるのかはわかっていない。何にせよ、安全な生活を脅かす者は、必ず排除しなければならなかった。
イーサンはほっとして帰宅した。仕事は久しぶりに簡単だったし、誰も怪我をしていない。帰ったらクラウチ先生の写真を眺めながら、ゆっくり過ごしたい――そう思ったのもつかの間、胸騒ぎがした。
庭のほうで煙があがっている。イーサンは焦燥感を抱きながら近づいた。暖かい春なのに、どうして火など炊いているのだろう。
たき火だ。中で何かが燃えていた。父親が火のそばに立って、燃えているものを見下ろしている。炎に照らされ、顔に深く刻まれる陰影。お父さんはこんなに老けた顔だったろうか――イーサンは声をかけようとした。喉が渇いて、出せなかった。燃えているものが何であるかわかったから。
「あ、ああ」枯れた声を絞り出すようにして、イーサンは火に駆け寄った。
「イーサン」父親は振り向いた。見たことがないような目と、引き攣った顔で。
イーサンは火の中から焼けていく物を引っ張り出そうとした。スクラップの切れ端が燃えている。愛する人の写真を集めた、大切なスクラップが燃えている。
「やめなさい、イーサン」
父親に胸を押されて、イーサンは倒れた。
「俺の、どうして」
「今朝兵隊が来てな。国からの命令なのだ。セントベルの人間は国と教会に逆らってはならん、知っているだろう」
「でも――」言いかけて気がつく。「ほん、は。俺の本……『石の人』は」
「無い。真っ先に燃やされた」
「ああ……ああ……」
イーサンは火に向かって腕を伸ばしたが、目の前が涙であふれ、くずおれるしかなかった。
「イーサン、お父さんは止めようとしたんですよ。ごめんねイーサン」いつの間にか母親が来て寄り添っていた。
両親は他にも何か言っていたが、イーサンには何も聞こえなかった。全てがなくなってしまった。子供の頃からずっと支えてくれた、愛する先生との繋がりが、全て。
いつ戻ったのだろう。イーサンはぼんやりと、部屋の真ん中に佇んでいた。
壁の隠し棚は取り払われて、ぽっかり穴が開いていた。チャールズの論文も、スクラップも、録音した機械も、本も、何も残っていない。隠し棚は巧妙に作ったつもりだった。本はよりわかりづらく、二重底の下に隠した。なのに、あっさりと見つかってしまうなんて。
イーサンは目を閉じた。夢の中で燃えるチャールズの姿が浮かんでくる。
なめらかなブルネットの髪も、青白い肌も、光沢のある燕尾服も、炎に包まれ灰になってしまう。金のモノクルがひび割れ、溶けていく。チャールズの唇が動き、最後に何かを象った。
『たすけて』
瞼を開けると、何もない空洞が目に入る。イーサンは悲しみに震えながら膝をついた。
「せいぎのために、たたかったのに」拳を握りしめる。「女の子を殺したのに。アーサーを殺したのに。正義のために戦ったのに」
握った拳を振り上げる。しかし、一体何にぶつければいい。両親は国と教会に逆らえない。セントベルは異端を排除する異端として容認されてきた家だ。結局どこにも向けられないまま、イーサンは二たび脱力した。
着替えもせずにベッドの上でうつ伏せになっていると、部屋の中が妙に暗かった。いつの間にか日が落ちている。
イーサンはおもむろに起き上がって、旅行鞄を引っ張り出した。着替えを入れ、工具や調合器具、他にも道具類をまとめて詰め込んだ。
異常なほど冷静になっていた。まずは国を出て、貿易都市アルヴァへ行こう。そこでチャールズに会い、本当のところを確かめるのだ。
真夜中、荷物を持って階下に降りた。両親はすでに眠っているのか、静かだった。イーサンは生まれてから十九年過ごした家を出ようとしていた。昨日まで談笑していたリビングを通り過ぎ、玄関の扉に手をかけると、背後で気配がした。
「行くのか」
扉に手をかけたまま、振り返った。寝間着姿の両親が、幽霊のように立っている。
「はい」
「イーサン、帰ってくるでしょ」
母親は涙ぐんでいる。イーサンは答えないで、扉を開けた。
「待ちなさい。金は持ったか。忘れ物はないんだろうな。誕生日までには――」
戻ってきなさい。父親の最後の言葉を聞きおわる前に、イーサンは自宅を飛び出して、夜の街を駆けた。
馬車で通った街道を徒歩で進む。月明りとランタンの光が、自分の影を長く伸ばしていた。イーサンは黙々と進んだ。
チャールズのいる貿易都市アルヴァまでは、馬車であれば半日だが、人の足だと一日はかかる。
峠に差し掛かった時、背後から迫ってくる物々しい気配に立ち止まった。蹄鉄が土を蹴る音。二頭立ての馬車が通り過ぎ、前方の道を塞ぐように停まる。黒地に黄金の鐘のしるし。セントベルの馬車だ。イーサンは隙なく構えた。
馬車から降りて来たのはイーサンの部隊にいた四人だった。剣士のマシュー、弩使いのヘザー、鞭使いのジェニファー、退魔士のトッド。
「何をしに来たのですか」
「もちろん、連れ戻しに来たんだよ」マシューが先頭に立った。彼は背中の剣の柄に手をかけている。
「イーサン、戻ってきて。命令だよ」
「今なら間に合う」
ジェニファーの鞭はリーチが長いし、ヘザーの弩は巻き上げが終われば直ぐに発射できそうだ。仲間同士で戦うつもりなのか。
「本家の人間が逃げ出すなんて、あっちゃならないことだ」
イーサンは静かに答えた。
「戻るつもりはありません」
「力ずくでも連れて帰れと言われてるんだ」トッドは詠唱を始めた。眠りの呪文だ。しかし、イーサンは素早く沈黙の術を唱え、無力化した。
――もっと略式詠唱を勉強しておくべきでしたね。トッドは呪文を封じられて苛立ち、地面を踏み鳴らした。
次に向かって来たのはマシューだ。イーサンは覚悟を決めて、銃剣を抜いた。おどりかかったマシューの一撃をいなし、脛に軽く蹴りを入れる。マシューは自分の体重に吊られてこけた。ヴァンピールの動きと比べれば、人間などお話にならないほど遅い。
「いったぁ……やっぱり無理だ、勝てないよ」マシューは剣を落とし、蹴られた脛を押さえている。
「イーサン、武器を捨てなさい」ジェニファーの鞭が銃剣に絡みつこうとする。
聖鞭は剣より長い範囲へ届くが、しなる時に隙が生じる。イーサンは素早く回避して、威力を落とした魔力の弾丸をジェニファーの手元に当てた。
「痛っ」鞭がはじけ飛び、ジェニファーはとっさに手の甲を見る。かすり傷だが、暫く武器を握れそうにない。
「やめてよイーサン」すぐにヘザーの矢が飛んでくる。
矢は外套に穴を開けただけだった。ヘザーの手元は震えている。仲間に矢を向けることに慣れていなかった。
これ以上相手をしては、もっと酷い怪我人が出るかもしれない。イーサンは腰のポーチから石を掴み、放り投げた。
「すみませんね、みなさん。今は見逃してください」
「なっ――」
地面にぶつかった石から眩い光が放たれる。目くらましに使う魔導具、光星石だった。
四人が体勢を立て直す前に、夜の暗がりへ身を潜ませた。峠は踏み固められた道を外れると森が広がっており、土地勘のない者が進むのは難しい。イーサンはあらかじめ、どの方向へ進めばどこへ出るのか調べていたし、暗視の魔術も会得していた。
四人はイーサンの気配を感知の術で調べたが、イーサンは隠ぺい術のスクロールで身を隠しており、案の定追うことができなかった。
新人の四人を撒くことなら簡単だが、この先ベテランの魔狩人が連れ戻しに来たら、逃げおおせる自信はなかった。しかし国外ならば、おいそれと手出しをすることはできないはずだ。
イーサンは疲れた脚に鞭を打って、街道から外れた道を選び、ひたすら貿易都市アルヴァを目指した。
朝日が昇る頃、ようやく門にたどり着いた。イーサンは眠そうな門衛に身分証を見せた。
「どうぞ、良き滞在を」
何も追及はされなかった。貿易都市は多様な民族や種族に開かれた街である。聖女の名を戴き、善も悪も等しく受け入れる街、アルヴァ。
チャールズ・クラウチの住むこの街で、新しい生活を始めよう。イーサンは元気を出し、肩に食い込む荷物を抱えなおした。
朝市の雑踏に紛れると、自国とさほど離れてはいないのに異国の風情が漂う。イーサンは腹の虫が鳴くのに気がついた。昨日の昼から食事をしていない。とにかく、何か腹に入れなければ。
イーサンは小遣いと、使う機会もなく溜めこんだ給料を全て持って来ていた。遊んで暮らせるほど多くはないが、暫くの食費と、新生活を始めるだけの額はあるだろう。
屋台で肉と野菜を包んだパイ、りんごを買って、時計塔前の広場で食べた。巨大な時計塔は図書館になっており、アルヴァ名所の一つだ。
近くの出版社でサイン会があり、十五歳の時サインをもらった。イーサンは喪失感に寒気すら感じた。表紙がかすれるほど何度も開き、暗唱できるほど読んだ大切な本はもうない。ただの古びた本ではなかった。買い直せば済むものでもなかった。イーサンにとって『石の人』はチャールズそのものであり、両親から与えられた愛情の思い出でもあったのだ。
食べ終わってから宿を探した。いつまでも荷物を引きずりながら歩くわけにはいかない。アルヴァは旅人や商人が多く立ち寄る街である。幸いにも、安い料金で泊まれる宿には事欠かなかった。
イーサンは宿の台帳に名前を記入し、部屋に荷物を置いて教会へ向かった。
一度訪れた道順は詳しく覚えている。時計塔の西側を暫く行くと、教会の尖塔が見える。教会の裏手には墓地があり、夢でなければ丘の上にチャールズの家があったはずだ。
風景は変わりないのに、一年前にクラスメートと訪れたのが大昔のようだった。中へは入らず、墓地のほうへ回る。茂った木々の間を抜け、坂を登ると、チャールズの家に着くだろう。
「あった……」
白いレンガの壁と、灰色の屋根。バルコニーの向こうにはガラス張りの窓が設えてあり、室内にグランドピアノが見える。夢ではない。何も変わっていなかった。
家まで来たのはいいが、イーサンは二の足を踏んでいた。もし先生に会ったとして、何と切り出せばいいのかわからない。
玄関まで来て悩んでいるうちに、酷い眠気が襲ってきた。宿に戻りたくても、溜まった疲労のせいで動けない。イーサンは二本の支柱の間に入って、ぐったりと眠りこけてしまった。
「……い、きろ」
頬を誰かがぺちぺち叩いている。
「起きろ」
イーサンは瞼をこすった。気を失っていたのか。
「おい小僧、起きろ」
抑揚のない声の主に顔を向ける。青白い肌、赤い瞳。右目には金色の片眼鏡をかけ、ブルネットの髪を後ろに流している。イーサンはぱっと目を見開いた。
「せんせい」
「やれやれ、寝ぼけた酔っ払いか。人んちの前でいい気なもんだぜ」しゃがんでいたチャールズ・クラウチは体を起こして、ウーンと腰をひねった。黒い燕尾服の裾がスカートのように広がる。
「先生、クラウチ先生ですか」
「だから言ってるだろ。ここは俺んちの玄関。酔っ払いか出版社か記者か知らんが、もう一時間近く家に入れなくて迷惑なんだよ。さっさとどいてくれ。警察を呼ばれたいのか」
イーサンは慌てて起き上がった。すっと背を伸ばすと、チャールズの頭が自分の胸元に来た。こんなに小さかっただろうか。
「でっか」チャールズはイーサンを見上げ、森を歩き回って汚れたブーツを綺麗なハイヒールのつま先でつついた。「ほら邪魔だ」
「ごめんなさい先生、俺、先生に会いたくて」イーサンは柱の横にずれながら、チャールズのイヤリング辺りをぼうっと眺めていた。
金にふちどられた紫の宝石と真珠が、ゆらゆらと繊細に揺れている。くっきりと筋の浮き出た首は襟に詰められ、光沢のある紫色のリボンで留められていた。
まだ夢の中にいるかもしれない。イーサンは瞬きした。本物がいて、動いている実感がない。新聞記事や論文発表のチャールズは、感情が抜け落ちたようだったのに、目の前にいるチャールズは案外情緒が豊かである。
「目は覚めたか。しっかりしてくれ」
イーサンは我に返った。
「はい」
「言っただろ。取材は受け付けない。ゴシップ誌にあることないこと書きやがって。俺はただの冒険者だっての」
チャールズは扉を開けて中に入ろうとする。その手首をとっさに掴んでしまった。
「待ってください。そういうのじゃないんです」
ぎこちない言葉しか出なかった。いかなる時も、誰に対しても明瞭に答えられるよう訓練してきたのに。心臓の鼓動が耳まで届いて、冷静になれない。黒い手袋とシャツの境目、わずかに見える肌の部分に初めて触れた。すべすべして冷たく、指で撫でると骨の形がはっきりわかる。
「じゃあなんだよ。だったらその丸パンみたいにでかい手を離せ」
言われた通り、大人しく手を緩めた。小さく細い手首が滑り落ちていく。
「サインを……失くしてしまって」
「はあ」怪訝に眉を寄せるチャールズ。
「昔先生にサインを頂いて、大切にしていた本を失くしてしまったんです」
「で、わざわざ家に押しかけて、寝ちまったってか」芝居がかった溜息。チャールズは「待ってろ。ついてくるなよ」と釘を刺し、家の中に入っていく。
イーサンは主人を待つ犬のようにじっと立っていた。
暫くして、チャールズは読み擦れのない、新しい本を一冊持って出て来た。
「サインが欲しいなんて珍しいやつだ。余ってるからやるよ。金はいらない」イーサンの分厚い胸へ押し付けるようにして、チャールズは本を渡してきた。
「あ、ありがとうございます」
「満足したか。じゃあもう帰れよ、坊ちゃん。俺は忙しいからな」
バタン。
感激を伝える間もなく、玄関の戸が閉まる。イーサンは胸に押し付けられたままの本を抱きしめ、ベランダの下に移動した。
ピアノの音が聞こえてくる。染み入るような、優しく切ない音色だった。一年前よりは上手になっている。イーサンは死角にしゃがみこんで、演奏が終わるまでじっと聞き惚れていた。
もっと落ち着いて、うまく話せるようになってからまた会いに来よう。イーサンは本の匂いを嗅ぎながら帰った。紙に混じって、ほのかに甘い香りを感じ取れる気がした。
ともだちにシェアしよう!