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第21話

「わぁ…シロ、こんな危ない所で働いているの…?それは…兄ちゃんは、ちょっと良く 分かんないな…?」 兄ちゃんはそう言って顔を見上げると、店の入り口を見上げて、口を開けっぱなしにした。 18:45 三叉路の店にやって来た。 オレは、完全に気後れした兄ちゃんを連れて、エントランスに入ると、支配人に手を上げて挨拶をした。 「よっ!ジジイ!オレの兄ちゃんだぞ?」 オレがそう言うと、支配人はオレと兄ちゃんの顔を見比べて、大笑いして言った。 「あ~はっはっは!お前に、そんな男前の兄ちゃんが居る訳が無い!」 なんだと! オレは兄ちゃんの腕にしがみ付くと、ムキになって言った。 「フンだ!兄ちゃんは、ずっと昔から、オレの兄ちゃんだい!」 階段を一緒に降りて、兄ちゃんに控室を案内してあげる。 これは特別だよ?ふふっ! 「兄ちゃん?この子が楓だよ?オレのダンサー仲間なんだよ?」 オレがそう言うと、楓が緊張した様に立ち上がってペコリとお辞儀をして言った。 「…あ、シロ君には…いつも…お世話になってます…!」 ふふっ!慣れない挨拶して…楓がぎこちなく兄ちゃんと握手した。 「あ…よろしくどうぞ…」 楓の薄着に動揺した兄ちゃんが、目のやり場に困ってたじろいだ…!ははっ! 「シロ、お兄さん?僕にも紹介してよ。」 そう言って智が顔を覗かせる。 「んふふ。どうしようかな…智は面食いだから…兄ちゃんに悪戯するかもしれない!それは絶対にダメなんだ~!あははっ!」 オレがそう言うと、兄ちゃんが智にぺこりと頭を下げて言った。 「初めまして…シロの、兄ちゃんです…」 んふふ…! 智は嬉しそうに兄ちゃんと握手をすると、耳年魔の講釈を話し始めた。 「年上の男って言ってもね…結局、一緒に過ごしてると精神年齢が同じになってきて、最初望んだような“頼りがい”や“男らしさ”なんて無くなっていって…最悪、バブみを感じておぎゃり出すんだよ?」 「兄ちゃんはそんなんじゃないやい!」 オレはそう言って智の講釈をストップさせる。 兄ちゃんはオレの体に隠れる様にそっと寄り添うと、いそいそと控室を後にし階段を上り始めた。 なぁんだ!兄ちゃん!ビビってるの?ふふっ! 「兄ちゃん?ビビるのは早いよ?もっと凄い世界が広がってるんだ。智や楓なんて、可愛いだけだよ?」 オレはそう言うと、兄ちゃんの手を繋いで店内に入って行く。 それは、夜の新宿歌舞伎町。 その中でも屈指のストリップバーだ。 煌びやかで、性が入り乱れた混沌の世界。 好きも嫌いも嘘っぱちだらけ、人間同士の駆け引きを楽しむ場所。 階段の踊り場から店内を見下ろして言った。 「兄ちゃん?オレはね、あそこで踊るんだよ?どう?凄いでしょ?」 店内で煌々と輝くステージを指さしてオレがそう言うと、兄ちゃんの顔がパアッ!と、明るく輝いた。そして、目いっぱいの笑顔をオレに向けると言った。 「ははっ!凄いじゃないか!あんな舞台で踊るなんて…!シロ~~!」 ふふっ! 兄ちゃんがオレを持ち上げて、クルクルと回すと、ギュッと胸に抱きしめて言った。 「立派になったね…本当に、よく頑張った…」 そうだろ…? オレは1人で、頑張っただろ? 兄ちゃんの手を掴んで、階段を降りていく。 顔見知りのウェイターと挨拶をして、兄ちゃんを紹介していく。 ぺこぺこと忙しく頭を下げながら、兄ちゃんがオレの後を付いて来る。 オレに手を引かれて…ふふっ! いつもオレが兄ちゃんに手を引かれていたね?でもね、ここではオレが兄ちゃんの手を引いてあげる。 「ねえ!見て?この人が、オレの兄ちゃんだよ?」 オレがそう言うと、カウンターに座った二人がこちらを見て、にっこりと笑った。 兄ちゃんの手を引いて二人の目の前に連れて行くと、オレは兄ちゃんに言った。 「兄ちゃん?この人が…依冬。健太と同じ年なんだよ?お金持ちで、お父さんがイカれてるんだ。」 オレがそう言うと、依冬がムッとして言った。 「そんな紹介の仕方。あんまりじゃないか…。全く、シロのそういう所…本当、よく分かんないな…。」 彼は口を尖らせてそう言うと、椅子から立ち上がって兄ちゃんの目の前まで来た。そして、お行儀よく一礼すると、にっこりと外っ面を向けて言った。 「初めまして。結城依冬です。シロの恋人です。お兄さんの話はいつも頭が痛くなる程聞いてるんですよ?でもね、異常なブラコンと付き合ってるって…諦めてます。」 なんて奴だ! オレは毒吐きの依冬を手で払うと、オレを見つめて目を細める桜二の顔を見て言った。 「兄ちゃん…この人が…」 「桜二さんだろ?知ってるよ?ふふっ!兄ちゃんは意外と彼と仲が良いんだよ?」 え…? 驚いて兄ちゃんの顔を見上げると、兄ちゃんはにっこりと微笑んで言った。 「彼は兄ちゃんの事を良く調べて、兄ちゃんの代わりにシロを守ってくれた。兄ちゃんの恩人だ。お前の中の、本当の兄ちゃんを…思い出させてくれた…そうだろ?」 そう言って兄ちゃんがオレの頬を撫でて、いつもの様に…反対のほっぺにキスをした。 それが…凄い久しぶりに感じて、涙が落ちて来るんだ。 「ふふっ!どうしたんだよ…シロ…?」 驚いたような顔をして、兄ちゃんがオレの顔を覗き込んで首を傾げる。 「兄ちゃぁん…もっと大事にするからぁ…もう、もう1人にしないでよ…」 オレがそう言って兄ちゃんに抱きつくと、兄ちゃんはクスクス笑ってオレの体を抱きしめ返して言った。 「ずっと傍に居るのに…全く、やれやれだな…ふふっ!」 え… そうだっけ… オレから離れて桜二の隣に座ると、楽しそうに話し始める兄ちゃんを見つめる。 知らなかった。 本当に…仲良しなんだ… 「シロ、そろそろ~」 支配人がオレを呼んで、オレは彼らに目配せすると、支配人と一緒にその場を後にした。 満員御礼の店内には、音楽さえ聞こえない位に人の話し声が充満する。 「可哀想な子…」 「また通報されたって…」 「男の子に売春させてたって…そうそう、あの白い子に。」 「マジかよ…汚ねえな…」 誰の事を言ってるのか分からないけど、酷い事を言うなと思った。 「人の悪口なんて…言ったらダメなんだ…」 オレはそう言って支配人の顔を覗き込んだ。彼はオレを見つめると、優しく目を細めて頷いて答えた。 「そらそうだよ…マグダラのマリアに石を投げつけられるのは、生まれてこの方、悪い事をした事がない奴だけだ。そして、そんな奴は1人もいない。みんな、多かれ少なかれ、悪い事して生きて来てるんだ。」 そう言うと、オレの髪を撫でて言った。 「クソみてぇな価値観に合わせて、自分を否定する必要はない。お前は今輝いてる。それで十分だ。そうだろ?」 今日のジジイはよくしゃべる。オレはそう思った。 でも、励まされた気がして、素直に笑って答えた。 「そうだ!さすがだな!言う事の重みが違う!全面的にその意見に賛成だ。ふふっ!」 控え室に戻って、鏡の前に座ると、オレは既に衣装に着替えて、メイクを済ませていた。 「あれ…いつの間に…?ま、いっか…!ふふっ!」 カーテンの前に立って、手首と足首を回すと、首をぐるっと回してストレッチをする。 今日は兄ちゃんが来てるんだ… いつもよりも、エッチにしよう…!ふふっ! きっと喜ぶに違いない! 大音量の音楽が流れて、目の前のカーテンが開いた。 「シロ君?ここが、どこだか…分かるかな?」 眩しいライトが目にあたって、目が眩む。 「店だよ!バカやろ!」 オレはそう言うと、顔を背けて手でライトを下げろと指示を出した。 全く!危ないじゃないか…! 目が眩んだらステージから落っこちちゃうかもしれないだろ?もう! オレはいつも以上に堂々とステージを歩いて、お客の歓声を、体中で受ける。 ステージの上が眩しすぎて、ここから兄ちゃんを確認することは出来ない。 でもね、オレは知ってる。 絶対あそこに座ってるって…知ってる。 勢いを付けて走るとポールに飛びついて、体をくねらせながら両足を高く上げていく。 「シロ?そこはもう少しドラマチックにするべきだ…」 突然スーツを着た勇吾が現れて、ポールの下で講義を始める。 「兄貴にかっこいい所を見せたいのは分かるよ?でもさ、そんな荒々しい登り方をするよりも、もっと効果的に美しさを出す方法を俺は知ってるんだ。…知りたい?」 オレはポールを掴んで逆さになりながら勇吾に答えた。 「良い!オレはオレのダンスを兄ちゃんに見せるからっ!」 そう言うと、肩をすくめる勇吾を無視してポールを上っていく。 ここからだと、カウンター席に座った兄ちゃんが良く見えるんだ… オレは、弾けそうなくらい満面の笑顔をした兄ちゃんに投げキッスをすると、華麗にスピンを決めて体を反らして行く。 「シロ君?…先生の顔、見えるかな?」 知らない誰かの声と共に、再びスポットライトが顔にあたって、目が眩んだ拍子にポールから手を離してしまった。 勇吾に言われた通りに、足でポールを挟んだのに… ポールが霧のように消えてしまうんだもん…こんなのって無いよ。 掴まる物を失ったオレは、真っ逆さまに下へと落ちていく。 ステージに着いても体は沈み続けて、真っ暗な暗闇をひたすら下へと落ちていく。 「あぁ…もう、オレはダメかもしれないな…」 真っ暗闇の中、いつまでも体が叩きつけられない状況に、やけに冷静にそう呟くと、両手を上げて言った。 「兄ちゃん…受け止めて!」 一気に場面が展開して、そこは夕方の公園へと変わる。 オレの体を受け止めて、兄ちゃんが怒って言った。 「シロ!危ないだろ?こんな所から飛んだらダメだ…!」 ふふっ!だって、絶対に兄ちゃんが受け止めてくれるって…そう思ったんだ。 「兄ちゃん凄いね?シロの事、キャッチしたぁ!」 オレがそう言って足をばたつかせると、兄ちゃんは怒った顔をしたまま言った。 「兄ちゃんが間に合わなかったら、地面に落っこちちゃってたんだよ?」 「だって、兄ちゃんが来るって分かったもん!シロの事、守ってくれるって、分かったんだもん!」 オレはそう言うと、兄ちゃんの首に抱きついて甘える。 「兄ちゃん…大好き。」 抱きついた自分の腕を眺めながら、兄ちゃんのうなじを撫でると、髪の中に指を通して頭を抱きかかえる。 「兄ちゃん…」 甘く、艶っぽい声を出して兄ちゃんに甘えると、見つめていた自分の腕がどんどん伸びて行って、浮いていた筈の足が地面に着いた。 いつの間にか成長したオレは、衣服を纏わない姿で兄ちゃんの体に絡みつくと…ドロドロと足元から溶けていく。 「シロ…!」 必死の表情で…兄ちゃんが、溶けていくオレをかき集める。 どんどん地面が近づいて来て、溶けた自分の体に、顔が埋まっていく。 目玉が飛び出して、ドロドロになって、泣き叫ぶ兄ちゃんの目の前で液体になって、地面の奥へと落ちていく。 言葉も、思考も、持たない…ただのプランクトンの様になって、水に溶けて、バラバラになって行く… 大きな海がオレを希釈して薄めると、綺麗な太陽が、じりじりと蒸発させて天に上げていく。 上昇気流を纏った体が、どんどん雲に吸い込まれていくと、バラバラになったはずの体が、あったかくて柔らかい雲の中で、徐々に元に戻って行った… 毒の抜けた体で、雨と一緒に地上に戻ると、美しくポーズを取って…フィニッシュだ。 それはどんなショーで見せた技よりも、華麗で、見事な着地。 どこからともなく拍手と、歓声が上がってチップが宙を舞う。 オレは両手に沢山のチップを抱えると、丁寧にお辞儀をして、カーテンの奥へと退けた。 「楓!見て?こんなに儲けたぞ?うしし!」 「もう…シロは、支配人に似て来たの?銭ゲバだ!」 嫌だ! 「違う!そんなんじゃ、ないよ~だ!」 オレはそう言うと、急いで半そで半ズボンを着て控室から飛び出す。 階段を上がって、支配人の言葉に片手を上げて返事をすると、店内へ戻る。 「兄ちゃん!」 階段の上から兄ちゃんを見つめて、彼にだけ手を振って、彼の元へ向かって階段を駆け下りていく。 「シロ~~!凄かった!綺麗だった!そして、かなりエッチだった!ふふっ!」 兄ちゃんはそう言ってオレを抱きしめると、熱くて甘いキスを沢山くれる。 オレは兄ちゃんの知らない所で、成長したんだよ…? 兄ちゃんの知らない所で…強くなったんだ… オレを見つめて目を細める彼を見つめると、声に出さずに言った。 そうだろ…?桜二? オレは、強いよね…? 「シロ…」 売れない作曲家の髪形をした桜二が、目の下にクマを作ってオレの顔を覗き込んだ。 そして、力のない声で言った。 「シロ…聞こえてる?」 「…聞こえてるよ?どうしてそんな事聞くのさ、ふふっ。」 違和感のある舌のせいで、上手くろれつが回らなくて、首を傾げる。 そんなオレの様子を見ると、彼の表情がどんどん歪んで行って、大粒の涙を目からいくつも落とした。 「どうしたんだよ…桜二。ふふ…知らなかったよ?お前が兄ちゃんと仲良しだなんて…知らなかった!あはは!イテテ…なんだ、ベロが痛い…」 舌先を指でチョンと撫でると、違和感の正体が分かった… 「うえ…なに、これ~!?」 うっすらと自分の舌に糸が通って、指でなぞるとフランケンみたいに縫われている事に気が付いた… 首を傾げて自分がどうしてこんな事になっているのか、桜二の顔を見つめて考えた。 でも 涙を幾つも落とす桜二の顔が、とっても嬉しそうで…オレは彼の頬を撫でながらつられて笑うと、自分の手に力が入らなくて、プルプルと震えている事に気が付いた。 「あれ?…力が入らない…」 我に返ったように桜二が慌てた様子で部屋の扉を開くと、大声で誰かを呼んだ。 あっという間に人が集まって、オレの手を取ったり、口の中を見たり、目の奥に光を当てたりして、反応を確認した。 「シロ君…お帰り…」 そう言った、白衣を着たこの男性の声を…聞いた事がある。 オレの目にスポットが当たった時も…ポールから落ちた時も…聞こえた声と同じだ。 オレは桜二の顔を見つめて首を傾げて言った。 「分かんない…」 「良いの。大丈夫…ちゃんと教えるから、大丈夫だよ…」 そう言うと、彼はぐったりと項垂れて、携帯電話で誰かに電話をかけた。 「依冬…シロが…シロが、戻ってきた…!」 その言葉にも、彼の涙にも、自分を取り囲む看護師の多さにも、首を傾げて呆ける。 「オレは…ずっと桜二の傍に居たのに…やれやれだな…ふふっ!」 そう喋ったオレの声に、桜二が握った携帯電話から依冬の叫び声が聞こえた…。 #桜二 俺のせいだ… それは突然に訪れた、彼の発作のラッシュによって始まった… 毎日の様に新しい記憶が呼び起こされて、彼の心を不安定にさせていく。 そんな中、勇吾に嫉妬した俺が…彼を更に追い詰めた。 彼の前で感情をむき出しにして、不機嫌にふてくされて、クソガキになって、ただでさえ不安定な彼を苦しめた… 病院にも連れて行かない癖に… 自分勝手に、甘い彼を味わっていた癖に… 目の前で眠り続ける、変わり果てた彼を見つめて、呆然と口を開く。 壊れた… シロが、壊れてしまった… あんなに強烈な発作を起こすなんて…思わなかったんだ。 耳慣れたサイレンを響かせて、あっという間に救急車は来てくれた。 彼が自分で自分の目を圧し潰して…両目から血を流した… 激しい頭痛に嘔吐と痙攣を繰り返して、救急車が到着した頃には、吐き出す物も無くなった… 「うっうう…シロ…大丈夫だよ…大丈夫だよ…」 そう言い続ける自分の声が泣き声だって…知っている。気付いてる。 意識の無い彼に必死にそう言って…自分に言い聞かせ続けた。 大丈夫だと… 言い聞かせたんだ…。 「ストレッチャーで運びます。」 そう言った救急隊員の声に頷くと、担架に乗せられて悶絶を打つ彼に、叫び出したくなるくらいの恐怖を感じる。 この子が!死んでしまうっ! 「助けて…助けて下さい…」 縋りつく様にそう言って、みっともなくへたり込んだ。 「血液型とアレルギーの皆無を教えてください。」 彼が担架に固定さられる中、淡々と救急隊員がそう尋ねて、俺は必死に思い出すと、震えてうまく動かない口を動かして言った。 「A型…ハウスダストのアレルギー…それくらいです…」 「運ぶぞ!」 そう言って彼が俺の目の前から連れて行かれると、やっと力の入らない腰を上げて、一緒に付いて行く。 頭痛の激痛に彼があげる悲鳴が、耳の奥を劈いて胸が苦しくなっていく。 「お兄さんですか…?呼吸を整えて下さい…これをゆっくりと奥まで吸って…?」 そう言われて、差し出された酸素を口元に当てて、彼と一緒に救急車に乗り込んだ。 「助けて…お願いだ…この子を助けて…」 苦悶の表情を浮かべた彼を見つめて、息が浅くなって、動悸が激しくなって、クラクラしてくる。 「お兄さん?あなたが倒れたら、誰がこの子を面倒見るんですか?しっかりして下さい…大丈夫だから。今は呼吸を整える事に集中して…」 そうだ…俺が倒れたら…誰がこの子を見守るんだよ…。 しっかりしろ…まだ、倒れて良い時じゃない。 救急隊員の言葉に俺は動揺を抑え込んで、酸素を肺の奥まで届ける事に集中した… クラクラした頭が鮮明に働くようになって、動悸が落ち着いて行く。 「病歴は…何かありますか?精神的な失神とおっしゃっていましたが、受診歴は?なんと診断を受けましたか?」 あぁ…まだ、俺のせいで…彼には診断すら下っていないんだ。 「いいえ…受診していないんです。でも、記憶障害があって…記憶を思い出す度に…発作が起きて、気絶をすると目を覚ました後に、酷い頭痛を訴えていて…吐いたのは、私が知ってる限り…今回が初めてです。」 たどたどしく俺がそう言うと、救急隊員が搬送先の病院を探し始める。 普通の病院か…それ以外か… 「頭痛を訴えてる場合は…脳の病気の事を考えて、頭のМRIが撮れる病院に優先的に運びます。その後、専門機関への転院を勧めています。宜しいですか?」 こんな状況なのに、苦しんでる彼を目の前にして、救急車が停まったままの事態に、苛ついて、興奮して行く。 「何でも良い!どこでも良い!早く、この子の痛みを、取ってあげてくれっ!」 俺はそう言うと、救急隊員にしがみ付いて行った。 「早く!助けて!」 「今、痛みから解放するために強制的に寝かせています…表情は険しいけれど、彼は痛みを感じてはいない。だから、安心して…」 俺を宥める様にそう言うと、救急車が目的地を決めてやっと動き始めた。 サイレンをけたたましく鳴らして、救急車が昼間の道路を突き進んでいく。 病院に着くと、ICUに入って行く彼を見送って、携帯電話を取り出した。 耳に当てて呼び出し音を聞きながら、落ち着かない気持ちを必死に落ち着かせる。 「もしもし…?依冬、俺だ…。シロが…倒れた。いつもよりも酷い発作を起こして…救急車で運ばれたんだ。○○病院のICUに入って…これから検査をするそうだ。けど…でも…うっうう…死んじゃうかもしれない…!どうしよう…どうしよう…」 狼狽してそう言うと、電話口の彼は自分を落ち着かせるようにゆっくりと話した。 「分かった…。今からそっちに行く。シロの…シロの様子は…?」 「眠らせてる…目を覚ますと…頭痛の激痛で、嘔吐して、叫び出すんだ…」 息を飲んで絶句する彼を無視して、泣きながら電話を切った。 落ち着きなく椅子に腰かけて、彼の消えたICUを不安な目で見つめる。 「お兄さんですか?」 項垂れて椅子に腰かけていると、医師に声を掛けられる。 「いいえ…恋人です…」 医師は俺を見下ろしながら、彼の状態を淡々と説明した。 「失神にもいくつか原因があって…心臓の病気でも起きるんですよ。だから、念のため頭のMRIと心電図を検査しました。そちらには異常は見られなかった。精神疾患が原因で起こる場合、強いストレスによって血管が縮んで血流を悪くするんです。そうすると、頭が冷たくなっていって…意識が無くなる。」 シロが言っていた状態だ… 俺は頷くと医師に伝えた。 「いつも…発作が起こると…目の焦点が合わなくなるんです。その後、苦しみだして…パタッと倒れて…しばらくすると、激しい頭痛を訴えながら目を覚ますんです。でも、こんな風に嘔吐したり、叫んだり、自分を傷付けたりすることは無かった…」 俺がそう言うと、医師は神妙な顔をして言った。 「なぜ今まで受診されなかったんですか?何か特別な理由があったんでしょうか…?」 いいや、理由なんて無い。 「いいえ…ただ、タイミングが合わなかっただけです…」 項垂れてそう言うと、瞳を歪ませて唇をかんだ。 今まで散々依冬に言われて来たんだ。 …彼の発作がこのままの状態である確証なんて、何もないって… 酷くなる前に診断を受けて…治療をするべきだって… なのに…なのに…、俺は彼が自分に甘えて来なくなる事を恐れて…それをしなかった。シロが正常な精神状態に戻った後の、自分へのデメリットを考えたんだ… 最低だ… こんなもの…愛じゃない…独りよがりな独占欲だ。 そんな物の為に…愛して、大切にした人を、苦しめた。 「桜二…」 上着を片手に依冬が廊下の向こうから駆け寄って来るのを見て、不覚にも…一気に体の力が抜けて、廊下の床に泣き崩れた。 俺のせいで…シロが、あんなに怖い思いをしながら…壊れて行く… 俺を椅子に座らせると、依冬は苦々しく顔を歪めて口を堅く結んだ。 知ってる…分かってる…昨日の出来事の後で…これだもんな… 俺を責めたくて、仕方が無いんだろ…? 俺も自分を殺してやりたいくらい、頭に来ているんだよ。 昨日の出来事だけじゃない…それ以前からの自分が憎くてたまらないよ… 何が…守るだよ… 何が…愛してるだよ… 1番傍で…彼が崩れて…壊れて行くのを、ただ何もせずに見ていただけじゃないか… 「昨日…何があったんだよ…」 押し殺すような声で依冬が尋ねて来たから、俺は廊下をぼんやりと見つめながら、感情を込めずに淡々と言った。 「シロの様子を見に部屋を訪れた…。そうしたら、彼の部屋に勇吾が居て…当然の様にベッドに腰かけていた様子に…頭に来て、我を忘れた。」 両手で顔を抑えて、押し殺していた感情が沸き上がって、今更感じてもどうしようもない後悔に苛まれて、泣き声を上げながら項垂れる。 「…それで、勇吾さんをボコボコにしたって事だね。」 依冬はそう言うと、ICUの入り口を見つめて黙り込んでしまった。 信じられないよ… 嫉妬にかられて我を忘れた自分が…本当に信じられない… 「店で…発作が起きたと言っていた…。だから支配人と勇吾に運んでもらったって…。でも、俺はそれを信じられなくて…勇吾と居る事を咎められない様に、彼が嘘を吐いたって思ったんだ。でも…部屋に連れ帰った後の、あの子の様子がおかしかったんだ…それで、発作が起きて、何か…酷い事を思い出したんだって…理解した。」 ベッドの中で…突然、笑いだしたそこはかとない彼の絶望に、怒りに目が霞んでいた俺は、それを見て見ぬふりした。 何も聞かないで、何も話さないで、ただ、彼を1人…絶望と寄り添わせた。 落ち着いたらまた元に戻るって、勝手に思って…彼が醸し出した異常を無視した。 そして、あの子そのものを無視して…突き放した。 「あぁっ!なんて事をしたんだっ!俺が…俺が…傍に居たのに…!!守るどころか…傷つけて、突き放して、壊した!」 「…なんだ、もう…どうでも良いの…」 そう言った彼の表情も、涙も、声も、体中から溢れた絶望も…無視して、抑えきれない感情に飲み込まれて、突き放した。 愛しているのに…突き放したんだ。 彼の為に尽くす事に…犠牲になっているなんて思う事なんて無かった。 求められたい自分と、与えられたい彼と…お互いの欲求が一致して、上手く行っていた筈なのに…いつの間にか、俺は彼の1番に拘って、彼の特別な愛を欲しがって、彼を独占したがった。 愛しい壊れた恋人に…ただ、自分だけを、愛して欲しくて…駄々をこねていたんだ。 俺はあの頃から何も変わっていない…ただのクソガキのままなんだ。 「シロ…!」 ガラガラと滑車の音を響かせてICUから運び出される彼を見つけて、急いで依冬と駆け寄った。 穏やかそうに眠る顔はいつも隣で眠っている顔と…何ら変わりがなかった。 「シロ…シロ…ごめんね、ごめん…俺のせいだ…」 「病室を移ります。脳や心臓に問題はありませんでした。心療内科の病棟へ移りますが、もっと専門的な病院への転院が必要かもしれません。少し…お話を伺ってもよろしいですか?」 そう言うと、白衣の医師が俺と依冬を別室へと連れて行く。 依冬がしっかりと返事をする中、俺はただ下を向いて、医師の動きやすそうな靴を眺めながら、後を付いて行く。 小さな個室に案内されて、慣れた様子で医師が着席を求めた。 俺は依冬と並んで座ると、落ち着かない様子で目の前の医師に聞いた。 「…あの子は?もう、大丈夫なんですか?もう、連れて帰れるんですか?」 「まぁ、お兄さん…じゃなくて、えっと…何てお呼びしたら良いですか?」 向井に座るから…向井さんで… 俺がそう言うと、彼はつまらなそうに愛想笑いをしたっけ…ふふ… 「結城です。こちらは…同じく結城です。私の…兄です。」 依冬はそう言うと、てんでダメな俺の代わりに彼の症状を伝えていく。 「幼い頃に虐待を受けたトラウマがあって、過去の記憶がまだらだったんです。それが、思い出されると、その当時の恐怖や、悲しみが込み上げるみたいで…耐えられない様に気絶をします。それを繰り返していて…最近は、毎日の様にその発作が起こっていました。発作の起こるきっかけも、理由も、彼にも分からない様でした。」 そう言って依冬は医師に言った。 「しばらく動けなくなるくらいの強い頭痛が起こっていたんです。彼が言うには…それが目の奥に移動して…耳の奥が痛くなって…消えるそうです。それが終わると、何事も無かった様に動き始めます。」 一生懸命…大きなかさぶたを抱えて必死に生きていたあの子の、傷をほじくったのは…俺だ。 そして、彼の流す血を見て、舐めて、味わったのも…俺だ。 呆然と力なく座る俺とは対照的に、依冬は前のめりに医師に必要事項を伝えていく。 「なるほど、幼い頃のトラウマについて…どの程度の物なのか、転院先を探す上でも教えていただけませんか?」 「いいえ…転院先は、もう決めているんです。だから…探して頂かなくても結構です。」 転院を勧める医師に即座にそう言うと、依冬は言った。 「乳児の頃から母親から暴力を受けていて、警察に記録が残っています。6歳の頃に約1年間、母親の売春を代わりにやらされて…一度、救急車で運ばれています。その後、兄と近親相姦を16歳まで続けて、その兄は自殺で死んでいます。」 「ふふっ…悲惨だ…」 彼の生きて来た過程は、あまりに悲惨で…こうやって改めて聞くと…まるでフィクションの様で…不謹慎に笑ってしまった… 依冬がジト目で俺を睨む中、伏し目がちに彼から顔を背けた。 そんな俺たちの様子を見ながら、医師が手元の書類を脇に置くと言った。 「…分かりました。では…転院するまで鎮静剤を投与しながら観察をします。」 硬くなった医師の表情に、彼の抱える壮絶なトラウマの大きさと、厄介さが伺い知れた。 そう…過剰なまでに苛め抜かれた環境を…彼は生き抜いて来た。 さながら戦士の様に…沢山傷を作りながら…休む間もなく次から次へと襲い来る恐怖と戦って生きて来たんだ。 本当に強い男なんだ… 俺や依冬…勇吾の様な、一癖も二癖もあるような男が彼に跪くのは、きっと…そう言う彼の強さを感じているからなんだ。 絶対敵わないって…分かってるからなんだ。 健気で、儚いだけじゃない…あの子は、強くて、勇敢で、気高くて、美しいんだ。 そんな彼の傍で、これ以上傷付かない様に、戦わなくて済む様に、守りたかった。 なのに… 俺は…何をやってるんだ… うんざりするぜ… 依冬と一緒にやけに目に眩しい白い病室に入って、拘束された彼を見つめる。 「シロ…シロ…可哀想に…こんな、こんな風にされて…」 狼狽えて彼の体に触れると、彼の眉間にしわが寄った。 「にいちゃぁん!!」 そう言って飛び起きると、シロは焦点の合わない目で、ぐるりと目玉だけを動かして周りを見た。 そして自分の足元をじっと見つめて口元を歪めて笑うと、掠れた声で話し始めた。 「あぁ…!兄ちゃん…シロはまたやったよ…桜二が居なくなってしまった…!また大事な人を失ってしまった!…いつもそうだ。どうしてそうするのか?どうしてそうなるのか?訳が分からないよ…本当に、こいつが憎くて…堪らない!!死ねば良いのに…!こんな奴…!こんな汚い生き物!死ねば良いのにっ!!」 怒号の様に声を太くしてそう言うと、体を影しく震わせて怒り始めた。 「血圧が上昇すると血管の収縮で気絶する恐れがあります。それを避けるため…先生の指示の元、これより鎮静剤を投与します。」 近くにいた看護師が落ち着いた様子でそう言って、彼の腕に繋がれたチューブに鎮静剤を入れる。 依冬がシロの拘束された手を握って、必死に呼びかけてる姿を視界の隅で見ながら、俺はあまりの恐怖に、彼から目が離せなくなっていた… 「あはは…シロは…産まれて来たら、ダメな生き物だったんだよぉ…兄ちゃん…」 ヘラヘラと笑ってそう言った瞬間、ギロリと目つきを変えて両手を激しく揺さぶり始めた。 ガンガンとベッドが揺れる程の力で、細い腕を力まかせに持ち上げるから、堪らず依冬が彼の肩を抑えて言った。 「シロ…!肩が、肩が外れちゃう!…やめて!やめて!」 鎮静剤が聞いて来たのか、ぐらりと重たい首を回すようにうねらせると、力なく首を項垂れたまま、彼の動きが止まった。 チラリと見える彼の口元に赤い舌先が見えて、背筋に鳥肌が立っていく… 嫌な予感というのは…本当にあるんだね… ゴリッ… 鈍い音の後、俯いた彼の口から、不自然に舌が斜めに垂れて落ちた。その後、続く様に真っ赤な血がダラダラと彼の膝に落ちていく。 「あぁ…!シロ!!」 ビタビタと叩きつける様に音を立てながら流れて行く彼の血を、訳も分からず両手で受け止めると、看護師が叫び声をあげる中医師が素早く傷の確認をした。 「舌をかみ切ってる。まだ繋がってる。繋げるから…止血するよ。うるさいから、叫ぶなら出て行って…!あと、お兄さん退いて…!」 どうしてこの人たちはこんなにも冷静なんだ… 俺は看護師に支えられながら彼の傍から引き剥がされると、両手に溜めた血を拭われた。 「桜二…」 そう言って俺の隣で同じように放心する依冬と、処置を受ける彼を呆然と見つめた。 舌をかみ切った…? あの子が…死にたがってる…死にたがってる。 「ギャ~ハッハッハッハ!」 医師が体を抑える中、彼が不気味に笑って体を揺らす。 ガタガタとベッドが揺れて、彼の血が壁に飛び散る… まるで…ホラー映画のワンシーンの様な光景に…これが現実である事を忘れて、ただ呆然と目の前の彼を眺めた。 ダメだ…俺達では、手に負えない… 可愛らしいシロが…化け物の様に見えて、体中の鳥肌が立った… #依冬 「今日は思いっきり暴れたい気分だ~!」 彼がそう言ってステージに向かう時は、大抵…思いきり危険な事をする。それも全力で… それを今、また、やってのけた… 舌なんて…かみ切る人を初めて見た…舌をかみ切る音を、初めて聞いた… 正直、血の色と量に…ショックが強すぎて、吐きそうになった。 「転院先は…前から相談していた先生の所にお願いするつもりだ…」 シロの病室の前で、今後の予定を桜二に伝える。 かみ切った舌の縫合を済ませると、腫れあがった舌が気管を塞ぐからと、気管挿管して、彼は強制的に眠らされた。 「…あぁ…」 桜二は背中を丸めて椅子に腰かけたまま、自分の両手を眺めて、力なくそう言った。 彼の手のひらには、シロの血がまだ残って見える。それを愛おしそうに撫でながら、彼はずっと呆けている… まるで生きる屍の様になった彼の姿に…親父が重なって見えた… …まずいな 俺は彼の背中を思いきり叩くと、わざと大きな声で話しかけた。 「あんたがグズグズと何もしないから、俺が受け入れ準備を進めていたんだ。その手の症状に精通していて、実績も、経歴も兼ね備えてる医師を見つけた。その人のいるクリニックに事前に行って、症状も、発作の内容も、彼の過去も、すでに伝えてある。今度、連れて行こうと思っていたんだ。」 そう言って手帳から心療内科の案内を取り出すと、力なくこちらを見つめる桜二に手渡した。 「依冬…ありがとう…ありがとう…」 何度もそう言って涙を落として、背中を丸めていく良い年をした男を見つめて、酷く悲しくなってくる… 「今日、電話で話したんだよ…。オレがどこに居るか分かる?なんて…いつもの調子で聞いて来て…。でも、その後、様子がおかしくなって、桜二が傍に居るのか尋ねたら、大笑いして…一方的に電話を切られた。」 俺がそう言うと、桜二は項垂れて泣きながら言った。 「…俺が、あの子を無視したんだ。」 「…それだけ?」 俺は項垂れたままの桜二のグシャグシャの髪を見つめて言った。 「それだけで…シロがケガするのかよ…シロは言わなかったけど、体を庇って歩いていた…。きっと、体も怪我していたんだ。なあ…何があったのかちゃんと言えよ。ちゃんと言って…酷く後悔しろよ。」 彼は深いため息を吐くと、両手で顔を覆って、声を上げながら…再び泣きじゃくった。 「勇吾を殺すほど殴った…!あの子が…あの子が、止めても…!止まらなかったんだ…!俺の体を押して…あいつを“兄ちゃん”なんて言って、庇うから…俺はあの子を吹き飛ばして…地面に叩きつけた…!あぁっ!何て事をしてしまったんだ…!!」 俺は椅子から立ち上がって桜二の目の前に行くと、彼の顔を思いきり横からぶん殴った。それでも、彼はビクともしないで話し続けた… 「それでも…シロが…勇吾を庇って…あいつの体に覆い被さるから、悔しくて…彼の背中を殴って…あぁ!何て事だ…彼を、思いきり、蹴飛ばしたんだ…。その後…」 話し続ける桜二を無視して俺はあいつを殴った。 どうして…愛しているのに…傷つけたんだ…! 許せない!俺の、シロを傷付けた!! 何度も殴られているのに、彼は親父にそっくりな目を向けると、俺に言った。 「そんな事をされたのに、あの子は、俺を抱きしめて止めようとしたんだ…。でも…あの子の背中の向こうで、あの子を気遣う勇吾の目を見たら…頭に来たんだ。それで…あの子の髪を掴んで、頬を…引っ叩いた…」 信じられない… 信じられない… 「怒りに我を忘れて…止められなかった…あぁ…最悪だ…!そんな俺に、あの子は言った…お前が悲しいのは…全部オレのせいだって、ごめんなさいって言って…許して欲しいと言ったんだ…あっああ…!!…そして、俺の握った手を掴んで、自分の顔を殴った…俺が正気に戻るまで…ずっと殴ったんだ…」 彼の情けない泣き声も、彼の懺悔もどうでも良かった… シロがそんな目に遭っても彼の傍に居た事と、彼に許しを求めた事が…彼が特別だと言う事を証明しているのに… 桜二は彼を殴ったショックが強すぎて…分からないみたいだ。 いいや、分からなかったみたいだ… もし俺がそうなったとしても…シロはきっと同じ様にする。 それがあの人の健気な愛で、あの人の強い優しい愛なんだよ。 シロの包容力は…馬鹿な男を包み込んで優しく愛してくれるんだ… 「シロらしい…」 殴り続けた手も痛くなってきた。 髪がさらにグチャグチャになった桜二の隣に座り直すと、口元を拭う彼に言った。 「勇吾さんは顔は腫れたけど、どこも折れてはいなかったよ。」 俺があんなに殴ったのに、顔から血を流してるのに、彼は興味なさげに涼しい顔をして言った。 「…そうか。」 全く… 勇吾さん… あの人がなぜシロに拘るのか、シロに付きまとうのか、彼について調べてみて分かった。彼はシロに自分を重ねていて、自分の経たサクセスをシロにも体験させたいと思っているんだ。 そして、それはまるで磁石の様に引き付けられ合う関係だって事も、抗えない物だって事も…分かった。 だから、あの時、彼のインタビュー記事が載った雑誌をシロに見せて、言おうと思ったんだ… もう…会っても、良いよって… シロの不安定な心を落ち着ける為に、桜二が必要だった様に…シロが新しい世界を知るために、勇吾さんが必要なら構わないって思った。 誰がどう、うじゃうじゃ居ようと、彼の正真正銘の恋人は、俺1人。 シロは普通じゃないんだ。 それは頭がイカれてるとか…そういう物じゃない。 とっても魅力的過ぎるから、みんな彼に恋してしまうんだ。 分かりやすく過剰に親切にして、彼好みの人柄に変わって行った男をこれまで何人も見て来た。 俺はズルくて賢い男だから、それを利用したら良いって思った。 勇吾さんの経歴と実績…これからの成長幅、展開される仕事の種類を考察して、ひとつのツールとして、シロにプラスになると思った。 彼にとってメリットの多い関係なら、目の前でイチャつかない限り、許そうと思っていたんだ。 でもね、あの人には…言いたい事が沢山あるんだよ… シロの為に用意した俺と桜二による“彼の安住の地”を、悪戯にかき回されて、ムカついていたんだ。 礼儀がなっていないなって、ずっと思っていたんだよ… 「…俺は転院先の病院へ連絡を入れたら仕事に戻るよ。あんたも、一度家に帰って、服を着替えた方が良い…。手続きが済んだら、すぐに転院させる。ここに居たら、薬漬けにされそうだ…」 ボロボロの桜二を見下ろして、親父と似た目を向ける彼に言った。 「親父みたいには…ならないでくれ…」 シロが正気に戻った時、彼が壊れていたら…それこそ悲劇だ。 病院を後にして、転院先の病院へ連絡を済ませると、車に乗って、カーナビに東京ドームを入力する。 「親の躾が悪いんだろうな…」

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