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第4話

「車がギュウギュウだね?ふふ…」 桜二の車…後部座席に夏子さんと勇吾が並んで乗って、オレは助手席に座った。 全てのシートが埋まっているなんて…まるで家族みたいじゃないか?ふふ…! 「桜二と2人は中学生からの付き合いなんだって聞いた。」 オレはそう言って体を後ろに向かせると、首を傾げて聞いた。 「桜二はどんな子供だったの?」 「素行が悪くて、いつも違う女を連れてた。先生を虐めたり、すぐに暴力をふるうから、危ない奴だと思われてたよね?ふふ…ふふふ!なのに、なのに!今ではシロのお母さんみたいになってるんだもん!あはは!あははは!」 夏子さんはそう言って大笑いすると、運転席のシートをバンバン叩いた。 そうか…クズなのは昔からなんだ。ふふ… 「俺もシロと居たら、改心して優しくなれる気がするよ?」 勇吾はそう言って半開きの瞳をもっと細めてオレに微笑みかけて来る。 「ふふ…勇吾はもう優しいじゃないか…」 オレはそう言って体を戻すと、車内のどんよりした空気に気が付く… 「こいつは全然優しくないよ?」 そう言った夏子さんの一言と、このどんよりした空気で、勇吾が優しくない男だと言う事がよく分かった。 「桜二は路駐の常習犯だ!」 オレは彼の車のタイヤを足でチェックすると、ジロリと桜二を見上げる。彼は素知らぬ顔でオレの腰を掴むと、歩き始める。 依冬はちゃんと駐車場に停める事を覚えたのに…こいつは本当にダメなんだ! 「ケチくそだから駐車場に停めないの?」 オレが彼の顔を見上げて尋ねると、桜二は聞こえない振りをしてスタジオまでの道を歩き続ける。 ゾロゾロと高スペックを連れて新宿のダンススタジオへ入って行く。 「陽介先生、おはよう。今日はたくさん人を連れて来たんだ。」 オレを先頭に桜二、勇吾、夏子さんがぞろぞろとスタジオへ入ると、陽介先生は絶望した表情になって言った。 「シロ~!こんなに沢山恋人がいるのに!なぁんで、俺はダメなんだよ!」 本気と冗談が半々の表情をして陽介先生が地団太を踏む。 「なぁんだ、先生は彼女が出来たじゃないか…そうだろ?」 オレがそう言うと、一瞬、しょぼんと表情を沈ませて、フン!と顔を上げた。 「陽介先生?前話したでしょ?エスメラルダのバリエーションを踊りたいんだ。少しだけ時間を借りても良い?」 オレはいつもの様にそう話しかけると、首を傾げて彼に尋ねた。 「良いよ。ちょうど良いのがあるから…これ使いな?」 そう言って陽介先生が手渡したのは、リトミック用の可愛いタンバリン。 ヒラヒラが付いていて…可愛いじゃないか。 「ふふ。可愛い。ありがとう、陽介先生。」 Tシャツをお腹で巻いて、ズボンを少しだけ上げて裸足になる。 「シロ、トゥーシューズはどうするの?」 そう尋ねて来る夏子さんに、オレは首を横に振って答える。 「あんなの怖くて履けないよ?オレはね、そんな本格的なものじゃない。なんちゃってバレエをやるんだ。昔一緒に働いていたダンサーの子がバレリーナだった。その子に教えて貰って、バレエをちょっとだけ覚えたんだ。だから、このままつま先立ちで踊る。それで良いんだ。」 オレがそう言ってつま先立ちをすると、夏子さんが興味津々で目の前までやって来る。そして下から上まで見上げると、指先で押してきた。 ふふ!オレの体幹はそんなもんじゃブレないよ? 「シロ、そのままアラベスク出来る?」 「ふふん!あたり前田のクラッカーだよ?」 オレはそう言って得意げにアラベスクをして体制をキープした。 「そのまま…手と頭を下げてみて?」 ほ~い 言われるままに手と頭を床に下げていく。指先が振れるくらい下げると、そのまま揺れずにキープした。 「ふふ…そのままゆっくり戻って…4番!」 オレは体をゆっくり戻して、バレエの4番のポーズを取ってキープする。 「あぁ…綺麗。体幹がしっかりしてるから、ブレたり揺れたりしない…。バレリーナになれる。」 夏子さんはそう言ってオレを見直した顔で見つめる。 なぁんだ、オレを見くびってたの?ふふ… しかも、オレは男だから、バレリーナにはなれないよ? 「フェッテターンもしようか?」 オレはそう言うと、足を伸ばして勢いを付けながらフェッテターンをした。 「あはは!凄い!凄い!」 夏子さんが満面の笑顔になって、手を叩いて喜んだ!やった! 壁際で両手を組んでいた勇吾も一緒になって笑顔で拍手をくれる。 ふふん! 「シロ、ねぇ、そろそろ…かけちゃっても良い?」 陽介先生が音楽を流すスタンバイに痺れを切らせてそう言った。 「ふふ…!ごめんね、良いよ?」 オレは慌ててスタジオの左袖に立つと、ポーズを取って合図を送った。 音楽が流れ始めると、スタジオのセンターに移動して踊りが始まる。 これはエスメラルダの踊り…彼女がタンバリンを打ちながら音楽に合わせて踊るんだ。まるで歌う様に、音を楽しみながら余韻を持って踊る…踊り子だ。 この踊りでは笑顔なんて見せない。鋭い眼光と、力強いポーズ。そして、美しく華麗なターン…タンバリンは彼女の特徴であって外せないアイテムだ。 桜二の顔が見た事もない笑顔になって、釣られて笑いそうになるのを堪えてポーズを一つ一つ確実に決めていく。ブレたりしたら…格好悪いからね? 夏子さんの目が本気モードの目になっているけど、オレは気にしないで踊るよ?ここからが一番楽しい所なんだから! 右袖に移動すると、オレは丹田に気合を入れる。ここから…ラッシュが始まるよ! タンバリンを高く上げると、足を伸ばして叩いて行く。3回叩いてクルッと回る…3回叩いてくるっと回る…3回叩いて手を上げる。走って飛んで、後ろ足でタンバリンを打って、最後の決めポーズだ! 「シローーー!俺のエスメラルダァッ!」 陽介先生が極まってそう叫ぶから、オレは丁寧にお辞儀をして教えてあげた。 「陽介先生?エスメラルダはね、処刑されて死ぬんだよ?ふふ…可哀想だろ?」 「うわぁん!可哀想だ!シロ…処刑なんてされちゃダメだ!」 オレはされないよ…今の所はね? 陽介先生がスタジオの床に転がって悶えている中、呆然として立ち尽くす桜二の目の前に行って彼に尋ねる。 「どうだった?」 「すっごく…美しくて、儚くて…シロだった…」 そうか…それは、良かった。 「ふふ…嬉しい。」 オレはそう言って桜二にベタベタと甘える。 そんな中、桜二を両手でどついて退かすと、夏子さんがオレに掴みかかって聞いて来る。 「シロ!あれ、独学で覚えたの?全部、独学で覚えたの?」 目の奥がキラキラと輝いて、口角が上がりきった笑顔に怯える。 「え、えっと…あの、バレリーナの子に教えて貰った…って言ったじゃん…」 「その前は?バレエの経験はあったの?」 「無いよ。うちは最悪な環境だったから…そんなお稽古事。した事無いよ…」 たじたじになって逃げる様に夏子さんから離れると、転がり続ける陽介先生の体を起こした。 「凄い!桜二!シロを私にちょうだい!」 「ダメだよ。あげない。」 桜二がそう即答して、地団駄を踏んで夏子さんが悔しがる。そんな様子を戦々恐々と眺めていると、壁にもたれて両手を組んだ勇吾と目が合った。 彼はオレと目が合うと、両手をパチパチして笑顔をくれる。 だけど、どうしたんだろう…?その表情は心なしか…悲しげで物憂げだ。 「ねぇ、ねぇ、夏子さんの踊りも見せて?陽介先生?彼女もダンサーなんだよ?バレエとバックダンサーの養成をしてるんだ。彼女の踊り、見て見たくない?」 オレはそう言って陽介先生に甘える。 「うん、見たい…」 陽介先生はそう言って鼻の下を伸ばすと、スタジオを使う許可をくれた。 「じゃあ…コンテンポラリーを一つ。即興で踊ってみようか?シロを踊ってみせよう。」 ほほ! 「わぁい!見たい!見たい!」 オレは両手を叩いて喜ぶと、スタジオの端に移動して、目の前の彼女を見つめる。 オレを踊るって?ふふ…どんなエロいのを踊ってくれるのかな…?ドキドキ 夏子さんは携帯で音源を探すと、迷う事なく再生ボタンを押した。 スタジオの壁に背を向けて彼女のダンスを見つめる。それはコンテンポラリーという形式の無い創作ダンスだ。自分の体を使って表現するそれは、ダンスの真骨頂だと思っている。 音楽が流れ始めてしばらくすると、夏子さんの体がぐにゃりと丸まって、まるで骨が無いみたいに突っ伏していく。疼く様に…不気味に揺れる彼女の背中を見つめて、心がゾワゾワする。 誰かがオレの手を握って、隣に寄り添った…オレは彼女から視線を外すことが出来なくて…それが誰なのか分からないまま、そっと手を握り返した。 まるで苦しそうに…もがく様に…水面に向かって泳いで浮上する様に宙を掻く彼女の体に目を奪われて、心がつぶれそうになる。 誰かと握った手に力が入って、グルグルのブラックホールが疼いて来る。 水面の上に上がって美しく踊ったり…水中に飲み込まれて溺れて沈んで行ったり… そんな動きを繰り返して…いつしか水中で死んだ。 口元が緩んで、口角が上がる… 「はは…本当だ、オレだ。」 小さい声でそう呟くと、誰かと繋いだ手を胸にあてて、強く押し付ける。 死んだ筈なのに生き返って、華麗に踊り始めたのはバレエ… 完璧で、美しい動きには迷いが無く、まるで踊る人形にでもなった様に、無心でバレエを踊り続ける。 指の先まで意識が行き渡った美しい姿に圧倒されて、言葉を失う。 最後は圧巻の重力を感じさせないグランジュテをして、美しくポーズを取った。 「綺麗だ…」 オレがそう呟くと、手を握った相手が耳元で言った。 「…本物の方がもっと綺麗だよ。」 力の抜けた顔を向けて、声の相手を確認すると、半開きの瞳をオレに向けて優しく微笑む彼と目が合った。 なんだ…勇吾だったんだ。 「手をギュッとしたのは俺の事が好きって事?」 オレはそう言った勇吾を無視して、夏子さんに駆け寄る。 「凄い…凄く、怖かった!あははは!!でも、最後のバレエは素晴らしかった!特にグランジュテの跳躍は重力が全く感じられないくらい…圧巻だ。助走をつけた訳でも無いのに、あんなに高く飛べるなんて…素晴らしい!」 オレはそう言ってはち切れんばかりの笑顔で夏子さんに拍手を送る。彼女は照れ臭そうに笑うと、勇吾をチラッと見てオレを見た。 「凄~い!」 オレはそう言って桜二に掴まって回ると、呆然と立ち尽くす陽介先生の目の前に行って話しかける。 「陽介先生?見た?凄いね?凄いね?ドロドロから、死んで、生き返った!あはは!」 オレはそう言って陽介先生の両手を掴むと、グルグルと回って大笑いした。 こんなに爽快な気分は無いよ? 自分の気持ち悪い部分を見せつけられた不快感と、そうなりたいであろう姿を同時に見せられた高揚感。 彼女は即興でそれらを詰め込んで、オレに届けたんだ。 素晴らしい表現力もさることながら…オレに直接それを伝える彼女の度胸に心を打ちぬかれた! だって、基地外に、基地外だって言うんだぜ? 凄くないか?痺れるだろ?あはは! 本質を見抜ける人には分るのかな…オレがそこはかとない狂気に憑りつかれてるって…。へらへら笑っている顔の下に、もう一つの顔があるって…分かるのかな? 取り繕っても、滲み出て来るのかな…兄ちゃんへの執着と、兄ちゃんに捕らわれてる心が、滲んで見えるのかな…ふふ。それは、面白いじゃないか…! 「あ…そうだ、オレ、レッスンしないと…!」 ひとしきり大笑いすると、オレは桜二に言った。 「もう、帰って?オレはこれから真面目にレッスンをする。」 素晴らしい物を見せて貰った。オレは満足してスタジオから3人を追い出す。 まるで嵐が過ぎ去った後の様に静まり返るスタジオの中、陽介先生と向かい合ってストレッチをしていると、先生から香水の匂いが漂ってくる。 「陽介先生?香水つけすぎだよ?ほのかに香る位が丁度良いよ?」 オレがそう言うと、陽介先生は首を傾げる。 「俺のじゃないよ?」 「…じゃあ、彼女のだ。エッチした時に付いたんだ。もっと上等なのを買ってあげな?安っぽくて、オレは好きじゃない。」 オレがそう言うと、陽介先生はしょんぼりと体を縮こませて言った。 「面倒くさいじゃん…」 何てことだ! 「陽介先生は釣った魚に餌を与えないタイプなの?それともただのセフレってやつなの?」 前屈しながら陽介先生の俯いた顔を覗き込むと、彼はオレをチラッと見て言った。 「この年になるとね…どんどん色んな事の意味が薄くなっていくんだよ。体の関係も…仕事の関係も…どんどん意味が薄くなって、軽くなって、流されていくんだ…」 意味深だね? 「陽介先生?まだ若いじゃない。それは50歳くらいのおじさんが言う言葉だよ?」 オレはそう言って陽介先生の体を抱きしめてあげる。 だって、粉々に消えてしまいそうなくらい、彼の体が小さく見えたんだ… 「シロ…」 そう言ってオレを抱きしめ返す彼は、どうでも良い女と寝て、苦しんでいる様にも見える… オレと寝たら…それが解消される? いや、もっと苦しくなるはずだよ… だって、オレはさっき夏子さんが表現したままの生き物だもの。 ドロドロで、正体不明の、化け物… 「さぁ、陽介先生?今日もバシバシ厳しめでお願いしま~す。」 そう言って立ち上がると、また踊り始める。 何回も何回も同じ踊りを踊って、精度を高めていく。 この時が…この瞬間が…一番楽しい。 無心になれるから…楽しいんだ。 #桜二 「桜ちゃん…寝られないんだよ。遊びに来たから部屋に入れてよ…」 早朝…鬼の様にインターフォンが鳴って、玄関口で勇吾がそう言った。 シロを起こさない様に玄関に向かうと、オートロックを開いて彼らを部屋に入れた。 やけにテンションの高い2人は、昨日の夜から早朝まで遊び歩き、一旦ホテルに帰るも、寝ることが出来ずにここにやって来たらしい…典型的な時差ボケだ。 「うふふ、ごめんね~?シロは?」 「寝てる…」 「わぁ!見に行こう!」 「ダメだ。寝室には入るな。」 勇吾はすっかりシロを気に入った様子で、楽しそうに彼の事を聞きたがる。しかも、隙あらば寝室へ向かおうとするんだ…厄介だ。 「シロは一緒に寝てるの?昨日はエッチしたの?毎日してるの?」 デリカシーの無い質問を無視して、勇吾を黙って睨みつけると、彼は肩をすくめて両手を上に上げる。そんな中、夏子は我が物顔で部屋を見て回って言った。 「ここ、家賃、幾らなの?」 全く…朝の5:00に起こされて、家賃を聞かれるのか… 「ここから向こうへは行くな。」 俺はそう言って足で線を引くと、リビングから寝室へ向かう廊下を封鎖した。 「なぁんだよ。桜ちゃん!シロがそんなに大事なの?ふふっ!あの桜ちゃんが、大事大事ってするんだもん。逆に興味が出ちゃうよ?」 勇吾はそう言って笑うと、俺の顔を覗き込んで言った。 「俺が桜ちゃんの大事を奪っちゃおうかな?ふふ…!」 ぶん殴ってやりたいね…全く。 俺は何も言わないで勇吾を睨むと、寝ぐせだらけの髪をかき上げた。 「シロは男を狂わせる何かがあるんだね…あたしには可愛い男の子にしか見えない。少し陰キャな可愛い男の子。ふふ…!」 夏子はそう言って買ってきた新聞を手に取ると、ソファの上で読み始めた。 あいつは放っておいても大丈夫そうだ…問題はこの男だ。 隙を見せたらあっという間に寝室に忍び込みそうな位、シロに興味を持ってしまった彼を、持て余す。 勇吾はわざと大きな声を出して、自分ここに居ますよ?アピールを繰り返す。ふふ…悪いな。シロは寝起きがとっても悪いんだ。こんな音ぐらいじゃ…起きたりしない。 「シロはね、男を狂わせるんじゃない、傅かせる何かがあるんだ…!俺はそれが何か探ってみようと思う!」 探るな…変な使命感に燃えるな…ミイラ取りがミイラになる…それはそれで、困るんだよ。 「ここから入るなよ…」 俺はそう言うと勇吾を睨んでけん制し、シロの眠る寝室へと戻った。 扉を締め切ると、シンと静まる寝室。ベッドの上にうつ伏せて眠る…俺の可愛いシロ。あんなにうるさく何度もインターフォンが鳴ったのに、少しも起きなかった…。ふふ。白く透明な彼の頬を撫でると、少しだけ口元が緩んで笑顔を見せる。 …可愛い。 お兄さん代わりの俺が居ても、彼の発作が起きる事は変わらなかった。 気絶するのは一瞬なんだ…ただ、その後、彼が目を覚ますまでの時間が怖いんだ。 このまま…死んでしまうんじゃないかって…いつも恐ろしくなる。 目を覚ました後に頭痛に苦しむ彼も可哀想で見ていられない。 でも、トリガーが分からないんだ。 何がきっかけで彼が発作を起こすのか…分からない。 お兄さんの腕時計を握っても、お兄さんの写真や手紙を見ても平気なのに、ふとした事で発作を起こしてしまう。 専門的な病院への受診を依冬は求めている。 俺もそうするべきだとは思う。ただ、今は、まだ、このままで居たいんだ… もし治療なんてして、俺が彼にとって特別じゃなくなったら…って、そんな事を考えたら、苦しむシロを見ても、怖くて病院を勧めることが出来ないんだ。 自分勝手に…彼が傷付くのを黙って見てるんだ。 彼に求められて、彼に与える事が堪らなく幸せで…この環境を、状況を、手放せないでいる。 「はぁ…」 深くため息をついて、スヤスヤと寝息を立てる彼を見つめる。 色白の彼は寝ている時は本当に真っ白になる。黒いまつ毛や眉毛だけ彼の顔に浮かんで、唇の色さえも失った顔は、まるで死人の様に白い。 「シロ…可愛いね…。俺のシロ。誰にも見せたくないよ?」 「俺は見てるよ?」 いつの間にか寝室に侵入を果たした勇吾がそう言って俺の背中に話しかける。 「はぁ…」 可愛いピンクの頭を撫でてベッドから立ち上がると、勇吾を連れて寝室を出た。 どうしてやろうか…この男。 踊れない自分でも分かる、シロのストリップは芸術的だ。 他のストリッパーたちとは少し毛色の違う彼のストリップは、単純に服を脱ぐ、脱がない、の問題では無く、醸し出す雰囲気と抜群の演出力で見る人を引き付ける。彼が見に纏う怪しげなオーラもその魅力の一つだ。 そんな彼のステージを見て欲しかった。 シロと同じ様な芸術家肌の彼らに見て貰って、シロを褒めて貰いたかったんだ。 1人、才能を持て余す彼を…正当に評価して貰いたかった。 しかし、俺は誤算をした様だ。 「シロ、寝顔も可愛いね。ずっと見てられそうだ。」 そう言って俺にニヤつく、この男を甘く見ていた。 勇吾は良く言えば噓をつかない正直者。悪く言えば自分以外興味のない男。ぶっきらぼうで、歯に衣着せない、自分勝手で、自己中心的。その他もろもろ… 美しい見た目に反して、所謂…俺様気質な男だ。 そんな彼がシロに興味を持って、上辺だけでも優しく接する姿を見ると、動揺する。あのダンスの先生に感じた苛つきよりも、もっと現実的で、可能性の高い恐怖が疼く。 勇吾は言葉の通り、俺から彼を…奪いかねない。 同じ踊れる者同士、気が合うポイントがあるんだろう…。 昨日、それがピッタリ合わさった様な気がして…気が気じゃない。 もう、シロにこれ以上近づいて欲しくない。それが俺の本音だ。 シロはきっと…このまま、勇吾を彼好みに調教するだろう。 それはいとも簡単に、真逆の性格に変貌した俺のように…変えてしまうだろう。 「もう寝室には行くな…疲れて寝てるんだ。寝かせてやれ。」 俺はそう言って寝室への廊下に再び線を引いて封鎖した。 しかし、一瞬の隙を突かれた。 気が付くとリビングに勇吾の姿が無かった。 卵焼きの準備をしようと冷蔵庫を開けて、卵を3つ取り出した。その間に勇吾はシロの眠る寝室に侵入を果たしていた… 「何してんだよ…」 そう言って睨みつけると、あいつは既にシロの上に覆い被さって、腰を振っていた… なんて奴だ…本当に、油断も隙も無い… 俺は警戒レベルを最高に引き上げて勇吾をマークする。 今の所、シロは勇吾に惹かれていない。まだ、あのダンスの先生の方が、彼の中では上だ…。この状態で…このままフェードアウトに持って行ければ、俺の杞憂する事態は避けられそうだ。その為にも、彼を勇吾から守らないと。 そう思った矢先… 「兄ちゃぁん!意地悪されたの…シロ、意地悪されたの!」 シロが…発作を起こした。 「大丈夫…大丈夫…ちょっと悪乗りする人たちだけど、大丈夫だよ?ごめんね…」 俺はすぐに抱きかかえて、そう言って宥めながら、彼らからシロを引き離した。 何がきっかけだったの…?どうして…なってしまったの? …分からない。 「も、もうやだぁ…あんな事したくない…兄ちゃんだけが良いの…」 そう言って俺の肩に縋りついて悲しそうに泣く彼は、目の前に違う光景を見ている様に虚ろで、絶望の瞳をしていた。 きっと、またお兄さんの事がフラッシュバックしてしまったんだ。 彼の記憶が…断片的に無くなっている記憶の部分が…爆発しそうに疼いている。 「精神科に一度診て貰った方が良い。このままだとシロが苦しむだけだ。薬でも、治療でも、受けられる物があるなら、やるべきだ。」 依冬にそう言われた… 「…そうだな。」 俺はそう言って、放ったらかしにしている。 「兄ちゃぁん…」 そう言って…俺に縋りつく彼を、失いたくないんだ… まるでカウントダウンでもするかの様に、発作が起きる度に、彼の苦痛に歪む顔が、俺を揺さぶる。 良いのか…このまま放っておいても、大丈夫なのか… 助けが居るんじゃないのか… この人の為に…誰かに頼る必要が、あるんじゃないか… ぐったりと気絶する彼をベッドに寝かせて、自問自答する。 白い頬を撫でて、さっきまで口をきいていた唇を指でなぞる。 「シロ?」 「来るな…」 寝室の入り口で声を掛ける勇吾にそう言って睨みを利かせる。お前には関係ない。 「どうした…」 「うるさい…」 唸る様にそう言って突き放すと、俺の動揺が勇吾に伝わって、彼はシロが何かを抱えている事を察した様だった。 押し黙って俺の背中を見つめ続ける勇吾に言った。 「…この人はお前が思っている様な人じゃない。半分壊れてる…だから、何もするな…もう、構うな。」 絞り出すようにそう言って、寝室の扉を閉めると、頭を押さえて目を覚ます彼に寄り添った。 「桜二…」 「大丈夫だよ…ゆっくり深呼吸して…?」 小さく震える肩を抱いて、ゆっくりと抱きしめる。 こんな事…本当は無い方が良いんだ。 無い方が…良いに決まってる。 大丈夫だよと声掛けする”大丈夫“だって、本当に大丈夫かなんて俺には分らないんだ… 「どうだった?」 新宿のダンススタジオで、念願かなってシロのバレエを見せて貰った。 バレエと言うと、張り付いたような笑顔をしながら踊る物だとばかり思ていたから、彼の踊りを見て、驚いた。 それはとても美しくて…力強いのに、儚く見えた。 …バレエを習っていないのに、こんなに踊れるなんて信じられない…夏子がそう言って呟くように感嘆の言葉を口にした。 勇吾はただ黙って踊るシロを見つめていた。 俺はまるで彼そのものの様な踊りに、心が揺れた。 「すっごく…美しくて、儚くて…シロだった…」 俺はそう言って、驚きながらも微笑む彼を見つめた。 この人は凄いんだ…凄いけど、壊れかけている… どうしてあげたら良いのか…分からない。 「桜二?シロは本当に凄い素質があるかもしれない。見よう見まねであんなに踊れるとは信じられないよ。小さい頃からずっとバレエをやってる子と同じ様に神経を使える。あれは…もっと上手になるよ?」 夏子はそう言って手を叩くと嬉しそうに鼻歌を歌った。 シロのスタジオを後にして、俺はこの2人をホテルまで送っている。 「そうか…もっと上手になるのか。」 俺はそう言って笑うと、褒められた事を後で彼に教えてあげよう…と心の中でガッツポーズをした。 「勇吾はどうだった?シロに夢中になってるみたいだけど、急に大人しくなったじゃん…どうしたの?フラれて落ち込んでるの?」 夏子はそう言うと、隣に座って黙りこくる勇吾を小突いた。 「別に…」 たったそれだけポツリと言うと、勇吾は面倒くさそうに窓の外に顔を向けた。 俺の言った言葉と、彼の踊り…そして夏子のコンテンポラリーダンスで見せた、彼の嬉々とした様子を見て、大体察したんだろう… シロは病んでるって…察したんだ。 分かってくれた様で良かったよ。 お前が悪戯に、簡単に、手を出しても良い人じゃないんだ。 一緒に死ぬぐらいの覚悟が無いと、彼には寄り添えないよ… 俺はルームミラーで勇吾を見ると、口元を緩めて笑った。 「あの子、今日も店に出るの?」 ホテルに到着して2人を下ろすと、夏子がそう言って俺に尋ねて来た。 「あぁ…そうだね。」 俺は適当にそう答えると、憮然とする勇吾に視線を送る。 勇吾は俺と目を合わせるとフイっと顔を逸らしてホテルの中へと入って行った。 「なんだ、あいつ。じゃあね、桜二。ありがとうね~!」 夏子に手を振って自宅へと戻る。 あんな風にふてくされるなんて…ふふ、勇吾は本当にシロを気に入ってしまったみたいだ。残念だね。彼はダメなんだ。俺のシロだからね… 「ふふ…ふふふ…」 1人運転をしながら、零れる笑いを堪えないで声に出して笑う。 #シロ 「依冬~!」 陽介先生のレッスンの後、依冬と待ち合わせをして一緒にランチをする約束をしてたんだ。彼のチョイスするお店は、いつも女性客が長い列を作ってるからすぐ分かるんだ。 店の前に立つ依冬を見つけると、オレは走って向かい、思いきり飛びついてキスする。 「あはは!シロ、レッスンどうだった?」 オレをしっかりと支えると、依冬はそう言って顔を覗き込んできた。 「今日もちゃんとレッスンしたよ?あのね、桜二の友達が来たんだ。」 オレはそう言って依冬に夏子さんと勇吾の話を教えてあげる。 「え~…朝から来るのは嫌だな…」 徐々に進む列に並んで、依冬がそう言って眉を顰める。 「そうだろ?しかも、その途中、一回…発作が来ちゃったんだよ…」 オレはそう言って依冬の手を握った。 彼は少し首を傾げると優しい声で聞いて来る。 「何か、きっかけはあったの?」 そう…発作の起こる理由。それが全然分からないんだ。 オレは首を横に振って、依冬を見上げて言った。 「でも、兄ちゃんの…記憶を思い出した。でも…これは後で話す。今はもっと違う話をしよう?その勇吾って人が、凄い美形なんだ。でも32歳なんだよ?ウケるだろ?」 オレは思い出した兄ちゃんの記憶の話を今、話したくなかった。だって、あまりに酷い内容に、また発作が起きたら嫌だと思ったんだ。 「32歳って…桜二と同い年だね?」 「中学校からの友達だって…」 オレがそう言うと、依冬が吹き出して笑って言った。 「ふふっ!桜二って…友達いたんだ!」 あはは!そりゃ…酷いだろ!本当に依冬は毒を吐くんだ… 店内に案内されて席に着くと、メニューを一緒に見ながらおしゃべりする。 「依冬は何食べる~?」 「う~ん…アボガドバーガー…」 ふふ…おっかしいな。アボガドバーガーだって… 「じゃあ…オレも同じのにしよっと…!」 オレはそう言うとメニューを置いて依冬と手を繋ぐ。 「凄かったんだよ?その勇吾がね、ポールに上った状態でオレを掴んで回ったんだ!凄いだろ?依冬と同じくらいの力持ちだったんだよ?オレと体形も大して変わらないのに…インナーマッスルが、ガチムチなんだ!ふふ!」 オレはそう言って笑うと、依冬の手のひらをポンと叩いた。 「インナーマッスルが、ガチムチ?何それ…気持ち悪い!」 あはは!さすが依冬だ! 「会ってみたら分かる。とっても綺麗な人だった。でも、少し意地悪みたいだ。一緒に来た夏子さんも、桜二も、勇吾を優しくないって思ってる。」 オレはそう言うと、依冬を見て首を傾げて聞いた。 「ねぇ、オレのパジャマって…ダサいかな?」 「猫の?」 ふふ…そうだ。 「あれ、可愛いよ?」 依冬はそう言うと、オレの手をポンと叩いてにっこりと笑った。 優しいな…依冬。 オレはお前が大好きだよ。 依冬と頼んだアボガドバーガーは思ったよりも小ぶりで、オレでも食べ足りなかった。 目の前の依冬を見ると、彼はこの状況を訝しげに首を傾げて言った。 「シロ?次のお店はどこにする?」 ふふ…全く。 「オレはね、ラーメンが食べたい。」 そう言って口を拭うと、依冬とはしごランチへ向かった。 依冬の車に乗って桜二の待つ部屋まで送ってもらう。彼はわざわざ車を駐車場に停めると、オレの背中にくっ付いてえっちらおっちらとエレベーターへ向かう。 「依冬?仕事に戻らなくて良いの?」 顔を見上げてそう尋ねると、依冬はオレを見下ろして言った。 「シロの話、まだ聞いてないだろ?」 あ…そうか。忘れていた… オレは依冬を見上げると、彼の胸に頭を押し付けて甘えて言った。 「また、発作が起きたら、嫌だなぁ…」 「だから部屋まで付いて行くんだ。部屋の中なら、俺と桜二しかいないだろ?頭痛は嫌だけど、気絶する前に止められるかもしれないし。ちゃんと共有しないとね…」 共有…オレの記憶を共有するの? それは…きっと壮絶で、嫌な思いをするよ? わざとじゃないんだ。本当に忘れていた。出来ればもうあの話はしたくなかったし…オレの発作なんて…真面目に考える事も、うんざりするくらいに嫌だった。 「ふぅん…」 オレはため息交じりにそう言うと、依冬と一緒にエレベーターに乗って、桜二の待つ部屋へと向かった。 「ただいま~!依冬も一緒だよ?」 オレはそう言って元気に玄関から上がると、勝手知ったる桜二の部屋を寝室へと走って向かう。 「兄ちゃ~ん!おいで?」 そう言ってベッドの下の“宝箱”を腕の中に抱えると、リビングへ向かってソファにドカリと座った。 「おかえり。あの後、レッスンはどうだった?」 桜二はそう言って首を傾げると、オレに紅茶を出してくれた。 「桜二?発作の時に思い出した事を3人で“共有”しよう。」 オレは兄ちゃんの腕時計を撫でながらそう言って、隣に座った依冬にもたれかかる。 「…共有?ふふ…良いよ。聞かせてみて?」 桜二はそう言って微笑むと、オレの隣に座って顔を覗き込んできた。 ふふ…3人で並んで座るの、おっかしい… 「まず…発作の前の出来事を話そう。桜二にグダグダに甘える姿を笑われて、十分に甘えることが出来なかった。その後、パジャマを笑われて、自尊心が少しだけ傷付いた…ふふ。それで、ソファに顔を乗せて突っ伏してると、夏子さんが頭を撫でてくれた。その時、桜二が背中を撫でてくれたんだ。そうしたら…なった。」 オレはそう言って依冬と桜二の顔を交互に見つめる。桜二はコクリと頷くと、オレの頭を撫でて言った。 「俺を“兄ちゃん”って呼んで抱き付いて来たから…そのまま抱えて廊下まで連れて行った。きっと勇吾と夏子にからかわれたのが嫌だったんだろうと思って、彼らから離した。」 そう…そうだ。 「その時、中学生の時の記憶が目の前に映ったんだ。でも…あれは本当じゃないかもしれない…だって、オレはそんな事、覚えていないもの…。」 そう言って俯いて黙りこくるオレに、桜二が背中を優しく撫でて言った。 「良いよ…言いたくないなら…やめよう?」 「ダメだよ。シロ…言ってみて?」 依冬はそう言うと、オレの頬を包み込んで自分の方へと向けて言った。 「…発作が起きて息が苦しくなっても、俺が傍で気絶しない様に一緒に居てあげるから。そうしたら、頭痛もしないし、怖い思いもしないよ?ね?」 ほんと? …分からないよね…そんな事。 でも… 依冬なら、本当に守ってくれるかもしれない。 オレは小さく頷くと、依冬の手のひらに頬を寄せて言った。 「昔、住んでいた団地の部屋で…何人かの男にまわされてるオレを…兄ちゃんが笑って見ていた光景が見えたんだ…」 そう言うと、床に置いた“宝箱”の蓋を指さして言った。 「あんな…あんな目をして…怖い笑顔で笑ってたんだ。」 「…どうして中学校って…分かったの?」 桜二がそう言って聞いて来るから、オレは肩をすくめて答えた。 「だって…制服が中学校のだったから…そうだと思った。」 顔を覗き込んでオレを見つめる桜二が…兄ちゃんに見えて、瞳が歪んで、涙がどんどん溜まっていく。 学校から帰ったら…兄ちゃんが…家にいた。 知らない男たちと一緒に…兄ちゃんがオレを見て笑った… 「シロ…兄ちゃんといつもしてる事、してあげて…」 どうして…? オレは兄ちゃんが好きだから…好きだから…していたのに。 「わぁ、女の子みたいだね?」 知らない男がそう言ってオレの体を触る。オレは両手で嫌がると、兄ちゃんを見て助けを呼ぶ。 「兄ちゃぁん…!」 兄ちゃんは腕を組んだまま、オレを見つめて口角を上げて笑った。押し倒されて、男に覆い被さられて、手や足を掴まれてもがくオレを… ただ、ウサギと同じ目をしながら…見つめて笑った。 「大丈夫…兄ちゃんが見ててあげるから…大丈夫だよ?」 そう言って、床に正座すると、乱暴されるオレを見つめ続けた。 どうして…どうしてこんな事をするの… 「はぁはぁ…あぁ…兄ちゃん…。嘘だ、嘘だ…!嘘だぁ…」 オレは桜二に抱きついて、彼の頭に顔を擦り付ける。 思い出した…思い出したんだ…! 桜二に抱きつきながら、歪んだ瞳から涙を落として言った。 「兄ちゃんは…オレに売春をさせていた。あの母親と同じ様に…男たちから金を貰っていた。それが…中学生の頃から、兄ちゃんが自殺する前まで…年に数回あった。」 そして、男たちが帰った後は、ボロボロになったオレを抱きしめて泣くんだ… まるで…幼い頃のあの地獄の様な日を繰り返すみたいに。 オレは一体何が起きたのか…理解出来ないで、ひたすら兄ちゃんの腕の中で泣いていた。苦しそうに嗚咽を漏らす兄ちゃんの吐息が、体にあたって…今でもリアルに思い出す…。そして、次の日になると…いつものように優しい兄ちゃんが戻って来るんだ。だから…オレは…忘れる様に、その出来事を頭の中から消した。 依冬がオレの“宝箱”に手を伸ばして、中から兄ちゃんの手紙を取り出すと、一文を読み上げて言った。 「“兄ちゃんは少しおかしくなっちゃったんだ。だからちょっと前倒しして死ぬ事にした。シロの事をずっと一番に愛していたよ。だけど、俺は少しおかしくなってしまったみたいで…それは綺麗な愛じゃ無かった…。”…これってそう言う事なのかな。」 「兄ちゃんは…壊れてしまっていたんだ…」 オレはそう言ってボロボロと涙を落とした。 あぁ…そうだった。 兄ちゃんは…オレのせいで壊れてしまった。 幼い日のあの光景が…あの行為によってオレを性的に見るようになった兄ちゃんは…オレが兄ちゃんを愛して求める事で、徐々に壊れて行ってしまったんだ。 だから…あんな事したんだ… きっとそうだ… 「…うっうう…うう…うっう…」 オレのせいだ… オレのせいなんだ… 項垂れて桜二に抱きしめられるオレに、依冬が言った。 「シロ…不思議だね。こんなに悲しい事を思い出したのに…発作が起きない。」 ほんとだ…ほんとだ… 「ふふ…本当だね…」 不思議だ… どうやら、あの発作は外れたピースを見つけると起こって、そのピースが元の場所に収まると…起こらないみたいだ。 まるでもう1人の自分が見ない様にしていた事を、無理やり思い出させようとするみたいだ。その荒治療の拒絶反応みたいに、発作が起こるのかもしれない… 「発作が起きなくて良かった…」 そうポツリと言った桜二の声が、体に沁み込んでいく。 そんなに、心配してくれていたんだ…桜二、優しいね。優しくて、可哀想だ。 彼の胸に頬を埋めて心が落ち着くまでぼんやりと胸を撫でる。 「変な歌…歌って?」 そう言って足で依冬を小突くと、ふふッと笑いながら依冬が変な歌を歌い始める。 オレは依冬の顔を見てふふッと小さく笑って、桜二の体に埋まっていく。 「ふふ…本当に下手くそだ…!」 桜二がそう言って、オレは吹き出して笑った。 こうして…こうして穏やかに、心を沈めることが出来るなんて…この人達がいて…良かった。 良かった。 「巷ではかぼちゃのケーキばかり売ってる。俺はそれが納得がいかないよ…桃好きは通年、桃が好きなんだ。そう思わない?」 依冬がそう言って床でストレッチするオレの背中に乗っかって甘えて来る。 「ハロウィンなんだよ…世の中は、もうすでにハロウィンなんだ…」 自分に覆い被さる依冬と床に転がる様に倒れ込んで、彼の体の上に乗って胸に頬ずりする。 もう10月…ここからあっという間にハロウィンが来て、クリスマスが来て、年越しだ。 怒涛の年末が来るんだ… 「依冬、足伸ばして?」 「もう…また~?」 オレは依冬の伸ばした足の上にお腹を乗せて持ち上げて貰うと、彼と手を繋いでユラユラしてもらって遊ぶ。 「依冬?このまま一回オレを飛ばしてみてよ?そしたら、オレはその勢いのままお前の足の裏に座ってみるから!」 そう言って彼の足をポンポン叩くと、依冬は眉をひそめて言う。 「嫌だよ。なんだよ、その雑技団みたいな技…そんな事考えなくても良いよ…」 なんだ…きっと上手に出来るのに… 「ちぇっ!」 オレはそう言って口を尖らせると、依冬の足の裏に自分の脛(すね)を乗せ始める。 「ダメ!ダメだって!あぶない!桜二!桜二!」 依冬がそう言って暴れるけど、オレは両足を彼の足の裏に乗せる事が出来た。 「見て~?」 そう言って依冬の足の裏の上に正座して座ると、両手を合わせて”悟り”のポーズをして笑った。 「あははは!凄いぞ?ここから逆立ちしてみようか?」 オレはそう言って眼下の依冬を眺める。彼はオレを見上げて足を震わせながら首を横に振った。 「や~め~て~!もう…足がプルプルしてるから…!」 「ほら、もうやめて。」 すかさずやって来た桜二がオレの体を抱えると、依冬の足の上から退かす。 ふふ…おっかしい。 「もう。危ないな…ほんと、分からないよ。そう言うの…。ほら、支度して?お店に乗せてくから。」 依冬はそう言うと体を起こして、スーツのジャケットを手に取った。 「は~い」 オレは気の抜けた返事をすると、仕事へ行く支度をした。

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