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第20話

#勇吾 携帯電話を手に持ったまま放心する。 …俺のせいでシロが居なくなった…? 傷付けて、苦しめて、俺のせいであの子が居なくなった? 「…何言ってんだよ…桜ちゃんがあの子を追い詰めるから、嫌になっただけだろ。」 届かない返事を、1人ポツリと呟いて、呆然とする。 夏子もそんな事言っていた… 俺がシロを傷付けてるって…どうなっても知らないからって…俺を引っ叩いて怒った。 分からない… いつ…傷つけた…? いつ…苦しめた…? 手元に視線を落として携帯電話でシロの連絡先に電話をかけてみる。 きっと普通に電話に出て、普通に可愛い声を聞かせてくれるはずだ… 電源が入っていない為掛かりません…なんて、アナウンスを耳に聞きながら、思い出す。 一体…いつ、俺があの子を傷付けた…? 可愛くて、大好きで、愛しいあの子を…傷つける訳が、無いのに… “どこにいるの?” メッセージを書いて送信した。 …探しに行くとしても、俺はあの子の事を…何も知らない。 良く行く場所も、何が好きなのかも、あの子の事を何も知らなかった… 「シロ…俺が傷付けたの…?俺が…お前を苦しめてしまったの…?」 強引に付きまとって、嫉妬する桜ちゃんを嘲笑って… 彼が目の前でシロを傷付ける所を見て…嬉々として喜んだ。 これで、やっと…シロが自分だけの物になるって、ほくそ笑んだんだ。 桜ちゃんと依冬君の部屋以外の…あの子の居場所が分からない。 “勇吾?見返りなんて求めてるうちはダメだよ?…頭もイカれてるからね…。詰んでるんだよ…マジで。抱くだけ損するよ。” そう言ったあの子を思い出して、涙がポロリと落ちた… どうしよう… 夏子と待ち合わせして、タクシーに乗って、仕事へ向かう。 「おい…どうした?」 タクシーに揺られながら、携帯を握りしめたままの俺の顔を覗き込んで、夏子が聞いて来た。 「シロが…桜ちゃん達の前からいなくなっちゃったんだよ。桜ちゃんが言うにはさ…俺がシロを傷付けて、苦しめたせいだって…。この前、お前も同じようなこと言ってただろ…。意味が分からないよ。居なくなったって…シロは大人だから…そんな、大騒ぎしなくても良いのに…」 窓の外を見つめながら、呆れた様に息を吐きながらそう言った。 「…本気で言ってる?」 夏子の鋭い声に…俺は彼女に視線を向けないで言った。 「あの子は大人だよ…。迷子になって泣いてる訳じゃない。お金がない訳じゃない。気が済んだら…自分で…何とかするさ…」 そう言った自分の声が、震えている事に気が付いた。 どこに居るの…シロ…可哀想に… 「もうすぐ連日のリハーサルに入るんだ。…気を引き締めてよね…」 そう言った彼女の言葉を背中で受け流す。 悲しくて泣いてるの…?どうしてるの…?どこに居るの…? 勇ちゃんの所においで…? 守ってあげるから… 何からも、守って、遠くへ連れて行ってあげるよ。 シロがきっと気に入るような環境を作ってあげるから… #シロ 18:00 三叉路の店にやって来た。 エントランスに入ると支配人がオレを見て言った。 「仲直りしたか~?」 「おはよ…」 オレは支配人の問いかけを無視して、挨拶をすると階段を駆け下りた。 鏡の前にメイク道具を広げてメイクを済ませると、衣装を選んで、ソファに寝転がる。 電源を入れていない携帯を胸に乗せて、指先でチンアナゴのストラップを撫でると、控室に入ってきた楓と目が合った。 「おはよう…」 「シロ。元気ないね?どうしたの?…僕に話してみる?」 ふふ…優しいね… オレは彼にニッコリ笑うと言った。 「何でも無いんだ…少し喧嘩しちゃっただけ…」 少し? 違うだろ…どんどん…離れて行ってる。 怖くなってくるよ、桜二… まるで…兄ちゃんを拒絶したあの時を、繰り返しているみたいだ… ドクンと体が跳ねて、冷や汗が頭のてっぺんから垂れる。 え… オレ… ガバッと体を起こすと、鏡に映った真っ青な顔の自分を見つめて固まった。 「兄ちゃん…」 「シロ?」 不思議そうに首を傾げる楓が…オレの目の前に来て言った。 「顔色が悪いよ…具合が悪いんじゃない?」 オレは…また、あの時を繰り返してる…? 歩み寄って…手を差し伸べて、修復を願ってる桜二の手を振り払ってる… 自分が傷付きたくなくて…桜二を傷付けてる。 オレを兄ちゃんと同じ愛で…愛してくれる、大切な、あの人を… 「シロ…兄ちゃんと少し話そう…」 そう言った兄ちゃんを無視してしまった。 あの時…オレが、兄ちゃんをもっとよく知っていたら、勇気があったら、愛していたら…兄ちゃんを受け入れて、許す事が出来たんだ。 目の前が真っ暗になって…桜二を軟禁していたあの日の情景が映る。 オレの腹に包丁を立てて、弱々しく笑う桜二が言った… 「愛してる…傷つけたりしたくない…痛い事なんて、したくない…」 壊れて、一緒に死のうとしているオレに、彼は言った。 「俺が死ぬのは構わないよ…だけど、シロは死なないで。」 桜二…桜二… あれは彼の本心で…今もそれは変わらないんだ。 そんな彼に言ってしまった。 自分が責められていると、被害妄想を爆発させて…感情のままに酷い言葉を投げつけてしまった! オレは慌てて携帯の電源を付けると、桜二に電話をかけた。 呼び出し音を聞きながら、胸の動悸が激しくなっていくのを反対の鼓膜で感じた。 「…出ない…」 ひとりで狼狽するオレに楓が顔を覗き込んで言った。 「シロ?大丈夫?…ちょっと、支配人呼んで来るよ…」 桜二が…電話に出ない。 怒ったの? いいや…彼は絶望したのかもしれない… オーディション会場で勇吾を襲ってしまったあの日。 事の顛末に苛ついた桜二に対して…オレは彼を問い詰めて言った。 「何で怒ったの?」 「お前が…勇吾とセックスしたから、取られると思ったんだ…」 「オレが取られたら、お前はどうなるの?」 「はっ…そんなの、悲しくて死ぬよ。」 彼はそう言った。 彼は…そう、言ったんだ… 「シロ、どうした…」 支配人がオレの顔を覗き込んで、手のひらでおでこを触って言った。 「熱は無いな…どうした、ぼんやりして…なんかキメてるの?」 グルグルのブラックホールが開いて…焦点の合わない目のまま、支配人に言った。 「帰りたい…」 桜二まで失ってしまったら…オレは死んでしまうかもしれない。 なのに…どうして…勇吾を好きになってしまったんだろう… 支配人が見守る中、動きを今にも止めそうな体を動かして衣装から着替えると、楓に支えて貰いながら、階段を上った。 「彼氏が電話に出ない。」 そう言ってオレを抱きかかえると、支配人がウェイターに言った。 「家が近いから…ちょっと送って来るわ。店を頼む…」 「シロ…どうした…」 誰かの声が聞こえて、支配人がその人と何か話し始めた。 誰だ… 「俺も一緒に行く。」 その人はそう言うと、オレの体を支配人から受け取って、軽々とお姫様抱っこした。 依冬かな… 朦朧とする意識の中、花の香りがして…この人が誰か分かった。 「勇吾…」 溢れる涙をそのままに彼の胸に顔を埋めて、泣きながら気絶した。 夕方の団地… 中学校から帰ると、仕事の時間なのに兄ちゃんが玄関の前にいた。 「兄ちゃん…どうしたの?今日は早かったの?」 オレがそう聞くと、兄ちゃんはオレを見て言った。 「シロ?シロは…兄ちゃんの事が…信用出来なくなっちゃったのかなぁ…?兄ちゃんの事が…信じられなくなっちゃったのかなぁ…?あぁ…そうだよね…、兄ちゃんは…シロを裏切って…あんなものに縋ってしまったんだから…」 ”宝箱”のウサギと同じ目をした兄ちゃんの手には…オレが出さなかった授業参観のプリントが握られていた… 「ち、違うよ…中学校になると、どの子の親も、参観日なんかには来ないんだ。だから…見せなかったんだよ…」 「嘘を吐くなよ!シロ…お前はそんな子じゃなかっただろ?兄ちゃんにだけ甘えて、兄ちゃんにだけ…うっうう…うっ…」 大きな声を出した兄ちゃんに体が震えて、立ち尽くした。 こんな事を言ってメソメソしてオレを責め立てる兄ちゃんを…怖いと思った。 「もう一回…やり直そう…やり直すチャンスをくれよ…」 オレの腕を強くつかむと、玄関の扉を開いて、乱暴に中に放り込んだ… 玄関には大量の大人の靴があって、足を取られて転ぶと、誰かがオレの体を掴んで部屋の奥へと連れて行く。 「兄ちゃぁん!」 オレは必死に兄ちゃんの腕を掴んで、しがみ付いた。 イカれたウサギの瞳でオレを見下ろすと、兄ちゃんはにっこり笑って言った。 「大丈夫…兄ちゃんが傍に居てあげるから…」 「え…」 誰かがオレの手を兄ちゃんから引き剥がすと部屋の奥へと連れて行く。あっという間に沢山の手に掴まれて、身動きが取れなくなる。 「あぁ…本当だ、この子は体つきがエロいね…」 「この前してから…女の子じゃダメになっちゃったんだよ?あはは…」 代わる代わる知らない男に犯されるオレを、兄ちゃんは涙を落としながら部屋の隅で正座して見ていた。 オレが…学校のプリントを出さなかったから…? 黙って隠し事をしたから…? 自分から離れて行ってしまうと…疑心暗鬼になってしまったのかな… やり直す 売春客の相手をさせられた幼いあの頃を繰り返す事で…自分をまた求める様に…オレをわざと男に襲わせていたんだ。 グルグルのブラックホールでも吸いきれなかった些細なオレの変化に、燻った疑心暗鬼を抱えた兄ちゃんは…耐えられなかったんだ。 そして、それは…オレがおかしくなる前から繰り返されていた事でもあった。 “シロの為に売春をさせてる。” 田中刑事は兄ちゃんがそう言ったと言っていた… オレの為…? 違う…自分の為にそうしていたんだ。 兄ちゃんはオレが嘘をついたり、隠し事をしたり、少しでも自分から離れて行きそうになると、不安になった。 小さい頃から繋いで来た…オレと兄ちゃんの手。 それは、誰にも介入出来ないふたりだけの…信頼や、愛情や、依存を意味する… それが揺らいだ時に…兄ちゃんは”宝箱”のウサギになって…まるでオレに鞭を入れる様に、知らない男の相手をさせて恐怖を与えたんだ。 ちゃんと手を繋ぐように…自分に依存し続ける様に、定期的に恐怖を与え続けたんだ。 なのに… オレと繋いだその手を…兄ちゃんは女に会う為に、無残に離した… 突き放して、置いて行って、泣いても縋っても…オレの話を聞いてくれなかった。 そしてオレは、疑った事も、不安に感じた事も無かった固く結んでいた手に…疑問を持った。 兄ちゃんという存在が自分を裏切る可能性を知ったオレは、彼を心から信頼する事が出来なくなって…無条件に手を繋ぐ事が出来なくなった… だから、輪姦させて…もっと、怖い目に遭わせたんだ。 その恐怖から、再びオレが、手を繋ぎ直すと思ったんだね… 壊れてるね…蒼佑…あなたは壊れてるよ。 でも、愛してる。 悲しいけど、憎いけど、狂ってしまう程の愛をくれた…あなたを今でも愛してる。 目が覚めてガンガンと頭を揺らす頭痛に顔を歪めて、両手で頭を抑えて耐える。 思い出した事が正しい物だと証明する様に…激しい頭痛がオレの頭の中で暴れた。 「シロ…気が付いた?ん…どうした…頭が痛いの…?」 酷く狼狽えた勇吾の声が聞こえても、答えられないくらい。今回の頭痛はいつもの物より激しくて…のたうち回って痛みを逃がさないと、狂ってしまいそうだった… 「あっああ…!」 奥歯がギリギリと音を立てて、食いしばり過ぎた顎の感覚が無くなっていく。 激しく苦しむオレを見て、勇吾の顔がどんどん青ざめていく。 「大丈夫かよ…救急車を呼ぶか…?」 そう言ってオレの頭を撫でるけど、彼の手付きから、この状況を怖がっていると分かって…オレは痛みを堪えながら笑って言った。 「良い…良い…、大丈夫だから…」 息をゆっくり吐いて、深呼吸して、酸素を体に送って…痛みに抵抗しないで受け入れて、右から左へ流していく様に…気を反らす。 勇吾はオレの頭を撫でながら、苦しそうに顔を歪めて言った。 「可哀想だ…どうして、どうしてお前がこんな酷い目に遭うんだよ…!」 分からないよ… 目の奥がじんわりと冷たくなって、激しい頭痛が少し緩くなっていく… ベッドに座ってオレの体をさする勇吾に、自分の体を埋めて行く。 「はぁ…良い匂い…」 そう言って彼の膝に抱きつくと、残った頭痛を耳の奥で感じた。 「シロ…こんな酷い発作をいつも起こしてるの…?」 痛みで汗だくになったオレの前髪を指先で分けると、涙を湛えた半開きの瞳がオレを見つめて言った。 彼の美しい瞳を見て口元を緩めると、ベッドに座った彼の膝の上にゴロンと仰向けに寝転がって、彼の頬を両手で包み込んで言った。 「いいや…今日のは、酷かった…。なんだかどんどん酷くなっている気がするんだ…。この前は鼻血が出たし…。勇吾?オレはもしかしたら、この発作で…いつか死んじゃうかもしれない…」 「桜ちゃんに連絡する…」 そう言って勇吾が携帯電話で桜二に電話をかけた。 オレはその様子を彼の膝の上から見つめた。 「…出ないな。」 やっぱり… 心にヒビが入ったみたいに、冷たくて鋭い感覚が胸に走って、電話を持つ彼の手を掴んで言った。 「…桜二は…もう、死んじゃったかもしれない…」 「は?そんな訳ない!変なこと言うな…!」 勇吾はそう言うと、オレの顔を見下ろして言った。 「桜ちゃんがお前を置いて…そんな事する訳無いって俺は知ってる。今は、たまたま電話に出られなかっただけだ。その度に死んだ事にされたら…大変だぞ?」 そう言って微笑む彼の笑顔を見つめて、ぎこちなく笑い返すと、体を横に倒してぼんやりと自分の部屋を眺めた。 「狭いだろ…ここがオレの部屋なんだ…」 彼の膝を撫でながらオレがそう言うと、勇吾はクスクス笑って言った。 「狭いね…そして、物がほとんどない…」 ふふ… 「勇吾?イギリスに戻ったら…何をするの?」 目を瞑って彼の美しい匂いを嗅ぎながらそう尋ねると、彼は何も言わないでオレの髪を優しく撫でるだけだった。 優しくて繊細な彼の手のひらを気持ち良く感じていると、ポタッと頬にしずくが落ちた。 「勇吾…?」 目を開いて彼を見上げると、勇吾は悲しそうに瞳を歪めて、大粒の涙を落として言った。 「シロ…桜ちゃんと引き離すような事をしてごめんね…。お前は何度も俺に言ったよね…。なのに、話を聞かないで…自分の好きな様にしてごめん…。桜ちゃんが俺を気に入ってくれる様に…努力するから…。もう、苦しまないで…傷つかないで…ね?」 へ? 「…そう。」 オレは首を傾げながらそう言うと、彼の大粒の涙を指先に落としてペロリと舐めて言った。 「分かった…」 彼の涙はしょっぱくなかった… テレビで言っていた。 悲しい涙はしょっぱくて、嬉しい涙はしょっぱくないんだって… だったら、彼は悲しくて泣いてる訳じゃないんだ。 再びそっと目を閉じて、彼の手がオレの髪を撫でる感覚を味わった。 桜二…どうして電話に出てくれないの… 死んじゃってるの…? コンコン… 玄関をノックする音がして、勇吾が首を傾げた。 「家にはね、呼び鈴なんて無いんだ。ノックだ…」 オレはそう言って体を起こすと、玄関にヨロヨロと歩いて向かう。 ガチャリ 「あ…」 扉を開くと、目の前に桜二が立っていた。 「桜二…」 生きてた…! 彼の顔を見つめてオレが微笑むと、彼はオレの部屋の奥を見て、穏やかだった表情を一変させた。 「何で…お前が、ここに居るんだよ…」 押し殺したような声で、桜二が勇吾に凄んで言った。 「お店で発作が起きて…たまたま居た勇吾が…支配人とオレをここまで運んでくれたんだ…」 「外に出ろよ…」 オレの言葉も聞こえていないみたいに視線もこちらに寄越さないで、桜二は勇吾を睨みつけてそう言った。 「桜二…桜二…!」 彼の目の奥がグラグラと怒りに揺れていて、オレは彼の腕を掴んで言った。 「本当に何でもないんだ…発作が起きて…酷い頭痛がさっきまで…」 「…嘘つくなよ。」 桜二がオレを見下ろして、冷たくそう言った… また、冷たくて鋭い感覚が胸に走って…彼の顔を見つめたまま、体が固まった。 勇吾が靴を履いて、桜二の後をついてボロアパートの階段を降りていく。 次の瞬間…ガッと鈍い音を出して、桜二が勇吾をぶん殴った… 「桜二…!」 慌てて裸足のまま階段を駆け下りると、馬乗りになって勇吾を殴り続ける彼の体にしがみ付いて、勇吾から引き剥がそうとした。 「やめて!やめて…!」 顔から血を流した勇吾の苦悶の表情を見て、体が強張ってブルブルと震える。 兄ちゃん…! まるで、オレを守る為に大人の男に食って掛かった兄ちゃんが…ボコボコにされている時のような光景に… 勇吾が兄ちゃんに見えて、必死に桜二を止めた。 「やめてぇ…やめて…!桜二、嫌だぁ…!兄ちゃんを殴らないで!」 オレの声なんて聞こえていないみたいに、桜二は勇吾を殴ることを止めてくれない。 彼の表情も、口から放つ息も、鋭い視線も、今まで見た事の無い彼で…恐怖と、悲しさと、懇願を込めて、彼の体を押して勇吾から退かそうとした。 オレの体を片手で掴むと、見もしないで横に放り投げて、地面に転がって呻くオレを無視して、勇吾だけを執拗に殴り続けてる。 死んじゃう…兄ちゃんが、死んじゃう…! オレは咄嗟に勇吾の体にしがみ付いて、彼を暴力から守った。 「も、もう…やめて!」 「シロ!…危ないから!向こうに行ってろ!」 勇吾がそう言ってオレを押し退けようとするけど、踏ん張って彼を守る。 これ以上…これ以上、兄ちゃんが殴られるのなんて…嫌だ! 勢いの止まらない桜二は、オレの背中を殴って横に吹き飛ばすと、足で遠くに蹴飛ばした。 「…シロ!桜ちゃんっ!やめろ…!」 痛い…めちゃめちゃ痛い… 怖い… オレは恐怖に震えながら起き上がると、ヨロヨロと歩いて勇吾を跨いだ。 そして、我を忘れた桜二に正面から抱きつくと、必死に彼の体を押して言った。 「もう…もうやめてよ…死んじゃう…死んじゃうよぉ…っ!」 髪を掴まれて体から引き剥がされると、彼はオレにギラギラと憤怒した目を向けて、思いきり頬を引っ叩いた。 その衝撃で、オレは体ごと横に吹っ飛んだ… クラクラして…頭が揺れて…目の前が真っ白になる。 鼻の奥がツンと痛くなって、温い血がタラリと鼻から垂れていく。 オレの腰を掴んで、慌てて桜二から引き離すと、勇吾が大声で怒鳴って言った。 「桜ちゃん!シロをぶつなよっ!!」 勇吾と向かい合う様に立ち尽くす桜二の瞳の奥に、グルグルのブラックホールが見えた。 まるで悲しい怒りが…具現化した様な彼が…堪らなく、可哀想になった。 「桜二…ごめんなさい…ごめんなさい…」 止める勇吾の手を払って、桜二の体に抱きつくと、彼の頭をギュッと抱きしめて言った。 「お前が悲しいのは…全部オレのせいだ…。ごめんなさい…桜二…。オレを、許して…」 そう言って彼の顔を覗き込むと、彼は未だに鼻息を荒くして、勇吾を睨み続けるばかりだった。 グルグルのブラックホールが渦を巻いて…桜二を飲み込んでる… 「その人じゃない…お前が怒るのは…その人じゃない。オレだよ…」 彼の耳にそう言って、彼の震えた握りこぶしを掴んで、自分の頬に当てると、そのまま自分を殴った。 彼が正気を取り戻すまで…彼の握りこぶしで、自分の頬を殴って痛くて泣いた… 「うっうう…ひっく…」 泣きながら彼の手を持ち上げて、もう一度殴ろうと振りかぶると、彼の腕に力が入って、動きを止めた。 「…くっ!」 オレの顔を見て、ボロボロと涙を落とす桜二と見つめ合う。 …彼の目にはもうグルグルのブラックホールは無かった… 「桜二…ごめんなさい…オレが、いけないんだ…」 そう言ってしくしく泣くと、背中を丸めた彼の胸に顔を埋める。 桜二…ごめんなさい… 「わぁ…血だらけ…」 大騒ぎの暴力に、いつの間にかボロアパートの前に人だかりが出来ていた。 派手なエンジン音を鳴らしながら、人込みを蹴散らすように現れたジャガー。 オレ達の様子を見て、車の中から依冬が慌てて降りて言った。 「痴話げんかだ…もう、見せ物じゃないぞ…!どっか行け!」 そう言って人払いすると、オレの顔をハンカチで拭いて言った。 「様子を見に来たら…こんな事になってて…もう、一体何があったの?」 「勇吾を…病院に連れてってあげて…」 血だらけの顔で体を起こして呆然とする勇吾を指さして、依冬に言った。 「桜二が…怒って、彼を殴った…」 「それを止めたら…巻き沿いを食ったの?」 眉を顰めてオレに聞いて来る依冬に、コクリと頷いて答えた。 オレは息が荒くなった桜二の胸に抱きついて、彼の興奮が収まるのを待った。 桜二はオレの手を掴むと立ち上がって、興奮冷めやらぬ様子で乱暴に自分の車に放り込んだ。 「桜二!落ち着けよっ!シロに乱暴するな!」 そう言って依冬が怒っても、彼の耳には届いていないみたいだ。 運転席に乗り込むと、桜二は何も言わないで車を出した。 ハンドルを握る彼の拳から血が垂れる…あれは桜二の血?それとも、勇吾の血…? たまに込み上げた様にひっくひっくと泣きながら、無言のまま、自分の部屋までオレを連れて帰ると、そのまま玄関を上がって、部屋の奥へと行ってしまった… 「桜二…」 ソファに腰かける彼の傍に行って、名前を呼んでも…彼はオレを無視して、ただ、ひとり噛み締める様に泣いていた。 オレは洗面所に行くとタオルを取って水に濡らした。 桜二の元に戻って、彼の手のひらを持ち上げて血が出ている所を拭ってあげる。 皮がめくれて、ピンクの肉が見える…痛そうだ。 勇吾…大丈夫かな… 桜二の傷から流れる血を拭っていると、自分の頬や、体が痛くなって来て、桜二を見上げて言った。 「桜二…あちこち痛い…」 彼は表情を変えないでオレを見下ろして見つめた。 彼の瞳の奥から、悲しいって感情しか伝わってこなくて…オレは彼に言った。 「桜二…ごめんなさい。今日の朝、酷い事を言って…ごめんなさい…。嘘を吐いてごめんなさい…でもお店で発作が起きた事は…」 オレの話が終わらないうちにソファから立ち上がると、彼はシャワーを浴びに行ってしまった… 桜二がとても怒ってしまった…オレに幻滅して、悲しい気持ちしか無いみたいだ… 「…嘘つくなよ。」 あの時、そう言った桜二の顔が…声が…頭から離れない。 彼のシャワーの音を聞きながら、濡れたタオルを自分の頬に当てた… 彼に殴られた体が痛い… コロンとソファに寝転がって、体に走る激痛に顔を歪める。 「イテテ…」 あぁ…絶対、痣になる… 筋肉を破損した…ポールに掴まれないかもしれない… これは罰なの? これを耐えたら…彼は許してくれるの? またオレと口をきいてくれるの…? そっと目を閉じて、真っ暗闇を眺めながら…グルグルのブラックホールに話しかける。 桜二がとっても怖かった…あんなもの、忘れたいよ… 彼がオレに口をきいてくれない事実も、彼が悲しんでる事実も、全て吸い込んでよ。 忘れてしまいたいんだ… もう…何もかも…忘れてしまいたい… 胸がキュンと痛くなって、心に入ったヒビから冷たい血が流れて行く。 リビングに戻って来た桜二の足音が聞こえて、オレの体を持ち上げる両手を感じながら、ただダランと力なく身を任せる。 オレをベッドに寝かせると、隣に寝転がって、彼は何も言わないまま電気を消した。 カーテンをぼんやりと照らす月明かりに、浮かび上がる彼の横顔を見つめて、息をひそめた。 この人を失ったら…オレはどうしたら良いの… 彼がオレの手を離してしまったら…どうしたら良いの… そこはかとない不安と、恐怖と、自己嫌悪に…ヒビが入った心が汚い血を垂れ流しながら、押しつぶされていく。 「あっふふふ…!最悪だぁ…!」 両手を口に当てて、込み上げてくる笑いを止められなくて、泣きながら笑う。 また同じように大切な人を失うなんて… もう…嫌だ… 嫌だ… そんなオレを彼は何も言わないでギュッと抱きしめると、優しい手付きで髪を撫でた。 込み上げる涙は、あるべき場所に戻った安堵なのか… 本格的に壊れて行く、恐怖からなのか… 何も話さなくても、彼の匂いを嗅いで、彼の温かさを感じて、こんなに安心して、満たされるのに。 死んでしまいたい ウトウトと目を覚ますと、差し込まない日差しに時計を確認する。 11:00… カーテンが締まったままの寝室。 桜二はオレを起こさなかったみたいだ… 「イテテ…」 何気なく体を起こすと、体中に痛みが走って、前屈みにうずくまる。 そうか…昨日、大変な事が起きたんだ… ヨロヨロと洗面所に行くと、腫れた頬を眺める。 おたふく風邪の治りかけ… 両手で挟むと、オレの両頬はじんわりとまだ熱を持っていた。 着ていた服を全て脱いで、鏡の前で体を確認する。 胸と背中、太ももに大きな痣が出来ていた… 「あ~あ…」 ポツリとそう言うと、そのまま書斎へと向かった。 「桜二…こんなになった…」 在宅ワークをしている彼の部屋に入ると、彼の目の前に行ってそう言った。 彼はオレの痣を確認すると、無言のまま視線をパソコンに向けた。 カチャカチャとキーボードを打って、仕事に戻った様子の彼に…察した。 「…なんだ、もう…どうでも良いの…」 グシャッと音を立てて…自分の心が潰れた気がした。 零れる涙をそのままに書斎から出ると、自分の荷物をまとめて”宝箱”を彼のベッドの下から引っ張り出した。 着替えを済ませて、書斎にこもりっきりの彼に声も掛けないで、部屋を出る。 オレがどうしようもないから…彼の愛は終わったみたいだ… 彼は、オレの手を離したんだ… 「あふふ…!あふふふ!おっかしいっ!あ~はっはっは!」 1人で大笑いして、痛む体を庇う事もしないで、美しくピルエットを回った。 踊れる。 痛みを感じなければ…オレは踊れる。 「ふふ…凄いな…オレって、凄いな…」 ポツリとそう呟いて、タクシーを停めて乗り込むと、新宿のボロアパートまで戻った。 あの後、依冬が部屋の鍵を掛けて行ったみたいだ。 仕方が無いので、オレはキッチンの小窓からよじ登って部屋に入った。 「ふふ…お家に、帰ってきたよ?今日から…また、ふたりきりだよ?」 泣きながらそう言って、ベッドの壁にKPOPアイドルのポスターを張り直す。 そのままベッドに突っ伏して、体に掛かる重力を受けて痛む傷を楽しむ。 何故だろう…こんなに絶望を感じるのに、全然苦しくない…あまりに見事に桜二に見限られたせいかな… 自分の馬鹿さ加減に…笑えて来るんだよ… 電源を落としっぱなしの携帯の電源を元に戻すと、依冬に電話をかけた。 「もしもし?オレの居場所、どこだか分かる?」 唐突にオレがそう言うと、電話口の依冬は静かな声で言った。 「シロ…昨日は大丈夫だった?」 「んふふ…!え…大丈夫?分からない…何が大丈夫で、何がそうじゃないのか分かんないよ。」 依冬の優しい声に口元が緩んで、ヘラヘラとそう言って笑った。 電話口の彼はオレの様子に戸惑ったように言った。 「シロ…?今、どこに居るの?桜二は近くにいる…?」 桜二…? 桜二は近くにはいない… 「桜二は…桜二…桜二は…居ない…もう、居ない…ふふっ!あふっ!あはは!」 オレはそう言って一方的に電話を切ると、ベッドの上に座って携帯電話のチンアナゴを見つめた。 「そうだ!」 ケラケラ笑って桜二の連絡先を探すと、彼に電話をかけた。 「もしもし?オレが今どこに居るのか分かる~?」 すぐ電話に出た癖に、彼は何も話さない。 ふふ…彼の声を忘れてしまいそうだ… そうか…忘れて良いのか… 「…なぁんだ、もう…」 歪んだ瞳から涙が落ちて、彼の声が聴きたくて、耳に押し当てた携帯をもっと強く押し当てる。 それでも何も聞こえてこない電話口に、諦めて携帯を耳から離すと、通話ボタンを切った。 「うっうう…うっうっ…桜二…うう…」 体の力が抜けて、重力に負けると、ベッドに突っ伏して、痛む頬をベッドに擦り付けながらすすり泣いた。 愛する人を見つけて、全力で甘やかされて、これ以上ない愛を貰っていたのに… 目を覆いたくなるような過去も、汚れて汚い自分も、全て受け入れて、傍に居てくれたのに… 彼の嫌がる事をして…彼から逃げて、彼を傷付けた。 なのに…今更、まだ愛して欲しいなんて…願うなんてさ… 「あはは…これじゃ、兄ちゃんと同じじゃないか…オレがやってる事は…兄ちゃんと同じだ…!」 その瞬間、体が跳ねるくらいの動悸が起きて、体が硬直してベッドに倒れる。 息が苦しくなって…目の前が真っ暗の闇に覆われていく… もう、誰も助けてくれないよ? だってオレが…どうしようもないくらい、馬鹿で、クズで、最低だから。 このまま、1人で死んだら良いんだ… お前なんて… このまま…死んじゃえよ!! 息が苦しいのに、目の前が黒くなって何も見えないのに、頭が冷たくなっていくのに、自分が馬鹿すぎて、おかしくて…笑いが止まらない。 「あはは!あはははっ!」 ぐらつく首を不気味に揺らして大笑いすると、耳の奥でプツッと音がして、一気に頭が重くなって、ばたりと倒れ込んだ。 目の前の真っ暗は…寝ているのか、起きているのか、分からなくする。 「シロ…、着替えはちゃんと洗濯カゴに入れて…?」 「…はぁい。」 それは兄ちゃんとオレの他愛のない会話。 暗闇の中、声だけが鮮明に耳に届いた。 「兄ちゃん…いや…」 「どうして…?兄ちゃんの事、好きだろ?…どうして、嫌なんて言うの?シロ…おいで。」 引きずられるような音がして、ベッドがきしむ音がした。 「にいちゃぁん!」 「どうして嫌なの?兄ちゃんの事、好きだろ?兄ちゃんはシロが大好きだよ…愛してるんだ。シロ以外なんてどうでも良いんだよ?」 「嘘つき…!嘘つき!嘘つき!兄ちゃんは、シロのウサギじゃなくなった!」 オレの声がそう叫ぶと、急にシンと静かになった… 暗闇の中、兄ちゃんのすすり泣く声が小さく聴こえて、胸が苦しくなって、呼吸が乱れる。 「許して…許してよ…シロ。馬鹿な兄ちゃんを許して…」 泣き声に、悲痛な言葉を乗せて、兄ちゃんがそう言った。 オレの泣き声も聞こえて…同時に狼狽えた兄ちゃんの声がした。 「シロも…兄ちゃんを許したいよぉ。でも…ここに残って、痛いんだ…。どうしたら良いのか…分からない。にいちゃぁん…えっく、えっく…」 あぁ…オレは、あの事を…完全に忘れた訳じゃなかったんだ… オレは…兄ちゃんが男に自分を襲わせた事も、売春させた事も… オレを裏切った事も…覚えていたんだ。 忘れた振りをして…やり過ごしていただけだったんだ… 哀れだな 「シロ…ごめんね…愛してるのはお前だけだよ…。兄ちゃんは…少し、頭がおかしくなっていて、お前に酷い事を繰り返してる…。それに…意味も理由も無いんだ。ただ…狂ってるんだ…。そんな事をして、許して欲しいなんて、お前に無理ばかり言って…最低なんだ…。ただ、忘れないで…兄ちゃんはお前が大好きで、お前の事を思ってる。お前以外の事なんてどうでも良くて、お前が俺の全てなんだ。」 兄ちゃんの声が、まるでエコーがかかった様に頭の中に響いて、反響の余韻を残して暗闇の中に消えた。 「兄ちゃぁん!!」 起き上がると、激しい頭痛と吐き気に襲われて、今までにない感覚に、自由にならない体を引きずって携帯電話を手に持った。 時間を見ると…16:00 迷うことなく、桜二に電話をかけて言った。 「助けて…」 「…どこに居るの?」 「自分の…部屋…」 「すぐに行くから…待ってて…!」 桜二… 死にたがっていた癖に…オレはまた意地汚く生きようとしてる… 彼に縋って…彼に哀れんでもらって、傍に繋ぎとめようとしてる。 最低な、薄汚いダッチワイフの…くそビッチ… こんな奴…死ねば良いんだ… 気持ちが悪くて意図せず吐くと、いつも以上に痛い頭に目玉が取れそうだ… 両眼を押さえて体を丸めると、吐き出した自分の嘔吐物にまみれて、激痛に体を仰け反らせて苦悶する。 体がバラバラになって行く様な感覚に襲われて、気持ちの悪い浮遊感と、叩きつけられる様な体の痛みを繰り返し感じて…気絶する。 夕方の団地の部屋。 オレは夕飯の支度をする兄ちゃんの背中を見つめながら、そっと顔を覗き込んだ。 「兄ちゃん…?」 「ん…どうしたの?」 兄ちゃんは不思議そうに目を丸めると、オレを見つめて微笑んだ。 オレはそんな兄ちゃんに安心して、背中に抱きついて頬を付けて甘えた。 「んふふ。今日は変な目をしてない。いつもの兄ちゃんだね?シロはね…あの目の兄ちゃんが、少しだけ…怖いんだ。」 オレがそう言うと、兄ちゃんは表情を暗くして伏し目がちに言った。 「怖いの…?それは、可哀想だね…ごめんね。」 謝って欲しいんじゃない…兄ちゃんに…元に戻って欲しかったんだ。 たまに現れる…怖い目の兄ちゃんが怖くて、普通の兄ちゃんに戻ってほしかったんだ。 彼が壊れているなんて…知らなかった。 だから、どうして兄ちゃんがそうするのかなんて…分からなかったんだ… 「兄ちゃん…ずっとシロの傍に居てよ…どこにも行かないで…」 そう言って兄ちゃんの背中に甘えると、兄ちゃんはクスクス笑って言った。 「もちろんだよ…兄ちゃんはシロとずっと一緒に居る。」 あったかくて、優しくて、強くて、甘くて、オレだけの、兄ちゃん… 「約束して…?」 オレがそう言って兄ちゃんの脇から手を差し出すと、兄ちゃんは料理を止めて、オレの小指に自分の小指を絡めた。 「指切りげんまん、嘘ついたら…針千本飲~ます。指切った!」 もう一度、会えるなら…オレは兄ちゃんに何をしてあげられるだろう。 桜二の様に愛して、依冬の様に信じて、勇吾の様に…導いて もっと上手に愛してあげられるのかな… もっと上手に大切に出来るのかな… もし、もう一度会えるのなら、二度と離れたくないよ。 オレは兄ちゃんのシロだから…オレが、死ぬまで、ずっとそうなんだ。 「シロ…あぁ、酷いな…どうしよう…」 狼狽えた桜二の声がして、目を開いた… 「あっ、ああああっっ!!」 目の奥が鋭くえぐられて、目玉が飛び出さないように両手で抑えると、飛び出した部分を慌てて手のひらで奥に押し込んでいく。 「あぁ!シロ!だめだ!!」 桜二がオレの手を掴んで、目を押さえた手を広げて抑えた。 「ギャアアアアアッ!!目が、目がっ!飛び出る!!」 興奮して暴れるオレを抑えると、彼が静かな声で言った。 「大丈夫…俺が傍に居るから。兄ちゃんが傍に居るから、ね。大丈夫…」 「兄ちゃん…」 オレの体からクタッと力が抜けて、彼にもたれかかっていく。壊れそうに痛い頭を下に垂らして、目の奥の激痛を受け入れて、じっと耐える。 桜二は携帯で救急車に電話すると、言った。 「…精神的に起こった気絶から目覚めた人が、激しい頭痛を訴えて嘔吐しました。目から…血が流れていて…動かして良いのか分からない。早く来て下さい…。はい。場所は…」 淡々と落ち着いて聞こえる彼の声も…彼の手も…彼の体も…少しだけ震えてるのに気が付いて、オレの為に動揺を抑え込んでいると分かった… 「桜二…兄ちゃん…痛いよ…痛いよぉ…」 兄ちゃん? 兄ちゃんは、いない… オレが守ってあげられなかったから…死んだ。 ちゃんと愛してあげなかったから…死んだんだ。 もう…疲れた… 兄ちゃんの居ない世界を生きて行く事に、疲れた… 目を瞑りながら彼の胸に顔を擦って、弱々しく甘えると、オレの頭を優しく抱えて、髪を撫でた。 あまりの激しい頭痛に、再び嘔吐すると、そのまま、また気を失った… 「どうしてあの人と会ってたの…あの人って…あの時の人だよね…?どうしてキスなんてしていたの?あの人の事が…好きなの?シロじゃなくて…あの人の事が…」 オレは知っていた。だから、兄ちゃんに問いただした。 「違うよ…!シロ、聞いてよ…。あれは向こうが勝手にしてきたんだ…!急にされたから…止められなかった…。本当だよ。シロ、本当だよ…。」 オレは、その言葉を、信じる事が出来なかった… 消えたと思っていたグルグルのブラックホールが目の前に現れて、オレをどん底へと引きずり落として、全てを黒く染めた。 これ以上この人の傍に居ると…もっと傷つけられるから…何も見ないで、何も感じないで、ただ暗闇に居て…何も考えなくて良い様に、狂おうって…言った。 でも、オレはあの時の様にグルグルのブラックホールに飲み込まれなかったんだ… 兄ちゃんを無視して、兄ちゃんを避けて、家に帰らなくなって、警察に補導されて、自暴自棄になって…でも、狂ってはいなかった。 兄ちゃんを責めて、兄ちゃんを許せなくて、被害妄想と、猜疑心を膨らませても…オレは狂ってはいなかった。 あんな酷い事をされても…兄ちゃんを愛していて…許そうと思っていたんだ。 彼が問題を抱えているって…薄々感づいていた。 でも、自分ではどうする事も出来なくて、ただ…自暴自棄になる事しか出来なかった。 兄ちゃんが自殺した時、全てを忘れたのは…自分を守るため。 何も出来なかった自分を…殺してしまわない様に、守ったんだ。 「にいちゃぁん!!」 そう言って飛び起きると、真っ白な部屋の中…両手が拘束された硬いベッドに寝かせられていた。 「あぁ…!兄ちゃん…シロはまたやったよ…桜二が居なくなってしまった…!また大事な人を失ってしまった!…いつもそうだ。どうしてそうするのか?どうしてそうなるのか?訳が分からないよ…本当に、こいつが憎くて…堪らない!!死ねば良いのに…!こんな奴…!こんな汚い生き物!死ねば良いのにっ!!」 感情に任せて誰にも見えない兄ちゃんに叫ぶと、腕に繋がれたチューブに看護師がシリンジで何かを入れた。 ベッドに横たわった自分の体がドロドロに溶けて、どす黒い液体が布団から滲みて浮き出て来る… 「あはは…シロは…産まれて来たら、ダメな生き物だったんだよぉ…兄ちゃん…」 動かない両手をガンガンと揺らして、手首を痛めつけると背中に痛みが走った。 忌々しい… 痛みを感じる事すら…おこがましい。 息をする事すら…許したくない。 この生き物が…憎くて憎くて…堪らない。 汚くて…淫乱で…誰彼構わず腰を振る…腐った死体… ダラリと首を項垂れると、そのまま口から舌を垂れ下げた。 お前なんて…もう、死ね… ゴリッ… 「あぁ…!シロ!!」 歯切れのよい音をさせて自分の舌を思いきり噛むと、桜二の叫び声が聞こえて…ニヤリと口角が上がった… 桜二…ごめんね、オレはあなたを愛してる。 こんな汚い生き物に…愛されるから、苦しむんだ…。 可哀そうな桜二…可哀想…可哀想だ…もう、自由にしてあげる… ふざけた口からダラッと肉が垂れて、ドクドクと舌が脈打つと火が付いたように熱くなって、最期に相応しい壮絶な痛みに、自分の血に溺れながら大笑いした。 「ギャ~ハッハッハッハ!」 早く死ね…早く死ね…早く死ね…死ね…死ね…死ね!! 意地汚く生きて…人を傷つけて…貪る様に快楽だけ求めて、一丁前に愛なんて欲しがって…与えたがって…本当に……汚い生き物の分際で…うんざりするよ。 お前なんて誰にも愛されない…だから、死んじゃえ… うん…シロも、ずっと…死にたかったんだ。 兄ちゃんの居ない世界は…まるで、終わらない、無間地獄の様で… 正気を保つことなんて…土台無理な話だったんだ。 「シロ…兄ちゃんと少し話そう…」 「嫌だ…」 オレはそう言って兄ちゃんの差し出した手を無視して、家を出た。 あの時、話していたら…違ったの? あの時、何を話そうと思っていたの? 教えてよ… 兄ちゃん…オレは、あまりに兄ちゃんの事を知らなさ過ぎた… 何もかも知らないで…ただただ、求めてばかりいた。 兄ちゃんは壊れて、苦しんでいたんだね…? 赤い首輪のウサギは…兄ちゃんのグルグルのブラックホールだったんだ… 我を失って、狂っていたんだ。 だからシロに…酷い事をしたんだね。 だから我に返った後、酷く後悔して、もっと壊れてしまったんだ… 可哀想な蒼佑…オレの愛する…オレを愛した、壊れた兄ちゃん。 小学校に上がったオレの入学式にも、授業参観にも、卒業式にも兄ちゃんが来た。 「仲が良いのね…」 大人たちは表向きにそう言って、裏ではオレ達の事を“可哀想な子たち”…と呼んだ。 買い物も、洗濯も、病気になった弟たちの世話も、兄ちゃんが1人でした。 遊びもせずに、毎日直帰して、夕飯を作ってオレや健太に食べさせた。 たまの贅沢も…オレを膝に乗せて、テレビを見ながら飲む1缶のビールだけ。 休みの日にはデパートの屋上に連れて行ってくれた。 他の子に気後れするオレに言った。 「シロ。これ乗ってごらん?兄ちゃんがお金を入れてあげるから、乗ってごらん?」 「…やぁだ…」 だって、それはみんなが乗りたがってるカッコイイ車の乗り物だもの…シロが乗ったら、きっと、意地悪される。 「おいで、おいで、順番を守ってるんだ。シロが乗っても良いんだよ?」 兄ちゃんはそう言ってオレの両脇を抱えると、乗り物に乗せて、嬉しそうに100円を入れた。そして、動き始める乗り物を見て言った。 「シロ、かっこいいね~?」 ふふ…兄ちゃんはそう言ってふざけると、オレを見て笑った。 兄ちゃん…オレは強くなったんだよ? もう気後れなんてしないし、誰にでも喧嘩も売れる。 桜二に殴られたって、泣いたりしない。 それにね…ストリップで綺麗に踊ることが出来るようになったんだよ? 兄ちゃんに…見せたいよ。 オレが踊ってる所を…兄ちゃんに…見せたかった… とってもエッチで、とっても綺麗で、とっても美しいんだよ…? でも、兄ちゃんが居たら…オレは、こんなに強くなれなかったんだね。 兄ちゃんが死んだ事がオレの運命なら、オレは強くなる事が決まっていたの? だとしたら、この後はどうなるの…どうなっていくの? 誰の隣に居て、誰と笑い合うの? …この後は、シロが死んで、ハッピーエンドになるんだよ?本当はもっと前に終わる予定だったのに、無駄に話を伸ばして…最悪なんだ。上映時間はとっくのとうに過ぎているのに、自己満足な話しを垂れ流し続けて、お客さんはただただこの話を見て、傷付くだけ… 話しの辻褄合わせも出来ない駄作の癖に…無駄に上映時間が長い、陳腐でお粗末な映画なんだ。 目が覚めると、さっき目覚めた場所とは違う場所に居て、視線の端に桜二が居た。 喉の奥まで管が入って、違和感のある腫れあがった舌が口の中を塞ぐ。 どうやら舌をかみ切ったくらいじゃ、この化け物は死なないみたいだ… 視線の先で、項垂れてオレの手のひらを握る彼を見つめる。 桜二… 指先を少し動かすと、桜二がオレの顔を凝視して、うっすらと開いた瞳で彼を見つめ返した。桜二は、悲しく瞳を歪めて、震える体でオレを抱きしめた。 「シロ…!ごめんね…もっと早く、もっと早く病院に連れてこればよかった…!」 彼はそう言って声を絞り出すと、オレの頬を何度も撫でて、優しいキスをおでこにくれた。 どうして…桜二が、謝るんだよ… 何も悪くないのに…謝る必要は無いんだ… オレは自分を抱きしめて震える彼の腕を、そっと手のひらで撫でた。 大きくて、あったかくて、優しい… また、この感覚を味わえるなんて…死ななくて、良かった… 現金で…懲りない…こんな気持ちに呆れて物も言えない。 「依冬に言われていたんだ…シロの気絶する発作は、体に良くないって…早めに専門医の受診を勧められていたんだ…。なのに…なのに…!俺は、お前に…“兄ちゃん”って呼ばれる事が、無くなるのが怖くて…受診させる事が出来なかったんだ!」 桜二はそう言って、オレの手を握り返すと項垂れて泣いた。 実に依冬らしい。 そう…彼は1番年下なのに…1番、現実主義なんだ… 口元を緩めると、視線を桜二に向けて彼のボサボサの頭を見つめた。 まるで、売れない作曲家が年齢にそぐわない過酷な徹夜労働を終えて、疲れ切って、項垂れているみたいだ…ふふっ 彼の髪を指を立てて後ろに流すと、そのまま優しく頭を撫でた。 この感覚をまた味わえるなら… 死ななくて…良かった… 苦しくても、辛くても、逃げ出したくなっても、心が壊れても… 彼に触れられるのなら…まだ… 彼の体温を感じて彼の声を聞いて、目の端から涙が伝って落ちた。 そのまま朦朧として目を瞑ると、再び眠りに落ちていく。 体に入れられた薬のせいなのか…やけに眠くて、意識がぼんやりとするんだ。

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