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第22話

#勇吾 「アイタタ…」 朝起きても、鏡に映った俺の顔は酷いままだった… 「桜ちゃん、鈍ったな~。昔は軽く歯を飛ばしていたのに…いや、俺の歯が丈夫なのかな?俺はどこも欠損してないぞ?ふふ。」 鏡の前で軽口を叩いてみても気が晴れる訳も無くて、自然と下がる口角は仏頂面のおっさんを鏡に映した。 「シロ…大丈夫かな…」 桜ちゃんに連れて行かれたあの子の後姿が…頭から離れない。 あの桜ちゃんがシロに折檻なんてする訳がない… そう思っても…怒りに我を忘れて彼を殴った桜ちゃんを見ると、不安になるんだ。 どうしたかな…大丈夫かな… ベッドに置いた携帯電話を見つめて考える… 俺が連絡をしたら…あの子が怒られるのかな。 可哀想だ… 発作があんなにひどい物だって…知らなかった。苦痛に顔を歪めて苦しそうに呻くあの子の顔を…声を…思い出しただけで、眉毛が下がって…瞳が歪む。 桜ちゃん…シロは何も悪くないんだよ… 俺を庇って…あんなに殴られて…可哀想だ。 どうしたら良いの、胸が苦しいよ… コンコン 突然のノックの音に変な冷や汗をかいて、ドアスコープで覗いて見る。 「何だ…」 俺は扉を開いて、俺の顔を見つめたまま唖然とする夏子を部屋の中に入れる。 「ど、ど、どうしたの…?」 「とうとう、桜ちゃんにやられた!」 胸を張って俺がそう言うと、夏子が俺の頭をペシッと叩いて言った。 「あんた!馬鹿じゃないの!?そんな顔で…仕事どうすんのよ!」 別に顔が腫れていたら出来ない仕事じゃない。 俺は肩をすくめて彼女に行った。 「このままで行くさ。」 「はぁ~~~~?!」 桜ちゃんの我慢の限界だったんだろうな…シロにあんなこと言ったのに。これじゃあ桜ちゃんに認められるには時間がかかりそうだな… 何年越しの愛になるのか… もうすぐイギリスに帰ると言うのに…こんなモヤモヤを抱えたままなんて、最悪だ。 「下で待ってるから…マスクかなんか付けて来なさいよ…怖くて見たくないわ…」 夏子はそう言うと、さっさと部屋から出て行った。 「マスクなんて付けない。俺からは見えないからね…」 俺はそう言うと、支度を済ませて、腫れた頬と瞼をそのままに部屋を出た。 俺の顔を見た人がギョッと顔を歪めて、距離をとって、後ずさりする。 まるでノートルダムの鐘のせむし男になったみたいだな。はは! 俺は酷い顔を抱えたまま、いつもの様に堂々と歩いて、待ち合わせた場所へ向かう。 眉を顰める夏子を無視して、ホテルの玄関に向かうとタクシーに乗り込んで、会場へと向かった。 「うわぁ…どうしたんすか…うわぁ…喧嘩ですか?」 すれ違う人にいちいち話す事も面倒で、俺はこう言った。 「蜂に刺されたんだよ。」 「絶対、嘘ですよね…はは…」 あぁ、嘘だよ。 それも分かりやすい嘘だ。その理由を知ってるかい? お前に、どうしてこうなったのか?なんて…そんな話を、話すつもりは無いって言ってるんだよ?ば~か。 公演まで残す所、1週間。 それが終わったらイギリスへ戻って、向こうの仕事をするんだ。 年末に控えた大仕事の仕上げをするんだ… シロ…お前にも見せてあげたいよ。 こんな、ふざけたお遊びじゃない… 俺が手掛けた作品と呼べる物を見せてあげたい。 願わくば、お前に踊って欲しいんだ。 美しさと、儚さと、危険な匂いを放ったお前に…俺の舞台を彩って欲しいんだ。 そうしたらきっと、俺の作品はもっと素晴らしい物になる事だろう… 考えただけで、ゾクゾクしてくるんだよ… お前を見たお客たちは一斉に立ち上がって、スタンディングオベーションを送るに違いないんだ。 それ程、お前は魅力的なんだよ… 最終確認の打ち合わせを済ませて、機材のチェックに奔走していると、俺の背中に声がかかった。 「勇吾さん?結城さんとおっしゃる方が、お会いしたいって…」 スタッフの子がそう言って、振り返った俺の顔を見て吹き出して笑う。 「ど、ど、どうしたんですか?!その顔は…!あっはっはっは!ヤバイ!美系が急にブスになった!あ~はっはっは!」 ストレートな物言いは嫌いじゃないよ? でも、失礼な奴だ… 俺は無言でその子を睨みつけると、フン!と顔を反らして廊下へと向かった。 結城? 桜ちゃんが、俺にとどめを刺しに来たのかな…? 堂々と廊下を突き進んでいくと、そこに居たのは…結城依冬君。別名…ビースト依冬だ。 俺を見ると、前に組んだ両手に高そうなコートをかけて、ペコリと頭を下げた。 礼儀正しそうに見えた彼は、不機嫌に目をギラつかせてる。 「なんだ、君か…昨日はありがとうね?」 昨日、病院まで運んでもらった時の、事務的な態度とは全く違う彼の様子に、この子にもボコボコにされるのかと、少しだけ覚悟した。 「…シロが、今日、救急車で運ばれました…」 は…? 目を点にして彼を見つめる。 何て言った…?今… 「シロが…何…?」 動揺も混乱もしない。 だって、意味が分からないんだ…。 彼が何を言ってるのか…理解が出来ない。 依冬くんは俺をギラついた目で俺を見つめると、怒気のこもった声で言った。 「酷い発作が起きて、いつもよりも激しい頭痛と、嘔吐…目が飛び出そうだと言って…強く押して流血しました。それで、桜二が救急車を呼んで病院に…。目を覚ますと、気が狂っていて…自分の舌をかみ切って…今は強制的に眠らせています。」 は…? 「嘘だ!」 そんな事、信じられる訳がない。 すぐに否定した癖に、頭が真っ白になって、頭の上から冷や汗が垂れて来る… あの子が…今、病院で寝てるって…? 舌をかみ切ったって…? そんな…そんな… 「嘘じゃない。どうしてこうなったのか…あなたは分かりますか…?」 彼の表情と、醸し出す怒りのオーラで、彼が何を言いたいのか…大体の察しがついた。 俺は依冬君を見つめて言った。 「俺が…桜ちゃんとシロを引き離して…あの子を動揺させてしまったんだ…。なあ…どこの病院に居るの?」 「教えない。」 依冬君はそう言うと、俺の胸ぐらを思いきり掴んで上に上げた。 「くっ…!」 つま先立ちしても苦しいくらいに上に持ち上げられると、顔をぬっと近づけて彼は言った。 「シロにとって、桜二は恋人じゃない。彼のお兄さんと…彼自身なんだよ。桜二が居て、シロは普通で居られるんだ。それを引き離すなんて…あんたは何も分かっちゃいないんだ。馬鹿だから分かんないんだろうね。いつも自分の事しか見てないせいかな…。他人の気持ちも、境遇も、感情も、どうでも良いんだろ?だから…彼の本質が分かんないんだろうね。可哀そうだよ…。そんな事も分からないで、年を取って…おっさんになるなんてさ…それって、惨めだろ?」 そう言って手を離すと、俺の肩を小突いて言った。 「あぁ…だから、そんな顔になってんのか…」 …言うね。 俺は彼の肩を掴むと自分の方に振り向かせて言った。 「あの子はどこの病院に居るんだよ…!」 「勇吾さん…俺はね、あんたがシロにプラスになるなら、桜二の様に彼の傍に居ても構わないって思っていたんだよ。だけど、こんな事態になってしまった…。シロの傍に居るには、あんたは少し…幼稚過ぎたんだ。」 俺の目を据わった瞳で見つめて、依冬君はそう言うと、肩を掴んだ俺の手を振り払って言った。 「狂ってしまったシロが、元の生活を送れる様になるかなんて…俺にも桜二にも分からないんだ。こんな状況だとね、今はそっとしておこうって…考えが回る大人なら思うんだよ?」 「俺はあと1週間で…イギリスに帰らなきゃいけないんだ!シロの病院を教えてくれよ!…あの子が今どうしてるのか…知りたいんだよ…。せめて…最後に、一目で良いから…あの子に会わせてくれ…頼むよ…」 俺は彼のスーツを掴むと、藁にも縋る思いで懇願した。 「絶対に、教えないよ…」 彼はそう言って微笑むと、俺の手を掴んで自分のスーツから離した。 依冬君は踵を返すと、呆然と立ち尽くす俺を残して行ってしまった。 「ビーストボーイじゃん…どうしたの…?」 夏子がそう言って、俺の顔を覗き込んで驚いたように表情を固めた。 「勇吾…あんた…」 俺は依冬君の立ち去った後を見つめたまま、歯を食いしばって…腫れた両目から涙をダラダラと流していた… ちくしょう…ちくしょう…なんて奴だ… シロの話をするだけして…あの子の居場所を教えないなんて、酷い奴だ… 「くそっ!くそっ!くそっ!」 俺は傍にあったゴミ箱を思いきり蹴飛ばすと、顔を拭って、仕事に戻った。 シロ…可哀想に… いつか発作で…死ぬかもしれない…そんな事、言っていたね。 どうやらそれが現実の物になってしまったみたいだ… 目を圧し潰して…出血して…舌をかみ切った…? シロ、まるで…死にたいみたいじゃないか。 こんなに頑張って生きて来たのに…そんなに強いのに… もう、嫌になっちゃった…? 「勇吾さん、変更の確認お願いします。」 「は~い…」 暗くて天井の低いステージの中を歩いて進む。まるで洞窟に入ってるみたいに身を屈めて、暗くて、逃げ場がない一本道を進んで行って…ステージの中から、外に出て天を見上げる。 沢山の照明が所々に灯された、薄暗い会場をぐるりと見渡して、ステージに上ると、バックダンサーの練習の間を抜けて、再び袖からステージを降りた。 シロ、お前に見せてあげたいんだ。本物の舞台をさ… 体中の鳥肌が立つような、そんな舞台を見せてあげたいんだ。 だから、まだ死のうとなんて思わないで… 勇ちゃんがもっと素敵な所に連れて行ってあげるから。 お前がずっと笑顔になっているくらいの、お前の大好きな、バレエでも、コンテンポラリーでも、ストリップでも、素晴らしい質の物を見せてあげる。 それらをすべて吸収して…自分の物にして、お前は、もっと輝くんだよ。 こんな所で…どうにかなる様な玉じゃない。 俺の麗しのジュリエット…お前が本当は死んでいないって…俺は知ってるよ。 だから…俺は、お前が生き返るのを…待つんだ。 シェイクスピアの悲劇のラストを変えて…俺とお前は、結ばれるロミオとジュリエットになろうね… 震えてしょうがない手をポケットに入れて、平然と背筋を伸ばしてモニターを眺める。 「良さそうですね…?どうですか?」 俺に顔を向けるスタッフに笑顔で頷いて答えると、踵を返して廊下を楽屋へと向かう。 「うわ~、派手に喧嘩しましたね…」 そう言って通り過ぎて行く人に、適当に会釈をして、自分用に使っている楽屋に入ると、扉の前でそのまま泣き崩れた。 毅然とした態度も、うすら寒い希望的観測も、全部馬鹿みたいな詭弁だ! 本心は怖くて、怖くて、仕方がないんだ… シロ…シロ… 悲しくて…胸が張り裂けそうだよ… 俺が愛してしまったから…あの子は苦しんで…傷ついて…心が壊れてしまったの? 自分勝手に…あの子の環境を乱したから… 「勇吾…見て?」 そう言って手のひらをヒラヒラと落として、こぶしの花だって…クスクス笑ったあの子の笑顔を思い出して、溢れてくる嗚咽を我慢することなく吐き出す。 「あっああ…シロ…可哀想に…!シロ…死なないでよ…俺を置いて行くなよ…!」 あの子の笑顔が、あの子の匂いが、あの子の肌が、あの子の声が、グルグルと頭の中をループして、胸が苦しくなって…息が出来ない。 一目で良いから…会わせて… 愛してるんだ… 床に突っ伏して溢れる涙を垂れ流しながら、両手で床を何度も叩いた。 「勇吾…勇吾、どうしたの…」 夏子が楽屋に入ってきて、俺の醜態に驚いて駆け寄る。 「苦しいの?ちょっと…大丈夫?これ…これ吸って…」 携帯の酸素を取り出すと、俺の口に当てて言った。 「もう…一体何があったんだよ…取り乱し方が普通じゃない…。何があったの?」 俺は彼女に縋って、オイオイと泣きながら言った。 「シロを愛してるんだ…あの子が、愛おしくてたまらない…!」 「はぁ…?」 首を傾げる夏子に言った。 「シロが…シロが、救急車で運ばれた…!酷い発作が起きて…両目を押して出血して…自分の舌をかみ切ったんだ…。死んじゃうよ…夏子…シロが…あの子が、苦しんで、死にたがってるのに…!俺はあの子の入院した病院さえ…教えて貰えない!」 彼女の顔から表情が消えて、呆然と俺を見つめたまま固まと、ポツリと言った… 「やっぱり…爆発しちゃったんだ…」 「俺のせいだ…俺のせいなんだ!あぁ…!どうしよう…どうしよう…!可哀想だ…昨日、あの子の発作を見たんだ。酷く…頭を痛がって…苦しそうに呻いて…見ていられなかった…!あれよりも…強い頭痛があの子を襲って…あっああ…ああああ…!!」 泣いてもどう仕様もない事くらい、分かってるけど… 体から溢れる後悔と懺悔をひとしきり出さないと…自責の念で、頭がおかしくなりそうなんだ… 死なないで…! 俺の愛がお前を傷付けて、苦しめてしまうなら、お前の事をすっぱり諦めよう。 …愛しいお前を失うくらいなら…お前と出会った事も、愛した事も、すべて忘れてしまえるから。 だから、どうか死なないで…愛しい人。 「シロ…ごめんよ…」 力なくそう呟いて…突っ伏した床に涙を落として、ただ、彼に…後悔の涙を流した。 #夏子 「はぁ…」 深いため息をついて、馬鹿野郎の為に自主的にお使いを承った… 携帯を取り出して、電話をかける。 もしかしたら…出てくれないかもしれない…と、少しだけ諦めた気持ちを抱えながら、呼び出し音を聞いた。 「はい…」 それは異様に暗い桜二の声だった… 事態は思った以上に悪い様だと、その瞬間に悟った。 「もしもし?シロが入院したって…聞いた。大丈夫…?」 あたしがそう聞くと、電話口の彼は何も言わないで、ただ苦しそうに嗚咽を漏らした。 その異常な状況に…何も言えなくなって、彼のすすり泣く声をただ聞いた… 「シロが…あの子が、おかしくなって…いいや、気が狂ってしまった。自分の舌をかみ切って…笑うんだ。今は薬で眠らせてる…。どうしよう…夏子。俺のせいなんだ…。」 弱々しくそう言うと、再び彼の泣き声が耳の奥に響いて、鼓膜を震わせる。 頭の上から冷たい雨が降って来る様に、一気に血の気が引いて行く。 「どこの…病院なの…」 分かってる… こんなに弱ってる友達に…恋敵への情報を聞き出そうとしてるって事くらい… 最低な事をしてるって…分かってる。 やり方はどうであれ…勇吾はシロの事を今まで経験した事がないくらいに、愛してるんだ…。あいつが自分以外の誰かに、あんなになるなんて…信じられないんだ。 そして、シロも…罪悪感を感じながら、勇吾の事を愛していた筈なんだ… これが免罪符になる訳がない事も…分かってる。 でも、このまま… 勇吾とシロがこのまま会わないまま…離れ離れになってしまう事は…避けたいんだ。 だから…自分に出来る事をしたかった… 震える声でそう聞くと、桜二は息を止めて黙ってしまった。 やっぱり…だめか… 「勇吾か…?」 そう呟いて、あたしの返答を待っている。 下手に嘘をついたって誤解を招くだけ…特に勘の鋭い奴には、素直に言った方が良い… 「…今日、依冬君が現場に来たんだ。勇吾を呼び出して…シロが倒れたって伝えて…。勇吾は散々彼に言われたみたい…。入院先を教えて貰えなくて…。こんな事言うのはおかしいって分かってるし、あんたたちを引き裂きたい訳じゃないんだ。でも…勇吾が…あのままじゃ…仕事が、出来ないんだ。」 非情だよね…あたしの求めた要求は…打ちひしがれて使い物にならなくなった勇吾の為に、シロに会わせろって…自分勝手で、情のない要求だった… 「はは…相変わらず…歯に衣着せないんだな…」 乾いた笑いをして、呆れたような声でそう言うと、桜二はしばらく黙って考えている様だった… 問答無用で切られると思った電話は、意外にも考える猶予があった様だ。 「俺が一緒だったら…良いよ。」 「本当…?あ、ありがとう…」 自然と涙が頬を伝って落ちていく… それは友達の役に立ったとか、そんな涙じゃない…。 とんでもないことをしでかした勇吾に…温情をかけてくれた桜二に対して、申し訳なくて泣いた涙だ… 「これから着替えて…また病院へ戻るんだ。彼は専門医のいる病院へ転院する事が決まった。転院先の病院は教えたくない。でも、今いる病院だったら…良い。支度をして待っていろと伝えて…」 桜二は短くそう言うと、通話を切った。 桜二…ごめんね。ごめんね。 あんたの大事な物を壊してしまったのに…わがままを聞いてくれた… 踵を返して勇吾の待つ、誰も使っていない楽屋へと向かった。 「おい、勇吾…桜二が、シロに会わせてくれるって…準備して外で立っとけ…馬鹿野郎…」 そう言って、項垂れて泣いてばかりの勇吾の足を蹴飛ばした。 彼はあたしを見上げると、ボコボコの上、泣き腫らした酷い顔で言った。 「嘘だ…桜ちゃんは俺にシロを会わせてくれる訳ない…」 全く… 「良いの?それで…良いの?なら、あたしが変わりに行く…あたしだって、シロの事が心配だし…桜二だって心配だ…彼だって、あたしの友達だからね。」 そうだ。 シロとべったりだった桜二が、こんな状況に正気を保てる訳がない…今も、あんなに憔悴しきっているんだ…。 きっと、あの子の容態が思わしくないんだ… ケラケラと笑うあの子を思い出すと…あたしだって…辛い。 自分が辛くても…他人の心配ばかりして…優しいにも程がある、そんな子だから…きっと自分を責めてしまうんだ… 何も悪い事していないのに…こんなに引っ張られて、振り回される過去を抱えて、懸命に生きていると言うのに…。 男どもはそんな彼の儚さに惹かれて群がって… 俺が助けてやる!なんて…息まいてる癖に、結局、足を引っ張るだけ。 いつだってそう。 男が出しゃばると、ろくな事にならない…戦争だって、そうでしょ? シロ…可哀想なお姫様。 ろくでもない男に囲まれてさ… 「行く…」 そう言って勇吾が席を立って、ヨロヨロと廊下へ出る。 そのまま上着を着ると、颯爽と歩き始めた。 そうだね…あんたはそうでなくちゃ… どんなにつらい状況でも、背筋だけは伸ばして、ハッタリでも、かっこよくしていてよ。 じゃ無きゃ、あんたがあんたじゃなくなってしまうよ? 勇吾の後ろを歩いて、彼の後を付いて行く。 約束した待ち合わせ場所に立って、桜二の車が来るのを道路を見つめて待ってる。 勇吾は何かを決心したみたいに、何も話さなかった… だから、あたしも彼に何も話しかけないで空を見上げた。 こんな悲惨な日…シロは眠りながら、どこで、何をしてるのかな… そんな事を考えていると、目の前に桜二の車が停まった。 後部座席のドアを開くと、先に乗り込んだ。 でも、いつまで経っても勇吾が乗って来ない… あのバカ…また、ごねるの?…全く、どうしようもないクズ野郎。 そう思って体を乗り出すと、そこには桜二に向かって土下座する彼の姿があった… 「勇吾…」 おもむろに運転席から降りて、桜二が勇吾の目の前に立った… やめてよ…あたしじゃ桜二は、止めらんない。 もしもの時は、警察に電話するからね…? そう身構えていると、勇吾が土下座しながら、桜二に向かって言った。 「桜ちゃん…許してくれ…!シロを…あの子を愛してるんだ…。でも、俺のした事はあの子を悪戯に傷つけてしまった…。こんな事になったのも…俺が桜ちゃんからシロを引き離して…独占したがった結果なんだ…!俺はシロの何も知らなかった…。謝っても…取り返しがつかない事は理解してる…。それでも、言わせてくれ…。申し訳なかった…!あの子を一目見たら…俺は、シロを…忘れて、諦める…」 勇吾の正面に立ち尽くした桜二は、彼を呆然と見下ろしたまま言った。 「お前に嫉妬した…俺には出来ない踊れるお前に…。お前の才能に惹かれる彼が、自分から離れて行ってしまう気がしたんだ…。キラキラと目を輝かせて、お前を誉める彼の言葉に…嫉妬した。そもそも、お前に彼を紹介したのは俺なんだ…。ひたむきに頑張る、あの子を誉めて欲しくて…それなのに…うっうう…」 日が傾きかけた幹線道路の脇で、大の大人が2人…向かい合って泣きじゃくる。 大好きなシロを思って…お互いに自分を責め合って…泣きじゃくる。 何だこりゃ… あたしは拍子抜けすると、大きな声を出して言った。 「早く!行こうよ!あたしは早くシロに会いたいんだ!」 涙を拭う情けない男2人を、ジト目で見ると彼らは急いで車に乗った。 はぁ… シロ?男ってこんなもんなんだよ。 馬鹿で、どうしようもない。 あっという間に片付く事で…死ぬまで殺し合う…そんな、馬鹿な生き物。 もれなく、あんたの兄ちゃんも、そんな馬鹿な男の1人。 「夏子…ティッシュくれよ…」 隣に座った勇吾がそう言って、手のひらを差し出す。 泣きすぎて…鼻水が出たんだ。 きったねぇ… 「はい…」 そう言ってポケットティッシュを手渡すと、一枚取って返そうとする彼に手で払って言った。 「どうせまた使うんでしょ…あげるよ。」 隣でチーンと思いきり鼻をかむと、勇吾はペコリと頭を下げた。 全く… 病院に着くと、桜二の案内でシロの病室の前までやって来た。 名札に掛かれた“結城シロ”という名前にすんなり納得すると、桜二の後ろを付いて、病室へ入って行く。 「あぁ…シロ…」 そこには真っ白のシロが横たわっていて、静かすぎる病室の中、腕に通された点滴が点々と落ちていた。 口の中に管が入った呼吸器を付けられて、だらんと垂れた舌が真っ赤に腫れて、縫われた糸が痛々しく彼の舌を貫いていた。 肌色のテープで拘束された彼の手首に、赤く擦れた跡が見えて、すっかり変わり果てた彼の姿に、涙が込み上げて来る。 「シロ…苦しかったのか…?どうして、お姉さんに話さなかった。頼りなかったか?あてにならなかったか?シロ…シロ…」 そう言って彼の薄ピンクの髪を指先でそっと撫でる。 血がこびりついてしまった彼の毛先を摘まんで、指先でこそぎ取ってあげる。 「シロ…お前の小鳥になりたいよ…。」 勇吾はロミオとジュリエットの一節を言って、涙を落としながらシロを見つめた。 それが、彼の今生の別れの挨拶のようだ… ロマンチストだね…でも、あながち…ロミオとジュリエットを地で行ってる2人には、お似合いの言葉なんだ。 「頭痛が…酷くて、こうして眠っていないと…痛くて暴れてしまうんだ…。だから、可哀想だけど…こうやって体を拘束してる…」 桜二がそう言ってシロの手を掴むと、優しく握って、彼のおでこにそっとキスをした。 これは…憔悴してもおかしくない。 それくらいにショックな情景だ。 妖艶なシロは、まるで眠れる森の美女の様に…深い眠りについてしまった。 白くて綺麗な肌が、白い部屋に生えて光って見える… まるで…白い陶器のフランス人形みたい。 勇吾はまだ彼の傍に立ったまま、目を見開いてジッと彼を見つめてる… たった一言言ったっきり、シロを見られて…それだけで十分と言わんばかりに…彼はただじっとシロを見つめ続けた。 そんな勇吾の姿に…不覚にも涙が落ちて声を出して泣いた。 ガラリと病室の扉が開くと、ゾロゾロと看護師と一緒に依冬君が入ってきた。 彼は勇吾を見ると、血相を変えて彼を摘まみ出した。 「もう二度と来ないで…」 そう言って、勇吾を廊下に放り投げると踵を返して病室に戻って行った。 放り出された勇吾は、ただ、さっきと同じ様に呆然と立ち尽くしている… 「夏子…帰ろう…」 あたしが声を掛ける前に、彼がそう言った。 その声に、少しだけ張りを感じて…少しだけ、ホッとした… 「うん…」 そう言って返事をすると、颯爽と歩き始める彼の後ろを付いて行く。 踏ん切りがついたのかな…何となく、そう思った。 彼が転院を果たして快方に向かう事を祈りながら、まるで人形のように生気を感じない彼の寝顔に、そこはかとない不安がよぎった。 大丈夫よね…シロ? あんたは不屈の女王様なんだから… タロットカードのパワーのカードの様に、穏やかな強さで…野獣を飼い慣らせる女王様。大きく開いた獅子の口の中に、怖がりもせずに手を入れられるんだから。 こんな所で終わる訳が無いんだ。 こんなフィナーレはあんたには向かないよ。 もっと、華やかで…大歓声を体中に受けて、舞い散るチップを見上げて高笑いをする…それが、あんたでしょ…? そうでしょ…?シロ… 勇吾が止めたタクシーに一緒に乗って、病院を後にした。 隣に座った彼は、ジュリエットが目を覚ますのを信じている。 何故なら、来る時の様な悲壮感を漂わせていないから…目の奥に力を感じるから。 もう二度と会えないのに…あの子が元に戻るって信じてる。 自分の知らない所で、幸せになるって…信じてるんだ。 勇吾…あんたって、健気で可愛らしい、ロマンチストだったんだね… #桜二 「どうしてあの人たちを入れたの…ほんと、分からないよ、あんたのそういう所…」 依冬はそう言うと、俺を睨みつけた。 …良いんだ。 昨日、俺に殴られても殴り返して来なかった勇吾の様子で、分かったんだ… あいつは本当に、この子に惚れてしまったんだ。 そして、彼を苦しめてしまった事に…俺と同じように後悔してるって、分かったんだ。 だから、最期に…会わせてやる事に、思った以上に拒絶感を持たなかった… 「ではストレッチャーに乗せますね…」 そう言うと、看護師が彼の体を支えて、ストレッチャーへ乗せた。 カラカラと耳障りな音をさせながら、彼が運ばれていく後ろを付いて行く。 再び救急車に乗せられて、一緒に同乗すると、彼の手を握って安心させる。 彼の表情は…穏やかで、口元以外はいつもの可愛らしい寝顔に、見通しなんて何も無いのに…少しだけホッとする。 「シロ…お医者さんの所に…行こうね…」 そう小さく彼に呟いて、サラサラの髪を手のひらで撫でる。 こんなに沢山眠って…一体、どんな夢を見ているの? サイレンを鳴らさない救急車の中、絶えず彼に流れ込んでいく、点滴をじっと眺めた。 転院先の病院に着くと、先に到着をした依冬と、彼の担当医になる先生が、搬入口で待ち構えていた。俺はシロの頬を撫でると、優しい声で語りかけた。 「シロ…大丈夫だよ。兄ちゃんが傍に居るからね…」 あぁ…蒼佑さん…どうか、彼を守ってくれ… 柄にも無く、死んだ人に祈った… 救急車の扉が開いて先に降りると、搬送される彼を見つめ続ける。 そんな俺の様子を、依冬の隣に立った白衣の医師がじっと見つめて来る。 俺はそんな視線に気付きつつ、一切を無視した… こんなになってしまった彼を、どうしたら良いのか分からない… ただただ、心が張り裂けそうだ… 新しい転院先の病院は、こじんまりとした小さな病院だった。 廊下の壁が水色で、廊下の床が白。 それくらいしか見る余裕が無くて、ただ、ひたすら、運び込まれる彼を目で追った。 「桜二…大丈夫だよ。こっちで…先生と少し話して…」 そう言って依冬が俺の腕を掴んだ。でも、俺は彼が心配で、それを振り解いた。 「後にしてくれ…今は彼が落ち着くまで、傍に居てあげたいんだよ…」 きっと知らない場所で、怖がっているに違いないんだ…だから、俺が傍に居ないと。 もう…二度と、離れたり、突き放したり、したくないんだよ。 新しい病室に入ると、新しいベッドに乗せられて、何の躊躇もなく、点滴を止められる。 「え…大丈夫なんですか?もし、目が覚めた時…酷い頭痛が彼を襲ったら…」 「どうなるか…確かめてみましょう…」 医師はそう言うと、動揺する俺の顔を覗き込んで言った。 「激しい頭痛が起こってから、何時間経過しましたか…?」 それは… 俺は働かない頭で、一生懸命思い出しながら考える。 …彼が発作を起こしたのが、お昼の12:00頃で、今は、時間が分からないけど、もう真っ暗闇の夜だ… 「多分…7時間くらいは…経過していると思います。あ…お店に連絡しないと…」 彼の欠勤を店に連絡する事を忘れていた… 俺が慌てて携帯電話を取り出すと、依冬が俺の手を止めて言った。 「もう連絡した…大丈夫だ。」 そうか…良かった… 俺は胸をなでおろすと、外された点滴を見つめて不安に眉をひそめた。 「血管の収縮で頭痛が起きていたとしたら、7時間も経過したんだ。もう大丈夫でしょう。もし、また痛みが出るようだったら、すぐに安定させます。ただ、彼は舌の外傷に痛み止めも使用するから…あまり薬を沢山投与していると、今度は彼の体に負担がかかってしまうんです。だから、出来ればこちらは外してあげたいんです…。良いですか?」 医師がそう言って、俺の顔を覗き込んで来るから、俺はコクリと頷いて答えた。 「桜二…向こうで先生と話してくれ。シロの事は俺が見てるから…」 依冬がまたそう言うけど、俺は彼が目を覚ますまで、この場を離れるつもりが無かった。 「いや…まだ…」 力なくそう呟いて傍らに置かれた椅子に腰かけると、拘束されない彼の手を掴んでギュッと固く握った。赤くこすれた手首を手のひらで包み込んで、痛くない様に、手の中で温める。 「また明日でも、大丈夫ですよ。」 医師はそう言うと、オレと依冬を残して看護師たちと部屋を後にした。 「桜二…あんたとシロの関係が発作にどう影響したのか、土田先生と話して欲しいんだよ…。明日、ちゃんと話してくれよ…シロの為なんだからさ…」 依冬にそう言われて、シロを見つめながらコクリと頷いて答えた。 俺とシロの関係?発作に影響? 今は…彼の目が開くかもしれない事の方が…俺には大事なんだ。 目を覚ました時、俺が傍に居なかったら…彼は悲しむだろう… そんな思いはさせたくなかったんだ。 時計を確認すると、夜の11:00になっていた… 「そろそろ、俺は部屋に戻るよ。桜二も送っていくから…来てよ。」 依冬がそう言って、俺の肩を叩くから、俺は言った。 「いや、今日はここに居る。シロの傍に居る。目が覚めた時、1人なんて…可哀想だ。そうだろ?」 俺がそう言って依冬を見上げると、彼は顔をしかめて言った。 「親父みたいな顔をするなよ…」 え… 彼にそう言われて、ハッと思い出す。 湊のテープをこれ見よがしに聞かせた時の結城の表情を… 俺はあの時思ったんだ。 シロを失ったら…俺もこんな風になるのかなって… 田中刑事と画策して、湊に扮して結城を騙したシロも言っていたんだ… 取り乱して狂った結城が、俺に見えたと。 あぁ…血だな… 俯いて自嘲気味に笑うと、力なく言った。 「そんなつもりは無いんだよ…ただ、怖いんだ…」 両手で顔を覆うと、ぐしゃぐしゃに撫でて、顔の緊張をほぐす。 俺がムッとすると、彼がよくしてくれた…顔のマッサージ…を思い出して、口元が緩んでいく。…いつも、眉間が痛くなるくらいに解してくれたんだ…ふふ… 首を傾げて、静かに眠ったままのシロを眺めて、途方に暮れて言った。 「怖くて…狂ってしまいそうなんだ…」 そう言って涙を落とすと、依冬は言った。 「シロが目覚めた時、あんたがイカれていたら…悲惨だ。だから、彼が目を覚ますまで、正気を保ってくれよ。これはお願いじゃない。分かるだろ?」 分かってる。分かってるよ。 「ああ…そうだな…」 俺は短くそう言うと、シロの手を優しく包み込んで、さするように撫でた。 いつの間にか眠っていた。 彼の眠るベッドに顔をもたれさせて寝落ちしてしまっていた様だ… 遮光カーテンの隙間から真っ白な明かりが漏れて、時計を見ると、今が午前7:00だと分かった… 顔を上げてベッドの上のシロを見ると、彼は瞳を開いて、天井を凝視していた。 「あ…シロ?」 彼の顔を覗き込んでそう言っても、彼の視線が俺に向けられることは無かった… 「シロ…」 彼の柔らかい頬を撫でて、見開いた瞳で凝視し続ける天井を、一緒に見上げて言った。 「…何が見えるの…?シロ…」 無表情で、目を見開いた彼は…表情を付けて貰えなかった人形の様に見えた。 「…気付かれましたか?」 いつの間にか病室に入ってきた看護師が、目を開いたシロに気が付いて、そう声を掛けて来た。 「…はい…」 これは…気付いた…という状況なんだろうか。 ただ反応のない彼を、意識が戻ったと言うべきなんだろうか… まるで人形のように、心を無くしてしまった彼を、回復したと呼べるのだろうか… 「おはようございます。シロさん?シロさん?」 看護師がそう言って彼に声を掛けて、反応が無いのを確認した。 俺は彼のおでこを撫でて、見開いた目の瞼を優しく撫でた。 「シロ…桜二だよ。ここに居るよ…」 聞こえているのか分からない、反応のない彼にそう言って微笑んだ。 彼の手を撫でて、細くて美しい肌に触れて、手のひらまで撫でおろすと、ギュッと掴んで握る。 いつもはこの手で、この腕で、俺を抱きしめてくれたのに… 「こんなになった…」 そう言って、俺が付けた体の痣を見せに来た彼に…どうして、抱きしめて謝らなかったのか…どうして…荷物をまとめはじめた彼を…黙って行かせたのか… 自分の選択が、全て間違いだったと…打ちひしがれる。 感情に流されたあの時の自分に…戻りたい。 「桜二の卵焼き、美味しいね~?」 そう言って両足をばたつかせた彼を…頭の中で思い出す。 「変な人だと言われない?」 初めて会ったあの日、俺にそう言ってクスッと笑う…彼の顔を思い出す。 「兄ちゃん…」 彼の発作に遭遇して、抱きかかえた手の中で、初めて俺の事をそう呼んだ…彼の虚ろな瞳を思い出す。 シロ… 「あぁ…シロ君、おはよう。頭痛は今の所、大丈夫そうですね…。うん。じゃあ…この管を外して…少し体を起こそうか?」 昨日の医師が再び病室へ現れて、シロの顔を覗き込むと慣れた様子で彼の喉から管を引き抜いた。そして舌の傷を見て口を閉じさせた。 看護師と両サイドを挟むようにして、ベッドを傾かせると、彼の体を起こした。 「桜二さん、おはようございます。シロ君がいつ頃目を開いたのか…ご存じですか?」 俺の顔を覗き込んでそう言うと、にっこりと笑いかけるから、俺は首を振って答えた。 こんな悲惨な状況なのに、この人は笑顔でシロの頭を撫でて言った。 「覚醒したくない人に見られる症状なんです。体は起きているのに、眠っている様に…意識がどこかへ行ってしまってる…。本人は、夢を見ているみたいな状況なんですよ。だから、心配しなくても大丈夫…。まだ、起きたくないって…言ってると思ってください。」 「ふふっ!」 俺はそれを聞いて、吹き出して笑った。 だって…いつもの朝の風景と同じなんだ… 何度往復しても、いつまで経っても起きて来ない彼に…しびれを切らして、抱きかかえてリビングまで連れて行くんだ。 ソファに降ろすと、彼は窓から外を眺めて今日の天気を教えてくれる。 そんな…いつもの日常… 笑って細めた瞳から、ボロボロと涙が落ちて…開いた口から、止まらない嗚咽が漏れる。 込み上げて来る感情が何なのか分からないまま、揺れる肩を止めることも出来ないで、彼の膝に突っ伏して泣く。 そうか…まだ、彼は起きたくないんだ… でも…いつか起きて来るんだ。 そうだろ…? 瞳を開いた彼と…医師の言葉に救われて…少しだけ気分が落ち着いて来る。 「桜二…おはよう。あ…シロ。気が付いたの?」 依冬がそう言って、手に持ったコンビニの袋を俺に渡すと、体を起こしたシロの顔を覗き込んだ。 「ふふ…シロは可愛いと思っていたけど、こうして見ると…とっても綺麗だ…」 彼は事前に医師から聞いたのか…彼の状態に驚くこともせずに、受け入れて微笑んだ。 「あぁ…この子は、美人さんだ…」 俺はそう言って俯いて笑うと、シロのだらりと垂れた手のひらに、依冬が買って来た彼の大好物の…抹茶ラテを握らせた。 「ツナマヨも置いてあげたら…?気が付くかもよ?ふふ…」 依冬がそう言って、彼の手のひらにツナマヨおにぎりを置いて、乗り切らない量に手から零れて、おにぎりがコロコロと転がって行く… 全く… 呆れる。 こんな状況なのに…彼はいつもと変わらない… いいや…きっと、あえてそうしているんだ。 「お前は…強いな。本当に、ありがとう…。俺1人じゃ…こんな風に、彼にしてあげられなかった…。お前が居て…本当に良かったよ…」 シロを見つめながら、背後の依冬へそう言うと、彼は俺の肩に手を置いて言った。 「俺は信じてるんだ。シロが目を覚まして、また日常が戻るって、信じてるんだ。だから、今を過程として見れる。彼がトラウマから解放される…その過程だと思えるんだ。」 なんて奴だ… 「はは…、そうだな…そうだ…そうなんだ…。お前の…いう通りだ…」 俯いた目から、ポロポロと涙が落ちて、膝を濡らしていく… 苦しい発作から解放されて、お兄さんの記憶に…傷つかない。 そんな普通の日常を…送れるようになる、過程なんだ…。 依冬の言葉にまた救われて…俺は一気に状況を受け入れる事が出来た。 「桜二、それ食べたら…土田先生と一度話してくれ…」 「分かった…」 目を見開いて前を見据えたままのシロと、依冬の買ってきた朝食を摂ると、重く根っこの生えた腰を起こして、立ち上がった。 「桜二さん、お時間ありがとうございます。私は土田剛(つちだごう)と言います。このクリニックで心療内科医をしています。以前は海外のホスピスで緩和ケアのカウンセラーをしていました。結城さんから事前にご相談を承っていて、シロ君の事は事実のみ理解していると思ってください。僕がこれからお伺いしたいのは、あなたの主観の入ったシロ君の事です。」 土田医師はそう言うと、パソコンの画面を見ながら、彼のカルテを開いた。 そして、俺を見ると、にっこりと微笑んで言った。 「まず、出会った経緯と、その時の状況を教えてください。」 マジか… この人は俺たちの全てを知ろうとしている様だ…それは果てしも無く、長い話。 「…長くなりますよ?」 俺はあらかじめそう言うと、シロとの出会いと彼と過ごしてきた時間、彼とぶつかってきた問題について、話し込んだ。 不思議なもので、当時の記憶をたどりながら彼との出来事を話す間…俺の顔は笑顔になって行った。 1時間30分に及んだ時系列を書き終えると、土田医師は俺に向かって言った。 「シロ君は…どうやら最近、あなたの事をお兄さんとは思っていない様だ。それには気付かれていましたか?」 え… 唐突な質問に、首を傾げると言った。 「いいえ…」 俺の事をお兄さんだと思っていないとしたら…何故、一緒に居たんだ… そんな気持ちを汲み取った様に土田医師は言った。 「きっと、お兄さんよりも桜二さんの方が良いって、思ったのかもしれませんね。あはは。これで、あなたの不安が一つ消えた。だって、彼は治療を経たとしても、何かとんでもない事が起こらない限り、あなたを嫌いになったりしない。」 とんでもない事… それを聞いて俺は俯いて言った。 「怒りに任せて…彼を殴ってしまったではないですか…」 「シロ君が…勇吾さんと居た時ですか?彼はその後もあなたに付いて帰って行ったではないですか…その後も、あなたに助けを求めて電話をしている。桜二さん、物事の事象とは別に、その時彼が取った行動を考えてください。」 激しい発作の中、俺に…助けを求めて…慌てて向かった先で、変わり果てた彼を見つけた。 胸が痛くなって、呼吸が浅くなる。 死んでしまうと思った…あんなに酷い発作を見た事が無かったから…怖かった。 「きっととても驚かれたでしょう。そしてご自分を責めた。」 土田医師はそう言うと、キーボードに置いた手を止めて、俺を見て言った。 「でもね、それは実は何の生産性も無い事なんです。人というのは考える生き物です。しかし、考えすぎてしまう生き物でもあるんですよ。自分以外の他人に対しては、言葉は乱暴ですが、行動が全て。と考えてみてください。」 え… 「行動が…全て?」 俺は顔を上げて土田医師を見ると、首を傾げて聞き返した。彼はにっこりと微笑むと、話の続きを話して聞かせた。 「例えば…本当に嫌いな人が居るとしましょう。あなたの心はその人が大嫌いだけど、行動には表さなかった。そうすると、相手はあなたが自分を嫌いだなんて…思いもしないんです。だって、心は目に見えないから。」 まぁ…そんな事は、知っている。 それが…なんだ… 「シロ君の“兄ちゃん”という言葉にとらわれ過ぎないで欲しいんです。優しくされたり、守って貰ったり、彼の中で彼がお兄さんを感じた時、誰にでも使ってしまう、そんな言葉なんです。それは、その人が彼の特別になったわけでも、彼のお兄さんになった訳でも無いんです。」 ニコニコと話すこの土田医師は…俺の全てを今、否定した。 動揺してあ然とする俺に、土田医師は言った。 「でも、見てください。シロ君はあなたの傍に居る。あなたの傍で、起きて、ご飯を食べて、あなたの所に帰って、一緒に寝ている。そうでしょ?それが彼が取った行動です。あなたは彼のお兄さんの様に、頼れる存在ですが、彼のお兄さんになる必要は無いんです。」 あぁ…そうなんだ… 俺はてっきり…シロのお兄さんに…ならなきゃいけないんだと…思い込んでいた。 彼の特別でいないといけないんだと思っていた。 ボロボロと知らないうちに涙が零れて、嗚咽が漏れる。 それは、彼の“兄ちゃん”でいれない悲しさからじゃない…彼が傍に居てくれた事実に気付いて、涙が止まらなくなった。 「物事は意外と簡単で、第3者から見ると何てことない事でも、当事者からするとまるで絡まった糸のように複雑で、難解な事に映る事がよくあるんです。だから、こじれて絡まった時は、僕の様な者を訪ねて話すと良い。しかし、仲良しですね…ふふ、話を聞いていたら情景が目に浮かぶんですよ。彼があなたに甘えている光景が。」 土田医師はそう言うと、ケラケラ笑って言った。 「だって、一緒にシャワーなんて…しかも、毎日…あはは!これは、恋人以外のなに物でも無い。あなたは彼の、頼りになる恋人なんです。お兄さんによく似た愛情をくれる、そんな恋人なんですよ。」 「ははっ…あはは…うっうう…はは…」 泣き声と一緒に涙があふれて、変な笑い声をあげると、胸の詰まった苦しみが口から溢れていく。 「俺に甘える時は…いつも泣き声みたいにか細い声で、名前を2回呼ぶんです…。桜二…桜二…って…それが堪らなく可愛くて、好きで、恋しくなって、愛しくて、彼を愛してる…シロ…シロ…」 今まで彼の“兄ちゃん”でいる事が、自分の存在意義だと思っていた。 彼の”兄ちゃん”だから、愛して貰えているんだと思っていた。 だから、彼の治療を見送って…彼の症状を見過ごして、彼が俺を“兄ちゃん”と呼ぶ事に執着した… そんな事しなくても…良かったんだ。 シロは俺の名前を呼んで、愛してると言ってくれた。 俺を大切そうに抱きしめてくれた。 俺の頬を優しく撫でて、愛してくれた。 彼は…俺を愛してくれていた。愛していてくれたんだ…。 それは、お兄さんの代わりじゃない、桜二を、愛してくれていたんだ。 こんなに傍に居たのに…あんなに一緒に過ごしたのに… どうして、気付けなかったんだろう… 「桜二さん、シロ君が目覚めた時、あなたを見て何て言うと思います?」 土田医師はそう言うと、首を傾げて微笑んだ。 「はは…そうだな…多分、俺の顔を見て…いつもの様にふふッと笑うと思います。そして、その後に…きっと、売れない作曲家みたいな髪だね?っておどけると思います。」 俺は涙をダラダラこぼしながらそう言うと、にっこりと笑って返した。 まるで、あの子に笑うみたいに…

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