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第2話

14:00 アラームの音に目を覚ます。 いつもの様にシャワーへ向かって、洗面の鏡に映る自分を見つめる。 「黒いね…まるで湊くんみたいだ。」 そう言って前髪を全て掴んでおでこを出す。 「ふふ…」 1人で自分の髪形に笑うと、服を脱いでシャワーを浴びる。 18:00に渋谷だから…ここは何時に出たら良いんだ… 行きなれない場所に、時間が全く読めないよ。 1時間前に行けば良いか… ぼんやりと考え事をしながら床に座って、体のストレッチを始める。 仕事が無い日は特に念入りにストレッチをする。 体を動かす仕事の人はみんなそうだと思うけど…1日動かないだけで、結構、体は簡単に鈍って、言う事を聞かなくなっていくんだ… だから、念入りにストレッチをして…点呼するみたいに確認していく… ベッドに仰向けに寝転がって両手を上に上げると、指をうねらせて右手から左手へとウェーブさせる。 あぁ、依冬くん…どんな顔するかな…?オレに会ったら、どんな反応するのかな…?ビックリするかな?それとも…気付かないかな?偶然を装って体当たりとか…するのかな? これから起こる事を考えると胸がドキドキしてくる。 だって、悪い事なんだよ? 死んだ人に成り代わるんだ…。 そして、それは…してはいけない事なんだよ… ファイルを手に取ると、念のため中をもう一度確認する。 オレは湊くんになりきるの?それとも、湊くんに似た人って事で良いの? 依冬くんを釣る為に、わざわざ黒髪にしたんだ…洋服まで買って準備したんだ… 意地悪なもんで…少しだけ、楽しみでもあるんだよ…? 一体どんな反応をするのかって考えるとゾクゾクしてくるんだ。オレも趣味が悪いよね…こんな事で楽しむなんてさ… 敢えて自分だったら…なんて君の事を自分の事の様に置き換えたりしないよ。 だって、依冬くんはオレじゃないから…オレは傷つかない。 だけど、君は悲しむかもしれない…でも、オレは悲しくない。 …それだけだ。 17:00 昨日買った“湊くんの着そうな服”に手を通していく。 黒いハイネックに白いパンツ、上に大きめのジャケットを羽織ると、目元に少しだけ赤いシャドウを入れた。 少しでも彼の魅力的な目を再現したかったんだ…。 効果の程は分からない…でも、乗せないよりはましだ。 いつもは絶対買わないような服装に身を包んで黒いスニーカーを履く。ふふ… これだけ私物なんだ。この靴、可愛んだ。 お財布しか入っていない黒いリュックを背負って玄関を出る。 家路に着く人たちと合流して、今日はいつもと逆方向に、駅に向かって歩いて行く。 電車に揺られて渋谷まで向かう… 平日の夕方…電車の中は、ほどほどに混んでいる。 仕事を終えて家に帰る人…これから遊びに向かうカップル。様々だ。 同級生とおしゃべりをする学生の話を耳に入れながら、窓の外を眺めて過ごす。 18:00 時間ピッタリに指定されたホテルに到着した。 複雑な構造の建物で、ホテルには到着したのに、待ち合わせ場所のメインロビーまでの行き方が分からない… 「ここは…一体、何階なんだ…」 どうやら地下から侵入してしまった様で、慌てて1Fまで階段で向かう。 「疲れる…疲れる…!」 時計をかっく人すると、18:05… フロントのあるメインロビーに到着して、すぐに高い吹き抜けの天井に目を奪われる。 わぁ…こんな所、来た事が無いよ? 凄い豪華なんだ…まるで、自分が上等になった様な気になって来る。 ふふ…おかしいよね。 「…シロ君?」 名前を呼ばれて振り返ると、そこにはスーツ姿の長身の男性が立っていた。 切れ長の目元に緩く髪を上げた…まるで結城さんの様な見た目の彼…この人が多分結城さんの言っていた“現地に手配した部下”だね…。 「こんばんは?」 オレはそう言ってにっこりと微笑みかけた。 その人はオレの笑顔に笑顔で返して、淡々と説明を始めた。 「今日はこれから40Fにあるレストランに行って一緒に食事をするよ。一応ね…こんな設定があるんだよ?…良いかな?」 その人はそう言うと、オレに1枚の紙を見せて来る。 タイムスケジュールが書かれた紙には“ゲイカップル”と書いてあって、思わず吹き出して笑う。 「ふふっ!ふふふっ!何これ…んふふ!」 綺麗な文字で書かれた“ゲイカップル”の文字がツボに入って、笑いが止まらなくなる。 この人が書いたの?この文字…?腹痛い! 緊張のせいもあってか…達筆で書かれた“ゲイカップル”の文字に妙にツボって、ひとしきり笑うと、深呼吸をして気持ちを落ち着かせた。 目の前で怪訝そうに首を傾げるその人に、涙目で頷いて答えると、彼はふふッと鼻で笑って聞いて来た。 「…ねえ、何がそんなに面白かったの?」 怒りはしなさそうだけど、これって失礼だよね…。でも…おかしいんだ。仕事とはいえ、こんな事させられて…しかも…しかも…達筆でカタカナで“ゲイカップル”なんて書かされてさ…! しかも、イケメンなんだ。おっかしいだろ?笑っちゃうよ。 「んふふふ!んふっ!あふふっ!」 きっと、初めての豪華な場所と…悪い事をこれからするって緊張感が…オレを無駄に笑い上戸にさせたんだ… 「ふふ…ごめんなさい。ちょっと…ツボに入っちゃたの…んふふ…大丈夫。もう大丈夫だから…」 オレはそう言って深呼吸をすると、心を無にした… 「これ?これが面白かったの?」 その人はしつこいくらいに食い下がって、オレに紙を見せつけて来る。 止めろよ…せっかく止まったのに! 「…違う!ただの、思い出し笑いだったの!」 顔を背けて達筆の“ゲイカップル”が目に入らない様にすると、その人は首を傾げて聞いて来た。 「これ?この…トイレの部分をトイレットって書いたのが、面白かったの?」 いや…それも、面白いじゃないか…! 「ん、もう…!やめて!」 怒ってそう言うと、オレは頬を膨らませてその人を睨みつけた。 だって、この人、変なんだ! しつこいくらいに聞いてきて、まるで遊んでるみたいにケラケラ笑ってさ… あぁ、遊んでるのか… 不真面目なんだ… 仕事なのに遊び始めて、この人は不真面目なんだ。 オレがジト目で見つめると、その人は瞳を細めて笑って言った。 「ふふ…だって、知りたかったんだ。ごめんね?しつこかった?」 そうだな、しつこいよ。嫌われるよ? 「いえ…ごめんなさい。笑っちゃって…ふふ、ごめんなさい。」 オレはそう言って顔を背けると、肩を震わせてその人に付いて行く。 エレベーターに乗って一緒に40Fまで向かう。 聞いた?40Fだよ?耳がキーンってなる高さだ。 エレベーターの中、後ろに立って目の前の“部下の人”を眺める。 この人もオーダーメイドのスーツだ。襟の形が上等だもん…長身の体にピッタリのスーツ。上等な生地で作られた肩の形がキレイに出る、良いスーツだ。 腕時計もきっと高いやつだ… 「シロ君…何を見てるの?」 後ろに目でもついてるんですか? 部下の人がチラッとオレの方を振り返って聞いて来たから、オレは首を傾げて答えた。 「ん、何も見て無いよ?」 誤魔化すように視線を上げて、エレベーターの階層を移動する赤い点を見つめる。 なんで見てるって分かったんだろう…どこにも反射するものなんて無いのに… 音楽の先生みたいに、後ろにも目でも付いてるのかな。 エレベーターが40Fに到着すると、大きな窓が目に付く開けた空間に出る。 目の前を塞ぐものが何もない窓には、薄暗くなりかけた空しか見えない。 「おいで?」 そう言って“部下の人”がオレの腰に手をあててエスコートする。 腰にあたる手つきに慣れを感じて、この人が日常的に人の腰に手を回す人だって事が分かった。 つまりプレイボーイだって事… ほのかに香って来る香水の香りが強すぎず弱すぎず…いい塩梅だ。 スーツ姿の団体様を通り過ぎて、目的のレストランへ向かう。 「ご挨拶して?」 オレの耳元に顔を寄せてその人が囁く。 ご挨拶…? 辺りを見回してご挨拶の相手を探すと、こちらを凝視する結城さんと目が合った。 そんな所に居たんだ… スーツの団体様と一緒に居るけど、高身長のおかげか…目立ってすぐに見つけることが出来た。 軽く会釈をして“部下の人”と一緒にレストランへ入って行く。 店内は豪華なシャンデリアがぶら下がって、店全体が煌びやかに輝いてる。 グランドピアノの生演奏が流れる…お洒落で高級なレストランに不覚にも…ドキドキしてくる。 「どうぞ?」 そう言って椅子を引いてオレを見つめる“部下の人”。 オレは椅子に腰かけて右手に広がる窓から眼下を見下ろした。 窓の外には夜になりかけのアンニュイな夜景が広がっている。 何であんな顔していたんだろう… オレを見つめた結城さんの表情を思い出しながら困惑する。 それはだらしなく口元を緩めた、彼に似つかわしくない程、崩れた笑顔… オレはそれを見て…怖いって、そう思ったんだ。 「今日は…何てお呼びしたら良いですか?」 オレはそう言って視線を正面に座った“部下の人”に向けた。 だって、ずっと“部下の人”だと…ややこしいでしょ? 「…ふふ、そうだな。向かいに座るから…向井さんで良いよ。俺はシロ君って呼ぶね?」 向井に座るから…向井さんか…センス無いな。 オレは苦笑いして頷いた。 「実はね…シロ君がお店で踊ってる所、見た事があるんだよ?」 向井さんはそう言うと、頬杖を付いて首を傾げて見せる。 「へぇ…どうだった?」 オレはそう言って同じように頬杖を付いて首を傾げて見せた。 「可愛かったよ?」 「向井さんはゲイなの?」 オレが唐突にそんな事を聞いても、表情一つ変えないでにっこり笑って言った。 「どう思う?」 多分、バイセクシャルかな…だって女性を見る目もいやらしいからね。 「凄く体がしなやかなんだ。驚いたよ。中性的ってよく言うだろ?そんな次元じゃない。男性でも女性でも無い…そんな感覚になっちゃったよ。不思議だね?君は不思議な魅力があるみたいだ。」 まるで口説いている様なセリフを言いながら向井さんがオレの手を握った。 ゲイカップル… そうだ。忘れていたけど、オレは今日ここに依冬くんに会いに来たんだ。 すっかり周りの雰囲気にのまれて、結城さんの恐怖の笑顔にビビッて…本来の目的を忘れてしまっていた! 目の前の向井さんとゲイカップルの振りをして、依冬くんに会いに来たんだ! 「そう…じゃあ一体どっちのトイレを使えば良いのかな…?」 オレがそう言って首を傾げると、向井さんはにっこりと微笑んで言った。 「きっと…どっちでも大丈夫だよ?」 オレの手の甲にそっと口づけをして、うっとりと見つめて来る… マジかよ…おっかしい!この人、変な人だ。 いいや…ある意味、プロ意識が高いのかもしれない。こんな事さり気なくするなんて…普通じゃ出来ないよ? 彼の手からそっと自分の手を引いて戻すと、笑顔を向けながら、テーブルの下でキスされた部分を拭った。 おもむろに向井さんは胸ポケットに手を入れると、携帯電話を取り出して眺めた。 「…そろそろ、来るようだよ?」 そう言ってオレに流し目をすると、胸ポケットに携帯をしまって両手を差し出してくる。 訳も分からず、彼の手のひらに両手を乗せて、首を傾げて彼を見た。 「ふふ…細いね…?腕がこんなに細い…。」 そう言うと、彼は手のひらを滑らせて、オレの腕をギュッと握ってみせた。 その力強さに、手のひらの感触に、不覚にも…ゾクッと来た。 「ジャケット…脱がせてあげるよ?」 そう言っておもむろに立ち上がると、彼はオレの背後に回って、覆いかぶさって来る。 息がかかる距離まで覗き込むように顔を寄せて、背後からオレのジャケットのボタンを外して行く… え…? 何これ…? ねっとりと手のひらで体を撫でながら、ゆっくりと肩からジャケットを外すと、手の甲で背中を撫でながら…ジャケットを体から離して行く… 触られた胸に、彼の息がかかった髪の毛の中に、ゾワゾワッと鳥肌が立っていく…! あっという間にオレのジャケットは脱がされて、椅子の後ろに掛けられた。 時間にすると数秒の出来事… でも、彼はその数秒の間に、オレの前面と背面を撫でた…! 何だ…この人… 手練れだ…! 凄腕の手練れだ…! さり気なく自然にボディタッチしてくるこの妙技…! 相当の遊び人だよ…信じられない。 正直、ゾクッとした… オレが女なら間違いなく、簡単に落ちる。 「あわあわあわ…」 しどろもどろになりながら動揺すると、ニコニコと笑う向井さんの視線が、一瞬、レストランの入り口を見た。 視線をそちらに向けると、さっきレストランの入り口にいたスーツ姿の団体様が入店して来た。 あぁ、あの中に…依冬くんも居たんだ… オレよりも年下なのに…すでに、住んでる世界が違うんだな。 だって、みんな自信に満ちた笑顔をした高級スーツの集まりなんだもの。 「ねぇ…シロ君、なに食べたい?」 そっと手を撫でられて、彼に視線を戻した。 そうか…見過ぎちゃったみたいだ… オレは彼を見つめてにっこりと微笑むと、手元のメニューに視線を落とした。 「…そうだな…」 「…向井さんを、食べてみる?」 つまんない事を言う向井さんを無視して、細かく書かれたメニューを眺める。 なぁんで日本にいるのに、英語で書いてあるんだ! ラグジュアリーなレストランは、オレの様な低学歴を追い出したいんだな… 早々にメニューを閉じると向井さんに言った。 「何か…お肉のやつが食べたい…」 そう言って口を尖らせるオレを見て、彼はにっこりと微笑む。 笑顔が張り付いてるみたいだね… そんな憎まれ口を心の中で呟きながら、彼が注文をするのを頬杖を付いて眺めた。 「シロ君も、ワイン飲む?」 オレをチラッと見て、彼がそう尋ねて来たから、オレは顔を逸らして言った。 「要らない…お茶で良い。」 オレは警戒心が強いんだ。こんな、訳の分からない人の前で酔ったりしないよ。 それに、ワインはごめんだ。 あれはクリスマスの夜だった… クリスマスでもストリップバーは変わらず営業していた…お客なんて来る訳もなく、オレは智と一緒にワインを飲んでへべれけに酔っぱらっていたんだ。 その前に、ビール、カクテル、焼酎を飲んでちゃんぽんしていたオレは、急に吐き気に襲われてトイレに駆け込んだんだ。 そして、自分の吐いたものを見て悲鳴を上げた。 だって、赤いんだ。 「キャ~~~~!!!」 「どうしたの~!?シロ~!?」 「智~!!血が…血が出た~!!」 そう騒いで、智と一緒にトイレで泣いていると、支配人に怒られたんだ。 ウエッ!思い出すだけでも気持ち悪い! 「どうしたの?」 怪訝な表情でオレを見つめる向井さんは、ワインをグラスに注いでもらってる。 「…なんでもないよ?」 オレはそう言って、注がれるワインにあの時の恐怖を思い出して身震いした。 不思議そうな顔をしながら、向井さんがワインを飲み始める。 だから…ワインは嫌いなんだ。 「それ…飲んだ後吐くと、赤いゲロが出るんだよ?」 堪らずそう彼に教えてあげた。だって、後でビックリしたら可哀想だろ? 「んっふふふ…!!」 オレの言葉に、吹き出しそうなのを我慢しながら飲み続ける彼に、一度は治まった笑いのツボが再び現れて…オレは口元を押さえながらケラケラ笑った。 こんな状況でも飲むのを止めないなんて…! 口からグラスを外せば良いのに…ずっと飲みながら笑ってるんだ。 まるで自分と戦ってるみたいに見えて…おかしくて笑いが止まらなくなる。 「あふふふ!んふふ!ぐふふふ!」 「そう言う事は…飲んでる時に言ってはダメだよ?」 そう言うと向井さんはグラスをやっと置いた… 顔が赤くなる位笑いを堪えていたのに、飄々とそう言い退ける彼にスタンディングオベーションを贈りたい! 「ねえ?変な人だって、言われない?」 涙目になりながらオレがそう聞くと、彼は首を傾げて言った。 「言われた事は、無いね…?」 なんて人だ…! オレはこの人のおかげで…今日、頬っぺたが痛くなる位笑わせてもらった! 変な人だ…でも、嫌いじゃない。 オレと違って話し上手で、初対面なのに全然気を使わなくて良い。 自然なタイミングで相槌を打って、話しを広げてくれる。 何をとってもスマートなんだ。 それは話術に限らず、握った手の指を絡めたり…そっと撫でたり…スキンシップもお上手なんだ。 あんな仕事をしていても、人に触られるのなんて特段好きな訳では無いよ。 でも、不思議だ。この人のは嫌じゃない。 余りに自然過ぎるから、抵抗する暇も無いんだろうか… それとも、お仕事と割り切って…こなしてるだけなんだろうか… 「シロ君、外見てごらん?」 向井さんがそう言って視線を外へと向けるから、オレも一緒に窓の外を眺めた。 さっきまでとは違う、夜の夜景が眼下に広がっていて、月に見下ろされた街の明かりがキラキラと輝いて見える。 「わぁ、綺麗だ…」 「あっちが新宿だよ?」 そう言って彼の指さす方を見ると、そこにはひと際光り輝くビルの群れが見えた。 あぁ…いつもはあそこで働いてる時間なんだ… 「今、何時?」 彼に視線も当てないでそう聞くと、7時だよ…と答えが返って来る。 そうか…もう店に出てる時間なんだ… 「あんなに明るいんだね…オレ、夜景なんて初めて見たよ。」 そう言って口元を緩めると、自然な笑顔で向井さんに笑いかけていた。 上京して、ずっと生きるために働いて来たから、こんな時間を過ごす事なんて…今までなかった。 初めてなんだ… 依頼された仕事だとしても…こんな場所で、誰かと、ご飯を食べるなんて… 初めての出来事だ… よくお店に来る常連のお姉さんが言っていた…自分へのご褒美、ラグジュアリーな時間…というワードを思い出した。 確かに…そうなんだ。 馬鹿にしていた“ラグジュアリーな時間”は、体感してみると、極上の満足感をくれた。 目を細めてキラキラと輝く夜景を眺める。 綺麗だ…とっても、綺麗だ… 「ふふ…シロ君、可愛いね…」 そう言って向井さんは体を伸ばすと、オレの唇にキスをした。 それはあまりに自然で、拒否する間もない出来事で…柔らかい誰かの唇を感じて胸が跳ねた。 話術にも、スキンシップにも、ときめくタイミングにも長けている、彼に死角はなさそうだ。 オレは向井さんをジト目で見てムッとする。 でも、彼は、そんな事気にしないみたいに飄々とオレに微笑みかけた。 ホント、変な人なんだ! 「シロ君は俺だけ見ててね…?どうやら依冬くんが君にヒットしたみたいなんだ。ちょっとスキンシップを増やすよ?嫌かな…ごめんね?」 そう言って首を傾げて微笑むと…彼はオレの頬を撫でて、唇にそっと親指を乗せてなぞった。そのまま指を押し付けると、オレの歯を押し下げて、指を入れて来る。 あぁ、マジかよ… 指先で下を撫でられて、ゾクッとして体が跳ねた。 「向井さん…!やだ…」 咄嗟に体を引いて向井さんの手を掴むと、真っ赤になった顔で彼に言った。 「やめてよ…」 ムッと口を尖らせて、ニヤける彼をジロッと睨みつける。 何だ…この人 ものすごくエロい… 首を傾げて微笑むと、彼は身を引いて頬杖を付いた。 その視線が…甘くて、トロけて…色っぽいんだ。 “いやーーーーっっ!助けてーーーっ!!” …心が、そう叫んでる。 この人の恋人は、いつもこんな目に遭ってるの? いつもこんなドキドキするような事をされてるの? 初めて会った人なのに…彼の色気に、グラついてしまいそうだ… 丁度良いタイミングで料理が運ばれて来た。 自然と離れた向井さんの艶っぽい視線に、ホッと安堵のため息が零れる。 良かった…どうにかなりそうだった…!その気になりそうだった! …弄ばれた気分だ… 「ねぇ…疑問なんだけど、こうしていて何か意味があるの?てっきり偶然を装って話しかけたりするのかと思っていた…」 気を取り直して美味しいお肉を食べながら、向かいに座る向井さんに話しかける。 でも、見てやんない! だって弄ばれたんだ。ムカつくだろ? それにね、どうせ見たって微笑みをオレに送ってるに違いなんだ。 恥ずかしがったオレを笑うみたいな微笑みをさ… 「ふふ…十分だよ。シロ君の存在が彼に知れたら、それで良いんだから…ね?」 ね?じゃねんだ。 「はい、あ~ん。」 そう言われて顔を上げると、向井さんがオレに美味しそうなものをくれた。 口を開けてパクリと食べる。これは魚だ! 「ん、美味しい。」 オレはそう言って、嬉しそうに笑う彼を見つめて眉を上げて見せた。 良いよ。別に。割り切った。 これはゲイカップルの演技なんだ。 だから、弄ばれたってシロがされた訳じゃない。動揺したのだって演技でしたんだ。 「向井さんにも、あ~んしてあげる。」 オレは割り切ったよ? もう羞恥心を弄んでも、期待の反応はしてやんないんだから。 オレは野菜だけフォークに乗せると、満面の笑顔で向井さんの口に運んであげる。 残念そうな彼の目を見て、優しく笑いかけてあげる。 お肉は誰にも渡さないんだ。 「もっと、お魚、ちょうだい?」 可愛く彼のお魚をもっと欲しがってみる。 「…良いよ?」 そう言って野菜だけフォークに乗せてオレの口に運んでくるから、ムッとして、首を振って、拒否する。 「違う…けちんぼ。お魚をちょうだいよ?」 仕返し…復讐…リベンジだよ? 向井さんはしょんぼりしながら自分のお皿を見つめて言った。 「お魚が…無くなっちゃうね?」 知ってるよ。その為におねだりしてんだ。 「ん、もう!早く、ちょうだいよ~?」 口を開けて、ごねる様に体を揺らして、向井さんを困らせてやる。 パリーンッ! 突然聞こえた、何かが割れる音に視線が向く。 あ… 視線の先に、依冬くんがいた。 オレを見て、目を大きく開いて、驚いた表情をしてる。 生演奏のピアノの音が美しく空間を彩るのに、まるで時間が止まってしまった様に固まる依冬くん。 写真よりも大人びた印象の彼は、悲痛な表情になってオレを見つめ続ける。 罪悪感からなのか…胸が痛い。 表情を変えないで、自然に視線を外して、目の前の向井さんを見る。 彼は目を細めてオレを見つめて言った。 「ね?十分でしょ?」 さっきの続きを自然に始める彼は、オレの口にお魚を運んで言った。 「はい、あ~ん…」 マジか… オレの視線を向ける為に、わざとグラスを割ったって言うの…? 手段を選ばないんだね… 向井さんのお魚を全滅させると、彼の顔を覗き込んで聞いた。 「ねえ、向井さんは…彼らの何を知ってるの?」 オレの問いかけに、少しだけ彼の瞳の奥の色付きが変わった。 ほんの一瞬だけど依冬くんと見つめ合った…オレだけ見つめる鋭く差すような視線に、普通じゃない狂気を感じた。 向井さんはワインを一口飲むと、オレに視線を合わせないで言った。 「簡単に言うと、依冬くんが湊くんを犯した後、首を切って殺しちゃったんだよ。」 へ? 殺した…? それって犯罪だよね…殺人って言う…立派に処罰される犯罪だよね? 目の前の彼の話す内容に、頭が付いて行かなくて、アホ面のまま首を傾げる。 「それで、仕方が無いから事故死って事でもみ消したんだ。」 ケロッとそう言うと、向井さんはオレを見てにっこりと微笑みかけた。 でも、彼の目の奥は笑っていなかった。 まるで憐れむみたいな色を付けて、オレを見てる。 「ふふ…!」 その顔がおかしくて、吹き出して笑った。 この人は本当に…オレを笑わせてくれる。 …色んな意味でおかしくって笑っちゃうよ。 とんだ食わせ者だ… 「あぁ…そうなんだ。」 …すごく危険な事をしている。 澄ました顔して、何事もなかったように目の前の悪いやつに笑いかけてやる。 口から出るのは、意外にも余裕のある言葉だった… 内心汗だくになってるくせに、必死に悟られない様に取り繕って、目の前の悪いやつに、自分の恐怖心を悟られてはいけないって…本能で、そう思った。 向井さん、あんた、とんだ食わせ者じゃないか… 何も知らないような顔して…良く知ってらっしゃるようだ。 そして、オレがどれだけ危険な事をさせられてるのかも、分かってるんだろ? 笑っちゃうね… オレがもし依冬くんに殺されたとしても、きっとまた揉み消されるだろう。 依冬くんが彼女と別れれば700万… それは、命を懸けるような危険な仕事の依頼だったようだ。 目の前でオレの様子を伺いながら、ワインを口にする悪い男を見つめる。 「好きなのに…なんで、殺したんだろうね…?」 頬杖をついて、フォークを向井さんに向けながら聞いた。 「誰にも、取られたく無かったんだって。」 そう言って、自分に向けられたフォークを指先で下に向けると、彼はお皿の上のニンジンを刺した。 「んふふ…」 それがおかしくて笑うと、嬉しそうに微笑んでニンジンを自分の口に運ぶ。 「シロ…可愛いね?」 伏し目がちにそう言って、彼はオレのフォークの先のニンジンを舌でペロリと舐めた。 あんたの名前を検索したら、一番初めに“エロい”って出てきそうだよ… そして、二番目に出てくるのは“食わせ者”だ。 本当…面白いね…。笑わせてくれるよ。 大人ってみんなこうなの? それとも、目の前のこの人だけ…飛びぬけて、悪くて、エロいのかな… 汚い匂いがプンプンするこの人に、嫌悪感は感じない。 ただ、用心する。 いつ本心が牙を剥くか…分からないからね。 オレは彼の軽いノリに合わせる様にふざけて言った。 「それは、まずいね。オレも殺されちゃうかも知れないじゃん。やっぱり大金に見合うだけの危険なお仕事だって事なのかな?…望んでやってる訳じゃないけど、これは危ないよ?」 オレがそう言うと、向井さんはオレの頭を撫でて微笑んで言った。 「大丈夫。そんな事にはならないから…」 絶対、嘘だね… オレは彼から視線を外すと、ため息をつきながら言った。 「ふふ、そうなんだ。へぇ…」 顔を上げて彼を煽り見て、口元を緩めて微笑みかけてあげる。 でも、オレの目の奥は笑って無いよ… あんたは嘘つきだ… 彼はそんなオレの表情を見ると、ふざけるのを止めて真剣な顔でもう一度言った。 「本当に、そんな事はさせないよ。信じて?」 信じる? この海千山千で、食わせ者の、偽名の男を? …ありえないね 「わぁ…嬉しい!良かった~。安心した~!」 表情も声色も一変させてそう言うと、彼のワイングラスに手を伸ばして一気飲みした。 「あ…いけないな。」 そう言ってオレをジト目で見る向井さんを無視して、空っぽのグラスを彼に返す。 もうヤケだ。 緩んでいた警戒心を全開に戻して、向井さんと一緒にデザートまで頂いて、レストランを後にした。 あれから依冬くんはグラスを再び割る事は無かった。 ふふ… 彼らの話をこれ以上、聞くのも止めた。 だって、そんな事、知った所で動き始めてしまった状況は変わらない。 この人もそれを知っていてわざとオレに教えたんだ。 もう引けないよって…教えて、動揺するオレを見て笑いたかったんだ。 意地悪で…趣味が悪いんだ。 向井さんとエレベーターで1Fまで降りると、ホテルのロビーで首を伸ばして上を見上げる。 誰かに電話連絡してる向井さんを横目に、クルクルと回りながら考える。 四面楚歌…ここにオレを助ける人はいない。 自分で自分を守るしか無いんだ。 吹き抜けた階層がまるで切り取られた地層の様に見えてくる。 天井が高い…3階まで吹き抜けているみたい…。 あそこから落ちたら…死ねるかな? 「シロ君、こっちにおいで?」 電話を終えた向井さんが、そう言ってオレを呼んだ。 おいでおいでする彼の元へトコトコ歩いて行く。 モデルか何かをされてるの? そう思ってしまうくらい、立ち姿も様になるこの人は…いったい何歳なんだろう…。 偽名を使ってる様な人だ…年齢なんて聞いても、正直に答えるとは思えない。 「シロ君…こっち。」 そう言ってオレの腕を掴むと、優しく自分の傍に引き寄せた。 背の高い彼を見上げて、見下ろしてくる彼の目を見つめる。 誰かに似てるよ…あんた… 胸がざらついて、いちいち引っかかる。 その雰囲気…その纏わりつく視線… 誰かに似てる エレベーターから少し離れた…薄暗いホテルの廊下。 向井さんがオレの立ち位置を両手で調整する。 彼の体が近くに来る度に、ふわっと香水の香りが香ってくる。 その匂いが堪らなく素敵だった… 整った顔に、伏し目がちな目元と、たくましい胸板… 気付くと、いやらしい目で向井さんを見ている自分に愕然とする。 きっと…ワインのせいだ… 喝を入れる様に自分の頬をペチンと叩くと、驚いた様子で手を掴まれる。 「ダメだよ…そんな事しないで…」 そう言ってペチンとした頬を、大きな手のひらで包んで撫でる。 誰かに…似てる… あぁ…ワインと、この人のせいで…ちょっとおかしくなってるんだ。 今日、初めて会ったのに、まるで最愛の人を見るような視線でオレを見るんだ… 流石の食わせ者だよ…ふふ。 「シロ君、ちょっと我慢してね?」 向井さんはそう言うと、オレのジャケットの下に手を入れて、腰に腕を回してギュッときつく抱きしめた。 「あ…」 抱きしめられて…頬に付く彼の胸が温かくて…ドクドクと心臓の音が聞こえて来て、忘れていた懐かしい感覚を思い出した。 トロけてしまいそうなくらいに、あったかい体… そっと頬に手が伸びて来て、優しく撫でられて、包み込まれると、オレを見下ろす彼と目が合って…うっとりと色付いた瞳に、誰かを見た。 「シロ…どうして、そんな顔をするの…?」 悲しそうに眉を下げて向井さんはそう言うと、そっと顔を落としてオレにキスをした。 それは舌の入る…濃い、大人のキス。 口端から吐息が漏れて、絡んだ舌に誰かを感じて、トロけてしまう。 キスって、こんなに頭のてっぺんが痺れるものだっけ… すごくジンジンして… 不覚にも自分のモノがやや反応してしまう… 「向井さん…や、だめ…オレ…」 「…勃っちゃった?」 オレの目を見つめながらそう囁くと、体を離そうとするオレの腰を抱き寄せて、自分の股間を押しつけて来る。 これってすごく…卑猥だ。 たった一杯のワインで、酔っぱらってしまったのか…? しっかりしろ!! 締め付けられる大きな腕に…股間にあたる彼の体に…どんどん欲情して、甘えたくなる自分が居る… 向井さんは腕の中のオレを見下ろすと、顔を近づけて囁いた。 「シロ…舌を出して…?」 伏し目がちな彼の表情にクラクラするような大人の色気を感じて、そんな無茶ぶりを拒否も出来ずに従順に素直に聞いた。 彼に言われた通りに、舌を出して彼を見上げると、愛おしそうにオレの髪を両手で掻きあげながら舌に吸い付いて来た。 あぁ…堪らなく、気持ちが良い… 「んっ…んん、はぁはぁ…頭が、クラクラする…」 やっと、唇を解放されると、今度は彼に強く抱きしめられる。 あれ…オレって何してるんだっけ? 彼の体に埋まってしまいそうなくらい強く抱きしめられて、力の入らない両手で彼の体を、そっと…抱きしめる。 女の子ってこういう気持ちなの…? 自分が急に弱くなった様な、屈辱的なのに、癖になる様な…背徳感を感じる。 自分が何のためにこんな事をしてるのかも、忘れてしまうような…官能的なキスだ。 それは演技だとしたら、最優秀男優賞を取れるくらいに本気のキスだ… うっとりする自分の今後が心配になる。 「シロ君…かわいい。もっと好きになっちゃったよ?」 オレの顔を覗いて嘲笑う、悪い男… その目は明らかに、彼のキスに惚けたオレをからかう様に笑って見えた。 …ムカつく! オレは渾身の力で、向井さんの胸を殴る。 それも女の子みたいに力の入っていない、へなちょこパンチだ… 「ふふふ…可愛い…」 そう言って余裕の向井さんはオレのおでこにキスをする… 惚けたオレは、完全に彼の手の中だ。 この人は、食わせ者の嘘つきだ! 人をからかって笑う、悪趣味の大人だ!! ただ、抱き寄せられる彼の体の温かさだけは…とても気持ち良くて、堪らない。 堪らないんだ… 「湊…!」 誰かがそう言って、こちらに凄い勢いで迫って来た。 ロビーの明かりを受けて、その人物が依冬くんだと分かった… その表情は、悲痛で、可哀想だった… 「え…誰ですか?人違いですよ?」 向井さんはそう言うと、オレと依冬くんの間に体を入れてオレを隠した。 「湊…湊、顔を見せて?俺だよ、依冬だよ…」 違うんだ…オレは君の好きな湊くんじゃない。 オレの顔を必死に見ようとする依冬君から守る様に、向井さんが後ろ手でオレを遠くへと押し退けて行く… オレは彼の背中越しに、自分を目で追う依冬君を見上げてズキズキと痛む胸を抑える。 「ちょっと…君、いい加減にしないか…!」 向井さんはそう言うと、依冬くんを押し退けてオレの腕を引っ張った。 「湊!」 悲痛な声で湊くんの名前を呼びながら、依冬君はオレ達の後ろを追いかけて付いて来る。 グッと、突然、腕を掴まれて、依冬君がオレを見つめて言った。 「待って…湊…待って…お願いだ…」 その悲痛な表情に、震えた声に…一気に怖くなる。 こんな風に…人の気持ちを弄んで良いの…? 「違う…」 オレはそう言って依冬くんの手を解こうと振り回す。 でも、彼は全然離してくれない…! むしろ、オレを抱き寄せようと、反対の手を伸ばしてきた。 「おい!」 そう怒鳴った向井さんが、依冬くんを思いきりぶん殴った。 「違う!オレは君の言ってる人じゃない…!人違いだ!」 オレはたまらずそう言うと、向井さんを止めて、床に倒れ込んだ依冬君を見下ろした。 殴られた頬を赤くした依冬くんが、オレを見上げて凝視した。 その様子は…まるで、それが本当か確かめる様に、湊くんとオレの違いを探しているみたいだった。 依冬君の…二重の可愛い瞳が、潤んで濁る。 「…すみません…すごく似ていて…あなたの名前と連絡先が知りたい…今すぐ教えてください…」 こんな状況でも連絡先を聞けるなんて…なんて鋼のメンタルなんだ… 少しあ然としてしまった。でも、それだけ必死って事なのか… オレは依冬くんの目を見つめて言った。 「嫌だよ…」 向井さんの体を引いて促すと、出口へと歩き始める。 「湊…どうして…」 背中に依冬くんの悲痛な声が突き刺さる。 ごめんね…ごめんなさい…オレは君の湊くんじゃ無いんだ… 彼が湊くんを殺した? あんなに悲しそうな目をした彼が殺したって? 嘘だ… この食わせ者の言う話を鵜呑みにするべきじゃない。 だって、彼の瞳は真っ直ぐだったんだ… 真っ直ぐにオレを見つめて貫いて来た。 傍らでオレの腕を掴んで歩く向井さんを見上げる。オレに視線をあてる訳でも無く、前を見据えて歩き続けてる。 もし…オレが…君だったら… 大切な誰かにそっくりな人が目の前に現れた時… 君の様に…出来るかな… そんなにお利口に…出来るかな。 「シロ君、送って行くよ。」 向井さんがそう言って車の助手席のドアを開ける。 オレは無言で彼の車に乗った。 「殴っていたね…」 動き始めた車の中で、窓の外を眺めながらポツリと呟いた。 オレの様子を伺う様に顔を向けると、向井さんが言った。 「ね?守ってあげたでしょ?」 その声は心なしか喜んでる様に聞こえる… 守る? 「あんたは仕事だからやったんだよ…そうだろ?でも彼は違う。騙されて、殴られて、可哀想だね…」 吐き捨てる様にそう言うと頭を窓に付けて呆ける。 遠くから見下ろした街の夜景はキラキラと輝いて美しかったのに…車の窓から見えるネオンはギラギラと光っていて、汚かった。 「ふふ…可哀想…ね。」 意味深にそう言うと、向井さんはオレの足を撫で始めた。 反応するのも嫌で、オレはそれを好きにさせて、ただじっと窓の外を眺め続けた。 汚いんだ…とっても汚い。 依冬くんは湊くんの事がとっても好きだったみたいだ… そんな彼に会って良かったんだろうか…オレみたいなのが、湊くんの代わりなんて出来る訳ないのに。 依冬くんの悲痛な声と、縋るような瞳が…誰かと重なった。 追いかけてはいけない記憶。 襲ってくる思考を追い払う様に向井さんを見た。 オレの足に手を置いて、ニヤけて笑う、正体不明の男… 「ね!やめて?」 そう怒って、向井さんを睨みつけると、彼はお触りしていた手を退かして言った。 「やっと、こっちを見てくれた…」 結城さんの部下は…癖が強いみたいだ。 出来れば、もう、この人には会いたくない。 飄々と人の気持ちをいたぶる…この人が嫌いなんだ。 オレは彼から顔を背けると、また窓の外を眺めた。 店と自宅の往復…そんな生活をしていた。 少し外に出ただけで、オレの平和はあっという間に崩れてしまいそうだ。 「お疲れ様、十分すぎる成果が得られたみたいだ。またシロ君のお店に行くよ。俺に気付いたらうんとサービスして?」 ボロアパートの前で車を停めると、向井さんはそう言ってオレにキスした。 唇に触れた彼の唇が思った以上に柔らかくて、思わず吹き出して笑った。 「ふふ…サービス?…しないよ。店にも来ないで?」 オレはそう言って鼻で笑うと、彼の車を降りた。 気の抜けない相手だ。 飄々としながら、人の心を弄ぶのが好きみたいだ。 オレは、あんたが嫌いだ。 22:00 いつもよりも早い時間に自宅にいる。 もう何年も住んでいるのに、今まで聞いた事も無いような生活音が聞こえてくる。 …この部屋が音漏れするって事に気付いた。 壁が薄いんだな…知らなかったよ。 音楽を流しながら湊くんの服を脱ぎ捨てて部屋着に着替える。 依冬くんはオレよりも大人っぽく見えた。 オレより1つ下の学年なのに…しっかりした子だ。 高級な大人に混じっても10代なんて分からないくらいに、大人だった。 可哀想… それはきっとこんな気持ちなんだろう。 彼の目を思い出すと胸が痛くなる。 まるで虐められているみたいだね…気持ちを弄ばれて虐められてるみたいだ。 それは…きっと可哀想な事だ。 ベッドにゴロンと横になって彼の事が書かれたファイルを手に取った。 殺しちゃった…?誰にも取られたくなくて…? 向井さんが話した内容を思い出した。 君がそんな事するとは思えないよ…でも、人は見かけによらないからね。 あの人の唇が思った以上に柔らかいのも、その良い例だ。 愚直なまでに君が不器用な人間なら…ありえない話じゃない。 誰にも取られたくない…なんて、そんな理由で人を殺すんだ。 激情をコントロール出来なかったのかな… そこまで人を好きになるなんて…オレには出来ないよ。 今まで付き合った彼女だって刹那的過ぎて…顔さえ覚えていない。 もっと…って求められると、途端に嫌になるんだ。纏わりつかれたくなくて、嫌いになるんだ。だから…誰にも取られたくないなんて…理解できないよ。 だって、どんなに愛したって人が孤独なのは変わらないじゃないか。 1つにはなれないんだ。 死ぬ時だって、1人で苦しんで死んでいく。 だったら、他人に執着すること自体、無意味な事じゃないか。 そんな形の無い物に振り回されて人を殺すなんて…馬鹿みたいだ。 結局は肉欲の塊なんだ。 愛なんて…そんなもの無いのにさ。 ただ、気持ち良くセックスがしたいだけなんだ。 笑っちゃうよ。 もっと動物的で、原始的な欲求なんだよ? セックスしたい相手が思い通りにならない…そんな欲求不満を恋って呼ぶんだ。 そして、セックスする相手を繋ぐために、愛って言って美化するんだ。 自分たちがただのサルと同じなんて…認めたくないみたいで笑えるだろ? だせぇ… だから、そんな下らない事で人殺しになったんだとしたら、依冬くんが羨ましいよ。 清々しいまでの馬鹿っぷりに…敬意を表したいよ。 そう…ただの肉欲だ。 気持ち良いからしたいだけなんだ。 そこに、意味なんて無い。 携帯電話が鳴ってテーブルの上を震えて暴れる。 「もしもし…」 非通知の電話に出て、結城さんの声を聴く。 「シロ君、今日はお疲れ様。すごく…可愛かったよ。」 結城さんはそう言うと、深い溜め息を吐いた。 その音が耳に届いて、まるで近くにいるみたいに鼓膜を揺らした。 「そう…良かった。」 オレはそう言って電話を切った。 だって気持ち悪いだろ? まるでオナッてるみたいな息遣いなんて、聞きたくないよ。 質の悪いいたずら電話みたいだ。 オレを見た時のあんたの顔…忘れて無いよ。 湊くんの事…好きだったのは、あんたなんじゃないの…? そんな風に思ってしまうくらいに、あんたの表情も電話の様子も普通じゃないね。 教えてもいないのに家の場所を知っていて、教えてもいないのに携帯の電話番号、メールアドレスを知ってる。そして、毎回タイミングよくかかって来る非通知の電話。 詰んでんな…オレ。 とんでもない相手に目を付けられてしまった様だ。 一癖ある部下も加えておこう… キスの上手な食わせ者。油断ならない男。誰かの雰囲気を纏った男。 四面楚歌だ。

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