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第15話

 石の人 十五  この部屋はどうして日が差しているのだろう。イーサンは覆うものが無い窓を睨みつけた。  チャールズはベッドに横たわり、レースの天蓋を見つめている。 「あんたか。無事だったんだな」 「ええ、少なくとも、あなたよりは」 「ハハッ、さすがはセントベルのお坊ちゃんだ」 「……ご存知でしたか」 「むしろなんで気づかないと思ったんだよ。おめでたいね」  イーサンはベッドに近づき、膨らみのないシーツをそっと剥がした。  首から下の体は無い。代わりに白い灰が、辛うじて人の形を保っている。 「なあ、魔狩人さん。残念だったな、あんたの手で吸血鬼を滅ぼせなくて」 「何を言ってるんですか」 「心配するなよ、イーサン。あんたが手を出さなくても、すぐに」  ひび割れた唇がパリッと剥がれ、灰になる。 「もういいです、しゃべらないで」  イーサンはカーテンに外套をかけ、チャールズの上に屈み込んだ。  ――無駄だよ。赤みを失った紫色の瞳が、そう語った。 「俺は嫌です。嫌ですよ。嫌です、いやだ」  チャールズは目だけで笑い、満足そうに瞼を閉じた。  とっさにサイドテーブルに置かれたナイフを手に取った。チャールズが杖代わりに愛用する、ラピスラズリのナイフだ。  切れ味は良くないが、皮一枚に傷をつけるなら充分。イーサンは腕を切って、血の雫をチャールズの唇があった場所に落とした。 「もうクラウチさんの意志なんて聞いている場合ではないんです。ねえ、吸血鬼は一滴の血でも復活するんでしょ。一滴だって良かったじゃないですか、たった一滴なのに、どうして」  ぽた、ぽた。赤黒い液体がチャールズの白い顔を濡らした。  やがて血の中から、みずみずしい唇が現れた。頬の亀裂が修復され、灰から筋張った喉が現れる。シルクの糸を結ぶように、真珠色の灰が織り合わさって骨と肉を形成していく。驚くべき速さで。  濡れたように艶光る濃い髪、深い眼窩の奥の長い睫毛。品のある鼻梁。痩せ細りこけていた頬は肉がつき、指の先、つま先まで完全な人体が横たわった。  イーサンは抑えきれないほど強い情欲に駆られた。自分の血で作られた、魔性の体。生まれたての肌に触れてみたい。  みぞおちに血を垂らし、臀部まで指で線を描いた。母の胎から産まれた、人間の名残り。臍のくぼみに溜まった血を舐め、そのまま舌を挿入する。血以外の味は無かった。 「はあ。やってくれたな、くそったれ」  聞き馴染んだ声が降ってくる。意識が戻ったのだ。 「大丈夫ですか」 「まあな。やっと化け物が滅びようってのに、どっかの馬鹿のせいで台無しだよ」 「そんなこと言わないでください。俺がどれだけクラウチさんのことが好きなのか、まだわからないんですか」  チャールズはイーサンを押しのけ、すこぶる大儀そうに起き上がった。 「とにかく、手当が先だ。薬、どこやったかな」 「ねえ、薬なんかより、舐めてくださいよ」  イーサンは裸の体を抱きすくめ、耳にキスをする。チャールズは傷ついた小鳥のように、弱々しくもがいた。 「離せよ……」 「嫌です。まだお腹が空いてるでしょ、舐めてくださいよ。ほら、血がもったいないので」 「やだよ」 「じゃあ、俺が代わりにクラウチさんを舐めてもいいんですか。すごく舐めたいんです。だって、俺が作った体なんですよ、舐めたっていいでしょ」  耳の先を咥え、ねっとりとしゃぶる。 「ひ、やめろよう」 「じゃあ、舐めて」 「わかったから……離せよ」チャールズは恐々とイーサンの傷口に舌を這わせた。  皮一枚の傷は殆ど乾いて、血は流れていない。冷たい舌が触れる感触に、イーサンはぞくりとする。 「舐めたぞ。満足しただろ、大した怪我じゃないけど、一応薬塗っとけよ」 「はい」  力を緩めた腕からするりと抜け出し、チャールズはシーツで顔の周りを拭いた。 「ねえ、クラウチさん」 「何だよ、わがまま野郎」 「俺に残りの人生をくれるって、本当ですか」 「う」チャールズはシーツを被って、中から睨みつける。「誰がそんなこと」 「マルコフさんが」 「あいつ~」  シーツの塊が震える。イーサンは目を細めた。 「残りの人生、伸びちゃいましたけど、いいんですよね。俺もう、完全に本気にしましたけど」 「でも、俺が勝手に言った……ことだし……あんたの都合考えてなかったし、セントベルのお坊ちゃんだったら吸血鬼が恋人とか大丈夫なのかと思うし、なんで、そもそも、俺……のこと、好きなのか、よ」  シーツに隠れたまま、怯えた目だけがこちらへ向いた。薄い赤紫の目は、濃い赤に戻っている。 「好きですけど、他に何か」 「他にって別に無いけど、好きって、俺がいうのはその、人としてとか、いや人じゃないんだが、そういう好きじゃなくって」 「愛していますよ。永遠にあなたと一緒にいたいです。わかりますかね」 「ああ~ うわっ、ええっ」  言ってしまってから、耳までかっと熱くなる。チャールズの顔色は変化ないが、血の気があるならきっと同じように熱を帯びているだろう。 「俺は本気なんですけど……クラウチさんは」 「え、俺は、す、好き……です」  しぼんでベッドに突っ伏すシーツをめくると、チャールズは顔を手で覆っていた。 「愛してます……俺もイーサンと、一生を添い遂げたい……です」 「よろしい。よくできました」 「ウ、ウアア~ッ」チャールズは転がって身悶えた。「まじか、まじで、りょうおもいってやつ」 「両想いですね、俺たち」 「ワーッ、まじか~ッ」  高速にドラム回転しているチャールズを見守るうち、冷静だったイーサンも途端に恥ずかしくなり、わっと手で顔を覆ってベッドに突っ伏した。 「まじですか」  二人は暫く休暇を取った。イーサンの体調はホゥロンがしっかり治療してくれたとはいえ、本調子ではなかったし、チャールズにも毎日少しずつ血を与えて、魔力を補給しなければならない。  イーサンとチャールズは、休暇中のほとんどをチャールズのベッドの上で過ごした。特に話をするでもなく、隣に寝ているだけだったが。  イーサンはチャールズと手を重ね、レースの天蓋をぼんやり眺めた。ふわふわと高いところを漂っているような気持ちだった。  時々、首を傾けて隣の恋人を見ると、相手も気づいて見返してくる。イーサンは乱れた髪を直すでもなく、髭を剃るのもさぼって、ただチャールズが恥ずかしそうにうっすら微笑むのを確認して、幸せに浸るのだった。  三日後、ようやく二人は起き上がった。風呂に入り、伸びた髭や爪を整え、部屋の掃除をして空気を入れ替えた。 「外はいい天気だな」チャールズは窓から身を乗り出して、腕をいっぱいに伸ばす。 「そうですね。もうそろそろ、出かけたくなります」 「仕事でもするかぁ」  二人は手をつないで、ギルドの酒場まで階段を降りて行った。 「よっ、お二人さん」ワータが飛んでくる。「もう体はいいのかよ」 「ええ、もう大丈夫ですよ、今日から仕事もちゃんと探します」  テーブルを囲んだいつもの仲間も顔をこちらに向ける。 「ちゃーりー、イーサンチャン。おひさ~」ビアスが手を振った。 「ああ、お二人とも元気になったんですね」口元をほころばせるのはマグリヤ。 「ご心配をおかけしまして」 「ほんとだぜ。俺たちも心配で心ここにあらず、仕事が手に着かなかったんだからよー な、相棒」 「珍しく気が合うね。そうそう、今新しい依頼について話を進めていたところなんですよ。良ければ、お二人もいかがですか」  マグリヤはわざわざ立ち上がって椅子の背を引いた。 「確認したいこともあるしな」  バケツの中でししし、と笑うビアス。 「では、お言葉に甘えて。いいですかね、クラウチさん」 「いいよ」  チャールズを椅子に座らせ、暫し見つめる。チャールズは恥ずかしそうに視線を落とした。 「あ~らら~」張り紙の上に乗ったワータがさえずる。 「で、まあ。お二人さんはめでたくアレってことでいいんだな」 「アレな。うん」  頬杖をつくビアスに何度も頷くチャールズ。 「ほほう。おめでたいですな~ 今更という感じもしますが」 「あからさま過ぎたもんな。気づかないのは本人たちばかりってな」  イーサンは熱くなる頬をごまかすように咳払いする。 「はい。俺たちは晴れて、恋人同士になりました」 「いよっ」  拍手が沸き起こった。何故か、テーブルの周囲で聞き耳を立てた他の冒険者たちも拍手をしている。 「恥ずかしいだろ~」  チャールズがイーサンの肩にくっつくと、余計に口笛や「ご両人」の掛け声が飛んでくるのだった。  ゴシップ誌であれだけ騒がれていたのだ。普段あまり親しくしていない人達に知れ渡っても仕方がない。ともあれ、悪い気はしなかった。 「と、ところで。マルコフさんとホゥロンちゃんは」 「ああ、あのヤローとロンチャンは戦争に行ってるわ。ロンチャンの国の。またすぐ帰ってくるんじゃね」 「私たちは留守番ですな。チャールズさんとイーサンさんによろしくと」 「そーそー」 「ふうむ」  あの親子なら万が一にも帰ってこないことはないだろうが、真っ先にお礼を言いたい二人がいないのでは、他にすることもない。イーサンはテーブルに広げられた張り紙を見た。 「学術都市アルムゴルドへの配達……」 「な、病み上がりの二人でも超ラクチンだろ。散歩みたいなもんだぜ」 「ええ、まあ」イーサンは言葉に詰まった。 「駆け出し連中に取られないよう確保していましたが、さすがに隣国までの配達など、簡単すぎましたか。妖魔や盗賊の危険はさほどなし、歩きでも一日あれば着きますからな」 「ですよね」  イーサンは歯切れ悪く、張り紙の文字を視線で幾度かなぞった。  アルムゴルド。七年間帰省していない、イーサンの故郷。 「あ、なるほど」チャールズがぽつりとつぶやいた。「あんたの故郷だもんな」 「ええ、実はそうなんです。長らく帰っていないので、知り合いに合うと気まずい……かなあと」 「故郷か~ この稼業してっと、故郷なんぞあっても無いもんだしな。嫌なら忘れてくれや、駆け出しの連中がいくらでも受けるだろうしよ」  張り紙を持って立ち上がったビアスの腕を押さえる。 「ちょっと、待ってください」 「おう」ビアスは座った。 「考えてもいいですか。少しだけ。明日、いえ、夕刻までにはどうするか決めますから」  チャールズの顔を伺う。チャールズは眠そうに微笑んだ。 「俺はどっちでもいいよ。イーサンに任せる」 「みなさんありがとうございます、気を遣っていただいて」 「いいってことよ~」 「お節介なだけですから」  仲間と一旦別れ、チャールズの家に向かう。チャールズを着換えさせるのが目的だが、二人きりで話したいことがあった。  イーサンは地面を見つめながら、静かに歩いた。石畳にはゴミ一つ落ちていない。貿易都市はそこそこに公共整備がされ、住みやすい街だ。少なくとも、ギルドの周囲は。 「ねえ、クラウチさん」 「えっ」チャールズは弾かれたように顔を上げた。 「俺の故郷にもし、行くとしたらですよ。クラウチさんはどうしますか」 「ついていくよ。当たり前だろ」 「そうですか……」イーサンは顎髭を指で撫でつける。「アルムゴルドはここと違い、異種族……いえ、アンデッドに対する監視が厳しい街なんです。それでも、大丈夫ですか。もちろんクラウチさんのことは俺が守りますけど」 「問題ないよ。あんたの故郷に行ってみたいしな」 「……わかりました。それでなんですが」 「うん」  モノクルの奥から向けられた視線は、心なしか期待を含んでいる。イーサンは一つ、深呼吸をした。 「俺の両親に会ってほしいんです」  チャールズは立ち止まる。イーサンを見上げ、二の腕をさすっている。 「うん、いいよ」  目頭が熱くなり、イーサンは鼻をすすった。 「どうした、イーサン」  黙ったまま、チャールズのひざ裏に腕を回し、ぐいっと持ち上げた。 「なっ、おい」  腰をしっかり支え、駆け出す。チャールズを抱いたまま、飛んで行きたい気持ちだった。 「おい、恥ずかしいだろ。こんな、街中で」 「すみませんクラウチさん。今すごく、走りたいんです」 「なんだと。もー しょうがないやつだな」  首に腕が回される。イーサンはチャールズを抱えなおし、教会の前にいる人々をかわした。墓地の裏手にある坂道まで登ると、さすがに息切れして、走れなくなった。 「もういいよ、下ろせって」 「はい、すみません。ふふふ」 「さっき危うく人とぶつかりかけたろ。目を丸くしてたぜ。恥ずかしいったら」 「ふふ、ごめんなさい。あー 楽しかった」 「まったくよー」  腹を押さえて笑うイーサンの背をはたき、チャールズは「やれやれ」と笑い返した。  暫く来ていなかったが、チャールズの家は綺麗に整頓されていた。寝込んでいる間、ワータ、バシリカ、マグリヤなどが交代で掃除してくれたのだという。 「クラウチさんのお家に来るの、久しぶりですね」 「そうだな。もうあんたの家でもあるよ」 「クラウチさん……嬉しいです」  クローゼットに入り、お気に入りの黒い燕尾服と、紫のリボンタイを取り出した。他に換えのシャツや肌着、手袋、アクセサリーも。 「あんたって紫が好きなんだな」 「クラウチさんに似合いますから」  チャールズは白いシャツと紺色のズボンを身に着けていた。寝込んでいる間、仲間が適当に持ってきてくれた着替えだ。それらを脱がして、締め付けのない肌着も取って丸裸にした。  白い肌の首から下は一本の毛も生えておらず、石で作った彫像のようだ。毛の生えていないペニスは縮こまっているせいか、子供みたいに小ぶりで、先端にも色味がない。 「そんなにいやらしい目でじろじろ見ないでくれよ」 「あっ、すみません」  イーサンは頬を染め、紫の薔薇が刺繍された下着を引き上げた。  同じデザインの肌着を被せ、ストッキングを履かせる。ガーターベルトでストッキングを留めると、華やかな装いに仕上がった。 「綺麗ですね」 「ありがと。ゆったりしてるのもいいけど、やっぱりこっちのほうがしっくりくるよ」  清楚なシャツの胸元から、レースの肌着が覗く様は煽情的だ。イーサンは名残惜しくも襟元のボタンを留めた。  ズボンを履かせて、ベストを着せる。首にリボンタイを結び、ブローチで飾る。燕尾服の上着を着せ、ポケットチーフを畳み入れ、ベストのボタン穴に懐中時計の鎖を通す。アメジストのイヤリングを耳に挟み、手袋をはめ、最後にハイヒールを履かせると完成だ。 「できました。いつものクラウチさんですね。かわいいです」 「助かったよ、ありがと」チャールズはうんと背伸びをして、イーサンの頬にキスをした。 「うふふ」 「何だよ、そんな嬉しそうにして」 「嬉しいですから、ふふ」 「はいはい」  着替えさせ終わると、イーサンは長年我慢してきた欲求をここぞとばかりにぶつけることにした。 「そういえば、こちらの部屋は入ったことが無いですね。外からピアノが見えましたが」 「ああ、練習してるんだ、時々。入るかい」 「ええ、是非」  あっさり扉が開かれる。憧れながらも、踏み入ることができなかった聖域。イーサンは内心感激しながらも、それと悟られないよう平常を装った。 「へえ~ 素敵なお部屋ですね」 「まあね。この家自体、着替えとピアノ置いてるだけみたいなもんだけど」チャールズはピアノにかけてあるカバーを外し、屋根を半分開け、ふたを開いた。  片手でいくつか鍵盤を押し、音の具合を確かめる。音に変化はなく、チャールズは満足そうに頷いた。  ――当然だ。ピアノはイーサンが普段からこっそり欠かさず手入れしている。いつでもチャールズが気持ちよく弾けるよう、温度差が激しい時期や、季節の変わり目などは特に念入りに調律していた。  チャールズ自身も、半年に一度は調律を頼んでいるようだが、調律師は「日頃からご自身で大事に手入れをされていますね」といって早々と帰るのだ。 「練習しているとおっしゃいましたね。良かったら、一曲聞かせていただけませんか」 「うん……下手くそだけど、それでもいいなら」  擦り切れた楽譜を何ページか捲って吟味し、できるだけ弾きなれた曲を選ぶ。 「んじゃ、弾くけど、まじで下手だぞ。笑うなよ」 「笑いませんよ」  咳払いし、チャールズは鍵盤に指をかけた。  たどたどしくも美しい旋律が流れる。初めはこちらを伺うように怯えた音色が、次第に染み入る深いメロディーに変わっていく。  イーサンは瞼を閉じて聞き入った。音で全身を愛撫されているようだ。 「……美しい曲ですね。クラウチさんにこんな特技があるなんて、知りませんでしたよ」  熱い溜息がこぼれた。本当は知っている。七年の間、ほぼ毎日チャールズが朝出かけ、ピアノを弾いて帰る後を着けていたのだから。 「恥ずかしいな」チャールズの手はピアノから滑り落ち、膝の上で丁寧に重ねられた。 「誰かから習ったのですか」 「うん、昔の仲間から教わったのさ。俺が吸血鬼になってしばらくして、落ち込んでた時だ。あの頃は趣味の小説も書く気にならなくてさ。そしたら、新しい趣味をやってみたらどうかって。何でもいいから取り組んで、人生を楽しめってさ」 「そうでしたか……」 「今はそこそこ楽しんでるぜ。良い仲間がいるし、なにしろあんたがいる」 「クラウチさん」  チャールズは強いまなざしを向けてくる。命の炎が宿っているようだった。イーサンは吸いこまれるように、チャールズに顔を寄せた。瞼を閉じた瞬間、唇がそっと重なる。  冷えた唇は、想像より肉感的だった。紙や石ではない、柔らかい皮膚の感触。イーサンは唇の隙間に舌を潜らせた。前歯をつつき、チャールズの反応を待つ。  チャールズは恐る恐る、舌先で触れ返してきた。濡れた舌も冷え切って、イーサンが舐めるとサラサラした唾液がほどけた。 「んっ、ん……」  控えめながら、甘ったるい鼻声が耳に届いた。  こんな声を出すのか。イーサンは興奮して、チャールズの後頭部を抱え、より深く唇を合わせた。 「ん――」  髪を撫で、長くゆっくりと互いの舌を味わう。チャールズは腕の中で震え、イーサンの胸を弱々しくさすった。 「っは……」  息継ぎも忘れ、ただ求めるがままに舐め合った。どれくらいの時間そうしていたのか、自然と唇を離した。温められた粘度の高い唾液が、二人の舌先でつうっと糸を引く。  チャールズはすんっと鼻を鳴らし、ずれたモノクルを眼窩にはめなおした。イーサンはチャールズの乱れた髪を手櫛で梳き、撫でつける。 「……好きです」 「俺も……好き」  襟元に額をこすりつけてくるチャールズを抱擁しながら、イーサンは深く息を吸い、天井を見上げた。 「ねえ、クラウチさん。もっと、楽しませてみせますからね。これからずっと。クラウチさんが楽しんで生きられるように、ずっと一緒にいますから」 「うん」チャールズは腕の中で、恥ずかしそうに、こつんこつんと何度も頭突きした。  ギルドに戻ってから、配達の依頼を受け付けに申請した。仲間は仕事に出たが、トミーが依頼書を預かってくれたおかげでトラブルは起きなかった。  二人は依頼人と会い、荷物を受け取った。片手で持ち運べるくらい小さな荷だ。初老の依頼人は「お願いします」と丁寧に頭を下げた。  学術都市アルムゴルド――故郷へ続く道を辿る。  道幅は広く平坦で、踏み固められて歩きやすい。貿易都市からアルムゴルドまでは馬車の定期便も出ているため、わざわざ冒険者に依頼を出す必要も感じられないのだが。  依頼人曰く、長らく会っていない娘の様子を見てきてほしいとの希望だった。イーサンは故郷に置いてきた両親と自分の状況を依頼人とその娘に重ねた。  徒歩でもほんの一日、馬車を使えばより早く行き来できる隣国なのに、手紙の一つも送り難かった。  両親はイーサンが突如、何事もなかったかのように帰宅しても、迎え入れただろう。けれど、優しい両親を捨てて家を出たことが、イーサンの胸に強く罪悪感として残っている。 「そういえば、クラウチさんの故郷ってどんなところですか」  助けを求めるように、隣を歩くチャールズを見る。恋人は綺麗なハイヒールを全く汚さず、のんびりと歩みを進めながら視線を寄越した。 「俺の故郷ねえ。産まれは知らんが、物心ついた頃から、家はずっとレクステルラにあるよ」 「王都ですか。実はまだ行ったことが無いんです。どんなところですか」 「アルヴァと比べれば、全くの田舎だね。古い王城があって、まわりに役所と学校があって、騎士団の本部がある。あとは商店がぽつぽつとあるけど。土地も高いし、あんまり新規の人間が出入りしないんだよ」 「へえ~ もしかしてクラウチさん、やんごとなきところの出だったりして」 「まっさか。庶民も庶民よ。親父は王立博物館勤めの学者で、おふくろは役所に勤めて、文書を制作してた。俺は王都の学校に入れられて、そのまま大学までずっと同じ学校さ」 「ふうん」イーサンは顎を撫でつけた。「どうして冒険者になったんですか」 「ああ、退屈してたのさ。ずっと同じ学校で、研究室入りなんてまっぴら御免だった。外で研究したいっていうと、親父とおふくろに勘当されてさ、ここまで逃げてきたってわけ。あんただってそうだろ。夢を抱く若者が来るとしたら、必ず聖女の街アルヴァ、世界の玄関口だ。決まってるもんな」  頭の後ろで腕を組み、腰を逸らすチャールズ。イーサンはふ、と頬を緩めた。 「実は、クラウチさんがいるからここに来たんですよ」 「へえ~っ、奇特なやつ」  剥き出された小さな牙が光る。イーサンは手を差し出した。 「だって好きなんですもの」 「はいはい、俺も好きだよ、イーサン」  チャールズは差し出された手を握り返した。  アルムゴルドの門で、身分証を差し出す。結局道中にさしたる危険はなかった。街道は整備されており、幾人かの旅人や馬車とすれ違う程度だった。 「冒険者か。良き滞在を」  門衛は手荷物検査の後、二人分の滞在許可書を発行した。  イーサンの身分は現在、制限付きのレクステルラ国民となっている。冒険者は多国家間を自由に行き来できる代わり、国民が得られる権利には国ごとの制限がつく。政治に参加できない、厚生、福祉を受けられない、特定の場所に入れない、公共の施設や乗り物が一部利用できないなどだ。  アルムゴルドに冒険者の姿はなかった。レクステルラは他国に比べて制限が少ない。そのため、貿易都市アルヴァには多数の移民や亜人がやって来る。しかし、アルムゴルドを内包する国家フリオシーダは、冒険者を含む外国人に対して強い制限をかけていた。  フリオシーダの王は信心深い賢君である。魔狩人や警察、騎士団が有事にすぐ対処する機構ができている。イーサンは外国の事情を見るうち、自国の警備態勢がいかに優れているか実感した。同時に、自分たち魔狩人がいかに国によって締め付けられていたか、強い息苦しさも感じた。 「どうだい、久しぶりの故郷に戻ってきた感想は」 「ええ……懐かしいですよ」  イーサンはひと呼吸した。アルムゴルドにはいつも、厳格で、澱んだような鬱屈とした空気が漂っている。灰色の街。良い思い出はたくさんあった。それなのに、嫌な思い出ばかりが浮かぶのは何故だろう。 「荷物を先に届けたいんだが、いいかい」 「ええ、住所は――こちらですね」 「さすが地元民、詳しいねえ」  教会の鐘が夕刻を知らせる。今頃お母さんがおいしい夕食を作っているだろうか。それとも、お父さんが鍋を焦がしているだろうか。  イーサンは自然と早歩きで路地を進んだ。チャールズは足音も無く、遅れずについてくる。 「ここですね」  荷物の宛先と番地の住所を見比べた。呼び鈴を鳴らし、暫し待つ。  玄関口で人の気配がし、扉がゆっくり開かれた。 「はい、どなたですか」  赤茶色の髪をした女性が出てきた。依頼人の顔立ちとどことなく似ている。娘で間違いないだろう。 「荷物をお届けに来ました」 「はあ。誰からだろ……」女性はイーサンの手元を覗きこみ、宛名を確認した。「ああ、またあいつからだ」  あからさまに嫌そうな顔をする。依頼人の言ったとおり、折り合いがつかない関係なのだろう。 「悪いけど、これ、持って帰って」 「一応、中身を確認された方が」チャールズが横から静かに顔を出した。 「中身は見当がつく。わかってんのさ。何度も何度も送り返したんだから。手間をかけて悪いんだけど、あいつには絶対会わない、荷物も手紙も受け取りたくないって伝えといて。いや、伝えなくていい。それ、どこかに捨てといて」  女性は扉を閉めようとする。 「少しだけ待ってください。良ければ理由を聞かせてもらえますか。納得すればこちらで荷物は処分します」  イーサンの様子に、女性は溜息をつく。 「初対面のあんたたちにいうのもなんだけど、あいつ……うちの親父は最低なんだ。母さんにずっと暴力を振るって、あたしにまで。だから母さんと二人で逃げたんだよ。その箱の中身、あたしが昔遊んでたおもちゃなんだ。親父が唯一買ったやつ。母さんが死んでから、あたしの誕生日にずっと送りつけてくる。受け取り拒否しても、何度も何度もね。親父は綺麗な思い出だけにすがってる。あんな最低なことをしといて、許されると思ってるんだよ」  女性は涙ぐみながら、扉に手をかけた。 「もういいよね。たとえ親でもさ、距離を取ったほうがいい相手だって、いるでしょ」 「ええ、わかりました。辛いことを思い出させてしまって、すみませんでしたね」 「いいよ。仕事だろ。あたしは引っ越したとでもうまく言っといて。ほんとにそのうち引っ越すつもりだからさ」  ――パタン。扉が丁寧に閉められた。  イーサンとチャールズは顔を見合わせ、女性の家から離れた。 「どうするよ」 「受け取り拒否されている方に無理やり渡したくはないですからね。荷物はお返しし、引っ越したと言っておきましょう」  背嚢に荷物をしまい、背負い直す。夕暮れが迫っていた。 「しかし、嫌な親もいるもんだね。家族に暴力を振るうなんてさ」 「ええ……」 「なあイーサン、あんたもさ、親に会いたくなけりゃこのまま帰ったっていいんだぜ。この街に来てから、あんた、顔色が良くないし」  チャールズはフェンスにもたれ、片脚をプラプラさせた。ハイヒールが脱げて、ころんと転がる。イーサンはリボン飾りのついたかわいい靴を拾い、そっと埃を払った。 「俺の両親は人間として、とてもできた善き人たちですよ。大丈夫。ただ、昔の悪い思い出ばかりがよみがえって、なんだか寂しい気持ちになってしまったんです。良い思い出がたくさんあるはずなのに」  チャールズの踵をヒールに収め、イーサンは立ち上がった。 「……今から、家に行っても大丈夫ですか。それとも今夜は泊まって、明日にしましょうか」 「俺はどっちでもいいよ。心の準備はあんたに任せる」 「ではええと、宿を予約して、ご飯を食べてから行きましょうか」 「うん、そうしよう」  二人は宿を探すのに苦労した。アルムゴルドには手頃な価格のホステルやドミトリーがないのも、冒険者に不人気な理由だ。  値段は少し張るがなんとか安価な宿を見つけ、最低限の荷物だけ持って、外へ繰り出す。予定よりも遅くなってしまった。  カフェでサンドウィッチと紅茶を注文し、早々と腹に入れた。チャールズは紅茶だけ飲んだ。  イーサンの実家は、学校のある中心地から少し外れた場所に建っている。街並みは復興した頃からほとんど変わっていないようだった。  教会の傍を通り過ぎ、警察署の脇をすり抜け、開けた場所に長いフェンスが続く。お屋敷と形容しても良いほど大きな建物は、セントベルの本家、イーサンの実家だ。もっとも、家族が住む場所はほんの一角だけで、あとは魔狩人が訓練するための修行場や、錬金術などを研究する施設なのだが。  家の一部にだけ明かりが点いている。温かい光。あれは、家族が食事を摂るリビングの窓だ。 「……行きましょう」 「うん」  イーサンは門前で呼び鈴を押した。わざわざ玄関まで入らなくても、家の中に音が響き、中の者と会話もできる魔導具だ。 『どなたかね』 「夜分遅くにすみません……イーサンです」  驚愕するような気配があった。しばらくして、門が自動的に開かれる。 『入りなさい』 「失礼します」  イーサンはチャールズに向かって頷き、手を引いて中庭へ入った。  敷石の並びも、お母さんが薬草を育てている花壇も、よく芝刈りをさせられた庭も、子供の頃から何も変わりがない。 「ほぉん、でかい屋敷だな」 「住んでいる部屋自体は小さいんですよ」 「ふーん……」  なんとなく小声でやり取りする。慣れ親しんだ我が家なのに、自分の家ではない気がした。  玄関まで歩き、呼び鈴をもう一度押す。  指が離れると同時に、扉が開いた。 「あっ」  母の顔があった。少し老けたが、豊かなブルネットで愛嬌のある顔立ち、確かにイーサンのお母さんだ。 「お母さん」 「まあ、イーサン。まあ~ 本当にイーサンねえ。お父さんほら、イーサンですよ」  きゃっきゃと手招きする後ろに、お父さんの気配がある。 「わかっとる。早く入れてやりなさい。お客さんもいるようだから」 「本当ねえ。いらっしゃい、どうぞ」  開けられた扉から、帰宅した息子を一目見ようとする両親がどかないので、玄関は渋滞した。 「ちょっとお父さん邪魔ですよ、はい上がって、はいはい」 「わかっとる、おお、イーサン、本当にお前か」顔はやつれたが、堅牢な体躯に金の髪、イーサンと同じブルーの思慮深い目は、確かにお父さんだ。 「こんばんは、お父さん。お母さん」  お母さんに押しやられ、お父さんが廊下に退去すると、ようやくイーサンたちは家の中に入れた。 「お父さん、ぼうっと突っ立ってないでお茶を出して。まあ、お客さんはどなた」 「始めまして、チャールズ・クラウチです。地質学者のかたわら、冒険者をしてます」  チャールズは丁寧にお辞儀をした。 「ご丁寧にありがとう。イーサンの母のフリーダです。よろしくね」 「母さん。紅茶でいいかー」リビングから叫び声がする。 「何でも用意してください。ケーキもね」お母さんは叫び返した。「あのうるさい人が、イーサンの父親のジョナサンです」 「……あんたの親御さん、面白いな」小声でチャールズが耳打ちする。 「……お恥ずかしい」  イーサンは頬を熱くしながら、チャールズをリビングに案内した。 「イーサン、ちょうどお前の好きなケーキがあるんだ。食べなさい。お客さんも良ければ食べてくれ」お父さんは真剣に、パウンドケーキを四等分しようと格闘している。「ええと、どなただったかな」 「チャールズ・クラウチです。はじめまして」 「おお。そうか、そうか……」お父さんはケーキに集中してナイフを入れ、とても上手に切り損ねた。 「手伝いましょうか」イーサンはハラハラしながら見守る。 「いいのよ。座って。チャールズさんもどうぞ」  食卓ではなく、暖炉の前のソファに座る。ソファに合わせた低いテーブルに、お父さんが歪に切られたパウンドケーキを運んできた。 「あなたが家出してから何年たったかしらね」 「七年です。ご心配おかけしました」 「聞いた、お父さん。七年ですよ。寂しかったわね、私たち二人きりで、毎日夫婦水入らずだったものね」 「そうだな、お前がいなくて家の中は火が消えたようだった。……母さんはこの通りうるさいが」お父さんはトレーからカップをそれぞれの前に並べ、ポットの紅茶を注いだ。「だがな、お前が外で楽しく元気にやってるなら、父さんも母さんも何も言うまいと決めたのだ」 「本当に、連絡もせずにすみません」 「いいんだ、こうして顔を見せに来たことだしな」お父さんは座って、チャールズの顔をまじまじと見た。 「あ、どうも。息子さんにはお世話になってます」 「うむ。チャールズさんか。イーサンのほうこそ世話になってるだろう。いつもありがとう」 「いえ……」 「イーサン、早く紹介して。ただのお友達じゃないでしょう」お母さんは紅茶に口をつけ、目を輝かせた。 「はい。俺は……こちらの、クラウチさんと付き合ってます。ずっと一緒にいるつもりです」 「そうなの。あなた、小さい頃から本を大事にしてたものね。家出までして」 「ええ」  イーサンはうつむく。その大切にしていた本は、お父さんが燃やしたのだ。国から咎められ、仕方がなかったとはいえ、一番大切なものを燃やされた悲しみは、癒えることがない。たとえ両親を深く愛していたとしても。 「あれは、わしが悪かった。すまない、イーサン。それで、そのことだが」 「いえ、もう、いいんです。本はクラウチさんに新しいのをいただきましたし」 「ああ、いや」お父さんは立ち上がり、ソファの周りをうろうろと歩き回った。 「何をしているんですか。早く取ってきなさいな」 「うむ、ちょっと、待ちなさい。まだ帰るんじゃないぞ」  パタパタと足音を鳴らしながら、お父さんはリビングを出て行った。 「さあさ、冷めないうちにお茶をどうぞ。このケーキはおばあちゃんが焼いたんですよ。イーサン、おばあちゃんにも顔を見せてあげなさいね」 「ええ、明日帰る前に寄ります」  ケーキを一口頬張ると、ドライフルーツの甘味が広がる。ふっくらした生地の食感が絶妙だった。イーサンのおばあちゃんは、ケーキを焼くのが得意なのだ。 「あったぞ。ちゃんと保管していたからな」  紙袋を持って、お父さんが現れる。イーサンは紅茶のカップから顔を上げた。 「あの頃は回収騒ぎがあってな。それでしばらくお前にも内緒で隠していたんだ」  イーサンは古ぼけた紙袋を受け取り、中身を検める。 「これは」 「うむ。すまなかったな、お前を騙して」  擦り切れた灰色のカバー。開くと、菫色の淡い遊び紙から透けるように、金色の文字が躍った。その下に「良く知り、日々学びたまえ。イーサンへ」とサインが書かれていた。 『石の人』イーサンが最も大切にしていた、運命の本。 「燃やしたと嘘をつかなければ、全部燃やされてしまったからな……すまなかった」  ぽた、本の上に水滴が落ちる。 「あれ」イーサンは目元を拭った。「ごめんなさい」  拭っても、指の間から涙が溢れて止まらない。 「お父さん、ごめんなさい、俺。たしかに好きな本ですけど、お父さんとお母さんが買ってくれたから」 「いいんだ」  背中をさすってくれる手の冷たさは、チャールズだ。両親も涙ぐんでいるのが見えた。  イーサンと両親は夜が更けるまで話をした。チャールズは両親との思い出話に相槌を打ちながら、イーサンとこなした仕事の話や、貿易都市での暮らしを語った。  その夜、二人は取った宿には戻らず、イーサンの部屋で夜を明かした。部屋は出ていった朝のまま、何も変わりがなかった。掃除は両親がしてくれたのか、埃やカビも無く清潔だった。 「親御さん、いい人たちじゃないか」 「ええ、そうですよ」  ベッドの上で、チャールズと向かい合って横たわる。 「あんた、ここに戻って暮らすのかい」 「いいえ。時々帰っては来たいですけど、やっぱりギルドで賞金首を探したり、依頼を受けたりして、自由に生きる方が性に合ってますから」 「そっか」  チャールズはイーサンの頬を優しく撫でた。涙の痕でまだ湿っている。 「明日、おばあちゃんにも会ってください」 「うん」 「そうしたら、帰りましょう。俺たちの街へ――」  撫でられているうち、イーサンは疲れたのか眠りの中へ沈んで行った。チャールズはイーサンが眠りに落ちる瞬間、額に軽くキスをしてくれた。

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