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第7話

 石の人 七  風に乗って、焼き立てのパンやおかずの匂いがやってきた。昼時のギルド兼宿屋は、安価な定食を求めて人の出入りが激しくなる。  イーサンは二階の窓から酒場の様子を眺めた。うるさいほどの賑わいである。だが、チャールズ・クラウチがよく仕事を請け負っているギルドなら、騒々しさすら愛おしく感じた。  新しい生活は部屋を借りることから始まった。古い建物の二階が我が家である。一階は道具屋になっており、お婆さんが薬草や日用雑貨などを売っている。  人の良いお婆さんは、埃まみれの物置を片付けてくれるならと喜び、タダ同然で貸してくれた。  簡易ベッドの隣にテーブルと機材を置き、薬や魔道具を作れるように整える。 「うん、いいですね。ここなら何でもできそうです」イーサンは満足して、埃まみれになった顔をシャツで拭う。  やることが山積みだった。まずは立地の割に廃業しかけの道具屋をなんとかしなければ。  お婆さんは昔、薬の調合もしていたようだが、今は歳のせいでうまく作れなくなっていた。イーサンはお婆さんの代わりに様々な薬草を加工して、上質な薬を調合した。薬品の知識と調合はお母さん仕込みだったので、どんな薬も難なく作れた。  次に倉庫に眠っていたガラクタを集めた。イーサンはまだ使える部品を再利用して、新しい道具を作るのが得意だった。魔工技術はお父さんの知識を厳しく教え込まれた。設計図を書き、魔術回路を作って外殻を組み立てる。お父さんのように腕の良い技術者が作った魔導具は、外殻が壊れない限り半永久的に使えるものすらある。イーサンは試行錯誤して様々な道具を作り上げた。  店に埋もれていた羊皮紙には、これまた埃をかぶっていたインクを再利用し、魔術のスクロールを作った。専門的な知識や心得がなくても、読み上げるだけで魔法が発動する便利な道具だ。スクロールの製作は、魔術学院の必修科目だった。親友のアーサーはスクロール製作が苦手で、いつも補習を受けていた。イーサンはアーサーに付き合いながら、いくつもの新しい応用魔術を考え出していた。三つの術式を組み合わせた結界術は、ベテランの退魔士ですら考えつかないような高度なものだった。  準備が整うと店のチラシを作り、冒険者ギルドや闘技場、警察署にまで配って回った。  初めこそ客足がほとんどなかった道具屋は、品質のいい薬や便利な魔導具、他にない魔術のスクロールを売り出したことで、すぐ評判の店に変わった。殆どの客は近所の冒険者ギルドから来た冒険者だった。  イーサンは冒険者と付き合っているうち、その多様さに舌を巻いた。獣人などの亜人種のみならず、モンスターやアンデッド、妖精に、錬金術で生み出されたホムンクルスまで、ありとあらゆる種族が、人の世界で争うことなく共存しているのだ。  自分の街には人間か、非常に人に近い亜人しかいなかった。それ以外の種族とは意思の疎通ができないと思い込んでいたし、今まで試みても無駄だったのだから。  なかでも、吸血鬼の冒険者には価値観を揺るがされた。人の血を摂取しなければ存在できないはずが、誰かを襲うことなく、輸血用の血液か人工的に作られた疑似血液で補っているという。  人間の寿命は決まっており、定められた永遠の命に入るため、いつか肉体の死を迎える。それはイーサンがずっと信じて聞かされてきた教義であり、自然の摂理だった。しかし、本当に正しいのだろうか。誰も傷つけていないのだとしたら、許されても良いのではないか。  もしも、チャールズ・クラウチが噂通り吸血鬼だった場合を想定した。人と共存していける吸血鬼が存在するなら、チャールズもまたうまく共存しているに違いない。  イーサンは人工血液を陳列し、チャールズが買いにくるかもしれないと淡い期待を抱いたが、店に姿を現すことはなかった。  一年と半年が過ぎる頃、道具屋はすっかり繁盛し、自分たちが店に出なくても済むよう、売り子を雇うまでになっていた。お婆さんは時々店に出てきて、にこにこと手伝った。  二年経つと商人とも親しくなり、自分が作った物ばかりでなく、需要のある商品を仕入れる知識も得ていた。  さらに売り子を増員し、店を改築して経営をも任せた。  そうなるとイーサン自身は店でやりたいことがなくなった。あくまでチャールズとうまく接するのが目的だったので。  イーサンは商人ギルドのツテを使って、色々なギルドに顔を出した。街は人の集まりで出来ている。人の集まるところには情報があり、ギルドはその最たるものだ。チャールズ・クラウチは世界的に有名な冒険者である。チャールズと並ぶにはどうすればいいか、情報を得たかった。  最も手っ取り早い方法は、自身も有名になることだ。有名になるには、人々の信頼を得るのが一番である。冒険者ギルドは、無名の人間にいきなり難易度の高い仕事を与えてはくれない。結局行きついたのは、賞金首を捕まえることだった。  賞金首はただの指名手配犯ではない。様々な事情があって、警察や中級クラスの冒険者が手出しできなくなった犯罪者やモンスターである。  ただどこかに潜んでいて見つかりにくいだけの賞金首なら、戦闘能力に自信のない賞金稼ぎとて、情報さえつかめば捕縛できる。これは人気の物件で、貼り出されたが否や、すぐに誰かが捕まえてしまう。  厄介なのは、強くて手出しができない賞金首だ。兵や警察は税金で動いているので、不確かな情報に対して、おいそれと動くことはできない。他に対処しなければいけない仕事がいくらでもあるからだ。冒険者は少人数で動くため、もっと割が良く、確かな仕事を受けたがる。  よって相当な被害が出ているにもかかわらず、数年も放置されっぱなしの賞金首は、市民の怨嗟を反英雄の如く集めていた。  イーサンは警察から指名手配されている山賊の一派『飢狼団』を探すことにした。『飢狼団』は商人ギルドからも冒険者に依頼を出したが、受けたお人好しはみな返り討ちに合っている。何チームもの冒険者を返り討ちにした悪名が高じて、受け手がおらず、数ヵ月も放置されていた。  そのような恐ろしい山賊に、イーサンは一人で立ち向かう気でいた。イーサンには策があったし、自信もあった。  黄昏時、イーサンは『飢狼団』が出没する街道に向かって荷馬車を走らせた。切り立った崖の真ん中を通る道は、罠を仕掛け、弓で狙うに恰好の場所である。  荷馬車が道を通り抜けようとすると、車輪が引っかかって動かなくなった。御者は馬車から降りて、車輪に引っかかった石かなにかを取り除こうとした。  突然、御者の首を矢が貫く。『飢狼団』が姿を現したのだ。その数は二十名ほどだろうか。軍隊まがいに質の良い武装をしている。元は落ちぶれた軍か傭兵だったのかもしれない。 『飢狼団』は崖の上から矢をひたすら浴びせかけた後、反応がないのを見計らって飛び出してきた。  すると馬車から武装した護衛が降りてきて応戦した。散々矢を受けたにもかかわらず、護衛は無傷であった。山賊どもはうろたえたが、直接殺してしまえばすむことだと、それぞれ武器を持って襲いかかる。  不思議なことに、護衛たちは斬りつけようとも魔法をあてようとも手ごたえがなく、気がつけば誤って味方を斬ってしまっている。  さすがの山賊どもも参ってしまい、一旦崖上に引くぞと我先に撤退を始めた。だが遅かった。いつの間にか頼りの弓兵は急所を撃ち抜かれて死んでいるし、逃げて来たはずの仲間は半分以下に減っていた。  山賊どもは幽霊の仕業を疑った。 「今まで殺してきたやつらの怨念が降りかかってきたんじゃ……」 「呪われてるんだよ、だから山賊なんか早くやめるべきだって言ったんだ」  恐怖をあおられた臆病者たちが騒ぎ始める。最早統制はとれないだろう。  策は上々だった。イーサンは身を潜め、よく観察していた。早く逃げ出した者や、怒りの感情が強い者、怯えを見せた者を優先的に残す。怒りや恐怖は感染し、冷静な判断を失わせる。  真っ先に倒すべきは薬品の影響が及び難い、崖上の弓兵たちだ。あらかじめ沈黙の術を仕掛け、弓兵たちが違和感を伝えようにも、声を出せないようにした。  風上から無臭の薬品が流れていることに、山賊どもは気がつけなかった。馬車の中には誰も乗っていなかった。馬車自体が、魔工技術で自動的に直進するからくりを使った罠である。御者は指定された動きをこなすだけの人形だった。  山賊どもは風が通り抜ける隙間の、最も空気が集まりやすい場所におびき寄せられ、幻覚剤にあてられた。ただの毒物であれば、体質によって効き方が異なるし、すぐに毒だと気づかれるだろう。しかし幻覚なら、数人に効果が出さえすれば精神的に追い詰められる。相手が集団であればあるほど有効な手だった。  イーサンは混乱した山賊どもを遠距離から銃剣で始末していった。どれほど武力を持とうとも、急所に当たれば人間は死ぬのだから。  問題は烏合の衆ではなく、やつらをまとめている首魁の存在だ。『飢狼団』の頭はまだ姿を見せていない。おそらくこの場に来てはいないのだろう。そのため、数名の山賊をあえて生かし、泳がせておいた。頭が上等でも、部下が愚かなら打つ手は如何様にもあるというものだ。  案の定、山賊どもは転がるように駆けて行った。イーサンは山賊を追い、わずかに魔力を感知した。  確証できる。頭はそこそこに手練の魔術師だろう。ならば、逆に都合が良かった。お前を相手取るのは、今までのようなにわか仕込みの賞金稼ぎや冒険者ではない。邪悪な術に対抗するすべを備え、毒を以て毒を制す者――魔狩人なのだと。  崖のふもとに、雨風によって削られたほらあながある。残った山賊たちは逃げ帰って、ローブを着た老人に報告していた。 「何があった。帰って来たのはお前らだけか」頭は冷静な口ぶりだが、焦燥感を抱いているのが伝わってくる。 「わかりやせん、きっと幽霊です」 「馬鹿な。弓兵は打ち殺されていたのだろう。幽霊がそんなことをするはずがない。知恵ある人か亜人の仕業だ。わしが調べてやろう」  頭は杖を持って集中した。そこそこに略式された気配感知術の詠唱だ。周囲に人間ほどの生命の気配があれば、おおよその人数がわかる。中級の魔術師ならば、大抵の者が使える術だった。  イーサンはあえて妨害しなかった。どのみち、姿を見せるつもりだったので。 「むっ、そこにいるな」  山賊どもはほらあなの入口に向かって、それぞれ武器を構える。イーサンはのんびりと姿を現した。 「やれやれ、バレてしまいましたか」  半ば笑みさえも浮かべる長身の若者が、たった一人である。山賊どもは怪しみ、さらに余裕を失った。 「何者だ、冒険者か」 「さて。なんでしょう」  暫し睨み合う。頭は手下と不気味な若者の間に割って入る。イーサンは音で判断した。たっぷりと裾を取ったローブを着こんでいるが、下には鎖帷子を身に着けているのだろう。見た目は年寄りだが、狼のように狡猾である。 「待て待て。なあお前さん、お若いのに随分とやるじゃあないか。ここに残ったのは年寄りと、三人の部下だけじゃ。もう悪いことはできんよ。見逃してはくれんかのう」 「その保証がありますか」  頭はわざと腰を折って、か弱い老人を演じた。 「旅の者から奪った財宝がこの奥にある。わしらの賞金なぞ銀貨五千枚じゃろう。財宝は銀貨七千枚分はある。それで勘弁してくれんか」 「へえ、銀貨七千枚。それはすごいですね」勤めて明るく振る舞いながら、じりじりとほらあなの中へ入って行く。  山賊とイーサンの位置が次第に入れ替わり、全く逆の立場になった時、頭は突如態度を豹変させた。 「ハハハ、馬鹿め。こんなところに財宝があるものか。生き埋めになるがいいわ」  天井に向けて、火球が飛ぶ。無詠唱の炎術。足で描く歩印による発動だ。  しかし、イーサンは笑みを崩さなかった。 「残念ですね、そうはいかないんです」  火球はいつの間にか壁に描かれた小さな刻印に吸収され、ほらあなを崩す前に消失した。代わりに、刻印から入口を覆うように粘着性のある結界が発動する。 「逃げ道を塞がれただと」 「貴様……」 「炎を感知して吸収し、発動するように組んだ結界です。天井に爆発物が仕掛けられているのはわかっていましたから」  イーサンは胸を張り、大げさに両手を広げた。 「お、お頭ッ」 「ええい、ならば直接殺すまでよ。やれ、相手は若造だ。四人がかりでやりゃあすぐに片がつく」  本性を現した頭は、手下を消しかけながら新しい術の発動を試みた。 「おっと、すみません。実はこんなこともできるので」  広げた手を胸元に寄せると、入口の結界が網状に伸び、四人の山賊どもを絡めとってしまった。 「なんじゃこりゃーっ」 「身動きが取れねえッ」  イーサンは粘つく魔法の網で四人をぐるぐる巻きに縛り、頭の杖を奪い取った。もちろん、猿轡をして詠唱を封じるのも忘れない。 「なに、単なる術の応用ですよ」  山賊どもは暫くもがいていたが、動けば動くほど網が絡まるので、観念して大人しくするしかなかった。  新聞の見出しには『飢狼団壊滅』の文字が、そこそこ大きく載っていた。イーサンは商人ギルドから感謝され、警察署からは賞金と、表彰状までもらった。  奪われた財宝は手下の自白によって発見され、持ち主や持ち主の遺族に返還された。  新鋭の賞金首として一躍名を馳せたイーサンは、経験を足掛かりにして、次々と厄介な賞金首を捕縛していった。  あくせく働いているうち、家を出てから三年の月日が経った。イーサンは二十三歳になっていた。  その頃のイーサンは、評判のほかに容姿も少し気にするようになっていた。黄金の髪と空色の瞳、日に焼けて鍛えられた体。清潔な身なりで、歯並びは整い、背中に真っ直ぐな板が入ったように姿勢も良い。誰から見てもさっぱりとした好青年ではあるが、イーサンとしてはもっと自分らしい姿になりたかった。  特徴のない短髪を伸ばして、前髪を左側に流し、後ろは短く刈り整えた。顎髭も格好良く切り揃えたイーサンは、次第に若者から大人の男へと変貌していった。  全てはチャールズに愛されるためである。しかし、本人に直接会って話をするのは憚られた。チャールズは学者としても、冒険者としても自由に生きているのだし、むやみに姿を見せて嫌われたくはなかったから。  代わりに、イーサンはチャールズがギルドで借りている部屋を調べたり、仕事のない日にどのような日々を送っているか、詳しく観察していた。  新しいスクラップを作り、チャールズの活躍を収集した。自分が賞金首を捕縛した記事と、近い位置にチャールズの記事があった日などは、密かにごちそうを用意し、杯を傾けて喜び祝うのだった。  秋も半ばになり、冬の寒さが近づいたある日の朝、イーサンはいつものようにチャールズの後をつけていた。  仕事がない日のチャールズは隙だらけだ。イーサンがどんなに疲れていようとも、尾行に気付くそぶりを見せたことはない。  チャールズは立ったりしゃがんだり忙しかった。近所の野鳥の巣を気にしたり、道端に落ちている石ころの模様を気にしたりする。拾った昆虫を腕にくっつけて歩いていたことも、着いてきた野良犬や野良猫を追い払うでもなく撫でながら、困っていたこともある。よく今まで無事でいられたものだと心配になるほどに。  イーサンは裏の情報にも詳しい。チャールズのような英雄が裏で悪人どもから狙われ、賞金を懸けられているのを知っている。実際、尾行していた時に怪しい者を見つけ、捕まえたり通報したこともある。  無防備なチャールズが傷つけられぬよう、守らなければならない。そのためには多少の干渉も必要であり、仕方がないことなのだ。  チャールズは大抵、ギルドに借りた部屋で寝泊まりしている。朝、ミサを始める鐘が鳴る頃に起き出して、教会の前まで歩いて行く。チャールズの家は教会の裏手にあるが、すぐに移動はしないで、立ち止まってじっと佇んでいる。  ――きっと音楽を聞いているのでしょうね。  チャールズは流れてくる聖歌とオルガンの音色に、目を閉じて聞き入っている。イーサンはしおらしい姿をうっとりと眺め、悲しげな表情を何枚も魔法写真に写しとった。  ミサが終わって、人が出てくる時間になると、チャールズは逃げるように墓地のほうへ向かった。白いレンガの自宅に入り、ひとしきりピアノの練習をしてギルドに戻る。時々着替えたりもしているようだ。  どうして自宅で寝泊まりしないのだろうか。チャールズがもしゴシップ誌にあったように吸血鬼だったとしても、悪事を行っているという証拠は何もない。もしも怪しいものがあったなら、邪悪の証拠があったなら、調べなければ。イーサンは気になり、こっそり合鍵を作って忍び込んだ。  チャールズの家は、入って右手にピアノを置いてある部屋があり、左手にキッチンとリビングがあった。  オープンキッチンは使われた形跡が殆どなく、食品類は赤ワインと紅茶しかない。棚の食器類もワイングラスとティーセット、やかんがあるだけだった。続くリビングには白いテーブルと椅子が並べてあり、窓際に薔薇が生けてあったが、枯れてしまっていた。テーブルの上には洗っていないグラス一つと、ワインボトル二本が置いたままだった。ワインの瓶は両方とも空だ。  イーサンはグラスを手に取った。飲み口を確認して、匂いを嗅いでみる。飲んだばかりなのか、まだ葡萄の甘いにおいがした。傾けると、底のほうに残っていたワインが一滴、滑り落ちてきた。イーサンはそっと唇をつけて、最後の雫を吸い取った。  リビングを堪能した後はピアノの部屋だ。バルコニーの窓から見える通り、ピアノ以外何も置かれていなかった。  チャールズがいつも弾いているグランドピアノは、丁寧に掃除されているのか、ぴかぴかだった。イーサンは蓋を開いて、鍵盤を順に押してみた。  ――おや。  一つだけ音がおかしい。音を念入りに調べ、おそらくは乾燥のためにネジが緩んでいるのだと判断した。イーサンは明日、調律の道具を持ってこようとひとりで頷いた。  部屋を出て、最後に右手奥の扉を開けた。明かりを取る窓があるだけの狭い部屋だ。それというのも、部屋中ぎっしり洋服と靴、アクセサリーが収納されているからだった。  イーサンは感激して口元を覆った。花のような、香木のような、何かとてもいい匂いがしていたので。  見慣れた燕尾服の他にも、チャールズの体に合わせて仕立てられたのであろう礼服の数々がハンガーにかかっている。イーサンは指先で恐る恐る布地に触れてみた。高級でしっとりと馴染む生地だった。チャールズの肌に触れてしまったような気恥しさに、すぐ手を離す。  棚の中に並べられた靴はどれも笑ってしまうほど小さい。試しに靴を一足拝借して、自分の足の隣に置いてみた。足の指が全部はみ出てしまうし、横幅もずっと細いのだ。イーサンは温かい気持ちになって、靴を丁寧に元へ戻した。  アクセサリーの飾られた棚は、白い木の枠にガラスの戸がついていた。金のブローチや耳飾りは、どれも一度は見覚えがあった。棚の引き出しにはリボンやスカーフ、黒や白のかわいい手袋が入っている。  イーサンは目を移し、部屋の最も奥にある衣装タンスに興味を惹かれた。上から順に開けていく。まるで泥棒をしているようで気が引けたが、あくまで邪悪の証拠がないか調べるのだと、自分勝手に言い聞かせた。  引き出しを開けた瞬間、動けなくなってしまった。服、靴、アクセサリーとなれば、残るのは肌着しかない。思考が停止して、どうしたらいいのかわからなくなった。家族や友達の下着を見たことはあっても、下着だとしか認識できなかったのに、目の前にある折りたたまれた色とりどりの薄い布は、イーサンが知らない、美しいものだった。  できるだけ奥から、たたまれた黒い布を選んで広げた。これはなんであろうか。細い二本のストラップに、薄紫のレースで出来た花が縫い付けられている。全体像を見ると、ドレスのような形だ。胸元にも薄紫の花が刺繍され、腰に当たる部分は大きなスリットが入って、裾もレースで縁取られているのだった。  イーサンはドキドキしながら黒いドレスのようなものをたたみ直して、元通りにしまった。深呼吸をしてから、二段目の引き出しを開ける。 「う」思わず声が出てしまい、イーサンは口に手を当てた。  上段と同じ位置の黒い布を広げる。同じ薄紫の花がついているが、今度はとても小さい。考える力を失ったイーサンにもようやく見当がついた。これは上下でセットになった肌着だ。まるでドレスのような装飾だが、肌に直接身に着ける服なのだ。  イーサンは小さな布を両手で持って、広げてみた。透けるほど薄い生地に、繊細なレースと刺繍がたくさんついている。  試しにベルトを外して下履きをずらし、今着けている下着と比べてみた。無地で、履き心地は良いが装飾はついていない。どうして先生は、こんなに自分と違うのだろう。チャールズが上下の肌着を身に着けている姿を思い浮かべる――イーサンは頭を振って想像を追い払った。  ひとしきり調べた後、イーサンは家を出て道具屋の二階へ戻って行った。  正直なところ安心していた。やはり、チャールズ・クラウチに怪しいところなど微塵もない。もしも今後、悪の証拠が一つでも見つかったとしたら、その時は正せばよいのだ。  イーサンはアルバムを取り出して、撮ってきた魔法写真を丁寧に貼りつける。どの写真を見ても、チャールズは自分なりの生活を送っている人間だった。

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