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第12話
石の人 十二
眠れない。先ほどからベッドの上で何度も寝返りを打っては、暗闇の中で天井を見つめていた。
チャールズと踊った。初めて深く言葉を交わし、手を取り合い、脚を交差させた。チャールズはやはり満たされないで渇いていたのだ。干ばつでひび割れた大地のように。
どうしても眠れない。目を瞑って呼吸を整えても、引き攣った唇の形が、わざとらしく剥き出した小さな白い牙が、瞼にこびりついて離れない。
寝るのを諦め、何度目かの息を吐いた。いっそのことチャールズをどこまでも深い空想の世界へ招き入れよう。
瞼の裏に手を取って踊る姿を浮かべる。ワックスをつけた髪は乱れかけていた。頬を優しく撫で、耳に落ちて来た髪の束を直す。柔らかい髪はべたついていなかった。元々ゆるいワックスを使っているのだろう。イーサンはチャールズの髪を整えながら、抱き寄せた。殆ど密着するようにして踊る。
空想のチャールズは悲しみを語らなかった。口元には柔らかい微笑みを浮かべ、静かに瞼を閉じている。イーサンの胸に包まれ、揺られて、安堵しているのだ。
――そうです。俺なら、本当の愛を与えられるんです。血も、心も、欲しいものはなんだってあげましょう。先生が望むなら。
イーサンは想像のチャールズに口づけた。きっと薄い唇は冷たく、血の温度も知らないのだ。チャールズが人を襲っているところなど見たことが無い。いつもワインを飲み、擦れた音色のピアノを弾き、喪に服すように過ごしている人が、イーサン以外の血を吸うなんて、ありえなかった。
あってはいけなかった。
イーサンは目を見開いた。チャールズの正体が邪悪な吸血鬼だとしても、許せないのは正義の徒として、人類のために生きて来た自分ではない。
ただの男。イーサンという、個人の嫉妬。チャールズが他の人間から愛を貪るのが耐えられない。
なんという醜さ、欲深さだろう。
頬を涙が伝う。鼻の付け根が重くなる。溜息の熱さに嫌気がさした。
憧れの先生と会って、共に仕事をした。それで十分ではないか。どうして足りないのだろう。まるで、欲しいおもちゃが手に入らない子供みたいだ。こんな薄暗い感情に気付きたくはなかった。
「微睡の蛇よ、境界の渡り手よ、黒き腹をうねらせ、とぐろを巻け――」
眠りの呪文を自分にかける。無音詠唱を極めたイーサンにとって、詠唱の必要はなかったが、あえて口に出すことでチャールズに対する感情を押し込めたかった。
黒い霧は瞼を即座に閉じさせた。魔術による眠りは悪夢しか見せない。イーサンはその夜、酷い悪夢を見た。
「イーサンさん起きてー」
体にのしかかってくる重さに耐えかね、イーサンは起き上がった。
「あ……おはようございます」
ホゥロンが胸の上に乗って前脚を揃えている。
「おはようございます、イーサンさん。僕が来ましたから朝です」
「これはどうも」
ゆっくりと体を起こす。ホゥロンは乗ったまま動かないので、布団ごとずり落ちてひっくり返った。
「落ちてますよ、ホゥロンちゃん」
「んふふー 落ちました」
ベッドから降りて、布団にくるまれたホゥロンを持ちあげ、助け出す。脇腹の毛はふんわりと柔らかい手触りだった。
「そうだイーサンさん、もうすぐ朝ごはんだから呼びに来たんですよ。マグリヤちゃんもビアスも起きてます」
「朝ごはんですか、ではすぐに行かないとですね」
「はい、行きましょうね」
イーサンは洗面所で軽く髪を整え、髭を剃り、顔を洗った。ホゥロンはふかふかの長いたてがみを繕いながら待っている。
「そうだ、ホゥロンちゃん。クラウチさんとワータは起きていますか」
「ちゃあちゃんはまだ寝てますね。ワータはビアスと遊んでました」
髭剃りあとを確かめるようにあごをしごく。少しざらざらしているが、仕方がない。
「ではクラウチさんを起こしに行かないと」
「そうですか。寝かせてあげたいですが、イーサンさんがそういうならそうしましょう」
先を歩くホゥロンについて行く。村長の家は屋敷と呼べるほどではない、質素な作りだが、村外からの親戚が集まる時に備えているらしく、客室が十ほどあった。
チャールズの部屋の前に来ると、妙に緊張した。
念のためにノックをする――が、返事はない。
「寝てますね」
「開けてもいいでしょうか」
「もちろんです。行きましょ」
ドアノブがひとりでに動き、扉が開く。ホゥロンは手を使わずとも物を動かすことができるのだ。犬が通れるほどの隙間から、柔軟に滑り込むホゥロン。イーサンも後に続いて入った。
「朝でーす。ホゥロンが来ましたよー」
ホゥロンはベッドの上の膨らみにのしかかり、尻尾で軽くぺしぺしと叩いた。
「ううん……」布団の丸みが動いて、黒い頭が覗いた。「おはよ」
「はい、おはようございます、ちゃあちゃん」
チャールズがのろのろと起き上がる。ホゥロンは今度こそベッドからずり落ちないように、降りた。
声をかけようとして、息を飲んだ。髪は乱れ、鎖骨、肩を剥き出しにして、白いスリップの肩ひもがずり下がっている。
「おはようございます……先生」
「あーあんたもいたのか。おはよ」
チャールズは布団をまくり、両手を上げて背筋を伸ばしながらベッドから這いだした。下も白く薄紫の刺繍がついたパンティーと、グレーのストッキングを履いている。イーサンはガーターベルトというストッキングを留める下着があることは後で聞くまで知らなかったが、どの衣類も高価なのだろうとだけは察しがついた。
「ちょうどいいや、着るのを手伝ってくれ。二人のどっちでもいいから」
「わかりました、ええと、どうしましょう」
まごついているうちに、ホゥロンが脱ぎ散らかされた服の埃を払って、ぱっと広げた。もちろん手を使わないので、服は宙に浮いている。
「はーい、腕を通してくださいね」
「助かるよホゥロン。鏡に映らないからな。やれやれだ」
シャツに腕を通し、ボタンをかけようとするチャールズ。細い指先には、血のように赤い爪が長く伸びている。
――だからピアノの鍵盤もうまく押せないのですね。イーサンは形の良い爪が不器用にボタンをかけ違えるのを見かね、シャツを摘まんだ。
「俺がやりますよ」
「ありがと」
上から順にボタンをかけていく。シャツを着せ終わると、チャールズはうつらうつらと船をこいでいた。
「ちゃあちゃん寝ないで。次はこれ、はい」
「ん、ごめん寝てた」
ズボンを履かせて、ベストを着せていく。下ろされた長い前髪の中で、チャールズは半分眼を閉じている。動くのが億劫なのか、殆どホゥロンとイーサンに任せっきりだった。まるで人形に着せているようだ。
「クラウチさん、いつも誰かに手伝ってもらっているのですか」
「いや、一人で着替えるよ。時間はかかるけどな。だらしないって思ったかい」
「そんなことはありませんよ。大変だろうなと」
反応を伺うと、チャールズはまたぐったり首を落としていた。
「眠たそうですね」
襟のボタンを留めて、ネッカチーフを結び、ブローチをつける。髪にブラシを当て、少量のワックスでまとめて後ろに流す。さらさらとした柔らかめの髪に指を通す時、イーサンは指先以外の感覚を忘れた。
耳には真珠とアメジストがあしらわれたイヤリングを。そうすれば後は靴を履かせるだけだ。
「後は靴だけですよ」
「ふあ、もうすんだのかい」
チャールズはあくびをしながら目を開けて、耳を触った。紫の雫が揺れる。
「ちゃあちゃん寝てたでしょ」ホゥロンが座って見上げた。
「寝てる。起きた。おはよう」
「はい。おはようございます。靴をどうぞ」
「履くよ」片脚を少しだけ動かすチャールズ。イーサンはしゃがんで、ハイヒールのつま先を入れ、踵を優しく包むように収めた。
「もう片方も。少し脚を上げてくださいね」
「ありがとう、助かる」
チャールズはイーサンの肩に手を置いて、つま先を差し出した。
踵を持って、慎重に靴を履かせる。
「熱……」
「すみません、痛かったですか」
「いや、あんたの手が熱いからびっくりした」
「ごめんなさい、勝手に触ってしまって。たしかに足が冷えてますね、寝る時に辛そうです」
「体温ないからな。は……あったか。いいなぁ、いっそあんたの手を履きたいよ」
「歩きづらいですよ」
「はは、そりゃそうだ」チャールズは踵をコツコツと鳴らして、靴を馴染ませる。
準備は整った。これからダンスパーティーに行くとしても恥ずかしくない姿だ。馬車に乗ってギルドに帰るだけなのだが。
「では食堂に行きましょうね。マグリヤちゃんとビアスが全部食べてないといいですけど」
「まさか」イーサンは歯を見せて笑った。
チャールズはまだ眠そうで、足取りも頼りない。
「大丈夫ですか」
手を差し出すと、チャールズはあくびを殺しながら袖口を掴んできた。
「ねむい。行こうぜ」
「はい」
イーサンはまた、踊り出したい気持ちになった。チャールズに頼られているようで、嬉しかった。
食堂にはマグリヤとビアス、ワータがいて、何やらゲームをしていた。一枚の板を削って作ったテーブルにゲーム板が置かれ、パンのかごとチーズの皿は端に追いやられている。
「よう、遅いぜ~ 先に食っちまったよ」ワータは盤上に乗って、ぴょこぴょこ跳ねている。
順番にカードを引き、カードの指示通りにコマを動かして陣を取るゲームだ。イーサンも何度か遊んだことがあった。
「村長さんと奥方は外にいますぞ。出発する前に声をかけてほしいとのことで。むむっ、そうきたか」
「はい、俺チャンあーがり。おっ。イーサンチャン、めしならスープもあるから好きによそって食ってくれってさ」
「ええ、ありがとうございます」
イーサンはキッチンにある深めの皿を取り、ぬるくなったスープを遠慮なく注いだ。キャベツの他にカブやソーセージも入っている。うまそうだ。
「イーサンさん、僕のもお願いしますね。たっぷり入れてください、たっぷりと」
「はい。たっぷり入れますね」
チャールズは――イーサンは振り返った。
「酒はないのかい」
「もうありませんなぁ」
普通の食事はしないのだろう。マグリヤの隣に座って、頬杖をついている。
両手にスープ皿を持ち、テーブルに着く。
「どうぞ、ホゥロンちゃん」
「はーい」
ホゥロンは椅子から伸びあがってスープの匂いを嗅ぎ、粒子に変えてひと飲みしてしまった。それからパンのかごに鼻を突っ込んで銜え、椅子から降りて腹這いになった。
イーサンはパンを取り、一口ずつちぎってスープに浸して食べた。自家製なのだろう。冷えてはいるが、小麦の香ばしさが感じられる。
「上品な食い方だな」
チャールズはゲームに集中するマグリヤを支えにして、椅子にだらしなく座っている。
「そうですか。ちぎったほうが食べやすくて」
「ふーん」
チーズをかじる。これも自家製なのだろうか、ミルクの味が濃くてうまい。
「なあ、そういえばチャーリー、昨日後で話すって言ってたやつ結局何だったよ。仮定の段階ってやつ」
「あー……」チャールズは目を閉じ、頬の横に人差し指を立てた。「あーそう、あれだ。ズツーカの試作機か残機があるかもしれないって言おうとした」
「まじでー」
「言おうとしたんだけど、あるかどうか定かじゃないから、結局言わなかったんだよ。第三研究室にあった組み立て途中の魔導具、ズツーカの構造に似てたからさ。ごめん」
「仮定の段階だからおいそれとは言えないよな。納得した」
ビアスは立ち上がって、懐の隠しポケットを探った。
「一服してくらぁ」
「いってら」即座に返すマグリヤ。ビアス以外の人間には決してしないが、ぞんざいな口も慣れた関係なのだろう。
ゲームが終わる頃、ちょうど食べ終わった。
「そろそろ馬車が来る頃ですな。イーサンさん、荷物はまとめてありますか」
「ええ。いつでも出発できますよ」
チャールズを見る。後ろ向きに椅子へ座って、背もたれにあごを乗せていた。頭の上にワータがとまっている。
「俺もいいよ」
「俺様いつでもばっちこい」
「ちゃあちゃんは荷物まとめてないでしょ。僕が片づけてきますから」
「よろしく~」
ホゥロンは爪の音をかつかつ鳴らしながら歩いて行った。
「さて……あいつの荷物も持ってくるか。ではイーサンさん、十分後にここで合流しましょう。みんなで村長さんに挨拶してから帰りますぞ」
「ええ、わかりました」
マグリヤも荷物を取りに食堂を出た。チャールズとワータだけが残って、何やら小声で冗談を言い合っていた。こんな状況が前にもあった気がする。
「クラウチさん、荷物を取ってきますので」
「ああ、うん、いってら。そんでさぁ、ふふっ、犬がまじで驚いててさ、自分の尻尾にくっついてるんだもんな」
「ふーん、かわいいじゃん。俺様的にはクワガタムシよりカブトムシだな、くっつくとしたら」
よくはわからないが、チャールズが楽しそうなのでイーサンは微笑んだ。
廊下に出ると、部屋から出てきたホゥロンとすれ違った。ホゥロンは荷物袋を宙に浮かせ、その後ろを歩いている。
「モキュッ」
「おや」
ホゥロンは何の遠慮もなく脚の間をくぐって通り抜け、ふくらはぎを尻尾で叩いていった。荷物袋が腰の横を通り過ぎていく。
イーサンは振り返ったが、何も言わずに部屋へ荷物を取りに戻った。
帰路に着く馬車の中で、イーサンは胡坐をかいて、石像のようにじっとしていた。チャールズが二の腕に寄りかかって寝ているので、身動きが取れないのだった。
「イーサンチャン、すっかり枕だなぁ」
「ええ、枕になったみたいです」
「チャーリーは昼間、いっつもそんな感じだから。今日はあんたが貧乏くじ引いちまったな」
ビアスは小窓から外を伺いながら、時折からかってくる。飄々としているが、いつ敵襲があっても対応できるように警戒しているようだ。
「いえ、貧乏くじだなんて思ってませんよ。お役に立てて幸いですから」
「お優しいのですな」
マグリヤも同じく、得物である斧槍を手元に置き、片膝を立てている。
「なーなー 暇だからゲームでもしようぜ」ワータが飛んできて、床をちょこちょこ歩き回る。
「はーい、僕もします」
マグリヤの横でホゥロンが尻尾を振った。
「いいですな、何にしますか」
「石取りゲームにしねえか」
「俺チャンもやる~ 上がり順にお菓子食っていいことにしようぜ」
「賛成~」
床の上に布が敷かれ、コップが並べられる。
「ビアスー チャーリーの荷物から石出してくれよ」
「ほいきた」
荷物を人任せにするチャールズなので、仲間が勝手に開いても怒らないのだろう。イーサンは静かに見守ることにした。
コップの中に小さな色とりどりの石が四つずつ入れられ、イーサンの前にも置かれる。
「良ければイーサンさんもやりませんか。片手で出来るゲームですから」
「ええ。ルールを教えていただけますか」
「無論ですとも」
マグリヤの丁寧な説明を聞きながら、順繰りに石を取り、隣のコップに入れていく。どうやら先に自分のコップの中から石がなくなった者が勝つようだ。
時折馬車の揺れで石が飛び出すかと心配したが、ワータが敷き布に魔術を掛けているのでゲームが台無しになることはなかった。
「なるほど、そう来ますか」
「俺の予想では、イーサンチャンが一等だね。ほんとに初心者かよ」
「ええ、初めてなので、お手柔らかにお願いします」謙遜したが、イーサンは計算して手を読むゲームが得意だし、楽しく感じられた。
ビアスとマグリヤは本気でやっているが、ホゥロンやワータは明らかに手を抜いているということも、すぐに分かってしまった。多分勝ち負けは重要でなく、遊びたいだけなのだろう。
「ところで、この石はクラウチさんのですよね。魔力は感じませんが、何かに使っているのでしょうか」
「うーん、魔術の触媒にできないこともないですけど、ちゃあちゃんが道端や川で拾ってはポケットに突っ込んだままにしてるのがいつの間にか集まったので、正真正銘ただの石なんです」ホゥロンは人間の姿になって石を握り、マグリヤのコップに入れた。
「ほう」
「チャールズさんは何でも拾ってきますからな。木の枝を拾ってくれるのは助かりますぞ。野営の時、薪に使えますので」
マグリヤはワータのコップに石を入れる。ワータはビアスのコップに入れて、上がりの宣言をした。
「よーっしゃ、上がったぜ。ビアスの予想大外れ」
「へいへい。んじゃ次は俺チャンな。ん~ よし、こうだ。イーサンチャンの番ね」
「はい」石を取ろうと腕を伸ばすと、チャールズの頭がずり落ちてきた。「おっと」
イーサンはチャールズを抱えるようにして、倒れるのを防いだ。
「この体勢は少し危険ですね」チャールズの頭を太腿に乗せ、首の下に畳んだ外套を入れて固定しながら、ゲームに戻る。次はホゥロンの番だ。
「イーサンて母ちゃんみたいだな」上がって暇になったワータが、チャールズのブローチにとまった。
「母ちゃん……お母さんですか」
「面倒見がいいからそんな感じ」ふっくら丸いワータは、毛玉の飾りに見える。
「そうですかね」
イーサンは照れながら寝顔に向かい、笑いかけた。するとチャールズはパチリと目を覚ました。視線が重なり合い、チャールズは牙も見えないほどうっすらと唇を開く。
耳から入る、全ての音を遮断して、待つ。色味のない粘膜の隙間をこじ開けるように、目が縦皺を数えている。暗がりの奥に隠れた舌が、言葉をかたどると期待して。
しかし、唇は閉じられた。
「おはようございます」
「……あ、おはよう」
イーサンが囁くと、チャールズは初めて気が付いたようにゆっくりと起き上がる。痩せた背中に手を添えて支えた。まるで病人のようだ。吸血鬼は既に生きてもいないのだが。
「おはよ、チャーリー」ビアスが片手を挙げる。
「おはよ。何してんだい」
「ゲームですぞ。まだ馬車が着くまで時間がありますし、チャールズさんもやりますか」
「うん。一回済んだら参戦するよ」
マグリヤはコップを用意して、チャールズに渡す。
「はーい、僕あがり」
何度か順番が繰り返され、ホゥロンがいち早く勝利宣言した。残された人間三人は、結果的にイーサン、マグリヤ、ビアスの順に上がって、次のゲームが始まった。
マグリヤが石を配っていく。チャールズはイーサンにもたれかかるような形で座って、脚を崩している。距離が近い。イーサンは背筋を伸ばした。
「そういえば、さっきチャーリーの話してたんだけどよー」ワータがコップの中から顔を覗かせながら言った。
「俺の話って何の」
「チャーリーが何でも拾ってくるって話。石とか木の枝とかセミの抜け殻とか、しこたま持って帰るじゃねえか」
「そんなに拾ってたっけ」チャールズは薄く微笑んだ。
「チャールズさんが拾ってきた、一番大きい物は、石獣の卵でしたな」
「石獣ですか」
妖獣大図鑑に載っていた。卵は石の塊そっくりで、孵化すると石化能力を持つ獣の総称だ。
「あー あれはやばかった。チャーリーが卵みたいなたまごいしだって持って帰ったら、まじで卵なんだもんな」
膝を叩いて笑うビアスに、マグリヤはしみじみと頷いている。
「あれがバジリスクの卵だとは知らなかったんだよ。今まで見たことない材質の石だし、論文が書けると思ったんだ」
「それでどうなったんですか」
「俺チャンと相棒とチャーリーでナントカ捕獲して、同業者の魔獣使いがペットにって連れてった。卵の殻はチャーリーが今でも持ってんだよな。物好きだねえ」肩をすくめるビアス。
「へえ~」イーサンは顎鬚を撫でた。
「捕獲はそんな大変じゃなかったんだぜ。でもビアスがまじでビビって、鏡探しに走り回っててさ。魔眼を跳ね返すもんはねえかーって」口元に手を当て、肩を震わせるチャールズ。
「いやいや、俺チャンそんなにビビってねえから」
「ウッケる~ 俺様もその場に居合わせたかったぜ」
「キュキュッ」
さえずるワータとホゥロン。
談笑しながらゲームを続けているうち、馬車は貿易都市アルヴァに帰還した。
報酬を受け取る前に依頼人と会い、報告と完了のサインを貰う必要がある。イーサンはこの手の交渉には慣れていたが、マグリヤたちに任せることにした。
依頼人はマグリヤたちの話を聞いて満足し、古代の兵器も絶対に軍事利用することなく、貴重な歴史資料として厳重に管理することを約束した。
危険手当などの追加報酬を取れるだけふんだくり、イーサンもマグリヤから分け前をもらった。高額の賞金首の値ほどではないが、冒険者の報酬としては破格の重みがあった。
ギルドで打ち上げ会でもするかと思えば、マグリヤとビアスは受付のバシリカに依頼完了を告げるなり、他に仕事があると言って早々にパーティーを抜け、ホゥロンも「ご主君が心配ですから」とどこかへ帰って行った。
「俺様は妹を手伝おうかな。そんじゃまたな」ワータまでが妹のバシリカのほうへ飛んで行き、イーサンはギルドの酒場にチャールズと二人で取り残された。
「あの」
これからどうするか聞こうとすると、チャールズはテーブルに着かず、荷物を持った。
「着替えに行くんだけど」
「そうですか」
「うん。別に汚れちゃいないが、気持ちの問題だな」
「ですよね」
チャールズは次の言葉を紡ぐでもなく、唇を触る。立ち去ろうとはしない。
「上に荷物置いて来て、それから家に行くんだけど。あんたは」
「ええと、上の部屋に着替えは無いのですか」
「寝泊りは上でしてるんだけど、着替えは家にあるんだよ」耳に髪を掛ける。モノクルの鎖が揺れた。
「お家に誰かいらっしゃるんですか、着替えを手伝ってくれる人は」
「いないよそんなの。一人だし」
「よければ、俺が着替えるまで待っててもらえますか、荷物を置いたら、またここで」
「うん、いいよ」
イーサンは目の周りがカッと熱くなっていくのを感じた。体が急に火照り、浮足立つ。
「ではあとで。急いで来ますから」
「うん」
何度も振り返る。チャールズは微笑むでもなく荷物を持って佇んでいる。それでも胸が期待と喜びに震えた。転がるように急いで自宅へ戻り、一番清潔そうな服を選んで着替える。さっと顔を洗い、鏡で髭の剃り残しを調べ、髪に櫛を通す。冷水で洗ってなお、酔ったように頬を赤く染めた顔が映っている。イーサンは目をしばたたかせ、両頬を軽く叩いた。
慌てて戻ると、チャールズは同じ場所に立ち、憂鬱そうに顔を伏せて前髪をいじっていた。
「遅くなりましたね。待ちましたか」
「ううん、今降りてきたとこ」
「行きましょうか」
「うん」
寄り添って歩く。家の場所は知っているが、チャールズの歩く速度に合わせて並んだ。
昼間前だが、既に日が高い。吸血鬼に日光は辛いのではないだろうか。チャールズは特に苦しそうでもなかったが、日陰になるようイーサンは位置を微妙に調節した。
「クラウチさんのお家は教会の近くなのですか」
「そうさ。墓地の裏の丘にある。安かったからな」
「居づらくはないですか、教会の裏だなんて」
「案外平気だよ。小さいけどいい家なんだぜ。寝る部屋がないけど」
そういえば、生活感は感じられませんでしたね――イーサンは家の内装を思い描いた。ピアノとキッチン、肌着まで浮かべ、頭を振る。
「ここを登ったら家に着くぜ」
「ええ」
白い門構えが見えてくる。もはや慣れ親しんだ家だ。チャールズが依頼で居ない時を除き、毎日共に過ごしているのだから。
「さあ着いた。入ってくれ」
「お邪魔します」
扉をくぐる時、全身に震えが走った。ついに自宅へ招かれた。チャールズの内側に一歩踏み込んだような倒錯にくらくらする。
「じゃあ早速、服を選んでくれよ。こっちがクローゼットだからさ」
「入ってもいいのでしょうか」
「いいよ。それで好きなの選んで、出してくれよ。俺はこっちで待ってるから」
キッチンのほうへ入っていく。
さて、どれにしたものか。
イーサンは真剣に選んだ。そして黒い燕尾服と、白いシャツ、薄紫のネッカチーフ、同じ色のポケットチーフ、金細工で縁取られたアメジストのブローチ、パールとアメジストのイヤリング、黒い革の手袋と薄紫のハイヒールを選んだ。
「どれどれ。ふうん、あんたの好みってこういうのなんだ。でもさあ、肝心なものが欠けてるよ」
テーブルの上に並べられた衣装を見て、チャールズはニヤニヤしながら言った。
「何か足りないものがありましたか」
「大ありだ、下着がない。そっちも変えなきゃ気持ち悪いじゃないか」
「下着も……俺が選んでいいんでしょうか」
「突き当りの引き出しにあるから選んでくれよ。自分で選ぶのが面倒なんだ」
「わ、わかりました」
チャールズはニヤついたまま、イーサンを急き立てるように手を振った。恥ずかしさでいっぱいになりながら、クローゼットの奥へ進む。
引き出しを開ければ、色とりどりの薄い布が折りたたまれている。今度はチャールズに頼まれたのだから、何も問題はないはずだ。
一番奥の黒い肌着。あの時広げた、紫色の花の刺繍がついたドレスのようなスリップと、同じデザインのパンティー、ストッキング、それからストッキングを留めるための繊細なバンド。イーサンはそれらを丁寧に畳んで持って来て、服の隣にそうっと並べた。
「これでいかがでしょう」
「お、これか、いいねいいね。お気に入りなんだ。ちゃんとストッキングとガーターベルトもあるし」
「ガーターベルト、こちらですか」
「うん、それ。ストッキングを留めるんだ」チャールズはガーターベルトを両手で持ち上げ、ひらひらと振って見せた。「どうだい」
「綺麗ですね、お花がついていて」
「そうだろ。俺に似合うかは別として」
「似合いますよ。今身に着けている肌着も……とても、似合っていました」
「ありがと。そんじゃ、下は自分で着替えるから」
遠慮なく燕尾服の上着を脱ぐチャールズ。イーサンは慌てて後ろを向いた。
「ごゆっくり。終わったら声をかけてください」
「見たっていいのに」
布ずれの音。イーサンは胸に手を当てて深呼吸した。
「あの、クラウチさん」
「おう」
「こんなこと、ほっ、他の人にも、頼んでいるんですか。着替えを選んでもらったり、目の前で着替えたり」
「してないよ。あんた今朝手伝ってくれたから、人に服着せるのそんなに嫌じゃないのかなって。暇そうだったし。ま、嫌だったら帰っていいんだぜ」
「嫌じゃありませんよ」
「ふうん」布ずれの音が止んだ。「こっち向いていいぜ」
「はい……」イーサンは肩を縮めるようにして、ゆっくりと振り返った。
黒いスリップとパンティー、ストッキングとガーターベルト。イーサンの選んだ肌着を身に着けたチャールズが立っていた。
「変じゃないかな。俺って服選ぶの苦手だから、店でも言われるままに採寸されて、作ってもらったのを持って帰るんだけど。だから、店員じゃないやつに一回選んでみてほしくてさ」
「なるほど」
どうしても視線が不自然に泳いでしまう。肌着からうっすらと透ける体の線を意識しすぎないよう、イーサンは息を飲み、吐いてから口を開いた。
「とってもお似合いですよ。本当です」
「そっか。ありがと。そんじゃ、また服を着せてもらおうかな」
「はい」
テーブルの上からシャツを取って広げる。チャールズの後ろへ回り、片腕を通し、もう片方も通して皺を伸ばす。前に回り込み、屈んでボタンを掛ける。チャールズはイーサンと比べてずっと背が低いので、中腰にならなければうまく作業できなかった。
ズボンを履かせ、シャツの裾を入れる時、抱き寄せるような形になってしまい、ドキリとする。
ジャケットを着せると完成だ。チャールズはくるっと一回りし、燕尾服の裾を翻した。
「変じゃないかい」
「お似合いですよ」
ふふ、と笑い合う。
「じゃあ、俺はギルドに戻って次の仕事を探すけど、あんたはどうするんだい」
イーサンは自然と頬を緩ませた。垂らされたおいしい誘いに、まるで飢えた魚のように食いついてしまう。
「もちろん、俺も次の仕事を探すつもりです」
「ふうん。一緒にできる仕事があれば、やってみるかい。アテがなかったらだけど」
「アテはないです。クラウチさんと俺の実力なら、大抵の仕事はできそうですし、選び放題ですね」
「そうだといいんだがな。この業界は早いもん勝ちだぜ。急いで戻らなきゃ」
そそくさと家を出るチャールズの後を追う。ピアノの部屋が気になったが、仲良くなればいずれ聞かせてもらえるだろう。それより今は、チャールズと少しでも一緒にいたかった。
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