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第14話

 石の人 十四  重い。沈んでいく。泳ぎは得意なはずだが、体が浮き上がらない。黒々とした水の底に呑まれ、無数の冷たい腕に捕らわれた。  ――どうしてこんなことに。ああ、でもあなたが無事で良かった。  薄れゆく意識の中、イーサンはチャールズの表情を瞼に描いた。せめて最後に見る顔が、笑顔だったら。  半日前の朝。イーサンは掲示板の前に立っていた。 「クラウチさん、これはいかがでしょう」 『廃城に巣食う死霊の討伐・三ツ星』の張り紙を取り、手元に広げる。 「どれどれ」横から覗き込むようにして、チャールズの頭が飛び出す。「ふうん、いいんじゃないの。お手の物なんだろ、死霊退治」 「ええ、まあ」イーサンは声を落とし、控えめに微笑んだ。  幾度か共に仕事をこなし、イーサンはチャールズ・クラウチの新しい相棒として、世間に名を知られるようになった。二人きりで高難易度の依頼を確実に片づける冒険者。新聞はその活躍を取り上げ、ゴシップ誌は二人の関係についてあらぬことまで書いた。  イーサンは「好き勝手書いてくれますね」と渋面を作りつつ、チャールズと親しい間柄ではないかと邪知されるのは、まんざらでもなかった。チャールズは興味がなさそうだったが。  何より、七年以上連絡をとっていない両親に、自分の安否や近況を伝えられているかもしれないという奇妙な頼もしさがあった。 「早いとこ受けちまおうぜ。ホゥロンに見つからないうちにな」 「あーっ、ちゃあちゃん。今僕を呼びましたね」  ホゥロンがふわふわのたてがみを揺らしながら駆けてくる。人懐っこい犬のようだ。  チャールズは張り紙をイーサンの外套に隠し、首を横に振った。 「呼んでない、呼んでない」 「いいんですよ。ホゥロンはちっとも拗ねていません。ちゃあちゃん最近、イーサンさんと二人でべったりしてるもんね」 「べったりじゃないよ」 「べったりだなんてそんな」  顔を火照らせ、うつむくイーサンの脚に、ホゥロンは尻尾をぺしっぺしっと叩きつけた。 「イーサンさん。この僕からちゃあちゃんの枕になる権利を奪ったからには、しっかりお世話をしなさいね」 「なんだか親御さんみたいですね」 「親御さんではありません、僕です」 「ふふっ」  ホゥロンが来ると、騒がしいペースに巻き込まれてしまう。その分チャールズの笑顔が増えるし、イーサンもホゥロンの明るさには助けられていた。 「おっ、やってるな」 「おはようございます、チャールズさん、イーサンさん」  仲良く登場したのはビアスとマグリヤだ。二人はコンビを組んでおり、同じ部屋で寝泊まりしている。 「マグリヤちゃん。僕、ちゃあちゃんにすっかり振られちゃった」 「振られましたか~ チャールズさんはイーサンさんと組んで仕事をされることが多くなりましたからな」すりすりしてくるホゥロンを撫でるマグリヤ。 「そーそー チャーリーとイーサンちゃんラブラブだもんな。オジサン妬いちゃう」  ラブラブ。イーサンは恥ずかしくなり、慌てて否定しようとした。 「だろ、俺たちラブラブなんだよ」  腕に軽い圧迫感。チャールズが抱き着いてきたのだ。  傍目から仲良く見られているのは悪くはないと思いとどまった。なにより、チャールズから否定されないのが嬉しい。 「ま、ラブラブは置いといてさ。あんたたちも忙しいだろ。ホゥロンは主君の世話があるし、マグリヤとビアスは大体二人で仕事するしさ。俺もこいつと暫くコンビを続けていくさ」  とん。指先で腕を軽く突かれる。 「しばらくでなくずっと、できればコンビ以上がいいんですけどね」 「へえっ」 「だって、ちゃあちゃん」  あれほど難儀していたのに、仲間がいれば好意を伝えるのは容易かった。話しやすい雰囲気に呑まれるからだろうか。 「コンビ以上ね、考えとく」チャールズはニヤリと口元を歪めて、外套から取り出した張り紙を受付へ持って行く。  トミーが清潔な笑顔で迎えた。 「イーサンチャン、困ったことがあれば言ってくれよ。毎回組んでなくたって仲間にゃ変わりねえからよ」 「ええ、頼らせてもらいますよ。人数が必要な依頼もありますからね」 「我々も同じく頼らせてもらいますので」 「僕もね」 「はい、ホゥロンちゃんも」  仲間に手を振り、受付へ向かう。チャールズは名前を書き終わって、トミーに冗談を飛ばしている。 「腹巻すればいいんだよ、ハムくらい分厚いやつ。ここにこうやって入れてさあ」 「さすがに邪魔でボタンが閉まらないですよ~ ああ、イーサンさん。名前をこちらに」 「ええ」  チャールズはイーサンが書いている間、肩の凝りをほぐすように首を回し、落ちて来た髪をかきあげた。 「行こうぜ」袖を引かれる。「じゃあなトミー、お大事にしろよ」 「ありがとうございます、いってらっしゃい」  荷物を持って、ギルドを後にする。  二人きりになると、イーサンは何を話していいのかわからなくなった。 「トミーさん、どうかなさったんですか」 「ああ、今朝から腹の調子が良くないんだってさ」 「そうでしたか、気の毒に。良くなるといいですね」 「うん、そうだな」  チャールズは袖を掴んだまま先立って歩いている。手を繋げたらと、手首をひねる。チャールズは立ち止まった。 「あー」振り返る。「ごめん、二人で受けてよかったかな、今更だけど」 「ええ、大丈夫ですよ。俺たちなら余裕です」 「だよな。それならいいけど。珍しくマグリヤたちがいたからさ、一緒に受けたかったんじゃないかって」チャールズはうつむいて、イーサンの袖をきゅっと握りしめた。 「またみんなと一緒の仕事もしましょうね」  手首を返し、チャールズの手に触れる。チャールズの手はイーサンの手のひらに落ちてきた。軽く指を絡めて振ると、チャールズも振り返してくる。 「行こっか」 「はい」  手を繋いで歩く。城へ行く途中の村までは馬車が出ているため、停留所へ向かった。  道中はのどかなものだった。毎度、何事もない平和な道がどこまでも続いていくのではないかと錯覚する。  人里を外れてしまえば退魔結界が途切れ、魔物がはびこる危険な土地に入ってしまう。  イーサンとチャールズは馬車を降り、村からは徒歩で城へ向かった。  打ち捨てられた古い砦や城は、しばしば魔物の巣窟となりうる。  野生のゴブリンやコボルドが住み着くならましで、軍隊として訓練されたオークの集団、人食い鬼のオーガなどが住み着けば、近隣の住民にとっては生死に関わる問題だ。  中でもアンデッドが発生するのは最悪に近い状況である。アンデッドの放つ瘴気が呼び水となり、さらなる魔物を呼び寄せ、強力な魔人や邪神といった、異界の者が来訪する可能性もあるからだ。 「はっきり言って、俺はそんなに役に立たないかもな」  チャールズは後ろ向きに歩いている。荷物は石と砂で出来たゴーレムに任せながら。 「おや。自信がないのですね」 「だって死霊に地術は効果が薄いからさ」 「そんなことはないでしょう。クラウチさんの土や砂は魔力の塊のようなものですから、実体のない死霊でも何ら問題はないはずですよ」 「うん、まあ、そうなんだけど」  どうも歯切れが悪い。  イーサンは魔狩人であることを未だに隠していたが、死から蘇った怪物や、自然の理に反する術を使う者に対して、優位に戦えると説明していた。  対してチャールズの戦い方は補助的な役割が多かった。以前ヴァンパイアロードを倒した時のように、大がかりな魔法はあまり使おうとしない。  不可解ではあるが、チャールズほどの達人であれば、ある種の矜持があるのだろうと、イーサンは自分を納得させた。 「大丈夫ですよ、クラウチさん。アンデッド相手なら得意ですから。攻撃するのが嫌であれば、補助だけしていただいても構いませんよ」 「ううん、ごめん。ちゃんと戦うから問題ないさ」  チャールズは前に向き直り、先を歩いていく。 「ああ、待ってください。歩くの早いんですから」  相変わらずハイヒールだが、妙に素早い。イーサンは荷物を抱えなおし、慌ててついていくのだった。 「はー でかい城だな」  チャールズは堀の前に立って城を見上げている。 「ふう、やっと追いつきました。クラウチさぁん、一人で行ってしまうのは危険ですよ」 「おう」 「橋が上がって……いえ、完全に落ちていますね」  目の前に閉じた門があるが、橋は落ちて渡れそうもなかった。 「俺一人なら飛行の術を使うけど、あんたはどうする」 「肉体強化でこの距離を跳躍(ちょうやく)し、門の上に着地するのは、少し難有りですね。できないこともありませんが」 「少しかよ。じゃあ橋を架けるよ」  チャールズは指先をスッと細やかに動かした。ゴーレムに使われていた石と砂が周囲の土と一緒に集まり、橋の形に固まっていく。 「長持ちしないから、すぐ渡ってくれ」 「ええ」  中ほどまで渡ると、イーサンは即席の橋を蹴って飛び上がり、門の上に着地した。 「渡りました」 「じゃあ俺も行くよ」  橋を落とし、チャールズはゴーレムに持たせていた荷物を持って両腕を広げる。背中に半透明な魔力の翼が現れた。 「クラウチさん……」  見惚れているうち、チャールズは音もなく浮き上がり、軽やかに飛んで着地した。イーサンはチャールズから荷物を受け取った。 「綺麗ですね、その翼」 「そうかな、ありがと」  薄紫のグラデーションがかった翼は、氷が溶けるように消えた。  城壁の内側に降りて、門を開けておく。これで帰り道は少し楽になるだろうか。 「この辺りに死霊はいないみたいだな」  イーサンの背後で、チャールズは敵の気配を探っているようだ。 「日中ですからね。薄暗い城内に潜んでいるのでしょう」 「そうだな」 「生体反応は感知できませんね。では――」暫し集中。アンデッドの持つ歪んだ魔力を感知する術を発動させ、強さや規模を計る。「やはり。城の地下、百体はゆうに超えます。或いは、それに匹敵する力を持った霊がいるか」 「敵う相手だと思うかい」 「ええ、問題ありません」 「そうか。じゃ、行こうぜ」チャールズは土から小型のゴーレムを作り、荷物を持たせて歩き出した。 「ええ」  イーサンはあえて沈黙した。アンデッドであるチャールズから、魔力が殆ど感じられないのは何故だろうか。  類い稀なる気配隠ぺいの技術を会得したチャールズだ、実力を隠すのは造作ないだろう。しかし。もしも偽りのない魔力量を感知したなら、チャールズは今、普通の人間と同じ魔力しか持っていないことになる。  ――ありえませんね。  イーサンは頭を振った。もし、人間並みの魔力量だとすれば、血を吸い上げ、魔力に循環して生きる吸血鬼は存在するだけで精一杯、歩行もままならないはずなのだから。  ランタンを片手に、日の差し込まない回廊を進む。  チャールズは気怠さを微塵も見せず、粛々と歩いた。その後からイーサンが、隷属するように足を忍ばせて続く。  イーサンはチャールズのうなじを見た。襟足から伸びる首の線は細く、硬い。ランタンの光を受けて、イヤリングの宝石が首すじに赤い反射光を揺らめかせている。まるで血の飛沫が散ったように。  突然、チャールズは歩みを止め、振り返ってイーサンを見上げた。 「地下へ行く階段があるはずなんだよな」 「そうですね、外周から見た限りではどこに階段があるかはわかりませんでした。けど、見当は付きます」 「ふうん、どんな」 「魔力が密集する場所がありました。階段の周囲に死霊が溜まっているのかもしれません。ええと、場所はここから考えると」イーサンは手帳をチャールズにも見やすく広げた。「おそらくはこのあたりですね」 「また地図を書いてるのか、いつも律義だなあ」 「そうなんです。簡単なものですけどね。今は壁の内側にあたる回廊を歩いていますので、部屋があれば調べてみましょう」 「うん。でさぁ、立ち止まったのは階段の話だけじゃないんだけど」 「ええ……」  チャールズとイーサンは、同時に壁から床にかけての一部に目を向けた。 「そこ、罠があるぜ」 「明らかですね。古い血痕がありますし」  天井にランタンをかざすと、錆びた刃が無数に生えているのが見えた。通ろうとする者がいれば、刃のついた天井が勢いよく降りてきて、串刺しにする罠だろう。 「相当古いしな。生きてる罠かわからないし、ゴーレムを歩かせてみるよ」 「なんとなく、かわいそうですね」 「ただの土だから平気さ。なんなら、俺が歩いてもいいけど」 「だめです。冗談はよしてください」  荷物を下ろしたゴーレムを先に歩かせる。ゴーレムがゆっくりと罠の真下を通ると、ガッと音がして、刃がすさまじい速さで落ちてきた。  イーサンはすかさず、天井と罠の天井をつないでいた鎖を断ち切り、罠を無効化した。 「なるほどな、城の罠はまだ生きてるってわけだ」チャールズは破壊されたゴーレムを元通り人型に戻し、荷物を持たせる。 「こんなにボロボロなのに動くとは、職人芸ですね」 「まったく良い仕事の骨董品だよ」  回廊だけではなく、部屋の扉にも罠が仕掛けられていた。イーサンとチャールズは一つ一つの部屋を慎重に調べながら、階段を探した。 「おっ、あったぞ。別に隠されてもなかったぜ」 「死霊の存在は危険ですが、生存戦略へ気が回らないのだけは幸いですね」 「ま、死んでるからな」  暫し互いに笑みを返す。  地下は真っ暗闇だ。  ランタンの光を受けた壁に、一人分の影が踊る。伸びたイーサンの形だけが、ゆらゆらと。  チャールズの形は並ばない。吸血鬼は影ですら薄いのだ。 「瘴気が濃くなってきましたね」 「ああ、気をつけて行こう」  精神を集中させ、気配を探る。 「そこです」  イーサンは振り向き、虚空に向かって聖灰をふりまいた。  YYYAAA――  意味を成さない叫びをあげ、死霊の気配がいくつか浄化された。香を焚いた残りの灰を集めたものだが、効果はてきめんだった。 「大丈夫ですかクラウチさん、灰がかかったりは」 「まだ来るぞ」  前方に死霊がひしめいている。  死霊は肉体がなく、形を持たない。それゆえ、生者の認識にズレを生じさせる。ある者は黒い影を見たといい、別の者は骸骨だったという。  イーサンには、死霊の群れが半ば崩れかけた人の名残に見えた。  砂嵐が舞い、通路を駆け抜けていく。チャールズの魔法だ。  CLYAAA――YHAAAA――  かつて人だった意志たちは、砂に触れると耳障りな金切り声を残して消える。砂は死霊どもを片づけ終わると、ゴーレムの形に戻った。 「地術は死霊に効果が薄い。なんて言ってたのは、誰でしたっけ」イーサンは感心しながら、隣のチャールズを見やる。 「まあ、問題なかったな」  チャールズは口元に笑みを浮かべているが、どこか苦しそうな顔だ。 「クラウチさん、本当に大丈夫ですか。顔色が良くないですよ」 「……なんでもない。悪い顔色は元からさ」ゴーレムに下ろした荷物を持たせ、チャールズは歩き出す。  心配ではあるが、様子を見るしかない。イーサンはやつれた背中を追った。  進むにつれ、死霊の数が増えていく。灰をかけただけで浄化する連中だ。物の数百など敵ではない。  不死者避けの結界術を展開すれば、より効率良く始末できるが、チャールズに悪影響があってはならないので、控えた。  そうだ、急ぐ必要はない――隣のチャールズを見やる。ランタンに照らされた、廃墟の石壁とも見紛う血色のない横顔。暗い眼窩の奥に光る、赤い瞳。ここでは二人きりなのだから。  ギラついた欲望を抑えて、周囲に意識を集中させる。焦ってはいけない。  冥府へ続くかと思われるほど、長い道をひたすらに歩く。死霊の数はあらかた減ってきたが、瘴気は強い憎悪のように消えない。  さらに階段を二つほど降りたところで、チャールズがふと立ち止まる。 「……なあ」 「ええ」  とっくにイーサンも気づいていた。目の前にひと際重厚な扉が立ちふさがっている。吐き気を催すほど濃い瘴気が、扉越しにも伝わってきた。 「この廃墟、ただのうち捨てられた城じゃないぜ。城は普通"上"に向かって作るもんだ」 「考えたのですが」 「聞かせてみろ」  イーサンは咳払いし、ノートを開いた。ここまでの地図が丁寧に記されている。 「ご覧ください。この城の長ったるい回廊、真っ直ぐに見えますが、少しずつ歪曲して、ある形を描いているように思えるのです。冥府への門を開く術式。その最適の形に。元々いた死霊たちの怨念を媒介にして、門が開きかけている。或いは」 「既に開いてる。だな」  イーサンは頷いた。  もし、冥府へつながる門が開いたなら、二人の手に負えるかどうかわからない。しかし、本当に門が開き切っていたら、今頃は城のみならず近隣一帯を亡者が蠢く事態になり果てているだろう。 「なんにせよ、確認してみないことには」 「ああ。準備はできたかい」 「いつでも」  視界が一瞬、淡い青緑の光に包まれた。無音詠唱による、感知の術。イーサンは扉の取っ手辺りを鋭く観察した。物理的な鍵や罠はかかっていない。魔術による施錠や罠も無いようだ。  手のひらで軽く押すと、あっけないほど簡単に扉は開いた。まるで誘われているようだった。 「これは、まずいです」 「ああ、非常にまずい」  イーサンは一度、扉を閉めた。深呼吸をする。穢れた空気が喉をチリチリと焼いた。  結論から言えば、冥府の門は未だ開かれていなかった。否、開き切ってはいない。  扉の先は大広間だ。先も見えない天井に、無数の死霊が所狭しと密集している様子は背筋が凍るようだ。数は目視だけでもおよそ千を超す。それも、ゴーストだけではない。上級の死霊である、スペクターやリッチの姿すら伺えた。 「なにが三ツ星の依頼だ。くそくらえ」チャールズは小さな白い牙を剥き出した。 「ですが、今はまだ打つ手があります。死霊どもは城から移動する気配がありません。おそらくは、門が発する瘴気に誘われているのでしょうが、こちらとしては好都合。開きかけた門を封印したのち、城を破壊すれば二度と死霊は現れないでしょう」 「だろうな」吐き出すような相槌。「それで、正義感の強い坊ちゃんは、自分で封印しようと考えてるのかい。見ただろ、少なくとも十体のリッチが、騎士団よろしく死霊の群れを統括してやがるんだぜ」 「まさか。クラウチさんがついているとはいえ、俺たち二人でそこまでできるとは考えていません。ですので、この扉に術式を描き、死霊が外に出ないよう封じます。あとは援軍を連れて来れば、冥府の門が開き切る前に封印するのは充分可能ですよ」  チャールズは「んん」と小さく唸った。頬の横に人差し指を立てては下ろす仕草を繰り返す。同意するかしかねるか、決めかねているのだろう。 「心配しないでください、クラウチさんは俺が必ず守ります」 「そういうんじゃ……」いつもの恨めしげにも見える視線を向け、チャールズは暫し薄い唇を噛んだ。「んん、まあ、いいさ。ギルドで暇してる連中を集めれば何とかなるだろ」 「では」  扉全体に退魔の封印式を描き、念のため物理と魔術の両方で施錠もしておく。即席だが、仲間を呼び集める間はもってくれるだろう。 「急いで戻るぞ」 「ええ」  警戒しながら、来た道を辿る。追いかける者はなく、簡単に地上へ戻ることができた。  思えば焦っていたのだ。先が見えないほどの天井がどこへ通じているか、考えも及ばないほどに。 「よし、橋をかけるぞ」 「助かります」  堀にチャールズの術で石橋が架かる。イーサンは橋を渡ろうとし、半ばで視界が暗転した。  何が起こったのだろう。チャールズの叫ぶ声が遠くに聞こえた。堀の底に引き込まれている――と気がついた頃には、もう手遅れだった。  最後に見たチャールズの顔は、眉を寄せたいつもの渋面だった。  ――俺のせいだ。  チャールズ・クラウチは走り続けた。ヒールの踵が折れ、燕尾服は土埃に汚れた。魔力はとうに尽きてしまった。防護、浮遊――軽装の魔術師が身を守るため、当たり前のようにかけているエンチャントすら、もはや維持する余力はない。  イーサンを助けられなかった。堀から溢れかけた死霊を外に出さないため、城全体に結界を張るだけで精一杯だった。  堀に落ちたイーサンは、死霊の腕に全身を絡めとられ、水の底へ沈んで行った。どうして気が付かなかったのだろう。何故、入口が一つだと思い込んだのか。  村の表に繋いである馬車を解き放ち、馬に飛び乗った。今は村人に説明したり、御者に許可を取っている時間はない。弱々しい脚で馬の腹を蹴って、少しでも早く走らせようとした。  意識が飛びそうになる。血の代わりに魔力で維持し続けた体は、とっくに限界を迎えている。たいそれた魔術など使わなくても、いずれ自然と滅びただろう。けれど、終わりの時までイーサンの傍にいてやりたかった。  残り全ての時間は、彼のためだけに使おうと決めたのだ。イーサンが好きだと言ったから。  走れ、走れ、走れ。  最後の力を振り絞って馬を操る。貿易都市アルヴァはまだ遠い。  しかし、ギルドに行けば、辿りつきさえすれば、いくらでも仲間が手を貸してくれる。まだイーサンを救う手立てはある。 「ヒィィン」突如、馬の尻が大きく跳ねあがった。 「あ」  たずなを掴む力もないチャールズは宙に放り出され、背中から地面に叩きつけられた。  ――石が俺の邪魔をするなんてな。  馬が路上の石に躓いたのだ。脚を挫いたのか、なかなか立ち上がれないでいる。チャールズも体を起こすことができなかった。  イーサンを助けなければいけないのに。もう、指一本動かせない。  馬は挫いた脚を庇いながらチャールズに近寄って、鼻を襟元にこすりつけた。  馬の血を吸えば人の血とはいかないまでも、少しは魔力を回復し、動けたかもしれないが、チャールズはむやみに生き物を傷つけたくなかった。それも怪我をさせた自分を気遣ってくれる、優しい生き物を傷つけるなど、絶対にできなかった。 「ごめんな、あんたにも無茶をさせて」  瞼を閉じると、抗い難い眠気がチャールズを包む。  馬が顔を舐めてくれたおかげで、何とか失いかけた意識を保つことができた。  しかし、体はもう動かない。ギルドに戻ることは不可能だろう。 『誰か。気づいてくれ。マルコフ……ホゥロン……マグリヤ……ビアス。誰でもいい。気づいてくれ』  眠気に耐え、チャールズは思念を飛ばした。足先の感覚が無くなる。体が灰化しているのだ。 『届いてくれ。お願いだ。気づいてくれ』  くるぶし、ふくらはぎの感覚が消え失せる。体中に亀裂が入る。  ひび割れた石ころのまま滅びたって、構わない。だけどイーサンは。 『届いてくれ。誰か聞いてくれ。イーサンを助けて』  パキ、乾いた音を立て、腕が胴から崩れ落ちた。怯えた馬が後ずさる。 『イーサンを助けてくれ、お願いだ……お願い……』  まなじりから灰が零れ落ちる。涙は流れない。一滴の水分も無い。  ――もうおしまいだ。  諦めようとした時、微かに反応が返ってきた。 『チャールズ、君なのかい』 『うん』 『ずいぶん遠くから思念を飛ばしてきたね。気づかないところだったよ。ああ、しゃべらなくていい。一つだけ確認するから、最低限の返事だけしてくれ。はいは赤、いいえは青を送って』  チャールズは赤の魔力を送った。 『街道にいるね。位置もわかる。君を拾って、君たちが受けた依頼の場所、廃城に向かえばいいんだね』  赤を送る。 『仲間を集めて今すぐ行くよ。もう返事を送らなくていい。温存して』  念話が途切れる。チャールズは剥がれかけた口元を緩めた。声は届いてくれた。これでイーサンはきっと助かる。ただ、酷く眠い。起きていなければならないのに。ちゃんと仲間に説明しなければ。 「……サン、イーサン」  懐かしい声が呼んでいる。この声はそう、お父さんだ。  イーサンは暗い部屋の中、水に浸かっている。二つの青い光を隔て、お父さんが立っていた。 「大丈夫か、イーサン。ちゃんと説明は理解できたのか」  ああ、ここは家の修行場だ。今から瞑想の訓練をするんだった。  暗幕のかかった部屋に、バスタブ程度の大きさの魔導具が一つ。魔導具はドーム型で、中には塩水が満たされている。 「はい、大丈夫ですよ。意識を集中させ、無にするんですよね」 「うむ。父さんは部屋の外にいるからな。瞑想に危険はないが、途中で気分が悪くなったら呼びなさい。どこも沁みるところはないな、痛くはないな。飲むんじゃないぞ」 「心配しないで、お父さん」  イーサンは魔導具の中に身を沈めた。塩水は人の体を浮かせ、地の縛めから解き放つ。 「では始めるぞ。明かりを消すからな」 「はい」  青い光が消え、お父さんの姿も完全に見えなくなった。 「無理をするんじゃないぞ」 「心配性ですね」  扉が閉まる。イーサンは真っ暗闇の中、天井を見つめた。お父さんはいつもこんな調子だ。魔狩人になるため、セントベルの人間はみな修行をしなければならないのに。それに瞑想なんて、他の修行と比べれば楽なものだ。塩水に浮かんでいるだけなのだから。  とはいえ、意識を無にするのは難しい。次から次へ、色々なことが頭に浮かんでくる。お母さんの顔、お父さんの顔。おじいちゃんとおばあちゃん。親友のアーサー、カーナ、ウィリアム、ミカ、ロニー、学校の先生、クラスメートたち。近所のかわいい犬。日曜学校の神父様……  何かが足りない。マシュー、ヘザー、ジェニファー、トッド。エラ、セイディー、デイヴ。マグリヤ、ホゥロン、ビアス。今まで会った人々の顔が流れていく。誰か足りない。大切なひとが足りない。一体誰が足りないのだろう。叔父さんでもない、親戚の魔狩人たちでもない、トミーでもない、バシリカでも。盗賊ギルドの連中でもなければ、今まで狩ってきた賞金首でも、不死者でもあるわけがない。  イーサンは身じろぎした。途端に不安が押し寄せた。  ――俺は一番大切なひとを思い出せない。 「お父さん」  部屋の外にいるはずのお父さんを呼ぶ。 「お父さん、お父さん」  だが、お父さんは来なかった。いつもなら、イーサンが呼べばすぐ駆けつけて、どこが痛いのか、辛いのか聞いてくれたのに。 「お母さん、お母さん」  お母さんも来なかった。イーサンがどんなにわがままを言っても、仕方のない子ねぇと笑ってくれたのに。  ああ、そうだ。家を出たのだ。温かい家族を自分から捨てた。一番大切なひとの傍にいるためなら、お父さんを捨てても、お母さんを捨てても、飛び出して来るしかなかった。  暗闇の中で目を凝らす。何も見えない。あのひとなら、暗闇の中でも探してくれるだろうに。サイレンより妖しくて、聖画よりも清らかで、両親より優しいあのひとなら。 「せんせい……」そうだ、先生だ。「先生、先生」 『心を閉ざすことで、自我を守るのだ』 「本当に欲しいものができた時にそれは、手の中からすり抜けていく」 『巨大な闇に呑まれ、己を見失った時は、瞑想を思い出せ』 「求めるのを諦めるか、壊すか。壊れるか」 『お前は強い。"イーサン"。堅牢な子よ。誰もお前を壊せはしない』  父の言葉と先生の言葉が交互に流れていく。 『おめでとうイーサン、修行は全て完了した。お前は本当に』 「優等生だな、あんたは」  お父さんと入れ替わるようにして先生の声がした。  そうだ。一番大切なものは、鍵をかけてしまい込んだ。先生の、チャールズ・クラウチの椅子だけは、誰にも触らせない深いところにある。  まぶしい。閉じた瞼の向こうで、光が踊っている。 「あっ、イーサンさん。気づいたんですね」  ぼんやりと視線を向けると、金色の毛が目に移った。近所の犬、いや。 「ホゥ……ロン、ちゃ」 「安心しなさいね。僕たちが来ましたから、もう大丈夫です」  体を起こそうとするが、とんでもない怠さで顔の向きを変えるのが精々だった。 「無理しないで、寝ていなさい。ちゃぁちゃんも保護しましたから」 「なにが、おこったの、ですか」  自分の物とは思えない、酷い声だった。イーサンはゆっくり、ゆっくりと言葉を吐き出す。 「門を封印……しないと」 「今みんなでしてるところです。ちゃぁちゃんが知らせてくれましたから、ギルドで手の空いてる暇人を片っ端から集めたんですよ。えっへん」  ホゥロンは偉そうな態度とは裏腹に、目線を下げ、くるる、と優しく喉を鳴らした。 「ここは……どこ、ですか」 「城外のキャンプです。僕はちゃぁちゃんの張った結界を維持しながら、イーサンさんを治療し、看護していました。まあ、酷い状態でしたからね。良く生きていました。それだけは褒めてあげます」 「せんせ、クラウチさん、は」  ふとましい尻尾が腹をぺしぺしと叩く。痛くはない。寝かしつけるお母さんのようだ。 「後で会わせてあげますよ。今は寝ていなさいね」 「はい……」  ホゥロンの体が淡く光ると、すうっと微睡みに沈む。体は重いが、不快さはなく、いい香りがした。  門の封印は滞りなく終わった。  イーサンが目を覚ます頃には、手伝ってくれた冒険者たちの大半は帰還し、マグリヤ、ビアス、ホゥロン、ワータ、バシリカに加え、あと一人が残るのみだった。 「イーサンチャン、心配させないでくれよ。オジサン、心臓が止まるかと思ったぜ」  ベッドから起き上がれないイーサンを囲み、バケツ兜が覗き込んでくる。隣に角兜、ビアスとマグリヤだ。 「間に合ってよかったですな。命に別状なく、後遺症も出ないとのことで、安心しましたぞ」 「ゆっくり休んでくれや。俺様たちの活躍のおかげで、冥府の門はきれいさっぱり無くなったからよ」毛布の上でぴょこりと跳ねるワータは、相変わらず白い毛玉のようだ。 「生きていて本当に良かったわ。何か私にできること、あるかしら」オーロラ色の鱗粉を撒くバシリカは、いつも優しい。 「キュルル」  ずっと隣で看病してくれたホゥロンの頭を撫で、イーサンは穏やかに相槌を打つ。体に異常はないが、まだぼんやりしていた。 「君たち、そのくらいにしなよ」  簡易コテージの壁際にもたれた男が口を開いた。金色の髪、黄金色の肌、青い瞳に黒い鎧。初めて見る顔だ。 「あなたは……」 「僕はマルコフ。チャールズから連絡を受けて、君を助けに来たのさ」マルコフは柔らかく微笑んだ。 「僕の父上です」 「俺の母ちゃん」 「私のお母様よ」  ホゥロン、ワータ、バシリカが口を揃える。外見はどう見ても体格の良い男性だが、人ではないものなら、精神的な性別はもとより、肉体的な性別も人の範疇にはないのだろう。 「そういう関係かな。さ、君たち一旦外に出て。彼がゆっくり休めないでしょう」 「へいへい」 「はーい」  ぞろぞろとコテージを出ていく仲間たち。 「僕も出ろっていうの」ホゥロンだけは渋った。 「ホゥロンも出て少し休みなよ。さすがに疲れただろう。結界を維持しながらずっと彼の穢れを吸い出し、浄化し続けてきたんだから」 「モッ……」  不服そうだが、疲れたのは事実なのか、ホゥロンも一鳴きしてバシリカたちの後を追った。 「さて、邪魔者はいなくなったね」  マルコフは妖しく微笑みながらベッドに近づいてくる。美しい姿だが、どことなく油断がならない気配がする。自然と腰が引けた。 「あの」 「そう身構えないでよ。取って食うつもりはないんだから。話があるんだ。チャールズについて」 「クラウチさんについて、ですか」  イーサンは身を起こそうとした。重くてまだ動かない。 「そのままで聞いて。今、チャールズはギルドの部屋に寝かせてある。酷い状態だよ。一応、安定はしたけどね」 「どうして……何があったのですか」  無理に起き上がろうとすると、肩を押さえられる。赤いかぎ爪のついた籠手が柔らかく食い込んだ。痛みはないが、抵抗する気力もなく、ベッドに再び沈む。 「チャールズは吸血鬼になった時、仲間の血を吸ってから、それ以降罪悪感で一切血を摂取してないんだ」 「クラウチさんは、人工血液を摂取していると」  マルコフはゆっくりと頭を振った。ホゥロンの毛によく似た蜜色の髪が揺れる。 「ただ存在するだけなら、それでもなんとかなるさ。けど、チャールズは人々を助けるために大魔法を使い続けた。戦いだけじゃない。未然に地震をおさめたり、洪水になりそうな水場は、予め地盤を固めたりね。君と会う以前からずっとそうやってきたのさ。途方もない仕事だ」 「どうして、そこまで」 「さあね。とにかく、僕たちはチャールズが吸血を拒み、命を削るように魔法を使い、人として滅びるまでを見守ってきた。最後まで付き合うつもりだった。チャールズがそう望んだからね。もっとも、君が現れるまでのことだけど」 「俺が……」 「チャールズは、残るわずかな余生を君と過ごす時間にすべて費やすつもりでいたんだよ。君の気持ちに応えたいから」 「クラウチさんが、俺の気持ちに、応えてくれようと」 「そうさ。だから僕は、君にお願いがある。チャールズを君自身で看取ってほしいんだ」 「看取るだなんてそんな、クラウチさんを生かす方法はないのですか」 「もちろん。少しずつでも血を飲ませればいい。けど、チャールズは今まで誰が血を与えようとしても、頑なに拒んできた。だから、君が説得してほしい」  ドクッドクッ――脈打つ心臓の音を聞く。マルコフの声が遠かった。それは、チャールズの命を決めよということではないのか。他ならぬ、イーサン自身で。 「確かに、話はしたよ」  マルコフが出て行き、姿が見えなくなるまで、イーサンは何の反応もできずコテージの天幕を見つめていた。 「クラウチさん、本当に俺と生きてくれるでしょうか」  不安ではあるが、今は体を休めるしかない。受け入れようとしてくれた嬉しさより、悲しみのほうが強かった。チャールズは滅びを望んでいるのだから。

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