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第8話

 石の人 八  目を覚ますと、口の中に苦みがあった。昨晩焚いた香のにおいが残っている。  カーテン越しの外はまだ暗い。イーサンは布団を引っぺがして起き上がった。洗面所で乾いた口を濯ぎ、鏡を見る。黄金の髪はあらぬ方向に乱れていた。  小便をして寝直そうとしたが、重要な用事があるのを思い出し、仕方なく乱れたシーツを直した。カーテンを開けると、黎明の闇が朝日に触れ、滲んでいくところだった。  朝食もそこそこに武具を点検し、身なりと装備を整える。まだ寝ているであろう階下の老婆を起こさないよう、静かに道具屋を出ると、イーサンは門前に向かって歩き出した。  イーサンの滞在している貿易都市アルヴァは、軍を編成できるほどの冒険者であふれかえっていた。貿易都市という性質上、様々な民族や種族を受け入れ、発展してきたのである。他国を追放された者、国籍を持たぬ無法者、本来ならば人間と敵対するはずの種族に対しても寛容であった。  冒険者ギルドは一階に受付と軽食を出す酒場があり、その他の部屋はアパルトメントとして貸し出されている。当然冒険者の数に対して部屋は足りていなかったが、人の入れ替わりも激しいので、冒険者たちは単に自分たちの仮の寝床をギルドではなく「宿」と呼んでいた。  チャールズは自宅を持ちながら、何年も、冒険者としては驚くべき長い年数で「宿」を借りているようだ。イーサンはギルドの貸している部屋を覗いたことがあるのだが、狭くて古く、けっして快適だとはいえない環境であった。  あふれかえった冒険者たちが大量にいなくなる事件が起こるのは、イーサンが都市に来て六年ほどたった頃だろうか。  貿易都市アルヴァは不穏なニュースで持ちきりだった。さほど離れていない小国をヴァンパイアロードが襲い、支配下に置いたという話だ。ヴァンパイアロードは近隣諸国に宣戦布告をし、アンデッドの軍勢を差し向けようとしている。数年前親友のアーサーを殺し、イーサンの街を半壊状態にまで陥れた、かのヘンリー・ロスビリスである。  国は早々に防衛のため軍を出動し、教会からは魔狩人たちも派遣されたが、戦況はおもわしくなかった。ロスビリスは人間社会に制裁を加える旨に賛同する、別のアンデッドやモンスターを軍勢に加え、カルト教徒やならず者も配下に置いているという。  ついに国は冒険者ギルドにも『ヴァンパイアロードの討伐部隊編成』の依頼を貼り出した。チャールズは指名で国からの手紙を受け取り、二つ返事で部隊に参加したようだ。  イーサンはギルドに赴き、参加を希望した。親友の敵討ちよりも、チャールズと同じ目的で動くことができる。イーサンにはそれが嬉しいのだった。  集合地点には、国中のギルドから集められた五十二名の冒険者が参加していた。殆どは正規軍のサポートとして導入されたが、チャールズのような英雄には、当然国も期待をかけているようだ。先頭に立たされ、注目を浴びるのは不服そうだったが、彼の仲間が近くで支えていた。  馬車に乗りこむ人の波に押されながら、チャールズの後ろ姿を見守る。肌寒い薄明の中、部隊を乗せた馬車は列を組んで出発した。 「アンデッドの野郎どもは無限に湧き出てくるらしいぜ。大丈夫なんだろうな」 「でもさ、ロスビリスを討ち取ったやつは金貨百枚だって」 「金貨はおいしいよな」  乗り合わせた冒険者たちは、しきりに報酬の話で盛り上がっている。  ――暢気なものですね。イーサンは荷物にもたれかかって、頬杖をついた。  到着するまでの間、暇を持て余すことになりそうだ。剃り残しの髭を触って爪で引っこ抜くのにも飽き、隣の女性に話しかけた。一に情報収集、二に現状把握だ。  女性はイーサンと歳が近そうだ。フード付きの外套に身を包み、膝を抱えている。露出度の少ない戦闘服で、得物はおそらく近接武器だろう。そこそこ良い質の装備が使いこまれている。イーサンは一瞬で、大体の経験や力量を見抜いた。 「あなたはおしゃべりに参加しないのですね」 「無駄な体力を消耗したくないだけ」女性は首だけこちらに向けた。癖っ毛の茶髪を後ろにひっつめて結んでいる。 「金貨百枚に興味は」 「金に興味ないやつなんているのかい」 「そうですね」イーサンは目尻を和ませた。「俺はイーサン、ギルドの酒場によく出入りしています。あなたは」 「エラ。あそこは常に人でごった返してるからね、普段はホオグロ鷲亭にいるよ」エラはイーサンのいで立ちをじろじろ見て、片眉を上げた。「あんた、本当に冒険者かい」 「確かに、冒険者ではありませんね。賞金稼ぎなんです」 「へえ、騎士のお坊ちゃんが間違えて乗ってきたのかと思ったよ。金目当てのごくつぶしにゃ、とても見えないけどね」エラはグローブをした手を差し出してきた。  笑顔で軽く握手を交わす。戦場では顔見知りの多いほうが何かと便利だ。エラに話しかけたのは正解だった。熟練の冒険者であるほど、顔が広く、馴染みも多い。馬車に乗り合わせた仲間の情報はすぐに把握できた。  イーサンは打ち解けるついでに、チャールズの噂も聞いてみた。 「逆に聞きたいよ。クラウチの旦那を知らないやつがいるのかってね」 「今回の作戦に参加しているようでしたから。英雄ってどんな人かと」 「魔術師なんてみんなそうだけど、何考えてるかさっぱりだね」エラは肩をすくめて、スキットルの中身をぐびぐびと飲んだ。  どうやら、英雄としての噂はともかく、チャールズの個人的な話は誰も知らないようだった。  冒険者らは酒や携帯食まで持ち出し、酒場同然に騒いでいたが、目的地が近づくに連れて水が引くように静まり返った。統制が取れた魔狩人の部隊ではあり得なかったが、これが冒険者流の切り替え方なのだろう。  ロスビリスの居城は、城郭の代わりに、周囲をぐるりと外壁で固められていた。骨と肉を奇妙に繋ぎ合わせたような壁は、遠くからでもわかる臭気を放ちながら、侵入者を阻む。  加えて壁の周りにはぬかるんだ泥が泡立ち、沼を形成していた。  騎士たちは既に城を包囲し、前線で沼から無数に湧き出てくるアンデッドと応戦している。  人間の軍勢は押されていた。冒険者たちは馬車からぞろぞろ飛び出し、後援に加わった。指揮官らしい人間を見つけ、すぐに集合する。統制が取れていないように見えて、各人が最適な行動をとれるのが冒険者の強みである。 「よく来てくれた。見ての通り、芳しくない状況だ」指揮官の王国騎士は、占領された小国の紋章をつけていた。脇に控える副官も、同様の紋章をつけている。 「城は占領され、堀は毒沼に変わってしまった。加えて、沼からアンデッドが無限に湧き出てくる」 「へい。そんで、俺たちはなにをすりゃいいんだ」指揮官の眼の前にいた冒険者が挙手した。 「軍隊みたいな活躍はできないぞ」 「捨て駒にしようってんならすぐ帰るからな」別の冒険者たちが横槍を入れる。 「まあまあ」指揮官は両手で抑える動作をした。「君たちにやってもらう作戦は、既に決まっている。先ほど、沼からアンデッドが湧き出てくると言ったが、沼のどこかに呪印が刻まれているはずだ」 「沼を漁れってか」 「とんでもねえぞ」  冒険者たちは次々に野次を飛ばす。 「静かに。何もアンデッドをかいくぐりながら、泥の中をさらえとは言ってない。魔狩人から聞いた情報だが、沼の一角に強い魔力を持った核がある。核の周囲は警備が厳しいのですぐにわかるのだが、いかんせん我々騎士はアンデッド退治が不慣れだし、魔狩人はアンデッドの軍を外に出さないように結界を維持するので忙しいそうだ」  指揮官は一旦、咳払いをした。 「そこで、君たち冒険者の出番だ。我々は城外のアンデッドを対処しながら、核のほうへ誘導する。君たちは核周囲のアンデッドを退治し、核を破壊してくれ」  がやがや。冒険者たちはそれぞれ、仲間と相談し合っている。 「はい」手が上がる。魔術師風のローブを着た冒険者だ。「核をどうやって破壊するのか、作戦はありますか」 「核の元になっているものをただ破壊すればいい。すまんが、近寄って詳しく調べたわけじゃないから、何とも言えんのだ。君らは軍隊じゃない。方法は任せる」  重ねての喧噪。殆どが、いい加減な指揮官に対する不満であった。  イーサンは首を伸ばした。背の低いチャールズは前列の隅っこにいるが、群衆の中に埋もれてよく見えない。  人混みをかき分けながら前へ進み、横顔を見る。チャールズは退屈そうに前髪をいじっていた。全ての髪を後ろへ流そうとしているのだが、ワックスがゆるいのか数本の髪束だけが額に落ちてくるのだった。これから沼地での戦いだというのに、いつも通り燕尾服を着て、ハイヒールを履いている。チャールズはいつも、どこかしらのんびりとして、抜けているところがあるのだ。イーサンは口元をほころばせた。  作戦が開始すると、冒険者たちは面前のアンデッドを排除しつつ、騎士団の誘導に従って核のほうへ進んでいった。  沼地は膝下までしかないが、直接触れてよいものではないのが目に見えてわかる。唐突に現れる動く死体――ゾンビーや、ヴァンピールの成りそこないであるグールを片づけながら進むのは、なかなかに煩わしい作業だった。  何人もの騎士や冒険者が倒れ、死んだものは新しく穢れた命を与えられ、襲いかかってくる。これでは全くきりが無い。  イーサンはチャールズを守ろうと、できるだけ近くへ寄った。チャールズは石で出来た巨大な人形の腕に腰かけ、膝の上に指を揃えていた。ハイヒールが汚れることはないが、敵にとっては格好の的である。  予測通り、骨を魔力で動かしたスケルトンが、城壁から矢を射かけてくる。カルトの魔術師も追い打ちをかけるように、チャールズめがけて魔弾を放ってきた。  しかし、向かってきた飛び道具や魔法は全て弾かれ、沼底に落ちていった。薄い砂のベールが隙無く周囲を覆い、盾の代わりになっている。  チャールズは防戦する気などさらさらなかった。指先で印を刻めば、砂嵐が城壁の上から攻撃していた弓兵やカルトの魔術師らを攫った。  どうやら、沼地はチャールズの庭に等しいようだ。泥が溶けた飴のように捻じれ、進行方向にいたゾンビーやグールを沼底に沈めていく。崩れた城壁の石や、泥からうまれた人形が起き上がって、王を守るかのように群れを成した。  騎士も冒険者たちも、チャールズの大規模な上位魔法に舌を巻いていた。核は目前に迫っている。アンデッドはうんざりするほどの数だが、チャールズの魔法で光明は見えていた。  感知の術を使わずとも、明らかに感じる膨大な魔力の流れ。イーサンは核の術式に覚えがあった。術者の魔力を繋げることで、離れた場所に低級のアンデッドを召喚する、禁じられた術だ。人間であれば魔力の量に限りがあり、こんな術を使えば枯渇して死んでしまう。ヴァンパイアロードが仕掛けたものであるのは明白だった。ロードならば、人の生き血から魔力を無限に供給できるのだから。  警備のアンデッドさえ排除してしまえば、核を破壊するのは簡単である。冒険者たちは仲間が殺されたこともあって戦意が高まっており、あっという間にアンデッドを片づけてしまった。  イーサンは密かに、核を破壊する対抗呪文を唱えた。水面が沸き、パン、と破裂音をたてて静かになった。  際限がないように思われた敵の軍勢も、核を破壊してしまえばこちらのものだ。騎士団と冒険者は沼地にはびこる残りのアンデッドを一斉に始末しにかかった。  その頃には、別の場所で戦っていた魔狩人たちも加勢に来ていた。魔狩人たちは、鍛えられた独特の術で、骨と肉で作られた異形の壁を難なく解呪していった。  イーサンはできるだけ目立たないよう、群衆に紛れた。もし家族や、かつての仲間に見つかったら、すぐに自分だとばれてしまう。今戻るわけにはいかなかった。  人間軍は城門を破壊すると、たちまち城下町へなだれ込んだ。国民は誰も残っていなかった。指揮官によると、殆どの国民は殺されてしまい、わずかに生き残った者は避難したようだ。  代わりにモンスターや、金で雇われたならず者たちがひしめいていた。  もはや戦争であった。冒険者たちは騎士よりも奇襲に強かったが、影から忍び寄ってきた幽霊に多くの者が犠牲になった。当然死体は即座に寝返る。実体を持たない敵への対策をしていない者は、悪戦苦闘を強いられた。  イーサンは密かにチャールズの後ろに着いて、退路を確保した。窮地に陥った時、いつでもチャールズを連れて逃げられるように。  心配をよそに、チャールズとその仲間たちは切っても手ごたえの無い幽霊を四散させ、モンスターやならず者たちをあっという間に蹴散らした。イーサン自身も、幽霊の対処はお手の物だった。  一行は王宮へ向かった。いよいよ、国を乗っ取ったヴァンパイアロードを討伐するのだ。  王の間にはロードの直系であるヴァンピールがひしめき、武器を取って防衛線を張っていた。玉座にふんぞりかえっている禿げ上がった中年の男こそ、親友の仇であるヘンリー・ロスビリスだ。 「なんだ、国を乗っ取ったヴァンパイアロードっていうからどんなやつかとおもえば。ただのハゲたおっさんじゃないか」先陣を切ったチャールズは呆れ顔をし、ラピスラズリで出来たナイフを弄んだ。  後ろから来た冒険者たちも、げらげら笑って挑発する。士気は高かった。  ロスビリスは玉座から立ち上がって喚いた。 「痴れ者め。貴様らがいなければ、人間界を支配する王となっていたものを。髪も若さも、完全に術が完成すればどうとでもなっていたのだ」 「残念だったな、おっさん」胸を張って挑発するチャールズ。「吸血鬼になった時点で、体は魂の姿に固定される。あんたはどう転んだってそのままだぜ」 「黙れッ」  ニヤリ。チャールズは不敵に笑った。途端、ロスビリスの脇腹に銀の鎖が撃ち込まれる。仲間による死角からの援護だ。 「何だこれは」 「聖なる鎖ってやつさ。あんたは隠ぺい術が得意らしいからな。逃げられちゃ癪だろ」 「くそ、こんな鎖など」  引き抜こうとしたが、銀の鎖は食いこんで外れない。  だが次の瞬間、イーサンは呆気にとられて、成り行きを見守るしかなかった。  ――その数刻前。チャールズと仲間たちは、敵を蹂躙しながら作戦を立てていた。 「さすがにロードは一筋縄じゃいかないぜ」とは、バケツ型の兜をかぶった冒険者。民家の陰に隠れていたならず者を弩で倒し、迫ってきた小鬼の首にナイフを投げて始末する。「どうするよ、チャーリー」 「情報によれば、隠ぺい魔術で身を隠し、すぐ逃げてしまうらしいですな」斧槍を振り回し、敵をなぎ倒すのはフルプレートアーマーに身を包んだ小柄な冒険者だ。顔は角付きの兜で隠れている。「とんだ臆病ものです」 「心配するなよ。聖別された銀の鎖を借りて来た」石人形の胸部をぺしんと叩くチャールズ。「俺が挑発してる間に、ビアスが死角からこいつを撃ち込む。壁にでも封印式を書けば、ちょっとやそっとじゃ逃げられないはずさ」 「うまくいけばな」頷くバケツ兜。 「しかし、チャールズさん。そういうものは私が持ちますぞ」角兜は屋根から降ってきた飛行型の魔物を突き刺す。「気分が悪くならなかったですか」 「平気だよ、マグリヤ。聖なる鎖のおかげで、ゴーレムでも幽霊をぶん殴れるからな。それより鎖を撃ち込んだ後はあんたに暴れてもらう。頼むぞ」 「お任せくだされ」  イーサンは感心した。二人は中々に手練れのようだ。チャールズを気遣いながらも、呼吸するように敵を排除している。彼らなら護衛として問題ないだろう。  ――イーサンは呆気にとられた。  化け物の頭部が天井まで届き、シャンデリアを破壊する。前衛にいた味方は、散らばる硝子や天井の破片から逃れようと右往左往した。  銀の鎖は化け物の胴を未だ捕えているが、暴れまわる巨大な体躯は、腕のひと振りで柱を破壊し、周囲にいた人間を吹き飛ばした。 「ビアスッ」チャールズは石人形の影に隠れながら叫んだ。  化け物が破壊した柱の裏に、仲間が潜んでいたのであろうか。瓦礫の下に数人が倒れているのは見てとれたが、誰が下敷きになっているかまでは判別できない。 「なんだよ、あの化け物は」 「あれがヴァンパイアロードなのか」  味方は混乱して喚き合っている。イーサンはようやく我に返った。  確かにあの化け物はヴァンパイアロードだ。高位の吸血鬼には、真の邪悪な姿がある。国を滅ぼすほどの脅威は、一筋縄ではいかない。吸血鬼とは本来、そういうモノなのだ。 「みなさん、陣形を立て直して」角兜の冒険者は果敢にも、化け物が薙ぎ払った片腕を斧槍で受け止める。「銀の鎖はそう簡単に外れません。一斉に仕掛ければ必ず勝てます」  数人を吹き飛ばす攻撃を受け止めたのだ。味方の士気は目に見えて向上した。 「よし、マグリヤに続くぞ」チャールズは指で印を刻み、積み重なった瓦礫をどかす。  騎士団が突撃し、魔狩人たちは束縛の魔法で化け物の動きを封じる。冒険者たちはそれぞれの技術をもって攻撃を浴びせかけた。  イーサンは密かに動いた。バケツ兜の安否が気にかかる。チャールズを悲しませるわけにはいかない。  バケツ兜は崩れた柱の影でのびていたが、重装備のおかげで命に別状はなさそうだった。イーサンはバケツ兜を安全なところまで引っ張って行き、ポーチから薬と医療器具を取り出して応急処置を施した。  チャールズのほうを見ると、彼はあくまで落ち着いており、冷徹なほど的確に魔術を操っていた。杭状に伸びた岩がヴァンピールどもの心臓を貫き、灰に帰した。岩にも聖なる何かが仕込まれているのだろう。イーサンは戦場にあっても、チャールズの姿に見惚れた。手袋に包まれた細い指を一振りするだけで、高度な術がいくつも飛び出す。それでいて、チャールズの周りにいる者は決して傷つかず、逆に傷が癒えていくのだった。大規模な攻撃呪文、治癒結界、退魔障壁、瓦礫から生み出されたゴーレムの制御を同時に、無音詠唱で行っている。英雄とはまさにチャールズのことだった。  イーサンは首を振った。見惚れている場合ではない。バケツ兜を寝かせ、援護に駆けつける。いくらチャールズが信じられないほどの大魔術を使おうとも、彼の術や彼の仲間の技はヴァンパイアロードと対するには向いていない。ここは本職に任せるべきだ。  魔狩人たちは知っているが、騎士や冒険者は気づいていないだろう。おそらくロスビリスの心臓は胸に無い。ヴァンパイアロードの変化は、単に身体能力を高めるだけではない。弱点を隠す役割も果たしている。  イーサンは心臓の位置を探知した。腰のやや右上。そこだけ明らかに術の障壁が厚い。強固に守られている証拠だ。  幸いにもロスビリスは銀の鎖に拘束され、ひしめく人間たちの対処に追われている。イーサンは銃剣に魔力を集中した。分厚い障壁を突破するためには、城を吹き飛ばすほどの魔力が必要になる。制御を間違えば仲間はおろか、自分自身も危ういだろう。一点に、一点にだけ集中させる。針ほどの細さで。額に脂汗が滲む。これほど魔力を集中させたのは、久しぶりだった。  チャールズががんばってくれている。傷ついた仲間への悲しみを隠し、耐えているのだ。チャールズだけではない。今この場で戦っている全ての人たち。今までに傷つき、死んでいった仲間、この場に来ているかもしれないセントベルの家族、そして亡き親友のアーサーも、イーサンを後押しする。 『アーサー、あなたの仇を取ります。力を……』  そして、イーサンはロスビリスの背中に真っ直ぐ光の弾丸を撃ちこんだ。 「きさま……ら……呪ってやるぞ」  呪詛の言葉を吐きながら、ロスビリスは燃えるように蒸発し、灰になっていく。  針ほどに細い、一瞬の光に気付いた者はいるだろうか。皆が必死で戦っており、誰もイーサンの方を振り向かなかった。  ロードが消滅すると、その眷属であるヴァンピールたちも力を失い、次々と討たれて灰化していった。人間の勝利。戦闘で荒れ果てた城内に歓声が響く。後は魔狩人たちが始末をつけるだろう。イーサンは呼吸を整える。想像を絶する消耗だった。  瞼を閉じて数秒――目を開いて、驚愕した。チャールズと視線が合った。  イーサンは立ち竦んだ。全ての音が消えた気がした。チャールズは無表情でこちらを見ている。赤い、血のような瞳。イーサンは口を半開きにしたまま、身動きもできないでいた。  見つめられるだけで精気を奪われるような。彼は、ロスビリスなどより余程強い――  チャールズは人波をかき分けて、こちらへやって来る。  イーサンはたじろぎ、息を止めた。 「ビアスッ」  チャールズは表情をくしゃっと崩し、背後に寝かせていたバケツ兜、仲間の元へ駆け寄る。  ああ。イーサンは息を吐き出し、脱力した。 「相棒、しっかりしなよ」角兜の仲間もやってきて、しゃがみ込んだ。 「うっ」  バケツ兜は気がついて、低いうめき声をあげた。 「おう……生きてるぜ。そこの旦那が助けてくれた」  バケツ兜はイーサンのほうに首を起こす。 「おお、あなたが。感謝しますぞ。こんな奴でも仲間ですから」 「相棒……こんなやつってひで、いてて」 「ほら、まだ寝てな」  イーサンは曖昧に笑みを浮かべた。 「助かったよ。ありがとう。仲間を助けてくれて」  チャールズが顔をあげた。その眼と頬は涙に濡れ、英雄然とした戦いぶりとは別人のようだった。 「ええ」イーサンは息が詰まって、飲みこむのに難儀した。「どういたしまして。できることをしたまでですよ」 「そうか、感謝する」チャールズは例の、口元がひきつった笑みを浮かべた。  露をまとった葡萄のように、憂いのある眼差し。イーサンは甘美なワインを口にした気持ちになって、彫りが深い瞼の奥を見つめないではいられなかった。 「チャールズさん、珍しく服が汚れてしまいましたな」  チャールズは顔を逸らし、仲間の角兜に向けた。 「ああ、服なんて大したことないさ」こちらに対する表情と様変わりし、自然に頬を柔らかく緩ませている。  腹の中がドクンと脈打つのを感じた。冷たい魚が胃の中で跳ねたようだ。  衝動的にチャールズに近寄り、見下ろす。チャールズは気がついて、きょとんとした顔で見返してきたが、途端に険しい相を浮かべる。 「なんだ」  伸ばされてきた人差し指に、首をすくめるチャールズ。 「失礼」イーサンはチャールズの胸ポケットから、乱れた絹のポケットチーフを引き抜き、畳んで入れ直した。「皺になっていましたので」 「そうか。重ね重ね……世話になったな」  まじろぐたびに思慮深く揺れる長い睫毛は、まだ濡れている。指先がポケットチーフの折り目をなぞっている。大事な物を確かめるように。イーサンは痩せた胸に熱い杭を刺しておきたくなった。『あなたは、俺のものだ』と。  しかし、離れる。 「どういたしまして。それでは」  怖がらせてはいけない。怪しまれてもいけない。いつか愛を告げるために。  イーサンはふと恐ろしくなり、口元を手で覆った。この焼けつくような情愛はどこから来るのだろう。ただ穏やかに並んでいたいだけなのに。チャールズを傷つけたり、悲しませたりするようなことは絶対にしたくないのに。毒が煮えたぎる沼のように、深くどろどろとしている。イーサンはこれこそが、散々魔や人を狩り続けて来た呪詛ではないかと疑いはじめた。  結局、誰がロスビリスにとどめを刺したのか、誰も知らないままだった。  イーサンは家族に身元がばれるのを恐れて、名乗り出なかった。そこで、国は一番の功労者であるチャールズを表彰し、金貨百枚を与えた。チャールズは半分を「遺族のために使ってくれ」と差し出し、もう半分は服や酒を買うのに使ってしまって、たったの数日で金貨は跡形もなく消えてしまった。  新しい服を着て仲間と飲んだくれるチャールズを遠目に眺めながら、イーサンはチャールズが魔物などであろうはずもないと安堵するのだった。

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