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第18話
ピンポン…
桜二の部屋の前まで行って呼び鈴を鳴らした。
ガチャ…
扉を開いて顔を見せた彼は…随分しょんぼりして、本当の売れない作曲家の様だ…
「シロに会った…」
俺がそう言うと、目を大きく見開いて言った。
「どこに居るの?」
「話を聞かせてくれよ…何があったんだよ…」
俺は彼の部屋に上がると、上着を椅子に掛けて寝室へと向かった。
ベッドの下の”宝箱”の所在を確認して、彼が一時的な逃避行に出ていると把握する。
「レンタルビデオ屋さんに…見終わったレンタルDVDを返しに行ったんだよ…すぐに戻ると思ったのに…帰って来ないんだ…」
両手を前に持って来て、モジモジとそう言いながら背中を丸める32歳を見つめる。
この人は…シロと一緒に居過ぎて、彼と同じ幼児性を兼ね備えてしまったんだろうか…
「どうしてそうなったのか、教えてください…」
俺はそう言ってソファに腰かけると、モジモジするおっさんを見つめる。
彼は俺から視線を外すと…言い辛そうに、ぽつりぽつりと話し始めた…
「…それで、つい…俺はアッシー君じゃないって嫌味を言って…タクシーで行けよって…」
アッシー君…って誰だろう…?
シロは分かったのかな…アッシー君が誰なのか…
俺は首を傾げながら携帯電話を取り出すと、速攻で“アッシー君”を検索でかけた。
アッシー君とは…バブル時代の俗語…アッシー君、メッシー君、ミツグ君…などの仲間がいる。足に使われる人をアッシー、ご飯を奢らせる人をメッシー、モノを貢がせる人をミツグ君…
だったら、俺はメッシー君だ…
無表情で携帯電話から視線を外すと、桜二がポツポツ話す内容を聞き耳を立てて聞く。
「大泣きして…へそを曲げて…DVDをひとつ、無言で見て…そのまま返却しに行ったんだ…でも、すぐに帰ってくると思ったのに、もう1時間も帰って来ない…」
そう言ってダイニングテーブルの椅子にヘタリと腰かけると、両手で顔を覆って項垂れ始める。
「ダメなんだ…俺がどうしても、勇吾が…あいつが許せなくて…ダメなんだ…」
「車を停めた所に、丁度シロが勇吾さんと歩いて来たんだ。ズッカケを履いたまま手を繋いで、タクシーを停めていた。俺が声を掛けたら、悔しそうな顔をしてフン!ってタクシーに乗り込んで…勇吾さんに至っては、俺がシロに近付く事をけん制する様に止めた。」
淡々とそう伝えると、桜二は椅子から立ち上がって、思いきり自分が座っていた椅子を蹴飛ばした。
あぁ…こういう事をするのか…それは、怖がらせるな…
「あんたのそれはどうにかならないのか…それじゃシロが怖がって居なくなるのも仕方がないよ…。あの人はそういうの、嫌うからね…。」
そうだ。ただでさえあんな環境で育ったんだ。
暴力なんて、きっと怖がるって分からないのかな…
「桜二…シロに暴力は絶対だめだ。あの人はそういう物に晒されて生きて来たじゃないか…分かるだろ?感情的になって、暴れたりしたら、きっと凄い怖がってしまう。だから、あの人の前では絶対にやめてくれ。」
俺はそう言うと、彼が蹴飛ばした椅子を手に取って元に戻した。
「なんで…遊びなら良いなんて言ったんだ…?」
立ち尽くす彼に問いかけると、桜二は下を見つめたまま言った…
「…勇吾が、あの子と…秘密を作って、俺の知らない関係を築こうとした。それを防ぐ為に…シロにそう言った。俺がそう言うと、あの子は言ったんだ…。勇吾が好きになったって…でも、俺を傷付けたくなかったって…。幻滅されたくなかったって…。だから、気付かれないうちに、勇吾を好きになる事を止めようとしていたって…」
ボロボロと涙を落として…しくしく泣く、売れない作曲家を眺めて、俺は深いため息をついた。
「隠し事はしないでって…シロに言ったくせに…彼が勇吾の話をすると、彼が勇吾と居ると…堪らなく悔しくて…イライラした。そうしたら、彼は話さなくなってしまった…。俺に話す内容を選んで、話すようになってしまった…。それがまた嫌で…」
はぁ…
ため息すら出ないよ…
まるで少年の様な葛藤を32歳のおっさんがしてるんだ…笑えもしない。
カマチョのクソガキ…シロが言った桜二の事。
本当にその通りだな…
こんな渋い見た目でも、こんなにスカしても、性根は成長しないんだな…
「シロが帰って来たら、しばらく俺の家で預かるよ。あんたは少し頭を冷やした方が良い。彼にもあんたにも良くない状況だ。泥沼にはまっていってる。」
俺はそう言うと、携帯電話を取り出してシロに電話をかける。
彼は意外にもすぐに電話に出た。
「もしもし?シロ。今日は俺の家においで。今どこに居るの?すぐに迎えに行くから、下で待ってて。ん?ダメだよ。俺は嫌だって言っただろ?知らないよ。遊びでも何でも嫌なものは嫌だ。…シロ、だめだ。」
電話口でごねる彼に、俺はハッキリと言った。
「シロ、それは浮気って言うんだ。俺はそんな事されたくない。だからすぐにやめて、下で待ってて。良いね?怒らない。嫌わない。だから、下で待ってて。良いね?」
俺がそう言うと小さく、うん。と彼が言った。
電話を切って桜二を見つめて言った。
「ハッキリ言えば良かったんだ…」
彼は項垂れたまま首を横に振って言った。
「もうダメだよ…シロは勇吾が好きになったんだ…。きっとお前の家にいても、あいつが誘えば…付いて行く。あいつが店に行けば喜んで、あいつが求めれば抱かれて、あいつが誘えば…イギリスに行ってしまうんだ…!俺から離れて…」
「頭を冷やして…そんな事、絶対にならない。シロは…認めたくないけど、あんたが1番好きだ。悔しい程に、それは絶対なんだ。だからこそ、あんたが揺らいだら、彼はどうしたら良いのか分からなくなる。ダメならだめと言ってくれ。機嫌を取るな。」
椅子に掛けたコートを手に取ると、桜二に言った。
「毎日、連絡させるようにするよ。彼の“宝箱”はそのままにしておく。」
桜二の部屋を出て、大きなため息を吐く。
下らない事で亀裂を作って…バカみたいだ。
俺が1番シロを怒らせた時、それは食べ物の事。
タイ料理の香りが苦手な彼に、パクチー入りのラーメンを食べさせたんだ。
「何で…何でこんなの…気持ち悪い!くさい!嫌だ!」
「シロ?お店でそんな事を言ったら失礼だよ?」
目の前に出された料理に、酷い顔をして、体を離して、ムッとして…俺を睨みつける。
「何が嫌なんだよ…もう…」
俺はそう言ってシロを睨み返した。
「この葉っぱの匂いが嫌なの!もう、もう…やだ!」
そう言って彼は席を立って帰ってしまった。
俺はムッとしたまま、1人お店に残って彼が残した分も平らげると、のんびりと食後のコーヒーまで飲んでから店を出た。
店を出ると、彼がしょんぼりと立ったまま俺を待っていた。
てっきり謝るかと思ったら、逆に怒って来たんだ…
「こんな店に連れて来るなんて、依冬は…最低だな!匂いが気持ち悪いし、味も変だし、大嫌いだ!こんなの、気持ち悪い料理だ!」
タイ料理屋の前で、盛大に店をディスり始めた彼に、俺は大きな声で怒った。
「シロ!自分が嫌いだからって、お店の前で気持ち悪いとか言うな!」
通行人が騒然とする中、彼は子供みたいに大きな声で泣き始めた…
「うわぁ~~ん!うわぁ~~ん!」
俺はそれを無視して、歩き始めた。
そんな俺の後ろを泣きながら彼が付いて来て…通りすがる人の視線を一斉に集めながら、車まで戻ると、泣きわめく彼を乗せて…桜二の所に帰ったんだ。
「シロ…泣くこと無い…依冬は、お店の人に失礼だと思ってそう言ったんだ…。シロがタイ料理が嫌いでも、あの香りが好きな人がいるんだよ。だから…そう言って、お前が誰かを傷付けるのを止めてくれたんだ。」
詭弁だ。
だけど、シロは桜二の顔を見つめて、コクリと頷いて話を聞いていた。
「依冬に謝って…もうタイ料理屋には…行かないで…」
彼がそう言うと、シロは俺の所に来て言った。
「依冬…ごめんなさい…。オレがタイ料理を好きな人を傷つけるのを…止めてくれてありがとう…」
ふざけて聞こえるだろ…でも、彼は真剣にそう言って、俺に謝ったんだ。
子供の様に素直で…純粋で、健気な人。
「良いよ…今度から東南アジア系の料理は避けてランチに誘うよ。」
俺がそう言って彼の髪を撫でると、シロは嬉しそうに笑って、俺の手のひらに頭を擦り付けた…
桜二は彼の絶対で、俺にとっても、彼は…シロを持て余した時の、最後の砦…
そんな存在だったのに…
今の彼は、俺よりもシロの事が見えていないみたいだ。
まるで、近付きすぎて、ピントが合わなくなってしまったみたいだ。
車に乗り込むと、彼の言った近所のホテルへと向かった。
ホテルの下に付くと、シロはちゃんと待っていた。
隣に佇む“問題の人”の姿も確認して、俺は感情的にならない様に気を引き締めた。
「よし…」
シロの目の前まで車で乗り付けて、車から降りないで彼に言った。
「シロ、乗って?」
「随分だね?依冬君…せっかくご飯を一緒に食べていたのに…強引で、乱暴だ。」
勇吾さんはそう言うと、俺の車を見て言った。
「今日はポルシェだ。凄いね?」
俺は彼を無視して、助手席のドアを内側から開いてシロに言った。
「ほら、早く乗って?」
彼は勇吾さんと手を繋ぎながら助手席の前に来ると、体を屈めて言った。
「依冬?オレ、勇吾の所に居ようかな…」
「良いの?そうしたら俺はシロが怒ったあの社長令嬢に会うよ?」
俺がそう言うと、彼は眉間にしわを寄せて怒った顔をした。
そんな気は毛頭ないけど、彼にはそれが一番効くと思ったんだ…
「嫌だ…」
シロはそう言うと、勇吾さんにキスをして手を離した。
「じゃあ、乗って。」
やっと俺の助手席に座ると、シートベルトを締めてジッと自分の手を眺めてる。
彼は自分の手のひらが大好きだ。
葉っぱにしたり、花びらにしたり、星にしたりして、人の頭の上に落とすのが好きなんだ…
心を落ち着かせたり、動揺してないか確認する時にも手のひらを眺めてる。
今はきっと、心を落ち着かせたいんだ…
「桜二と話したよ。少しお互い冷静になった方が良い。しばらく家に居て?良いね?」
短くそう伝えると、彼はコクリと頷いて俺に言った。
「桜二が…ちっさい、ケチくそ男だから…」
「妬いてるんだよ。本当は勇吾さんに会って欲しくないのに、遊びなら良いなんて…言ったから、引くに引けなくなったんだ。シロ…桜二はちっさいケチくそ男だけど、それ以前にカマチョのクソガキなんだ…分かるだろ?」
その言葉に、シロは俺を見つめて目を潤ませると言った。
「…うん」
全く…
勇吾さんは厄介だ。
焼き肉を一緒に食べた時のお茶らけた雰囲気とは別に、シロの隣に佇んでいた雰囲気はまた違うものを醸し出していた。
洗練された芸術肌の二枚目…
感性が死んでる俺にとって、ダンスや音楽、絵画や演劇は見ても良く分からない。
シロが落とす手のひらの葉っぱも、俺には良く動く彼の手にしか見えない。
でも、桜二には本当の葉っぱに見える時があるらしい…
「あの子の手のひらは素敵だ…。昨日はアイスを食べながら桜を落としてくれた…。花びらの時と、花全体が落ちた時と、手の動きが変わるから分かるんだ…」
そう言って嬉しそうに笑う桜二を思い出す。
そんな事ってあるのかって、俺は内心驚きながら彼の話を聞いていた。
きっと、勇吾さんは…彼の手のひらを見つめて…彼が見ている物を見れる人なんだ。
桜二もそれが分かっているから、過剰に反応するのかもしれない。
「シロ…勇吾さんの、どんな所が好きなの…?」
前を見つめたまま、助手席に座った彼に問いかけた。
「…勇吾は…綺麗なんだ。王子様みたいで、キラキラしていて…こぶしの花みたいな大輪の花。ダンスが上手で…オレに沢山教えてくれた。オレのショーに一番興奮して、喜んでくれる。そして、オレの構成を誉めて、認めてくれた…。今まで誰にも褒められた事が無かった、気付かれない些細な事や、イメージした事を理解してくれる。だから…好き。」
あぁ…そうか。
俺や桜二の分かりきらない、彼の大切にしている核の部分に勇吾さんはぴったりとハマったんだ…
シロのストリップショーは、どれも彼のこだわりが詰まった物。
それなりの長さを彼はダンスと、ポールと、チップ回収に分けて構成してると、以前聞いた事がある。そして、コンセプトに合わせて毎回編集して、踊っていると言っていた。
その事を聞いても、俺や桜二ではピンと来ない。実際どれほどの労力が費やされているのかなんて、踊れない自分たちには把握すら出来ないんだ。
それを勇吾さんに褒められて、認められて、嬉しかったんだ…
なるほどね…
「そうか、勇吾さんは…お師匠さんみたいなポジションにはならないの?セックスなしのさ。清い関係ではダメなの?」
俺はシロの方を向いてそう聞いた。
彼は俺の顔を見て、クスクス笑って言った。
「なにそれ?かっこいいね?少林寺みたいだ!」
全く…
駐車場に車を停めて、変なタコのキーを外すと、シロに見せて言った。
「メンダコ。」
「んふふ!」
んふふ!じゃないよ…全く。
彼を自分の部屋に連れて行って、洗濯物の山を洗濯機に隠す。
「依冬はオレが勇吾に会っても怒らないの?」
シロがそう聞いて来るから、俺はハッキリと答えた。
「怒るよ。セックスしたら浮気だ。」
「じゃあ…エッチしなかったら怒らないの?」
「怒るよ。ダメ。」
俺の即答に、彼は口をモゴモゴさせて両手をモジモジしながら言った。
「…でも、会いたいよ…」
それは…やめてよ。
俺は彼の顔を見つめたまま何も言えなくなった…
「仕事の時間になったらタクシーで行くんだよ?」
「分かった~!」
彼との短い時間を過ごして、急いで仕事に戻る。
手の中のメンダコのキーホルダーを見て、フワフワなタコを撫でる。
でも、会いたいよ…か。
参ったな…
#シロ
依冬の部屋に、1人ポツンと取り残された。
彼の部屋を散策しながら洗濯機の中に詰め込まれた洗濯物を見て、顔を歪める。
「どうして乾燥機もあるのに…こんなに溜めるんだろう。」
オレは洗濯物を取り出すと、桜二がしてるみたいに仕分けして回してあげる。
「桜二…何してるかな…」
グルグルと回る洗濯物を眺めて、呟いた。
桜二に、ギュッと抱きしめて欲しいな…彼の髪を撫でたいな…
携帯電話を手に取って、桜二の連絡先を眺める。
携帯に付けたユラユラと揺れる水色の点々が付いたチンアナゴ。
彼の事が何よりも大切なのに…
どうして勇吾と会うんだろう…どうして桜二を傷付けるんだろう…
だって、勇吾の事が好きなんだ。
彼が好きなんだ。
ソファに寝転がって、ぼんやりと桜二の電話番号を眺めると、胸の上に置いた。
手のひらを上に上げて、ヒラヒラと舞い落ちる、桜の花びらを頭の上に落とす。
目から涙が零れて、嗚咽が漏れる。
あんなに愛してくれてるのに…どうしてオレは勇吾に会いたくなるんだろう…
「桜の花びらは…薄くて…小さくて…軽いから…ふんわり落ちていく…それがとっても綺麗。手のひらですくっても、全然重たくない…。頭に積もったとしても…重たくない。」
1人そう呟きながら、ひたすら頭の上に桜の花びらを落とした。
たとえ、花が1つ落ちたとしても、クルクルと回って…かわいらしく落ちて来るんだ…
まるで空気に乗れるみたいに…不思議な動きをして…手のひらに舞い落ちて来る。
兄ちゃんの頭に付いた桜の花びらを…指で摘まんで手のひらに乗せた。
「兄ちゃん…もう、シロから離れないで…」
微笑みながらそう言って、手のひらを兄ちゃんに見せると、兄ちゃんは泣き崩れた。
グルグルのブラックホールが理不尽な現実から守ってくれた。
狂わせる事で、守ってくれた。
黒い渦に引っ張られて、飲み込み込まれそうになっていた。でも、グルグルのブラックホールはオレから嫌な記憶と、嫌な思い出だけを吸い取って…消えた。
オレはいつの間にかどうして自分が入院していたかさえ…分からなくなっていた。
「兄ちゃん?もう帰れる?」
「…帰れるよ、一緒に行こう?」
「うん!」
オレは何事も無かった様に兄ちゃんにそう言って、彼と手を繋いで、家へと帰った。
オレに降りかかる理不尽を無かった事にするみたいに、現れては吸い込んでいく、グルグルのブラックホール…
まるで兄ちゃんと同じ様な、桜二と同じ様な…愛だ…
いつの間にか気絶していたみたいで、いつもの激しい頭痛に、発作が起きてしまった事を知った。
ガンガンと頭の中を揺らす頭痛を、体を縮めてひとりで耐える。
桜二が居たら、彼は隣でオレの背中を撫でてくれる。
でも、オレは自分から彼から離れて…ひとりになった…
「桜二…痛いよぉ…頭、痛いよぉ…」
ふと視界に入った手の甲に血が付いていて、鼻血が出ていると気付いた。
ゾッとして、怖くなった…
いつか…発作で死んでしまうかもしれない…漠然とそう感じた…
どうしてしまったのか…ここ最近、続けざまに、不意に、発作を起こしてる。
あの時、吸い込んだ全てがオレに一斉に帰ってきて、記憶を修復して、ダメージを与えて来る。
今のオレなら…耐えられるって…そう思うの?
それとも…グルグルのブラックホールが壊れてしまって…吸い込んだものが溢れてしまっているの?
どちらでも…オレがひとりで受け取るしか無いんだ…
だって…これは全て、紛れもない…自分の記憶なんだから。
洗濯が終わる音を聞きながら、耳の奥が痛くなり始めた頭を抱えて体を起こす。
ティッシュで鼻を拭いて、鮮血の多さに心が震える。
桜二…怖いよ。
オレ、どうなっちゃうのかな…
手を洗って、洗濯物を乾燥機に入れると、また次の洗濯物を入れて回し始める。
ゴロゴロと回って揺れる洗濯機に頭を付けて、目をそっと瞑る。
昔、兄ちゃんの口ずさんだ歌を鼻歌で歌って、口元を緩めて笑う。
乾燥が終わった音に目を開くと、依冬の洗濯物を取り出して畳んでいく。
「一人暮らしでも、オレは洗濯はしっかりやっていたよ?依冬はだらしがないな…」
ブツブツ言いながら、彼の洗濯物を一つ一つ畳んで置いて行く。
全ての洗濯を済ませると、仕事へ行く支度をする。
彼のTシャツとタオルを一枚ずつ借りて、ごみ箱の隣に置かれたテイクアウトの手提げに入れると、鍵を手に持って彼の部屋を後にした。
タクシーを停めて、新宿歌舞伎町まで向かう。
勇吾は今頃…何してるかな…
今日は夕方から仕事だって言っていた。
もう仕事も終盤の様で、アイドルの子たちが練習に来れる時間帯に仕事をするって言っていた。
凄いな…
オレが落ちたバックダンサーのオーディションに受かった尚君も…きっと、憧れの勇吾と仕事をしてるんだろうな…
羨ましいよ…
あんな凄い人と仕事が出来るなんて…それはとっても名誉な事だ。
18:00 三叉路の店にやって来た。
エントランスに入ると支配人がオレのトレーナーを見て吹き出して笑った。
「何それ!やばいな…お前、とうとう…一線を越えたな?」
どういう事だよ…可愛いのに…
「ん、何が変なの?」
オレが怒ってそう言うと、支配人が丁寧に一つ一つ教えてくれた。
「まず、そのトレーナーがまずい、そしてこんなに寒いのに上着を着ていない、しかも、テイクアウトの袋に荷物を入れてる。これは…詰んでるだろ?」
え…
オレは自分の姿を見下ろしながら言った。
「…車で来たんだ。上着を忘れて…リュックは間違って汚しちゃったから…これに入れて来ただけだよ?フンだ!」
そう言って階段を降りて控室へ入ると、楓がオレのトレーナーを見て吹き出して笑う。
「あ~はっはっは!何それ!イケてるね…」
…だろ?
「勇吾は色違いの持ってるんだよ?今日はお揃いだったんだ…オレのが水色で、彼のはピンクなの…一緒に歩くと、可愛いんだよ?」
オレがそう言って楓に微笑むと、彼はプルプルと唇を震わせて、まるで笑いを堪えてるみたいな顔になった。
「あ、あの…あの人が…それと色違いを着てるの?しかも…ピンク?」
「そうだよ?そして、勇吾の猫はペルシャ猫なんだ。」
「あ~はっはっは!」
楓は大笑いして、鏡の前に置いたメイク道具を揺らしながら、テーブルを何度も叩いた。
「…なぁんだよ、ちぇ~!」
メイク道具がないオレは、楓の隣に座ると、今日だけ彼のメイク道具を貸してもらった。
19:00 店内へ向かう途中、エントランスに、桜二が立っていた。
「あ…」
オレはそう呟くと、階段の途中で立ち止まってしまった。
今日起きた発作の事、鼻血が出てしまった事、話したいけど…
話せない。
「…どうしたの?」
伏し目がちになってつれなくそう言うと、彼は手に持った荷物をオレに差し出して言った。
「3日分の着替えと…仕事道具が入ったリュック…持ってきたよ。」
元気のない彼の声に胸が痛くなって、彼の差し出した荷物を持った手を見つめると、そっと撫でながら受け取った。
「…ありがとう…」
桜二…ギュッてしてよ…
オレがそう言うと、彼はオレの頭を少し撫でて踵を返した。
「お店に来ないの…?!」
堪らず、彼を見上げてそう聞くと、彼は背中を向けたまま言った。
「今日は…やめておくよ。」
何で…?オレの傍に居てくれないの…?
「…そう、気を付けてね…」
声に力が入らないで、絞り出すような声でそう言うと、エントランスを出て行く彼を見送った。
異様な状況に、支配人すら押し黙って様子を伺ってる。
桜二…桜二…行かないでよ…怖いんだ。
「桜二…」
ボロリと落ちた涙が汚く濁って見えて…慌てて腕で拭うと、大荷物を抱えて控室に置きに戻った。
「何だ…深刻な喧嘩か?ごめんなさいして、早く仲直りしろよ?」
そんな支配人の声を背中に受けながら、再び店内へ向かう。
階段の上から見下ろして、カウンター席に夏子さんを発見した。
でも、勇吾の姿は見えない…
オレは階段を降りながら、鼻歌を歌った。
「ビールちょうだい?」
夏子さんの隣に座って、マスターにそう言うと、彼女にニッコリと笑って言った。
「なっちゃん?今日は1人なの?」
「ふふ…そうよ~?」
口元を緩めて笑う彼女は、なんだか少し元気がない様だ…
「元気がないね?…大丈夫?」
オレがそう言うと、彼女はオレを見つめて優しい笑顔をくれた。
「あたしは大丈夫だよ。シロは?」
え…?
そう彼女に聞き返されて、首を傾げると、にっこりと笑って言った。
「…大丈夫だよ。」
オレの頬を優しく撫でると、夏子さんはとっても悲しそうな顔をして言った。
「シロ?勇吾の事、どう思ってる?」
どう…?
「どうして?」
オレは首を傾げると、夏子さんに聞き返して言った。
「どうしてそんな事を聞きたいのか…分からないよ…」
両手で掴んだビールの瓶をテーブルに置いて、指先を撫でながらいじけた様に視線をそらした。
彼女はオレの前髪を指先で掻き分けると、オレの目を覗き込んで、真剣な表情で念を押すように言った。
「勇吾の事…どう思ってる?」
どう…って…
口を尖らせて視線を落とすと、小さい声で言った。
「…好きだよ。でも、みんなダメだって言う…」
「どうしてそう言うのか、分かる?」
美しくしなだれる髪を耳に掛けて、夏子さんは相変わらずオレの目を覗き込んだまま、そう…聞いて来た。
オレは彼女の目を見つめると、必死に言い訳する様に言った。
「支配人と依冬は浮気だって言った…桜二は、言わないから分からない。でも、イライラして…オレに酷い事を言った。遊びなら良いって言った癖に…ちっさい男…。」
そんなオレの言葉に、彼女はため息を付くと、優しい声で言った。
「勇吾は遊んでないよ。本気でシロを桜二から奪いに行ってる。だから、あんたがもし、桜二の事が大切なら…もう勇吾に会わない方が良い。きっとめちゃくちゃにされてしまうから…。あいつは自分の事しか考えてないんだ。あんたがそれで傷付くなんて…思ってもいないんだよ。」
傷付く…?
手に持ったビールを傾けて彼女の顔を覗き込んで聞いた。
「どうして…オレが傷付くの?」
「だって…現に今、傷付いてるでしょ?桜二の事だって…ちっさい男なんて…冗談でも言わなかったのに…。」
彼女はそう言うと、オレの顔を見て悲しそうに言った。
「もう…やめな?」
その言葉に、何も言えないで黙ってしまう。
オレの為を思って言ってくれている彼女の言葉が…まるで自分を責めているみたいに聞こえて…心を閉ざした。
「…もう、良いよ…」
ポツリとそう言って、彼女の隣から立ち去ると、階段を上って控え室へと戻った。
桜二が用意してくれた荷物を見つめて涙を落とす。
「桜二…」
#夏子
本番を間近に控えた現場は、失敗の利かない下準備にピリピリとしている。
これは毎回、どの舞台でも、そうなんだ。
「お~っす…」
そんな気の抜けた声を出して、勇吾が遅めに現場入りした。
「あんた、もうちょっと早く来れないの?ステージから退ける動線が変更になった。確認して調整してよ…全く。」
そうぼやいて彼を振り返ると、あまりのダサさに絶句した。
「何そのトレーナー!シロとお揃っちじゃん!」
可愛い顔のあの子が着たらギリギリセーフなダサいトレーナーを、美系のおっさんが着てる…
これは、本格的にとち狂って来たな…
「可愛いだろ~?シロも喜んでたのに…依冬君がプンプン怒って連れて帰っちゃったんだ。せっかく一緒にランチしてたのに…酷いだろ?」
「あんたが東京に来た理由は?仕事でしょ?いい加減にしてよ。」
シロ、シロって…そろそろ、あたしも…うんざりして来た。
苦々しい表情で勇吾を睨むと、思いきりお尻を蹴飛ばした。
「いて~~!」
昔からそう、人の物を欲しがる悪い癖は健在だ。
友達の彼女を“味見”と称して寝取って、ポイっと捨てる…
彼の通った後にはぺんぺん草も生えない…カップルクラッシャー勇吾。
そんな彼が…桜二のシロを寝取って、彼にぞっこんになった。
味見したら、どうやらとても美味しかったようで、手放せなくなった…
確かにあの子はとっても可愛かった。
なんだかんだ言ってあたしも勇吾の様に、彼を味見した身だ…分からない訳じゃない。感じやすい体と、可愛い喘ぎ声。しなやかな体は体の柔らかい女の子を抱いている様で…あたしでも興奮した。
でも、シロを桜二から取りたいなんて思わないし、彼を独占したいなんて思わない。
だって彼はとても繊細なんだ。…取扱注意の子なんだ。
あたしの様なガサツなタイプは、面倒過ぎて…手に負えないのが本音。
過酷な生い立ちがそうさせるのか、シロにはそこはかとない脆さと儚さと魅力がある。
男どもはそれを両手に包んで…大事そうに愛でるんだ。
まるで親指姫を大切にするみたいに、両手の中に隠して、守りたがる。
「ほら!働け!ぼんくら!」
工程表を手の中で丸めて、勇吾をバシバシと叩くと現場へと送り出した。
イギリスで先鋭的なバレエ公演を見て、彼の才能に改めて驚愕したのは、ついこの前なのに…今の彼からはそんなカリスマ性を感じない。
まるでキャバ嬢に骨抜きになったおっさんだ…
嫌なんだよ…そんなあんた、見たくないんだ!
シロが悪い訳じゃない…それは分かってる。
執着しているのは勇吾の方だっていうのも分かってる。
でも、もう会わないで欲しいと思ってしまう。
これ以上、変わって欲しくないんだ。
彼好みの男に…
無意識に男を絆して、傅かせる、女王様のシロ。
まさか…あの勇吾に、ここまで影響が出るなんて思わなかったんだ。
自分以外興味のない、自己中のナルシスト…究極の俺様男…。
そんな彼が、シロの前だと、甘くて、優しい、素敵な王子様になるんだ…
…シロは…あの子は、勇吾の事をどう思ってるんだろう?
自分を迎えに来た王子様なんて思っていないでしょ?
あいつは、あんたを安住の地から無理やり引っ張り出して、自分のいる場所に連れて行こうとしてる。
王子様なんかじゃない…自分勝手な、人さらいなんだよ?
「はぁ…」
深いため息をついて、手に持った工程表を広げると、自分と彼の名前が書いてある部分を目で追いかけて読む。
「演出…」
仕事だけはきっちりやらないと…次の仕事が来なくなる。
自分を奮起させると、余計な事を頭の中から追い出して勇吾が向かった現場へと足を向かわせた。
19:00 三叉路の店にやって来た…
まだ仕事は終わっていない。むしろ、これから、もっと忙しくなる。
仕事を終えた主役が現場入りして、何度も調整と修正を行うんだ…
本当はこんな所に遊びに来ている場合じゃない。
それでも、シロに会いに来た…
「なっちゃん?今日は1人なの?」
カウンター席で彼の登場を待っていると、可愛い笑顔を向けてそう言って隣に座った。
いつもより元気がない彼に…勇吾の強引なやり口に、この子は傷ついていると…その時、分かった。
あぁ…何て事だ…
取扱注意の彼を、勇吾は乱暴に振り回してる…
「元気がないね?…大丈夫?」
あたしの顔を覗き込んでそう聞くと、心配そうに眉を下げる彼に…胸が痛くなる。
「あたしは大丈夫だよ。シロは?」
そう聞かれて、首を傾げて不思議そうな顔をしながらあたしを見ると、いつもの様ににっこりと笑ってあの子は言った。
「…大丈夫だよ。」
勇吾のやつ…この子の環境を乱して、自分本位に彼に接触して、桜二から離して…彼をこんなに傷つけていると言う事に…気付いていない。
彼の言葉の端ばしから、彼の周りの男たちが勇吾に臨戦態勢を取っていると気付いて、桜二を悪く言った彼の言葉に…彼が追い詰められて、ささくれ立ってしまっていると察した。
これらすべて…勇吾の自己中が成し得た混乱だと…あたしは思った。
「もう…やめな?」
あたしがそう言うと、シロは悲しそうに手元を見つめたまま黙ってしまった。
この子の…こんな表情…見たくない。
可哀想だ…
きっと、嬉しかったんでしょ?
今まで誰もあんたのダンスを技術面でも、表現面でも、評価する人なんていなかったから…とっても嬉しかったんでしょ…?
可哀想だ…
「…もう、良いよ…」
シロはそう言って…あたしに心を閉ざした。
立ち去るあの子の背中は…とても悲しそうだった…
悪戯にかき回して…あの子を傷付けて…自分さえ良ければ良いなんて、最低だ。
早々にお店を後にすると、タクシーに乗って現場に戻る。
ステージの上で指示を出す勇吾に近付くと、手に丸めた工程表で彼の頬に思いきりビンタした。
「ばかやろっ!シロをどうすんだよ!あんなに傷つけて…!どうすんだよ!!ど、ど、どうなっても、知らないからなっ!」
涙を流しながらそう言って、驚いた顔の彼を睨みつけた。
取り扱い注意の彼が…こいつに振り回されて…どうか、爆発してしまいません様に。
#桜二
24:00 最後のステージが始まる時間…
俺はいつもこの時間になると、彼を迎えに行く準備をする。
でも、今日はしない。
1人、誰も居ない部屋でソファに腰かけてる。
きっと今頃、お店には勇吾が来ていて、いけしゃあしゃあとあの子の隣に居るんだ…
「はぁ…」
両手で額を抑えて苛つく興奮を沈める。
依冬が言った通り、俺はあの子の前で感情を出し過ぎた。
あの子に嫌味を言って…八つ当たりをした。
どんどん墓穴を掘って…自分から勇吾の策に嵌って行っている気がするよ。
彼が怒って出て行ってしまった…
それでも、依冬の呼びかけに素直に応じてくれたんだ…まだ完全に俺を見限った訳じゃないだろ?
これ以上拗らせる前に、シロとの関係を修復しないと…本格的にまずい。
こんな時…発作なんて起こしたら、心配で気が気じゃないよ…
お店まで荷物を渡しに行った時…
彼が見せた寂しげな表情に胸が痛くなって、触れた手に…恋しくて、気が狂いそうになった。
「シロ…」
ひとりで過ごすには広すぎる室内に、呟いた彼の名前が空しく響いて消えた。
#シロ
お店に桜二が居ない…
ステージでポールの上まで登っても、カウンター席に彼を見つけることが出来ない。
華麗にポールを回って降りて、興奮するお客たちからチップを笑顔で受け取っていく。
そんな日常に、肝心の彼が居なくなった。
出番を終えて、帰り支度をすると、桜二が用意してくれた大きな荷物を持って、えっちらおっちらと階段を上った。
エントランスに居た支配人が、オレの荷物を代わりに持ち上げて言った。
「お疲れさん。シロ…なんだ、あんまり落ち込むな。きっとその内、仲直りできるさ…お前と彼氏はこの店の伝説だぞ?智が居た頃…お前があの人をボコボコにしたのは常連客の間では伝説として語り継がれてるんだ。噂に背びれや尾びれが付いて…今では、お前の嫌いなスーツを着て来たから殴られていたなんて事になっているがね…。まぁ、上手く落ち着くさ…」
そう言った彼の瞳は優しくて、オレを慰めてくれていると分かった…
「…うん。」
下を向いてそう呟くと、迎えに来てくれた依冬に荷物を手渡して言った。
「じゃ、また明日な。」
「ん~」
適当に返事をして、依冬と一緒に彼の車に乗り込んで、いつもとは違う道を通って、いつもとは違う部屋に帰って行く。
「ふふ、桜二は随分沢山荷物を持ってきたな…」
クスッと笑う依冬の声を聞きながら、窓の外を眺めた。
追い出されたと思って荷物の中を確認した時、”宝箱”が入っていない事に…酷く安心したんだ…
オレはまだ、彼と繋がってる
そう思って、安心した。
自分勝手だよね、だって…オレが彼を裏切って傷つけたんだ…それなのに、変わらず愛して欲しいなんて願うなんてさ。
「シロ…?疲れたの?」
「…ん」
助手席に体を沈めて何も考えないで、ただ窓の外から見える、ほんの少しの星を眺めた。
…家出2日目
「シロ…起きて…!寝坊しちゃった…!」
依冬が焦る声を聞きながら、ベッドから体を起こすと寝ぼけた顔で彼を見つめる。
歯ブラシを口に咥えたまま白シャツをはだけさせて、髪の毛がボサボサのままの依冬…。
「ふふ…可愛いね…」
オレはそう言って笑うと、ベッドに仰向けに寝転がって言った。
「…オレは14:00まで寝てるよ…」
「もう!」
依冬がそう言って慌てて支度をする中、そっと目を閉じてぼんやりと明るい暗闇を眺めた。
「シロ…早く起きて。いつも寝起きが悪いんだから…」
兄ちゃんがそう言ってオレの布団を引っ張り上げる。
「…ん、寒い…」
「ほら、学校に遅刻するよ?」
白いシャツを着た兄ちゃんがオレの体を抱きしめて言った。
「パジャマのまま、抱っこして連れて行っちゃおうかな~?」
「ふふっ!やだ…起きるもん…」
オレはそう言って笑うと、兄ちゃんの首に抱きついて頬ずりした。
「桜餅ちゃん…」
ポツリとそう言って涙を落とす。
ベッドから起き上がると、玄関を慌てて出て行った依冬の足音を聞きながらソファに座った。
携帯電話に繋がれたチンアナゴを見つめて指先で撫でると、彼に電話をかける。
「桜二…おはよう…」
オレの声に穏やかに優しい声で、おはよう…と返した。
それ以上何も話せないでいると、電話口の彼が言った。
「昨日…何を食べたの?」
「…何も…」
「今日は…一日、晴れるみたいだよ…」
「…そう」
お互い何も話せなくなって、無言の時が流れて行く…
「桜餅ちゃん…」
「なぁに?」
彼の声が聴きたくてそう言った癖に、何も言えなくなって黙る…
何も話せない事に、諦めがついて電話を切ろうとした。
「…またね…」
オレがそう切り出すと、電話口の桜二はいつもの様に、優しく言った。
「…シロ、愛してるよ。」
「うん…オレも、桜餅ちゃんを愛してる…」
口元が緩んで、口角が上がって、いつの間にか笑顔になってそう言うと、彼のふふッという笑い声を聴きながら通話を切った。
どうして…愛してるのに、離れてるんだろう…オレ達
依冬の洗濯物を自分の物と一緒に洗濯機に入れて回すと、彼の何も入っていない冷蔵庫を開いた。
「お~!凄い!食べ物が入ってる!」
そこにはチンするお米と、納豆、卵が入っていた。
「これは…冷蔵しなくても良いのに…依冬はこういうのお馬鹿さんだな。」
1人そう言いながらチンするお米を電子レンジに入れると、納豆を取りだした。
卵焼きは…自分では焼けない。
「あぁ…桜二の卵焼きが食べたい…」
チン!
電子レンジを開いて…ひとり、わびしい朝ご飯を頂く。
お茶碗にお米をうつして、箸で解しながら昨日の夏子さんを思い出す…
「オレが傷付いてるって…?そんな訳無いよ…」
バクバクと朝ご飯を食べながら、手元の携帯から音楽を流す。
「ごちそうさまでした…」
両手を合わせてそう言うと、お茶碗を流しで洗う。
桜二…
余計な事を頭から追い出すように、流れて来るクラシックに合わせて踊る様に体を動かす。
ストレッチしながら、バレエでも無い、ヒップホップでも無い、コンテンポラリーダンスを踊る。
指先まで美しく、つま先まで意識しながら、ワルツのテンポに合わせて軽やかに柔軟に、体をしならせる。
「あぁ…綺麗だ…」
そう言ってフェッテターンをしながら、最後のポーズを取ってフィニッシュだ。
決まった!ふふっ…!
いつもなら桜二がパチパチと拍手をくれるけど…今日は無観客だ。
仕方がない…
洗濯物を乾燥機に入れて見晴らしの良い低層階のベランダに出ると、肌寒い天気の空を眺める。
ここは…表参道…
街のど真ん中なのに、ここら辺は意外にも緑が豊富なんだ。依冬の部屋は2F…丁度目の前の木の枝先がこちらに伸びて来る高さ…
この木が桜だったら…良いのにな。
「シローーー!」
ベランダの欄干に腕を乗せて下を眺めていると、オレの名前を呼ぶ声に気が付いて真下を見下ろした。
「え…勇吾…」
そこには上を見上げて両手を振る、勇吾の姿があった。
眉をひそめてたじろぐと、彼に聞こえる程度の声で言った。
「…ダメだよ。勇吾、帰ってよ…」
何でこの場所が分かったの…?どうやってこの部屋だって分かったの?
一歩間違えると、君はストーカー規制法に引っかかるよ?
「一緒に遊ぼ~う?」
悪びれる様子もなく体をブラブラさせながらそう言うと、オレの返事を待っている様に上を見上げたまま、体を揺らしてる。
「えぇ…?!やだ、遊ばない。怒られるもん!」
オレはそう言うと、真下の勇吾を見つめて言った。
「勇吾が…勇吾じゃ無かったら良いのに!」
「何だよ、それ…」
彼はそう言って肩をすくめると、演技がかった様に話し始めた。
「君の小鳥になりた~い!」
え…何…?
オレはそんな彼に衝撃を受けて、彼を見下ろしたまま無言で固まった…
彼はそんなオレに、両肩と両手を上げると首を振って言った。
「はっ!ロミオとジュリエットだよ?シロたんはもう少しお勉強しなさい。」
なんだよ…!全く!
「も、知らな~い!」
そう言ってベランダから室内に戻ると、鍵を閉めて立てこもる。
どうしてここが分かったんだろう?
勇吾が押しかけて来た!
携帯を手に取って、依冬の連絡先を眺めたまま固まる。
「…どうしよう。でも、ロミオとジュリエットだって…ふふっ!おっかしい!」
「ラプンツェル~!髪を下ろして~?」
ベランダの下から勇吾がそう叫んでる声が聞こえる…。
もう…近所迷惑な奴だ!
オレは再びベランダに出ると真下を覗き込んで言った。
「待ってて…!」
慌てて桜二が用意してくれた着替えに着替えると、依冬の部屋の鍵を閉めて走ってエントランスへ向かった。
「勇吾~!」
そう言って彼に抱きつくと、勇吾はいつもの様にブレることなくオレをキャッチした。
そして、グルグル回してギュッと抱きしめてくれた。
あぁ…こんな事出来るの、彼しかいない…
彼に抱きつきながら、そっと小さい声で言った。
「ダメなんだ…会ったらダメって言われてる…」
彼はクスクス笑うと、オレの耳元で言った。
「でも…もう、会っちゃったね…?」
そうだ…そうなんだ。
だって…勇吾が近所迷惑だから…仕方なく、会ったんだ…
彼はオレの髪を両手でかき上げると、優しくて甘いキスをくれる。
彼の吐息が口の中に入ってきて、ゾクゾクッと背筋を震わせる…
「シロ?依冬君のお部屋に入れて?」
「ん、だめ…ダメなの…怒られちゃうから…」
勇吾の甘い声にオレは必死に抵抗した。
彼から体を離すと、両手をモジモジと弄りながら視線を逸らす。
「じゃあ…勇ちゃんのお部屋に連れて行っちゃおう!」
そう言うと、勇吾はオレの体を持ち上げてどんどん歩き出した。
何で対格差がそんなに無いのに…こんなに力持ちなんだ!
「だめだよ、だめぇ!勇吾、怒られちゃうもん!やめて~!」
彼の背中をバシバシ叩いて抵抗すると、通行人が何事かと注目する。
「なぁんで?なんでだめなの?誰も気が付かないよ?だって、ここには依冬君も桜ちゃんも居ないんだ。そうだろ?」
そうだけど…それは…彼らとの約束を破る事になるじゃないか…
「だめ…嫌だ!桜二が怒るもん!もう…喧嘩したくないから、やめてぇ!」
暴れるオレを地面に降ろすと、勇吾が言った。
「シロ?勇ちゃん逮捕されちゃう…あんまり大きな声でそんな風に言わないで?警察が来たら、勇ちゃんが逮捕されちゃうよ?」
え…
オレは肩をすくめると勇吾に言った。
「…ごめ~ん」
「良いよ。じゃあ手を繋いで?」
そう言って差し出された彼の手を、拒む事が出来なかった。
そっと手の中に手を入れると、ギュッと握って、彼は再び歩き出した。
「依冬が…12:00に電話してくるんだ…」
彼の後頭部にそう言うと、彼はオレの方を少しだけ見て言った。
「ふぅん…ジュリエットは厳重に監視されてるんだな…」
監視?
人聞きが悪いな…
勇吾はタクシーを停めると、オレを押し込むように乗せて言った。
「リッツホテルまで」
あぁ…こんな事バレたら大変だ…依冬が激おこになって口もきいてくれなくなる…
「勇吾…怒られちゃうよ…」
「バレなきゃ大丈夫だよ?そうだろ?」
彼は悪びれる様子もなくそう言うと、オレにチュッとキスして言った。
「会いたかったんだよ?寂しかったんだ…傍に居てよ、シロ。」
彼の半開きの瞳に…断れなくなって、コクリと頷いてしまった。
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