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第13話
石の人 十三
ギルドに戻ると、新しい張り紙が出ていた。マグリヤ、ビアス、ホゥロンの姿は見えない。自分たちの用事で忙しいのだろう。
「ただいまっと」
「帰りました」
「よっ、お帰り」
「お帰りなさい、チャールズ、イーサン」
ワータとバシリカが仲良く受付のカウンターに並んでいる。トミーは珍しくお休みらしい。
「なんかいいの入ったかい、二人で出来るやつ。こいつと受けるから」
ワータは受付カウンターの上でぽよっと跳ねる。
「そうだな~ イーサンもなかなかデキるやつだからな」
「そうね。イーサンとチャールズならどんな依頼でも間違いはないわ」
バシリカも続いて、ひらひらと美しいオーロラ色の鱗粉を撒きながら羽ばたいた。
「イーサン、選んでくれよ」チャールズはまた眠たくなったのか、気怠そうにイーサンの肩へおでこをくっつけた。
「そうですねえ」
真剣に選ぶどころではないのだが、イーサンはできるだけ新しい張り紙へ目を泳がせた。
「えーと『オーガロードの討伐・三つ星』『サルベージ船の水夫募集・二つ星』『口の堅い方募集・二つ星』『逃げたペットを探してください・一つ星』……ふむ」
「水夫募集は却下したい。長期拘束だろうし、泳げないからな。人数がたくさんいる時ならいいけど」
「ですよね」
吸血鬼は泳げない。チャールズも例外ではないのだろう。
「では次、口の堅い方」
「うさんくさいな」眉をぐっと寄せるチャールズ。
「依頼主は商人ギルドですね。これは安心して良いですよ。おそらくは額の高い希少な荷を運ばされるのでしょう。報酬は銀貨千、中堅ならまっしぐらに飛びつく依頼です」
「ふーん。中堅に譲ろうぜ」
チャールズはイーサンの二の腕を棒切れのような指でつんつんと突いた。
「では次に行きましょう。逃げたペット」
「一つ星か。犬か猫じゃないの」
「ペットといっても実験動物みたいですよ。建物内にうっかり実験動物を放してしまい、見つからなくなったので捕獲してほしいとか」
「危険生物ならともかく、ただのペットなら駆け出しに残してやろうぜ」
「ですね。報酬も銀貨四百と、初心者用のお手本みたいな価格です」イーサンは頷いた。「それでは、オーガロードの討伐はいかがでしょう。五、六体のオーガを率いたボスが山裾の砦跡に棲みつき、旅人を襲っているようです。国境警備隊からですね。これはおいしい依頼ですよ。今決めなければ、他の冒険者か賞金稼ぎに即奪われるでしょう」
「妥当なところだな。で、報酬はいくら」
「全員倒して銀貨二千です。オーガロードの首だけなら千」
「決まり」
チャールズはおでこを離し、伸びあがった。猫のようだ。
「ワータ、バシリカ。これ受けるよ、オーガロード」
「ほいほーい」
「わかったわ。じゃあ名前を記入してね」
カウンターに行き、ささっと契約書にサインを済ませるチャールズ。イーサンもペンを受け取り、続けて名前を書いた。
オーガどもの住処となっている砦跡は、街道から少し外れた辺鄙なところにある。国境警備隊の目の届く範囲とはいえ、気軽に退治しに行ける状況でもないようだ。
イーサンらが住む地方のオーガは人食い鬼の一種で、魔法こそ使えないが、長く生きた者は動物に変身する力を持つとされる。強靭な力を持っており、一般市民に毛が生えた程度の警備兵では歯が立たない。
本来ならば訓練を積んだ騎士団の仕事だ。しかし騎士団が動くにしては、群れの規模が小さいのだった。
イーサンとチャールズは馬を借り、ぽこぽこと街道を進んで行った。イーサンは馬という動物が好きだった。セントベルの馬車を引く馬も、よく祖父母の家に行って世話をしていた。
チャールズも危なげかと思いきや、難なく馬を操っている。
ぱっかぽっこ――のどかな田園風景が続く。少し進めばオーガが群れを成して、旅人を襲っている街道だとは想像もつかない。
「む、そろそろ結界が途切れるみたいだな」
退魔結界の終点。人里には魔物が入ってこられないよう、どんなに小さな集落や村にもある程度の結界が張られている。そのため、結界師や聖職者がいない土地、何らかの状況で結界を張ることができない地は危険極まりなかった。
「なるほど、瘴気が漂っていますね。あの山裾あたりは古戦場だったといいますし、魔物も集まりやすいのでしょう」
平穏な風景も終わる。この先は用心しなければならない。
「気を抜くなよ、イーサン」
「大丈夫ですよ、クラウチさん」
目配せし合う。チャールズが頷くとモノクルの鎖が揺れ、繊細にきらめいた。
「砦が見えてきましたね」
「ここからじゃオーガの姿は見えないな」
「ええ……」
イーサンとチャールズは砦から少し離れた林の中に馬を繋いでおいた。
「足元にお気をつけて」
馬から降りるチャールズの手を取って支えた。
「ありがと」
「どういたしまして」
「よーしよし、いい子だからちょっと待ってろよ。すぐ戻ってくるからな」チャールズは空いたほうの手で馬の首を優しく撫でている。
愛おしさに胸が痛くなった。このまま手を繋いで行けたら。
けれどチャールズにしてみれば、イーサンはただのファンで、昨日一緒に仕事をして、無理やり踊りに付き合わされ、着替えを手伝わせただけの仲だ。
イーサンはチャールズから拒絶される前に、手を離した。
慎重に砦へ近寄る。砦の門前に見張りはいないが、中で待ち構えている可能性もある。念のため砦の周囲を観察し、風下となる位置の瓦礫をくぐるようにして入った。砦の中は薄暗く、明かりがなければ歩くこともままならないだろう。
すぐ近くにオーガはいないようだ。
『明かりを点けますか』
『俺は吸血鬼だから暗くても平気だけど、あんたは必要だろ』
『暗視の術を使います。さほど長持ちはしませんが』
『無理はするなよ。戦う前に魔力切れなんて洒落にならないからな』
『ええ、肝に銘じますよ』
イーサンは視界に暗視の術をかけ、生体反応を感知する術で正確な敵の位置を探る。
『おおよそですが、一階に二体、二階に四体、三階に一体いますね。三階の反応は大きいので、これがロードでしょうか』
『多分な』
二人は用心して、念話を送り合った。
敵に中級以上の魔術師や知能の高い魔物がいる場合、魔術言語を使う念話はこちらの気配を勘付かれてしまい致命的だが、オーガのように愚鈍な生物であれば、発声器を用いない魔術での会話は有効な手である。会話する相手と意識をすり合わせなければならず、遠距離に届かない等の不便さはあるのだが。
なによりイーサンにとって、チャールズの声が直接頭の中に響くのは心地良かった。
『この廊下を真っ直ぐ行って、突き当り右の部屋に一体います。動いてませんね』
『夜行性だし、寝てるのかもな』
自分も寝たいと言わんばかりに、チャールズは口元を手で覆い、欠伸をする。
『眠そうですね、クラウチさん』
『うん、眠い』
『では、まず俺が様子を見に行きますね』
『任せた』
イーサンはできるだけ音を立てず、扉に忍び寄った。鍵はかかっていないというよりも、壊されている。過去の戦いで壊されたものか、オーガが壊したものかは判別できない。
少しだけ扉を開き、中の様子を伺う。仰向けになったオーガの脚が見えた。身の丈は体格の良い成人男性より二回りも大きいだろうか。いびきをたて、ぐっすりと眠りこけているようだ。
振り返ると、チャールズは一歩離れて身構えている。イーサンは隙間に銃剣の先だけ入れ、暫し集中する。ものの数秒も経たぬうち、オーガへ向けて魔力弾が発射された。何の音もなく、眉間に銃弾が命中し、床に大量の血が広がっていく。
イーサンは部屋に入り、オーガがちゃんと死んだかどうか確認した。
『済みました。血の臭いで勘付かれないと良いのですが』
『すぐに扉を閉めれば平気さ。こんな時ワータかバシリカかマルコフかホゥロン……うーんまあ誰でもいい、あいつらがいれば死体を氷漬けにして臭いを消せたのにな』
『ふむ』
イーサンは魔術で粘着質な糸を作り出し、窓や風穴を塞ぎ、最後に扉を閉めて密閉した。
『これで、ある程度は臭い漏れを防げるかと』
『考えたなぁ』
残りはおそらく六体。イーサンはチャールズの前に立ち、慎重に進んだ。廊下を戻ると道が二手に分かれていた。一方は入って来た瓦礫の抜け穴で、もう一方は外観の作りから察するに砦の入口と、それぞれ階段へと別れる二股の道があるはずだった。
『止まってください』
『うん』
二人は歩みを止め、廊下の暗がりから砦の入口を伺う。
『いますね。一体だけです』
元は頑丈だったが壊れてしまって用を成さない扉に、オーガがもたれかかっていた。見張りのつもりらしい。別の場所から来た侵入者に背後を取られるようでは、見張っている意味などないが。
『次は俺に任せてくれるかい』
『ええ、お手並み拝見と行きましょう』
『そんじゃ』チャールズは黒革の手袋をした指先を静かに振った。
灰色の砂が細い糸状になり、オーガの元へ流れていく。
オーガは顔にまとわりついてきた砂に気付き、手で払おうとしたが、砂は口や鼻から侵入し、発声と呼吸を奪った。オーガは砂を吐き出そうと試みたが、突然地面に崩れ落ち、ぴくりとも動かなくなった。
『内側から首の神経を切断した。魔物とはいえ、気持ちいいものじゃないよな』
『お見事でした。血も流さず、暴れる隙も与えないとは』
チャールズは首を振って、溜息をついた。
『好きでやったわけじゃないぜ。あんただけに汚れ仕事はさせられないからな』
『ええ、わかっていますよ。仕方がないことなんです。仕事ですから』
頷き、イーサンの背中を軽く叩くチャールズ。次へ行くぞ、という合図だ。
二股になった道の、片方は足場が脆くなっており、埃が積もっている。さすがのオーガも使っていないだろうと、もう片方の道を進んだ。
『わずかですが、足跡ですね』
『こいつはでかい。オーガロードかな』
泥が渇いた土の足跡が複数、途切れながら階段まで続いている。中でもひときわ巨大な裸足の跡は、ブーツを履いたイーサンの足と並べても、さらに一足分は入りそうだ。ハイヒールのチャールズなどは、比べると小人か妖精に見えた。
階段を登っていく。らせん状の階段は静かで、音がよく響いた。外敵を防ぐために、砦の設計者が響きやすい施工の建築をしたのだろう。
イーサンの靴底はある程度の音を吸収できる術印と、弾力性のある樹液で固め、加工した革が張りつけられている。それでも、少しは装備のこすれる音を立ててしまう。
ところが後ろから着いてくるチャールズは、一切の物音を立てなかった。踵の高い華麗なハイヒールにも拘らず。もし姿を見失えば、気配すらも感じ取れないだろう。
『修行が足りないみたいですねえ』
『なんのことだい』
『クラウチさんは全く音を立てていないのですごいですよ。俺は気配を隠すのがどうやら苦手なようで』
『気にすることはないさ。生きてるんだから、どうしたって多少の気配はするよ。吸血鬼なら別だけど』チャールズは肩をすくめた。
『一階のように上手くいくとは限りませんし、気を付けなければいけませんね』
オーガは知能こそ低いが、野生的な勘と身体能力には目を見張るものがある。そしてオーガロードは、個体で生きる野生動物のごときオーガに集団行動をさせ、指示を出してまとめ上げる力がある。絶対に気取られるわけにはいかなかった。
『まーまー もっと楽に行こうぜ、坊ちゃん。肩肘張りすぎると、それも気配ってヤツになっちまうんじゃないの。俺たちなら、たとえバレたとしても問題ないさ。最悪な事態が起きたとしても、俺が何とかするって』
イーサンは前を向いて奥歯を噛んだが、すぐ柔らかい表情を作って、振り返った。
『そうですね、気が楽になりました』
『楽にしすぎて踊り出したりしないでくれよ』深い眼窩の奥で目を細めるチャールズ。
『ふふ、こんなところでそんな』
『こんなところじゃなきゃ、いいのかい』
脳に直接息を吹きかけられるような、甘い響き。
もちろん――興奮しそうになる気持ちを抑え、魔力の乱れを悟られないようにする。念話は繊細だ。雑多な思念が入ると、不本意な形で伝わってしまうかもしれない。
『ええ、よろしければ、帰った後にでもまた、昨日のように踊ってください』
『どうしようかな。あんたの働き次第かな』
ニヤリ。曲がった口元から小さな牙が見え隠れする。
『どうぞお手柔らかに』
イーサンはできるだけ感じが良く見える微笑みを浮かべてから、前を向いた。
唇を結ぶ。最悪な事態は起こさせない。万が一にでも、チャールズを傷つけるような事態など、絶対に。
二階の生命反応は一つの場所に集中している。
『この部屋ですね。四体います。先ほどから探っていますが、動きはありませんね』
『やっぱり寝てんじゃないのかな』
『さて。調べてみましょう』
イーサンは扉を探った。鍵はかかっておらず、当然ではあるが罠の類もない。音を立てないようにゆっくり開き、中を覗く。
吐き気を催すような臭い。イーサンは口と鼻を手で覆った。オーガは人を襲って喰らう。となれば、転がっている肉のこびりついた骨は襲われた旅人のものであろう。いくつかの酒瓶も転がっている。宴会を楽しみ、そのまま寝入ったところだろうか。
『やはり四体のオーガが寝ていました。起きる気配はありません』
『どうする、俺がやろうか』
『大丈夫です、今度は上手くやりますよ』
チャールズを部屋に入らせたくはなかった。イーサンは部屋に沈黙の結界を張り、薬瓶を投げ込んで扉を閉めた。扉を魔術で施錠するのも忘れない。術を解除しない限り、内側からはいかような力をもってもこじ開けられないだろう。
『今投げ込んだのは何だい』
『毒です。この空間の狭さであれば、オーガ四体を葬れる強さはあるでしょう』
『そうか。けっこう苦しむのかな』チャールズは胸元できゅっと拳を握った。
やはり部屋を見せなくて正解ですね――イーサンはチャールズの背に手を添えて、扉から離した。討伐すべき魔物に対しても慈悲を見せるなら、中の惨状を見ればより苦しむだろう。
『長い時間ではありませんよ。一瞬です。さ、次へ行きましょう。三階に大きな生命反応があります。いよいよオーガロードですよ』
『うん、行こう』
二階の構造は一階と似ている。一階と同様調べていない部屋はあれど、探索するにしてもオーガロードを始末してからのほうが安全だろう。
建物の丁度中心部に、三階へ続く急な階段があった。砦として利用するなら、上から煮えた油を落としたり、矢を射かけたり、魔法で応戦するのには最適な構造だった。
ただ、オーガが建物の特性を利用しているとは思えない。オーガは主に人が放棄した城や砦、ドワーフが掘った地下の宮殿に住み着く。攻防の利便性ではなく、単に屋根のある建物としての広さを好んでいるだけだ。
『罠もありませんし、待ち構えている様子もないですね。先に俺が行きましょう』
『すまないな』
イーサンは急な階段を足元に注意しながら登って行った。登り切って振り返ると、チャールズもすぐ後ろにいた。手を差し伸べると、チャールズは薄く笑みを浮かべてイーサンの手を取った。
『ありがとさん』
『いえいえ』
三階は天井に隙間があるのか、ところどころ雨水や土埃の吹きさらした跡が見て取れた。巨大な足跡も残っている。
階段を登ってすぐの廊下に小さな扉がいくつかあるが、生命の反応はないので一旦無視する。暫く進んだ先、頑丈な両開きの扉の中に気配を感じた。
『この部屋です。準備はよろしいですか』
『いつでもいいよ』
イーサンは耳をそばだて、低いいびきが聞こえたのを確認してから扉を調べた。鍵も仕掛けもない。
『では開きます』
『うん』
古く重い扉は、想像以上に軋んだ。隙間から覗くと、布やがらくたを重ねて作った寝床の上で、ひと際肉のついた巨体が壁を向いて横になっている。
一見ぶよぶよとした肉の段になっている首は、相当皮が分厚そうで、腕は馬の首より太い。
いつの間にかいびきが止まっている。イーサンは息を飲み、構えた。巨体がゆっくりと起き上がる。
次の瞬間、イーサンはチャールズを横抱きにし、扉から離れた。
ゴウッ――激しい音をたて、厚い木の破片が散った。恐ろしい力で、扉が吹き飛んだのだ。
「誰だ、ニオイで分かるぞ、人間だな。人間のニオイだ。一匹いるぞ」
砦を震わせるような大声に、鼓膜がビリビリする。
オーガロードは寝たふりをしていたようだ。
『大丈夫ですか、クラウチさん』
『大丈夫だ。やれやれ、起きてたか』
『もう一度眠らせるか、隙を見て倒しましょう』
『おう』
ドスン、ドスン、足音が響く。
「おォーい、食べ残しが逃げ出したぞォー お前ら出てこォーい、出てこォーい」
呼べども手下はやって来ない。先に始末してしまったから当然だ。イーサンとチャールズは物影に隠れ、機会を伺った。
「あいつら何してやがる」
ドスン、ドスン。足音は近づいてくる。
『クラウチさん、俺が姿を見せて囮になります』
『危険じゃないか』
『大丈夫です。やつは人間一人しかいないと思い込んでいますから。俺が引きつけている間に、やつの動きを封じてください。そうすれば後は止めを刺します』
『わかった。気を付けろよ』
ドスン、オーガロードが廊下に出てきた。イーサンはわざと前に出て、姿を見せつける。
「やい、人間ならここにいますよ」
「オーッ、確かに人間だ。お前みたいなヤツ、捕まえたかなァ。肉がたっぷりついてうまそうだから、朝飯に取っといたっけなァー」
でっぷりと太ったオーガロードは、油にまみれた髪をぼりぼりと掻いた。開いた口からは乱杭歯が剥き出しになり、食べかすがこびりついて、いかにも不潔で臭そうだった。
「汚らわしい怪物め、俺を食べたいならかかってきなさい。朝ご飯になるつもりは毛頭ありませんがね」
「なァーにィー ジューシーな肉袋のくせに、生意気だぞォ」
ビュッ――風を切る音と共に、オーガロードの振りあげた武器が天井や壁をえぐる。粗削りの岩に、頑丈なロープを結び付けただけのお粗末な武器だが、オーガロードの怪力をもってすれば、鉄球をはるかに凌ぐ破壊力を生み出す。
イーサンは素早く飛び退いて回避した。パラパラと、削れた天井の破片が落ちてきた。
「どこを狙っているのですか、愚か者。そんなぶよぶよの体では、よちよち歩きしかできないんでしょう」
「なんだとォー 食ってやる。マタを引ッ裂いて、中身をチューチュー吸ってやるからなァ」
ドスン、ドスン。岩を引きずりながら、オーガロードは挑発されるままイーサンに向かってきた。
『クラウチさん、用意はいいですか』
『よし』
次にオーガロードが武器を振り上げた時、背後から泥が絡みついてオーガロードの動きを封じた。
『いけるかい』
『助かります』
イーサンはオーガロードの頭に銃剣の切っ先を向け、挑発しながらも溜めておいた魔力弾を発射した。
糸のように細い銃弾は、寸分の狂いもなくオーガロードの眉間を貫く。
「オッ」
オーガロードは何をされたのか分からずぽかんとしていたが、やがて白目を剥き、血を噴き出しながら仰向けに倒れた。即死だろう。
「はあ……」チャールズが死体の影からそろそろと現れる。
「お怪我はありませんか」
敵の生命反応は全て消えた。もう念話の必要はないだろう。イーサンは声帯を使って話しかけた。
「あんたこそ」
「俺は平気ですよ。外套が少し汚れましたけど」
天井の穴から光が漏れており、外套をはたくと光の中に土埃が舞った。
「どうする。仕事は終わったけど、すぐ帰るかい」
「できれば、襲われた人たちの遺品を回収したいところですね。警察に届ければ遺族にお返しできるかもしれませんし」
「そうだな」
三階のオーガロードが寝ていた部屋から始め、調査していない部屋を一つずつ調べて回る。オーガらは小部屋に立ち入っていないのか、埃が積もっていた。砦に元々あった物は風化しており、金銭的価値は見いだせない。
結局、遺品として貴金属類を数点拾い、イーサンとチャールズは帰路に着いた。
国境警備隊の事務所で報酬を受け取り、警察に遺品を届け、すっかり日が落ちた頃。ようやく冒険者ギルドに帰ることができた。
「ただいま」
「帰りました」
受付カウンターからワータとバシリカが出迎えてくれる。
「おっか~」
「お帰りなさい」
「あ~ 疲れた」チャールズは酒場の席に着いて、ぐったりとテーブルの上に突っ伏した。「報酬ガッポガポもらったぜ。葡萄酒をくれ。香りのいいやつをな」
夕方の酒場には人が集まり、料理や飲み物を運ぶ従業員も立ちまわっている。イーサンはなんとなくそわそわした。
賑やかな雰囲気は好きだが、今は落ち着かない。チャールズと二人きりの時間が終わってしまったからだろうか。
「あんたも飲むだろ」テーブルに伏せったまま、チャールズは頭だけをこちらに動かした。
「ええ、同じものを」
すると料理の匂いに誘われたのか、腹の虫が小さく鳴いた。
「腹減ってんだろ、色々頼もうぜ」
「お恥ずかしながら」
昼食を摂ってからは何も食べていない。携帯食料は持って出かけたが、チャールズと過ごす時間への満足感で、空腹を忘れていたのだ。
チャールズは従業員を呼び止め、追加でワインをもうひと瓶、あげじゃがとサラダの盛り合わせ、焼いた鶏肉、パンのかご、魚の入った野菜スープを注文した。
二人のテーブルには続々と料理が並べられた。全て一人分しかないが。
チャールズはワインのコルクを抜き、グラスになみなみと注いで、イーサンに渡した。
「あ、ありがとうございます」
「遠慮なく食えよ」促しながら、自らのグラスにもたっぷりとワインを注ぐ。
「はい、そうさせていただきますね」
イーサンは神様に祈りを捧げ、サラダから取り分けた。
「クラウチさんは、お食事はどうされるのですか」
チャールズはグラスの中身を豪快に飲み干した。
「人間のめしを俺が食うわけないだろ。こいつで十分さ」
ワインボトルを軽く振って見せ、次の一杯をトットッと注ぎ入れる。
「それなら、良ければですが、俺の……を」
「何か言ったかい」
聞こえないならばと念話を試みる。しかし、チャールズの心は精神の同調を拒んでいた。イーサンはなおも強く魔力を送り込み、同調させようとした。周囲の冒険者が魔力の流れを感じ取り、怪訝そうにこちらを振り返るほど。
抵抗をされると、格下の術者ではどうあっても念話を送ることができない。それ故に、突然念話を送って驚かせるような芸当ができるのは、神でなければ神霊や上位精霊、強力な魔性の類のみであった。
チャールズは魔力を送られたことに気付いているはずだが、素知らぬ顔でワインを一本開け終わり、追加の注文をした。
「すまない、葡萄酒追加でもう一本おくれ」
「はーい」
鼻の根元が熱くなる。空腹ではあったが、取り分けたサラダを減らすことができなかった。
「どうした、食えよ。遠慮するなって」
「はい、食べます」
無理矢理口の中に入れて、咀嚼する。新鮮な葉野菜で、ドレッシングも格別なはずだが、水っぽい味しかしなかった。
「食後の運動ならしてやってもいいぜ」
「えっ」
チャールズは葡萄の雫に濡れた唇を舐めた。牙がチラリと覗く。
涙が出そうになるのを抑え、サラダを食べ終わり、スープを飲む。取り分けもせず必死で食べた。時折チャールズの表情を伺うと、グラスを揺らしながらぼうっと遠くを見ていたり、イーサンをじっと見返してふっと視線を逸らしたり、食べ終わるのを待っているようだった。
「……ごちそうさまでした」
おいしいはずの料理を味も気にせず食べたのは久しぶりのことだ。
イーサンが食べ終わるまでに、チャールズはボトルを二本空にしていた。顔色は全く酔いの兆しがなく、青白いままだ。
「じゃ、ごちそうさま」チャールズは立ち上がって、会計を済ましに行った。
慌てて追うと、イーサンの分まで既に支払われていた。
「クラウチさん」
驚くほど素早く、姿が見えなくなった。イーサンは不安になって、人でごった返す酒場の中を見渡した。
――いた。アパルトメントへ続く階段前の壁にもたれて、欠伸をしている。
「ちょっとすみません」イーサンは帰還した冒険者や、食事をしに来た客の群れをかき分けた。「通ります、失礼します」
やっと人混みを抜けると、前髪をいじっていたチャールズが顔を上げた。
「俺は上に行くけど。もう帰って寝るかい」
「まだ寝るには早いですから」イーサンはなんとか笑みを浮かべた。
「優等生なんだろ」
「優等生じゃありませんよ」
「じゃあ、坊やは夜にどんな悪いことをするんだい」
にいっと歪められた口元から、鋭い牙が見え隠れする。
「悪いことなんて、しないですよ」
「ふ~ん。やっぱりいい子だな」
チャールズは階段にヒールを乗せ、ゆっくりと登っていく。まるでついて来いと誘っているように。
「クラウチさん、お食事ありがとうございました。俺の分は払いますから」
「いいってことよ」
「ですが……いえ、ごちそうさまです。何かでお返ししますね」
「何かって何だろうな。楽しみ」
チャールズは背を向けたまま抑揚無く答えた。薄い背中が目の前にある。イーサンはうなじを視線で辿り、襟足の分け目を眺めた。色味のない蒼白な肌と、濃い髪色のコントラスト。唇で吸いつくと、石より冷たいのかもしれない。
熱くなった頬に触った。誰もいないのなら泣きそうだった。
階段を上がり終え、廊下を歩く。イーサンはチャールズの横に並んだ。部屋に行っても良い――ということだろうか。
話すことが何もない。昼間はあんなにも二人だけの会話を楽しんでいたのに。
いくつかの扉を通り過ぎ、チャールズは立ち止まった。
「お部屋ですか」
「そうだよ」
ノブに指で触れ、魔術の鍵を開ける。
「汚いぜ」
「えっ」
「俺の部屋。掃除してないから」チャールズは扉を開けて、先に入った。
開けたまま、どうぞといったふうに首をかしげる。
「お邪魔します」
真っ暗で部屋の様子はわからない。
「ああ、そっか」
チャールズは天井に吊るされたガラスランプに明かりを灯した。魔力に反応して発光する石が入っているようだ。
チャールズの部屋はとにかく物が多かった。本棚の中は本や文献で溢れ、棚に並んだガラスケースの中には、鉱石の標本がみっちりと詰まっている。
テーブルの上は瓶で占領され、床にも転がっていた。汚れものの類がまるでないだけに、イーサンには倉庫か屋根裏部屋といった印象を受けた。
「これで見えるだろ。汚いんだ」
「汚くないですよ。色んな物が置いてありますね」
「ちょっとは片付いてる方だぜ。この前マグリヤが掃除を手伝ってくれたからな」
「そうでしたか」
チャールズはベッドへ上がって、カーテンを開いた。月明かりが柔らかく入ってくる。そのままベッドの上に座って「はーあ」と息を洩らした。
「あんたもどっか座っていいよ。その椅子も座れる、多分な」
「隣はダメですか。あ、ごめんなさい。ベッドに上がるのは失礼ですよね。それに俺の服、汚れてるんでした」
「いいけど」
イーサンは暫く迷ったが、チャールズがぼんやり待っているので、汚れた外套を脱いで椅子の背にかけた。
「では……失礼します」
「どうぞ」
尻の位置をずらすチャールズ。イーサンはチャールズの隣にそっと腰かけた。
「鉱石の標本がたくさんありますね。やっぱり貴重な物ですか」
「まあね。仲間と採掘しに行って、いいのがあったら拾って、気づいたら溜まってた」
「採掘って、どんなことをするんですか」
「目星をつけた岩場を掘る感じかな。興味があるなら、今度連れて行ってやるよ」
「ええ、ぜひ」
チャールズはぼんやりと前を向いている。イーサンは話題を探そうと、部屋の中を眺め回した。
「あの――」天井のランプについて聞こうとした時、手の甲が触れ合った。
イーサンは声も出せなくなって、体を小さくしながらチャールズの表情を伺った。チャールズは少し首をこちらに向け、立ち上がった。
釣られて腰を上げると、襟元をそっと押されたので元通り座り込む。
「さっき何か言ってたかい」
「さっきって」
「ううん、いいや」チャールズは屈みこんで、イーサンの太腿の横に膝をついた。
革手袋の指先が、襟の中に侵入してくる。蜘蛛の脚が忍び寄るみたいに、首すじを探っている。指は耳たぶの下、頸動脈の上で、ぴた、と止まった。
トクン、トクン。イーサンの耳にも自分の鼓動が伝わった。普段よりも早くなっている。
チャールズは音を味わうように目を閉じ、唇を薄く開いた。イーサンは頭がぼうっとして、陶酔したようにチャールズの睫毛を見つめた。
唇が触れ合うほど近づいて、囁かれる。
「怖くないの。あんた、吸血鬼に襲われそうになってるかもしれないぜ。オーガなんかより、ずうっと怖い鬼にさぁ」
「怖いといったら、どうしてくれますか」
「どうしようかな。あんたはどうしたい」
イーサンはゆっくり息を吸った。微かに葡萄の香りがした。
「怖いので、もう動けません。好きにされたいです」
「好きにしていいの。立ち向かう勇気はどこへ行ったんだろうな」ふ、とチャールズは笑みを漏らす。「イーサン、あんたの首にキスするよ。太い首筋を噛んで、傷口を舐めてやろう」
叫び出しそうになるのを抑え、息を吐き出す。こめかみ辺りが震える。
「して……ください」
顔中が熱くなる。体の内側に松明を投げ込まれたみたいに。
「ははっ」
笑って、チャールズは襟から指を引き抜いた。イーサンから離れ、ベッドにドサッと座り直す。
「そんなことするわけないだろ」
イーサンは熱い体を持て余して項垂れた。何より、恥ずかしかった。
「そうですね、ごめんなさい」
「こっちこそ悪かったよ」
「いいえ、ごめんなさい」
鼻をすする。あと少しでも我慢できなければ、溜まった水が溢れるように涙がこぼれてしまうだろう。
「なあ、ごめんな、からかったりして。ほら、お詫びに踊ってくれよ。音楽はないけどさ、悪い吸血鬼と仲直りしてくれ」
「ええ……喜んで」
チャールズは勢いよくベッドから跳ね起きて、イーサンに手を差し出した。イーサンは顔を上げ、小さな手を取り、包み込むように絡める。
「空き瓶とか気にせず蹴飛ばしていいからさ」
ハイヒールのつま先が、瓶をテーブルの下に寄せる。
「後で片付けが大変ですよ」
「まあ、後でなんとかするさ」
音も拍子もないので体を左右に揺らすだけだ。けれど、冷たい体を密着させて踊るのは心地が良かった。破裂しそうな熱が癒されていく。
イーサンはチャールズの腰をぎゅっと引き寄せた。
「そんなにくっついたら踊れないよ」
「離したら、悪いことするかもしれませんので」
「ごめんって。許してくれよ」
背中を軽くぽんぽん叩かれる。
「許してあげます」イーサンは体を離した。「その代わり、また一緒に仕事してくださいね」
「もちろんさ。あんたは優秀だし、一緒に仕事すると楽しいからな」
「ありがとうございます」
指を伸ばす。チャールズは微笑んだまま逃げない。イーサンはチャールズの落ちて来た横髪を耳にかけた。
「クラウチさん」
「うん」
出したい言葉は喉元に留まった。
「もう寝ますね。良ければまた明日」
「そうか……おやすみ」
チャールズはどこか残念そうに睫毛を伏せる。片手はまだ絡めたままだ。イーサンが持ちあげると、細い指にわずかな力が込められた。親指をきゅっと握られる。
「……おやすみなさい」
チャールズの手を軽く握り返し、甲の骨をなぞった。革手袋がイーサンの汗で湿っている。
「うん」親指にほんの少し爪を立てられた。「おやすみ」
別れの言葉を結びながら、離れ難い。イーサンはチャールズの耳元に唇を寄せた。
――あいして、います。
言えない。空気すらも出ない。唇の動きだけが形作った。
代わりに頬へキスをする。おやすみのキスを。
チャールズもキスを返してくれた。冷たい感触が頬に残る。
「それでは……」
「じゃあな」
気が抜けたように、親指を握っていた手が滑り落ちた。イーサンは扉へ向かい、振り返った。チャールズはそのままの位置と姿勢でこちらを見送っている。
「また明日」
「うん、明日な」
扉を開いて、名残惜しく微笑みかけ、イーサンはやっと部屋を出た。閉めた扉に耳をくっつけ、中の音を探る。カツカツとヒールの後、ドサ、という音が聞こえる。チャールズがベッドに勢いよく沈みこんだのだろう。
この場から動きたくなかった。中の空間ごと切り取って、持ち帰れたらいいのに。
いつまでもチャールズの部屋の前に居座るわけにはいかないので、イーサンは仕方なく帰宅した。
風呂に入り、着替えてから、イーサンは部屋を消音の結界で包んだ。
ベッドに潜り込み、枕に顔をうずめてからようやく叫ぶ。
あああああああ。
くぐもった絶叫は誰にも聞こえない。誰にも届かない。
イーサンは腹の底から何度もわめいて、それから枕を涙で濡らした。チャールズに首を噛んで欲しかった。血を捧げたかった。指を絡ませ、キスをし、何度も愛していると呼びながら、朝まで抱き合っていたかった。
満足するまで泣き叫ぶと、顔を洗って、濡れた枕カバーを洗濯籠に入れてから眠りについた。
焦ってはいけない。明日も明後日も、その先も続くのだから。
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