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第21話
「もう帰ろう?」
オレはそう言ってカウンター席の向井さんの腕を引っ張った。
今日、オレの担当は10:00のステージだけ、用が済んだら帰るんだ。
ぼんやりと考え事をしていたのか、彼はオレが呼びかけるまで気が付かなかったみたいだ…
もう…どうしちゃったんだよ…
ぼんやりとした向井さんの肩に手を置いて、片手に持った携帯で依冬に電話をかける。
こっちの子も何やら、少し、心配なんだ…
「依冬~。何してたの?オレはね、もう帰るよ?あのね言いたかったの…お前は謝る必要なんて無いって…ちゃんと伝えたかったんだ。ふふ…何でかな。帰り際のお前がとっても怖い顔していたから…気になったんだよ?」
オレがそう言うと、電話口の依冬が笑いながら言った。
「俺の事なんてどうでも良いんでしょ?」
「ふふふ…そう思うの?それはイケないよ。オレは依冬が大好きなのに…酷いじゃないか…クスン。」
そう言って向井さんの手を繋ぐと、彼を引っ張って歩き始める。
「…冗談だよ。」
そう言った電話口の依冬の声が、少し…濁って聞こえる。
「依冬のお尻のほくろが好きだよ?可愛いもん。依冬はオレのどこのほくろが好き?」
「脇の下…」
「ふふ…そんな所にほくろなんてないよ?」
オレはそう言うと、向井さんの手を解いて自分の脇の下を見てみた。
「…あ、あった!」
脇の下にいつの間にかほくろが出来ていた。
シミ…?メラニン…の暴走?
いいや、きっとほくろが増えたんだ!
「アハハ…依冬、脇の下にほくろあったよ?」
オレがそう言うと、電話口で彼が笑って言った。
「いつもそのほくろを舐めるのが好きなんだよ?だって、とっても気持ちよさそうにエッチな声を出してくれるからね?」
オレは愕然とした…いつの間にか依冬はバター犬の様になってしまった様だ。
子犬、忠犬、狂犬を経て…たどり着いた先がバター犬なんて…
向井さんと手を繋ぎ直すと、咳ばらいを一回して言った。
「うぉっほん…じゃあ、今度はオレが依冬のお尻のほくろを舐めてみよ~う。そのまま中に指を入れさせてよ?」
オレの言葉に電話口の彼は大笑いをして言った。
「いやだ!」
なんだ、元気そうだ…
気にし過ぎたみたいだ…ホッとしたよ?
「依冬、またね…」
そう言って電話を切ると向井さんと一緒に階段を上っていく。
エントランスの支配人に挨拶をして、手を繋いだまま彼の車まで歩く。
「んふふ。見て~?」
雨上がりの外は肌寒いくらいの涼しさ…
オレはネオンが反射する水たまりの上で、綺麗にピルエットしてポーズを取った。
「綺麗だね…」
そう言った向井さんの笑顔を見て、彼に思い切り抱きつく。
大好きだよ…
彼の家に連れて行ってもらって、ベッドに下にしまった”宝箱”に急いでチップをしまうと、ゴソゴソするオレの背中を見ながら彼が笑って言った。
「泥棒みたいだ!」
なんだと!
オレは振り返って言った。
「違うもん!」
クスクス笑う彼に見せてあげる。兄ちゃんの腕時計。
彼はオレの隣に座って一緒に兄ちゃんの腕時計を見つめた。
「見て?これが兄ちゃんの腕時計だよ?」
オレはそう言って、彼の腕に付けて顔を摺り寄せる。
「兄ちゃん…もう、どこにも行かないで…」
そう言って彼の体に自分を埋めてメソメソすると、どんどん感情が込み上げて来て震え始める体のまま、彼の首に縋る様に手を回した。
オレの背中を抱きしめる彼に甘えてクッタリと胸に顔を埋めると、震えが治まってきた頃、顔を上げずに彼に聞いた…
「何してたの…?」
「…何が?」
「とぼけないでよ…2人で何してたの?」
オレがそう言うと、彼は押し黙ってオレの髪を撫でる。
「彼の家の事で…ちょっとね…」
ポツリとそう言ってオレの髪にキスをすると、兄ちゃんの腕時計を外してオレの手に返して言った。
「大切な物だろ?大事にしまっておくんだ。」
「あなたも同じように大切だよ。」
オレを見つめる彼の目を見つめる。
全てに意味がある様に…この時間にも、この瞬間にも意味があるんだとしたら、あなたが何かを隠していて…傷ついていて…それをオレに知られたくない事にも…意味があるの…?
オレの視線を受けて、オレが何を知りたがっているのか…分かってる筈なのに、彼は何も話してくれなかった…
ただ、いつもの様に優しく微笑みかけて、優しく撫でて、優しく愛してくれる。
「シロ?体が冷えてる…お風呂に入ろう?」
そう言ってオレの腕を撫でると、ギュッと抱きしめて立ち上がる。
そして、抱きしめたまま、えっちらおっちらと一緒に浴室に行って、お湯の張ってあるお風呂に入れて貰う。
「お湯に入ったの久しぶりだよ?ふふ…気持ち良いね?」
オレはそう言ってお風呂の中から彼の腕を掴むと、わざと水をかけて、シャツをびしょぬれにして言った。
「ねぇ、向井さんも一緒に入ろう?」
「ふふ…良いの?嬉しいな。」
イカレた結城さんが、また、何かしたのかな…
分からない。
分からないけど、彼はオレの事を愛してる。
それは、分かる。
だから…大丈夫。
#向井
「今日来るの?いつ来るの?何時に来るの?」
お店の前まで送ると、シロは俺にそう聞いて、抱きついて離れなくなった…
窓の奥に見えるお店の支配人と目が合って気まずくなる。
「シロ…一回、家に帰って着替えたらまた来るよ?」
俺はそう言って彼の頬を持ち上げると顔を覗いた。
「ほんと?」
ふふ…可愛いな。
嬉しそうに微笑む彼を見て口元を緩めて笑う。
「ほんとだよ。」
俺はそう言って彼にキスを貰う。
「絶対だかんな!」
そう念を押されて笑って頷くと、彼を見送ってから車を出した。
どうしよう…
依冬から電話を貰ってから動揺が治まらない。
どうしよう…
このままでは俺はシロに会えなくなる。
今更、自分の罪を見つめなきゃいけない事態に、動揺して、混乱する。
どうしたら良いんだ…
ハンドルを握る手がわずかに震える。
「グダグダに甘えさせて…他の人の所に行くんだろう…オレを一人にしないで…」
彼が俺に言った言葉を声に出して呟く。
「1人になんてしないよ…」
いくらそう願っても、状況がそうさせないんだ…
俺に…会いたくなくなるかもしれないんだ…
依冬…桜二は俺だよ。
お前の探している男は…俺だ。
湊を殺した男は、俺なんだ。
「シロ…もし、俺がいなくなったら…お兄さんを二度、失う事になるのか…」
あぁ…どうしたら良いんだ…
ルームミラーに映る情けない顔の男を見つめる。
あの野郎…やりやがったな…
俺と親父は利害が一致した上で成り立つ関係だ。大っぴらに出来ない汚い仕事を俺がこなして、あいつは俺に金と社会的地位を与えた。そこには信頼も信用も何もない。均衡を保ったパワーバランスで、お互い弱みを見せない様に、気の抜けない相手としてビジネスでお互いを利用する。
そんな脅し脅されて成り立つ様な関係だから、隙を見せるとこうなるんだ。
シロを狙ったのは…依冬を陥れる為じゃない。
俺を狙ってるんだ…
湊を殺した俺を…煮る事も焼く事も出来ない鬱憤を…シロで果たそうとしてるんだ。
俺があいつへの復讐の機会を窺う様に、あいつも俺への復習の機会を窺ってるって訳だ…
俺が彼の傍に居る限り…あの蛇に狙われるだろう。
俺の見せた隙に、あいつは容赦なく牙をむくだろう。
あの男の執着を甘く見ていた。
きっとどこかで見ていたんだ…
俺がシロに傅いて彼を愛する姿を…
「抜け目がないね…」
ポツリとそう呟きながら、奥歯をギリッと噛みしめる。
悪い事は続くのか、こんなタイミングで依冬が湊の顛末を知った。
もしかしたら、それも偶然じゃなくて結城の策の一つかもしれない…
だとしたら、凄いよ。
俺はすっかり参ってる…
参ってるんだ…
シロのお気に入りの依冬。依冬の愛した湊。湊を殺した俺…
シロは俺を捨てて、依冬の気持ちに寄り添うだろうな。
彼はシロに愛されてる。
お兄さんという特別な存在を利用しなくても…シロに愛されたんだ。
どうなるかなんて…目に見えている。
「嫌だ…嫌だよ…シロ。離れて行かないでくれ…」
せっかく見つけた…俺を満たしてくれる壊れた愛しい人…
信号が赤に変わって停車する度に、みぞおちから嗚咽が漏れて来る。
どうしたら良いんだよ…
完全にお手上げだ。
何の策も得られないまま、依冬と約束した場所へ向かう。
落ち着いた雰囲気の喫茶店へ入って、向かい合って座る。
こいつと向かい合って座るなんて…あまり良い気がしない。
「湊を殺したやつを捜して親父を脅そうと思ってる。あいつは何故かそいつを庇ってる…あんなに愛した湊よりも、そいつの事を庇うなんて…おかしいんだ…」
着席して早々に依冬はそう言うと、鼻息を荒くして俺に言った。
「もしかしたら、そいつはもっと大きな弱みを握っているのかもしれない。」
弱み?違うよ。
俺は持ってるんだ…
彼が俺に手を出せなくなる様な…隠し玉を、持ってるんだよ。
「向井さんはどう思います?あんたは俺よりもずる賢いから、何か良い案は思いつきませんか?」
ふふ…
シロの言った通りだ。この子犬は無邪気に毒を吐く。
「そうだな…もう少し様子を見ないと、手の打ちようが無いな…」
俺はそう言って依冬に探りを入れる。
「その男は、どうやって探すつもりなの?」
「探偵を雇おうと思っています。親父との関係を辿れば、名前だけで十分に探す事が出来る。」
探偵…
依冬はそう言うと、目の奥をギラつかせて唸る様に言った。
「湊は殺されたんだ…!絶対に許さない…。親父が何もしなくても、そいつを見つけて、警察に突き出すか…俺の手で殺してやる…!」
「ダメだ。そんな事するな…シロはどうするんだ。」
無鉄砲にそう言いのける彼にくぎを刺すと、依冬は俺を睨んで言った。
「…あんたが、いるじゃないか…」
これが…シロの言っていた狂犬の依冬か…
目的の為ならなりふり構わない…シロの事さえもそんな簡単に言ってしまう。
若さゆえなのか…それとも、彼は俺の様にシロを愛していないのかな。
俺は興奮する依冬を刺激しない様に、ゆっくりと話した。
こいつはまだ、子供なんだ…
「お前がいなくなったら彼は壊れてしまうよ?だから…無茶はするな。」
「でも、俺は湊を殺したやつが許せないっ!どうして…?湊は…何も悪くないじゃないか…気が違えた親子に、酷い目に遭わされていたんだ!…それなのに…それなのに…!訳も分からないまま殺されたなんて…!!可哀想すぎるっ!」
そう言うと依冬は両手で顔を覆って、項垂れた。
彼は湊の事で頭に血が上っている。シロの事なんて…考えていない。
ずっと行き止まりだと思っていた道が突然開かれたんだ…興奮するのも分かるけど、落ち着け…落ち着いてくれ…。こんな状態の彼にシロを任せるなんて出来ない。
またあの子を傷付けるだけだ…
「シロの事をどうでも良いと思うのか…?」
「違うっ!そうじゃない!…でも、許せないんだ…」
「また、傷つけるのか…?」
俺はそう言うと、依冬を睨みながら冷静に、静かに、話した。
「頭を冷やしてくれ。お前はシロに愛されてる。それはお兄さんの振りをした俺とは違う。正真正銘の愛だ。だからどうか、あの子を傷付けないでくれ。お前が湊の為に犯人を殺してやりたいと思う気持ちはわかる。でも、決して行動には移さないでくれ。もし、お前が殺人なんて犯して、逮捕されでもしたら…彼はどう思うのか…少しでも良いから考えて、冷静になってくれ。」
俺がそう言うと、依冬は俺を見つめて唇を震わせる。
今にも溢れそうな涙を湛えて、苦しそうに眉をひそめると、フイっと顔をそむけた…
「…畜生!」
そうだな…お前はそれ程までに、湊を愛していたんだね。
ごめんよ。依冬…
「最終的に…お前は、どうしたいと思ってるんだ?」
俺はそう言って目の前に出されたコーヒーに砂糖とミルクを入れる。
依冬は項垂れた顔を上げて静かに言った。
「あいつを社会的に失墜させて会社を俺の物にする。親父は頭がイカれているから、病院に入院させて飼い殺しするか、出来れば死んで欲しいと願ってる。」
会社が欲しい?
へぇ…意外と野心家な子犬だな…
俺が上目遣いで見つめると、彼は取り繕う様に言葉を変えて言った。
「あいつの独裁を終わらせたいんだよ…」
ふふ…それに関しては俺も同感だ…
依冬はそう言うと、俺の目を見つめて言った。
「あんたは?どうしたい?」
…俺?
「俺は…シロさえ守れれば何でも良いさ…」
彼だけ…彼の事だけ…
その為には、俺が彼の目の前から姿を消す事が…一番手っ取り早いんだ。
「あんたは、本当にシロの事が大好きなんですね…」
依冬はそう言うとコーヒーを一口飲んで俺を見つめる。
その視線はまるで、感心するような…哀れむような…軽蔑するような…痛い視線だ。
そうだな…その視線は合ってるよ…
俺はシロの事しか考えられない。
あの子がもうこれ以上傷付かない様に、もうこれ以上苦しまない様に、それしか考えられない。それは他人からしたら軽蔑する程に異常な執着だ…
結城にそっくりな執着心を愛と呼んで…シロに執着してるんだ。
「…その桜二の特定が済むのはいつ頃になる?」
俺は視線を上げないで依冬に尋ねた。
彼はスケジュール帳を開いて確認しながら俺に言った。
「今週末、探偵と打ち合わせをする予定です。桜二という名前を伝えて親父の身辺調査をします。だいたい…2、3日で特定は済むと思いますよ。なにせ親父は敵が多いから…ペラペラ話す関係者が多い。本当は俺でも出来るくらいの簡単な調査なんです。ただ時間が足りないから仕方なく探偵に頼むんです。あっという間ですよ…。」
そうか…
それまでに…彼の前から姿を消すしかないのか…
それとも、軽蔑されても、嫌われても、物理的に会えなくなっても…
依冬の体にしなだれかかる彼を…見守れば良いのか。
「そうか…分かった。」
俺はそう言うと急いで席を立った。
「もう行くんですか?」
依冬が驚いて俺を見上げて聞いてきた。
「シロの所に行くって…約束したんだ。」
俺がそう言うと依冬の携帯電話が鳴って、画面に目を落とした彼が言った。
「あ…シロからだ…」
時計を確認すると19:45…もう仕事の時間なのに、電話をかけて来るなんて彼らしくない。
何かあったの…?
電話で彼と会話する依冬を見つめると、彼の様子を伺った。
「どうした?」
慌てて荷物をまとめ始めた依冬に尋ねた。
「俺の見合い相手がシロの店で迷惑をかけてるみたいなんだ…ほんと、面倒くさい女なんですよ…」
そう言って俺よりも早く店を飛び出す彼の背中を追いかける。
足早にシロの店へ向かう依冬の背中を見ながら声に出さない声で話しかける。
その子にお前の弱みを握られたな…
シロがお前の弱みだ。
彼を利用すればお前が簡単に言いなりになると証明してしまったんだ。
「迷惑だから連絡しないでって言って、電話も出なかった…そうしたら、シロの店で営業妨害してるって…何でそんな発想になるのかな!?」
依冬はそう言って怒ると、俺を見て言った。
「こういう時はどうすれば良いんですか?」
知らねぇよ…
「そうだな…一回君のおっきいので黙らせたらどうかな?もう二度と抱かれたくないって思うようなどぎついセックスでもすれば、寄って来なくなるんじゃないかな?」
俺がそう言って笑うと、依冬は足を止めて言った。
「好きでもない相手を抱くなんて。無理でしょ?」
「ふふ…無理じゃない。体は心なんて関係ないんだよ。刺激があれば勃つしイクんだ…。その事に愛や恋なんて感情は関係ない。加味されるものはあるかもしれないけど、元々原始的な欲求であり、反応だからね…。それに意味なんて無いさ。くしゃみと同じ。ただの生理現象だ。」
俺はそう言って彼の背中を押して、シロの店へと促す。
「シロ…ごめん。大丈夫だった?」
依冬がそう言ってシロに謝る姿を後ろから見つめる。
頭に血が上ったんだな…湊の事を愛していたから、残り香の様に湊への感情がお前の事を揺さぶってしまったんだよな…
シロの事を大切にしてくれるだろ…?依冬。
「あの女はヤバいよ?」
俺の顔を見るとシロがそう言った。
そのあ然とした表情が可愛くて面白かった…
利用されちゃったね、俺の可愛い人。
年齢の割にとぼけてるのか…逆に達観してるのか…
この人は勘が鋭いんだ…
依冬の電話を受けた後も俺の動揺をすぐに察した。
今も何かを探るような目つきをしてる。
ごめんね、シロ。
俺は嘘を吐くのが得意なんだ。
「…オレはね、図書館に居るような眼鏡をかけた優しい巨乳が良いんだよ?あんなに怖い女は嫌だ。触りたくもないよ。ふふ。」
そう言って笑う彼を抱きしめて愛おしく思って口元が緩む。
こんな風に出来なくなるのかと思うと堪らなく怖くなる。
同時に、そんな乙女な自分がおかしくて…笑えて来る。
「ふふ…」
愛してるよ…俺の可愛い壊れた恋人。
俺を見つめる彼の瞳が不安に彩られても、俺はとぼけてやり過ごすよ。
今だけでも…いや、今ならまだ、俺は彼の傍に居られる。
だからとぼけて嘘を吐く。
#依冬
「こんな事するのは迷惑だと分からないの?」
シロの店を出て、上目遣いで俺を見つめる彼女を睨みつける。
俺は今こんな事にかまけたくないんだよ…もっと大事な時間の過ごし方をしたい。
「依冬…ごめんね…電話に出てくれないから、お友達にお願いしたの…」
彼女はそう言うとぶりっ子しながら俺の体に抱きついた。
向井の言った言葉を思い出す。
只の生理現象…本当かな…
「もう付き纏わないで…お見合いは破談だ。」
俺はそう言って彼女を残して帰り道を歩き始める。
「いや!どうして?!シロさんが好きなの?!だから、だから…私の事を拒絶するの?そんな事したって、あの人にはもう彼氏がいるじゃない!依冬は二股掛けられてるんだよ!」
彼女はそう言って俺の腕を掴むと、自分の方に無理やり振り向かせる。
何も言えない…
胸の中で疼いていた思いが、むくむくと顔をもたげる。
向井は言った…俺はシロに愛されてるって…
でも、どうしてもそんな風に思えないんだ。
彼が…向井を見つめる瞳を見たら…そんな風には思えないんだ。
「…そんなに俺が好きなの?」
彼女を見下ろして熱っぽい彼女の瞳を、冷たい瞳で見つめ返す。
「大好き…大好きなの…」
そう言って体に抱きつく彼女を抱きしめもせず、振り払いもしなかった。
そんな風に思わない様にしてきた。
「自分を大切にして…?誰かのついでに愛される事を良いと思わないで…依冬には彼は似合わないよ…。彼みたいな人はもっと大人の人じゃないと…満足しないよ…」
俺じゃシロは受け止めきれない…それを補うために向井が必要なんだと…思おうとしていた。
実際は逆で…シロの瞳の中にはいつもあいつしか見えていない。それはお兄さんを抜きにしても変わらなかった…。向井は彼の特別になった。
俺みたいなガキが背伸びをしたって届かないくらいの落ち着きと、包容力。
そうか…俺はいじけたのか…
あんな二人を見せつけられて、いじけたんだ…
指をくわえて見つめた二人のセックスがあまりに愛し合っていたから…いじけたんだ。
「依冬…私を好きにしてよ…大好きなの。」
胸の中でそういう彼女を見下ろして、口元を緩めて笑う。
「ほんと?」
女が好きな訳じゃない。男が好きな訳でも無い。
でも、苛ついた気持ちを紛らわすにはこういう事も必要だと、思うんだ。
適当なラブホテルに入って、彼女を抱く。
それは思い切り感情をぶつけた、荒くて、乱暴なもの。
「ちっ!シロの方が…しなやかなんだよ…。もっと腰を突き出せよ…!」
そう言って、泣きわめく彼女にアナルファックする。
思いが通じていたと思ったんだ。分かり合えてると思ったんだ。
俺には彼しかいないって思ったのに、彼には俺よりも分かり合える人がいた…
物分かりの良い子みたいに、受け入れようと思ったけれど、無理なんだ。
俺の上で逆立ちをして笑う彼を思い出して、口元が緩む。
俺の目を見つめて、自分を信じろと言った彼の言葉を思い出す。
信じる…
そうだね、シロはよろけたりしない…体幹がしっかりしてるからね…
そうじゃなかったらあの細いポールの上で…アクロバットなんて出来ないよ。
「痛い!依冬!も、もう…止めてっ!!」
そう言って俺の手を退かそうとする女の頭を引っ叩く。
「好きにして良いんだろ?…嘘つきか?お前は嘘つきなのか?」
後悔しろよ。俺を誘ったことを…。後悔しろよ。彼を困らせた事を…。
彼女の背中を圧し潰して、尻に思いきり腰を打ち付けて中をグチャグチャに犯す。
「ヒィィッ!」
本当だ…
向井が言った通りだ。愛なんて無くても抱けるんだ…
それも一方的に乱暴に、好きなだけ、自分勝手に犯しても良いんだ…
「ほら…喘げよ…!気持ちいい!って喘げよ!」
俺はそう言って彼女の尻を引っ叩く。
真っ赤に腫れて血がにじむ肌を見下ろして…湊を思い出す。
親父と湊の間に割って入った様に…向井とシロの間に割って入る。
結局俺は相手にされないのか…ムカつくよ。
ベッドに死んだようにうつ伏せる彼女を置いて、ホテルを後にする。
乱暴に抱くのが好きだと思っていた…でも、全然気持ち良くなかった。
シロとイチャついていた方が…よっぽど楽しい…
よっぽど楽しくて、興奮して、愛しい気持ちでいっぱいになって…幸せなんだ。
ホテルから出るとシロから電話が掛かってきた。
「もしもし?」
俺を気にして…シロが電話をくれた。
でも、もう遅いんだ…
いじけた俺は女を虐めてしまった。
「俺の事なんて気にしてないでしょ?」
そんな風に笑いながら本音を言うと、電話口の彼は困った様にクスンと言った。
これではまるで、彼に甘えてるみたいだ…ふふ。
気にかけてくれてるの…?
嬉しいよ。シロ。
#シロ
「シロ…おはよう。朝ごはん食べちゃって?仕事に行く前に送っていくから…」
そんな向井さんの声がしてもオレは無視して寝続ける。
なんだかこのベッドが、まだ起きなくて良いって言ってる気がするんだ。
「シロ~。またエッチな事するよ?」
ほんと?
オレは目を開けて彼を見つめる。
シャツ姿の兄ちゃん…
「兄ちゃん?シロはね起きないんだ。何でか知ってる?」
両手を伸ばして彼の頬を撫でる。髭剃り済みの頬らツルツルして、肌触りが良かった。
「…知らない。」
ふふ、そんなジト目でオレを見てもオレは動じないよ?体幹が違うんだ。
「それはね?兄ちゃんにエッチな事をして欲しいからだよ?」
オレはそう言って兄ちゃんのシャツをズボンから引っ張り出す。
本当にしたりしないよ?ちょっと遊んだだけだよ?
シャツの下に手を滑らせて兄ちゃんの背中の素肌を撫でまわす。
「キリが無いな…」
そう言って兄ちゃんがオレを抱きかかえて運ぶ。
オレは兄ちゃんの髪をグチャグチャにしながらおでこにキスする。
「あぁ…もう…、ほら…ここに座って?」
そう言って兄ちゃんがダイニングテーブルに座らせようとするから、オレは兄ちゃんの体にしがみ付いてそれを拒否する。
「落ちたら死ぬ!落ちたら死ぬから椅子に座れない!」
そう言って笑って兄ちゃんの体によじ登る。
「あぁ!シロ!」
大体今何時なんだ!こんな早起きするのはお爺ちゃんだけだよ?
オレは器用に兄ちゃんの体をぐるりと移動しておんぶしてもらう。
「…もう」
椅子に座らせることを諦めたのか、兄ちゃんがそう呟いて動かなくなった…
「…兄ちゃん?」
ソファに腰かけて項垂れる向井さんの背中に抱きつきながら撫でてあげる。
「…向井さん?怒ったの?」
「怒ってないよ。ただぐっすり寝ちゃって寝坊しただけだよ…」
そう言われて時計を見ると今は朝の8:30だった…
「何時に行くの?」
顔を覗き込んで彼に聞く。
「…9:00に着いてなきゃダメなの…」
「寝坊したね?」
「…うん」
「一緒に寝たからすっかり寝坊しちゃったね?」
「…うん」
「シロと一緒で嬉しくって寝坊しちゃったね?」
「そうだ…シロ、食べさせてあげる。おいで?」
兄ちゃんがそう言ってオレをダイニングテーブルに座らせる。
「はい、あ~ん…」
そう言って運ばれる食べ物を全て食べつくす。
「はい着替えるよ?」
そう言って運ばれる衣服を全て身に着ける。
「よし、じゃあ抱っこして連れて行ってあげる。」
そう言ってジャケットを着た兄ちゃんがオレを抱っこして、マンションのエレベーターに乗せる。
チン…
途中の階でエレベーターが止まって、乗り込んできたカップルに見つめられながら、兄ちゃんに抱っこされ続ける。
「見せ物じゃないよ?」
オレはそう言ってカップルに牽制する。
視線を逸らすカップルを見つめながら、兄ちゃんにしがみ付く。
だって、足が下に付いたら死ぬんだ。
だから落ちない様に、必死にしがみ付いてるんだ。
車に乗せられて新宿まで運ばれる。
「ねぇ?夢見た~?」
運転席で時計を気にする向井さんに尋ねると、彼はオレを見て言った。
「夢なんてあんまり見ないよ…シロは夢見たの?」
「見たよ~?聞きた~い?」
そう言って甘ったれるオレに、向井さんはクスクス笑いながら言った。
「聞きたい。」
ふふ…
「裸の依冬が赤い首輪をつけて、映画館でオレに怒った。そんな、変な夢を見た~。」
オレがそう言うと、彼は吹き出して笑った。
だって本当にそんな変な夢を見たんだ。不思議だよ。
裸の依冬なんて…んふふ。可愛いじゃないか!
「きっと正夢ってやつだよ?その内オレは裸の依冬に映画館で怒られるんだ!んふふ!」
オレがそう言うと、向井さんはお腹を押さえて笑いながら言った。
「裸じゃ映画館に行く前に掴まるよ…ふふっ!あはは…!」
昨日とは違う。
すっかり隠すのが上手になった向井さんの笑顔に不安になる。
「ねぇ…?どこにも行かないよね?」
「ふふ…行かないよ?」
押し黙る事も、涙を流す事も、こんな言葉に動揺する事も無くなった彼。
オレの杞憂なんかじゃない、この拭えない違和感。
リュックを膝の上に抱えて抱きしめると、中に入った“宝箱”の角が腕に刺さって痛い。
ベッドの下に隠した“宝箱”を…どうして今日は持って帰らせたがったの?
家に置くよりも安全だから良かったのに…
この箱のせいで悪夢でも見たの?
運転席の彼の横顔を見つめながら、問い詰めたとしても、しらを切るだろうと諦めて…鼻歌を歌う。
「それは何の歌?いつも歌ってるよね、何の歌なの?」
口元を緩めた向井さんがオレを見て微笑んで聞いて来る。
何の歌…?さぁ…覚えてないよ…
「分からない歌…でも忘れられなくて歌っちゃうの。あるだろ?そういうの…」
そう言って彼の頬に手を伸ばすと、ゆっくりと撫でてうっとりする。
鼻歌を歌ったまま、あっという間にオレはボロアパートの前まで運ばれた。
「またね?遅刻、頑張って~!」
そう言って立ち去る彼の車を見えなくなるまで見送る。
不安なんだ…突然、あなたがどこかに居なくなりそうで…
胸騒ぎがするんだよ…
ネガティブに考え出すとキリが無いって知ってる…でも、
そんな不安が拭えないんだ。
雪だるまみたいに、そんな不安がどんどん大きく育っていくんだ。
お尻のポケットに入れた携帯が震えて着信を知らせる。
画面を見て固まる。
…非通知。
まだかかって来る結城さんの電話を…間違って取りそうになるよ。
オレは湊じゃないのに…諦められないのかな。
依冬が前、言った言葉を思い出す…
湊は結城さんを愛してた…依冬はお呼びじゃ無かった…結城さんは湊を殺さない…愛していたから、傷つけたりしない…
玄関の鍵を開けて、こもった部屋の窓を開く。
「じゃあ、なんで湊は死んだんだろうね?」
1人、ポツリと呟くと、リュックの中から“宝箱”を取り出してベッドの上に置いた。
「兄ちゃん?みんなこれが呪いの箱だと思ってるみたいだよ?特にこのウサギが不気味に見えるみたいだ。ほら…言ったじゃん。兄ちゃんのセンスはダメなんだ!ふふ…」
1人でそう言って、見えない兄ちゃんとおしゃべりする。
兄ちゃんはオレがそう言うと、クスクス笑って言った。
「じゃあウサギじゃなくて、馬にすれば良かったの?」
「ふふ…馬の絵柄によるよ?これは特に不気味な雰囲気を持つウサギなんだ…だって、目がイッちゃってる…もっと黒目が大きかったらここまで不気味じゃないのに…ねぇ?そう思わない?」
見えない兄ちゃんにしなだれかかってそう聞く。
「…ん、そうかな?兄ちゃんはこのウサギが好きだよ?シロが可愛いって言ったんだ。それが不気味だなんて言うみんなが間違ってるよ…そう思わない?」
ふふ…
「そうだね…兄ちゃんの言う通りだ。このウサギはこれで良いんだ。ふふ…ね?兄ちゃん。」
もう、どこにも行かないでよ…
午前中の清々しい風が窓から部屋に入って、オレを見つめて微笑む兄ちゃんの前髪を揺らす。
「どこにも行かないよ…」
そう言って兄ちゃんがオレに優しいキスをする。
嘘つき。
死んだじゃないか…
14:00 アラームの音で目を覚ます。
あのまま眠ってしまったみたいだ…
いつの間にかベッドに横になって手に兄ちゃんの手紙を持っている。
彼が読んでくれた…兄ちゃんの手紙。
開いて中を読む。
兄ちゃんの字が沢山書いてある便箋に胸が痛くなる。
兄ちゃん…これを、どんな気持ちで書いたの…?
1人で苦しんだの…?
あの人も1人で苦しんでいるよ…でも、隠すのが上手なんだ。
今なら兄ちゃんを許せたのかな…兄ちゃんの、変化にも気付けるのかな…
やり直したいよ…。
兄ちゃんとあの日を、もう一度、やり直したいよ…
シャワーを浴びて、新しい服を着る。
歯を磨きながら窓の外を見つめる。
こんな後悔…もうしたくない…こんな苦しい思いをもうしたくない。
目から涙がポツリと落ちたのが分かった…
「そうだ…彼がダメなら…」
思い立ったように携帯電話を手に取ると、依冬に電話をかける。
耳にあてて呼び出し音を聞きながらベッドに座る。
「もしもし…?依冬?おはよう…あのさ、映画、観に行こう…?」
今朝の夢を引きずってるのか、咄嗟にオレはそう言った。
支度をして、荷物を持って、玄関を出る。
”宝箱”はベッドの下に隠した。それでもこの部屋のセキュリティーは不安だ…
午後の新宿の街を歩いて待ち合わせ場所まで近づくと、背の高い彼を発見して走って行く。
「依冬~~!」
そう言って思い切り抱きついて頬ずりすると、依冬を見上げて聞いた。
「仕事は?」
彼は眉を上げると、とぼけた顔をして言った。
「時間が空いたんだよ?」
ふふ…
手を繋いで、ホラー映画のチケットを買う。
「また、これ観るの?」
怪訝な顔をして依冬がオレをジト目で見るから、オレはにっこり笑って教えてあげる。
「今回は3Dじゃない。だから、同じじゃない。」
そう言ってポップコーンと飲み物を買って上映時間までおしゃべりする。
依冬のスーツ姿は毎回、年齢にそぐわず様になってる。
かっこいいよ?
かっこいいけど、オレよりも年下なのに、年上に見えてくるんだよ。
「オレはね、反省したんだよ?この前は怖くて目を瞑りすぎた。だから話の内容が全然分かってないんだ~。今回はちゃんと全部観るって心に決めたんだよ?」
オレがそう言うと、依冬が微笑んで言う。
「絶対目を瞑るよ…?」
言ったな!
「ふん!」
そう言って顔を背けると、少し意地悪な質問を彼にしてみた。
「昨日の、依冬の彼女…あの後、どうしたの?」
オレの言葉に表情を曇らせると、依冬は首を傾げて言った。
「どうも…?そもそもあの人は俺の彼女じゃない。連絡を取る為にあんな迷惑をかけて…心底、嫌になったから…お店を出てすぐに別れたよ…クソ女だ。」
おお…
「依冬…怖いね…どうしたの?そんなに頭に来ちゃったの?」
彼の乱暴な言葉に驚いてそう言うと、彼はオレを見つめて言った。
「別に…。ごめんね…シロに言った訳じゃないんだよ…。でも、怖かったね。ごめん。」
「良いの…嫌だったんだね…」
そう言って依冬の頭を撫でてあげると、彼は大人しく頭を下げて撫でられた。
…どうしたの?
オレを見つめる優しい瞳は変わらないのに、何故だろう…彼にも違和感を感じる。
言葉の節に感じる棘の様な物…いつもと違う言葉の選び方に、違和感を感じる。
「依冬?今日、夢を見たよ…お前が出てくるんだ…。」
不安に感じたのか…知らず知らずに彼の体に抱きつくと、そう言いながら、頬を胸に付けて甘えた。
彼はオレを見下ろすと、指先で髪を撫でながら目を細めて聞いて来る。
「どんな夢を見たの?」
「お前が…」
言いかけて止める。
だって、裸で首輪をつけた自分が映画館で怒るなんて…聞きたくないだろ?
「…なんだったけ…忘れたぁ…」
そう言って誤魔化すと、彼のスーツのポケットに手を入れていつもの様にじゃれて遊んだ。
上映時間が近づいて、チケットを持って中に入る。
「絶対最後まで観るよ?」
オレはそう言って隣の席の依冬と手を繋ぐ。
「頑張ってみる?」
首を傾げて聞いて来る依冬に深く頷いて答える。
館内が暗くなって、スクリーンが明るく白く光る。
お客さんが少ないのはきっと怖すぎるからだ…
「シロ…?この映画、面白くないからお客さんが全然いないね…?」
え?
依冬を見つめると、オレの顔を見て吹き出して笑う。
どうして?こんなに怖いのに…面白くないなんて言うんだ…?
「ふふ…ごめんごめん。」
依冬はそう言ってオレの頭を撫でると、スクリーンを見た。
彼の顔に映る色とりどりの光を見つめて、木漏れ日みたいに、綺麗だと思った。
指を伸ばして彼の顔を触る。
依冬は驚いた顔をしたけど、目を瞑って、好きに触らせてくれる。
「依冬?キラキラした色が…顔に映ってる。綺麗だ…でも、触れないんだ…不思議だね…捕まえると消えてしまうのかな…それとも、オレにしか見えていないのかな…」
オレがそう言うと、依冬は目を開いてオレを見つめて言った。
「シロの顔にもキラキラした色が映ってるよ…そしてそれは俺にしか見えないよ。」
そう言ってオレの頬を包み込むと、優しいキスをくれる。
「依冬…昨日、向井さんと何していたの?」
キスを外して、彼の顔を見つめたまま聞く。
依冬はオレの目を見つめたまま、ゆっくりと言った。
「湊を殺したのはやっぱり親父じゃ無かった。それが誰か…分かったんだ。昨日、向井さんにその事を相談して、一緒に策を練った…。」
あぁ…
その瞬間、全ての点が線で繋がって…髪の毛の奥まで鳥肌が立った。
…そういう事だったのか。
オレは逆立った鳥肌をそのままに、平静を装って依冬に聞いた。
「…誰、だったの?」
依冬は顔を横に振ってオレに言った。
「まだ分からない。でも、名前が分かったんだ…桜二って名前だ。」
胸が苦しくなって、息が浅くなる。
そんな動揺を察せられない様に、首を傾げて続けて聞く。
「そいつが湊を殺したんだね…。結城さんは何故、何もしないんだろうね。だって湊を愛していたんだろ…?それで…依冬は、その人をどうするつもりなの…?」
オレの目の奥を見つめて依冬が言った。
「警察に突き出すか…俺が…殺すよ。」
彼と繋いだ手に力が入って、強く握りしめる。
「やめて…」
絞り出すような声でそう言って、彼の腕にしがみ付く。
涙が頬を伝って落ちて、どうにもならない感情が暴れるのを止められない。
「依冬…ダメだよ。そんな事言わないで…殺したりしないで…」
「どうしてだよ…」
耳に届いた依冬の声は、突き放すように冷たくて、痛い。
オレは彼の腕にしがみ付いて、大きく揺さぶった。
「ん…ダメなんだ…!ダメなんだ!!そんな事しないでっ!!そんな事しても…湊はもう戻って来ない…戻って来ないんだよ?それに…逮捕されちゃうよ?死刑になっちゃうよ?」
そう言って彼を見上げると、依冬は、昨日彼女に向けていたのと同じ冷たい目をして、オレを見下ろして言った。
「まるで犯人を庇うみたいに言うね…酷いじゃないか。それに、湊の事を俺がどうしようが…シロには関係ないだろ。余計なお世話なんだよ!」
それは、いつもだったら彼の口から出てこない様な…攻撃力の高い言葉。強くて、鋭い刃物のような、傷を付ける言葉。
「ばかやろ!お前がいないとダメなのに!何でそんな事言うんだ!!」
オレはそう言うと立ち上がって依冬をぼかすか殴った。
オレの手を掴んで、依冬がグルグルのブラックホールを全開にして見つめて来る。
「シロはいつも自分の事ばかり…。俺の気持ちなんて考えてないじゃないか…俺は自分がしたいようにするし、シロがダメって言ってもそれは変わらない。そんなの通用するのは、向井さんだけだよ?それに、俺が逮捕されたとしてもなんて事無いだろ?俺は向井さんのオマケなんだからさ。2人で仲良く過ごしたら良いじゃない。」
なんで…そんな事を言うんだよ…
いつもと違う彼に…何も、言葉が返せなくなった…
彼を見つめながら、瞳に大粒の涙を湛えてフルフルと唇を震わせると、依冬はため息をついて言った。
「…何も言わないんだね。そういう自覚があったの?ふふ…もう会わない方が良いよ。きっと…俺はシロを傷付けるだけだから…」
依冬が怒った…
そう言うと、オレを置いて…依冬はいなくなってしまった…
オレを一人、置き去りにして…
呆然としたまま映画のスクリーンをひたすら眺める。
このまま待っていたら…戻って来てくれるの?
上映が終わって、明るくなった館内をお客さんがぞろぞろと出口へ向かう。
立ち上がって、手つかずの飲み物を持って出口へ向かう。
映画館から出たら、もう、会えなくなる気がして…オレは出る事が出来なかった…
入れ替わり立ち代わりお客さんが訪れる様子をぼんやりと眺めながら、座って待つ。
涙が溢れそうになるのを堪えて…彼が戻って来るのを待ってる…
ここで…待ってる。
怒った依冬を初めて見た。
オレに怒っていた…
夢と…同じだ。
続きがどうなったかなんて、覚えていない。だから…怖いんだ。
向井さんばかり構うから…彼ばかり特別扱いするから…
オレの事を、嫌いになっちゃったみたいだ…
「うっうう…うっ…」
俯くと涙が落ちて、肩が揺れる。
兄ちゃん…
日が傾いて館内の照明が灯り始める。
子供連れのお客さんから、カップルや大人へと客層を変える様子を目の前で見送る。
膝を抱えてジッと前を見つめて…彼を待つ。
落ち着いた館内の照明に眠たくなってくるけど、すぐに彼に気付けるように、顔を上げて、待った。
電源を落としたままの携帯を元に戻して、彼の番号に電話をかける。
耳に携帯をあてて呼び出し音を聞く。
「依冬ぉ…うっうう…早く…ひっく、ひっく…戻って来てよぉ…映画館…閉まっちゃうよぉ…」
電話口で何も話さない彼にそう言って一方的に切った。
人もまばらになった映画館はレイトショーの時間を迎えて、沢山の人が押し寄せる。
一気に騒がしくなった館内に彼の姿を探し続ける。
きっともう来ない…もう来てくれない。
向井さんは特別なんだ…まるでもう一人の兄ちゃんの様で、彼を手放す事なんて、オレには出来ない。
…出来ないんだ。
涙で滲んだ視界に、レイトショーのお客さんに紛れた彼を見つけて、息を飲む。
ずっと座っていたせいか、立ち上がると体がふらついた。
「シロ!」
オレを見つけて駆け寄る彼に、弱々しい歩みで近づいて手を伸ばす。
オレを抱きしめて強く締め付ける彼の腕の中で、声を震わせて謝った。
「ごめん、ごめん…ごめんね…依冬。…オレを嫌いにならないで…。ダメなんだ。あの人から離れられない…。兄ちゃんなんだ…向井さんはまるでオレの兄ちゃんなんだ…」
そう言って彼の胸に顔を埋めて、両手でしがみ付く。
「…ずっといたの?」
頭の上でそう聞かれて、黙って頷いて答える。
「…仕事はどうしたの?」
忘れていた…そんな事より、お前の方が大事なんだ…
首を横に振って、彼の胸に顔を擦り付ける。
しばらく続いた沈黙の後、依冬がオレに言った。
「…おいで、もう帰ろう…」
オレは依冬に手を繋いでもらって、映画館をやっと出る事が出来た。
「…また…最後まで、観られなかった…」
オレがそうポツリと言うと、彼は少しだけ笑った。
その笑い声が…いつもの彼で、オレは涙を落としながら彼を見上げて笑った。
「うふふ…」
彼はそんなオレを見て、悲しそうに笑った。
依冬と手を繋いで歩いてボロアパートに向かってる…
オレを置いたら帰るの?
繋いだ手を見て、先を歩く彼の背中を見つめる。
依冬…オレ、分かっちゃったんだ。
お前の探してるその人が誰なのか…
分かっちゃったんだ。
桜二…そんな名前だったんだね。
可愛いじゃないか…
依冬…ごめんね。オレを嫌いにならないで。
彼を隠す事を許して…
ボロアパートに着いて、オレを見下ろす依冬を見上げる。
「依冬…一緒に寝て。」
オレはそう言って彼の腕を引っ張ると玄関の鍵を開けた。
開けっ放しの窓から風が吹き込んで冷たくなった部屋に驚く。
「あ…窓…!忘れてた…」
オレはそう言って窓を閉めると、ベッドの下の”宝箱“を確認する。
後ろの依冬を振り返って言った。
「良かった!盗まれてない!」
「誰も盗まないよ…」
呆れた顔でそう言う依冬を部屋に連れ込むと、ベッドに座らせて彼の膝の上に跨って抱きついた。
「依冬…依冬…」
戻って来てくれた…良かった…
それでもまだ怖くて…顔を見れない。
彼に後ろめたい気持ちがあるから?
いや…怖いんだ。
どんな表情をしているのか…確認するのが怖いんだ。
「シロ?どうしてずっとあそこで待っていたの?」
オレの髪を撫でながら依冬が聞いて来る。
オレは彼の肩に顔を置いて、彼の背中を指先で撫でる。
「あそこを出たら…もう会えない気がした。だから、あそこで待ってた…」
そう言って彼の顔に頭を擦って甘える。
もう…許してくれよ…
何も話さないで、彼の呼吸に合わせて一緒に息を吸って吐く。
「いつか…あの人と離れる日が、来ると思う?」
依冬がそう言ってオレの顔を覗き込んで見た。
え…
そんな事、考えた事…無かったよ。
「…死ぬってこと?」
目を逸らしてそう聞くと、彼は首を傾げて言った。
「お兄さんが…必要じゃなくなる日が来るのかって事だよ?」
何だよ…それ…
「依冬は…オレから兄ちゃんを取り上げたいの?!自分だって…未だに湊、湊って言ってるくせに!人にはそんな事求めるの?」
溢れる涙が止まらないよ…悔しくって堪らない…!!
「オレはどうせ兄ちゃんを忘れられないで、向井さんに縋る基地外だよ!もう良い!依冬はそんな風にオレを見てたんだね!!だから…だから、嫌になったんだ!オレの事が嫌になって…逃げだすんだ!湊に逃げて、縋り始めたんだ!!」
オレはそう言って依冬の顔をペシペシ叩いた。
オレの手を止めると依冬が涙を落として見つめて来る。
「シロ…」
「分かってる!分かってるんだ!自分が頭がおかしいなんて…分かってる!!もう…死んでしまいたいよ…死んでしまいたい。こんなに辛くて悲しいなら…あの時、兄ちゃんと一緒に死んでいれば良かった…後を追って、死んでいれば良かったんだ…!!」
依冬の腕が解けなくて、膝の上で向かい合ったまま彼の腕を解こうともがいた。
「なぁんだ!離してよ!」
そう言ってオレが睨みつけると、依冬はオレを見つめてただ涙を落とした。
「ん、馬鹿にするな!馬鹿にするな!!」
涙を流して哀れまれるなんて…ごめんだ。
必死に手を解こうと爪を立てても、彼はオレを離さなかった。
「オレはあの時死ねなかった。…どうして…生きる糧が無くなったのに…意地汚く生きてるのか分からない…。ただ、お前が、お前の事が好きになったんだ…!まるで自分を見ているみたいで…可哀想で…堪らなく好きになったんだ…」
それなのに…嫌われてしまった。
そして、これからもっと嫌われるだろう…
兄ちゃんを守るために、オレは何だってする。
愛する人を欺く事だって…平気でするんだ…
「シロ…もう良いよ…分かった。」
「嫌だ!」
オレは依冬の頭をグチャグチャにすると、体を仰け反らして、彼の体から離れようと試みる。
「もう良い…分かったよ…ごめん。ごめんね…俺もシロの事が大好きだよ…」
「嘘だ…!」
「ふふ…どうしていつもこうなるんだ…」
依冬がそう言ってオレをきつく抱きしめる。
「俺が悪かった…シロのいう通り、まるで湊に縋ったみたいだね…。冷静になれと言われたのに…何も分かっちゃいなかった…。そして、結局、傷つけた。俺は彼の言った事の半分も分かってなかった…。こういう事だったんだ…」
そう言って依冬はオレを抱きしめると、鼻をすすって泣いた。
彼の声に怒りやわだかまりが消えて、途端に穏やかになった…
「…許してくれるの?」
オレの胸に顔を埋める彼に小さい声で聞くと、彼はオレを見上げて言った。
「シロは…俺の事を許してくれる?」
「許す…オレは、優しいから…」
そう言って彼の目を見つめると、依冬は吹き出して笑った。
「ふはは…普通、自分では言わない。」
「普通なんて…無い。」
オレは真顔でそう言うと、依冬を見つめて彼の目の奥を覗いた。
「そうだね…シロ、普通なんて…無いんだ。」
そう言った彼の瞳はいつもの様に穏やかな物に戻って、オレの背中を撫でる手も、声も、全て優しい物に戻って行った…
依冬の肩に置いた手を背中に滑らせて、彼に体を委ねると、安心した様にクッタリと甘える。
「依冬…ごめんね…愛してるんだ。」
そう言って彼の体に埋まっていく。
このまま、溶けて、消えて無くなれば良いのに。
オレみたいなクズ…
狭いシングルベッドの上で大きな体の依冬がぐっすりと眠ってる。
オレは壁と彼の間に挟まって半分彼に乗って寝てる。
なかなか寝付けなくて、寝息を立てる彼の顔を見上げてる。
子供みたいに穏やかな顔をして眠る彼に、癒されて、安心する。
彼の大らかさに、心が安心するんだ。
こんな狭い場所でもぐっすり寝られる…オレにだって感情的に怒る…先に寝ることだって…気にしたりしない。そんな大らかさ。
兄ちゃんも向井さんも神経質すぎるくらいに、オレを過保護にするから、彼の大雑把で大らかな態度に酷く安心する。
オレを1人の大人と思ってくれる、彼の態度に安心する。
鼻の穴に指を突っ込んで、モゾモゾする顔を見て1人クスクスと笑う。
こんな事しても起きないなんて…さすが超人だ。
鈍感力なんてオレとは無縁のものを持っている彼を羨ましく思う。
彼の傍に居たら自分もこんなに図太くなれるのかな…?
メンタルの弱い自分はこんなメンタルの強い依冬が大好きだ。
依冬…ごめんね。
彼の胸に顔を乗せて、彼の呼吸を聞く。
彼の事を…隠す事を許して…
馬鹿なオレを許して…お願いだ…
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