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第23話
#依冬
「シロ?抹茶ラテ飲む?」
彼の手に置かれた抹茶ラテを手に取って、いつもの様にストローを差してあげる。
口元に運んで、吸い込まない唇を見つめる。
ずっと寝ていたおかげなのか、舌の腫れは意外にもあっという間にひいていった。
桜二の言葉をぼんやりと思い出して、フンッ!と鼻で笑う。
俺が居て良かった…って?
俺が強いって…?
全く…気楽なもんだよ…
「シロ?抹茶ラテ嫌だったの?もう…本当に良くないよ?そういう所…」
俺はいつもの様にそう言って彼の唇からストローを抜いた。
そっとキスして、彼の髪を優しく撫でる。
こんな風になってしまう前に…もっと早く、連れて来れば良かった…
ポロリと涙が落ちて、彼の手のひらに落ちていった。
「この人の診断をして欲しいんです。」
それは俺が初めて土田医師を訪ねた時の話…
彼にまつわる資料を作って、このクリニックの土田医師に相談に行った時の話だ。
「ふんふん…凄い量の資料ですね…で、当の本人は、本日いらしてないんですか?」
彼はそう言って渡した資料を開くと、最初のページを見た瞬間、動きを止めて言った。
「虐待…」
そうポツリと呟くと、彼の人生を時系列でまとめた資料を、熱心に読み始めた。
俺は土田医師が資料に目を通す間、じっと様子を伺っていた。
「こういった虐待のトラウマを抱えて、大人になっている方のカウンセリングを今までも何度もしてきました。しかし…彼は、よく頑張って…ここまで、生きて来た…」
言葉を詰まらせながらそう言うと、土田医師は涙を落とした。
俺はその様子を見つめながら言った。
「彼は過去の記憶を思い出す度に発作の様に気絶をするんです。そして、しばらくすると激しい頭痛を訴えながら目を覚まします。彼が言うには、頭痛が目の奥に移動して…耳の奥に移動すると、消えて行くそうです。その頭痛が退くまで、彼は動くことが出来ません…」
事実だけ、淡々と話して伝えていく。
「依冬さんは…シロ君の何ですか?」
土田医師に聞かれて、俺は真っ直ぐ彼を見つめ返して答えた。
「恋人です。」
緊張した面持ちの俺に、ニッコリと微笑みかけると土田医師は言った。
「では、恋人の視点で彼の事を教えてください。客観的じゃなくて良い、主観を交えて、教えてください。彼はどんな人ですか?」
どんな人…?
「シロは…強くて、優しい人です。真面目で意外と常識人で…俺の方が怒られてしまうくらい…ふふっ。食べ物へのこだわりが強くて…気に入らないと文句を言って、子供の様にはしゃいで、甘える…そんな人です。」
自然と笑顔になって、表情も考えも柔らかくなっていく。
「資料を拝見した所、シロ君には他にも“桜二さん”という恋人がいますね。彼とは一緒に住んでいる様ですけど、これは依冬さんは気にならないの?」
土田医師はそう言うと、俺を見つめて首を傾げた。
軽いため息をついて視線を逸らすと、俺は言った。
「その人は、俺の腹違いの兄なんです。シロは彼の事を”兄ちゃん“と呼んで、本当のお兄さんの様に慕っています。彼と離す事はシロにとって良くない事のように感じて、強烈なブラコンと付き合っていると、自分に言い聞かせて…我慢しています。実際、シロが発作を起こした時も、桜二が彼を抱きしめてあげると、あっという間に収まる事が多いんです。」
認めたくないけれど、実際それが事実なんだ…仕方が無いだろ。
「なるほど…でも、彼は依冬君の事も好きなんですね…ふんふん…」
「ええ、俺の事は…まるで自分の様だと言って、普通のカップルの様にじゃれたり、映画に行ったり、ご飯を食べたりして過ごすんです。逆に桜二とは、家で過ごす事が多いように感じます。べったりと甘ったれて…下手すると、ずっと裸で抱き合ってるんじゃないかって思うくらいに…いつまでも終わらない甘ったるい世界を過ごしてる。」
こう考えてみると…彼は、俺と桜二で甘え方が違うみたいだ。
首を傾げながら考え込んでいると、土田医師が俺に微笑んで言った。
「依冬さんには同世代のカップルを、桜二さんにはお兄さんの姿を求めているんでしょうか…」
そうだ…そうなんだ…
スッと胸に落ちて、納得した。
「やっぱり、シロの恋人は俺なんだ…。良かった…。良かった…。ずっと桜二の方が好きなんだって、心のどこかで…腑に落ちない気持ちを抱えていたから。俺の見解は間違っていなかった…。彼には桜二がお兄さんに映ってるんだ…」
俺が笑顔になってそう言うと、土田医師は訂正する様に言い直した。
「桜二さんの事がお兄さんに見えている事と、お兄さんの様な人を求める事は違いますよ。彼はどういうことか、シロ君のお兄さんによく似た何かがあるようですね。彼は桜二さんのそこが、好きなんです。シロ君にお兄さんが切っても切り離せない存在だとしたら、やはり、桜二さんの事も切っても切り離せない存在なんです。難しい問題ですけど、あなたが恋人であることは変わりない。でも、桜二さんも彼の恋人なんです。」
あぁ…そうか。
シロは桜二のお兄さんに似た所が好きなんだ…そして、それが絶対なのは…変わらないんだ。
お兄さんの手紙を彼に読ませた時から…薄々感じていたよ。
彼が桜二を信頼して、頼って、甘えているって…。
たとえ、桜二がお兄さんに見えていなかったとしても、それが変わらない事も…
「ふふっ…」
俺は諦めた様に笑うと、肩をすくめて言った。
「やっぱり、俺が思った通りだ…。彼から桜二を離さなくて、良かった。」
もし、俺が桜二の存在を嫌がったら…シロは、どちらを選ぶのかな…
そんな疑問も、猜疑心も、彼と桜二が切り離せない存在と認識した今なら、愚問のように感じる。
「シロにとって…桜二はお兄さんであって、過去の自分自身でもある…そして、俺の事は恋人であって、これからの自分自身なんだ…」
そう呟くと、細めた瞳から涙が落ちて、ポタリと手の甲を濡らした。
「うん…僕も、そう、感じました…。だから、依冬さんとは…普通のカップルの様に、はしゃいだり、遊びに行ったり、デートをしたくなるんでしょうね。自分を裏切らない桜二さんと違って…あなたは彼にとって不確かな存在。だから、大切に育もうとしている気がします。」
そう言った土田医師は俺を見てにっこりと微笑んで言った。
「シロ君は幸せ者だ。こんなに思ってくれる人が、傍に2人もいるんだから。」
この人なら…シロを導いてくれるかもしれない。
トラウマの発作を抱えて、自分を嫌う彼を…助けてくれるかもしれない。
「土田先生、ぜひ…彼を診てください。あなたなら彼も怖がらない。柔和な印象で、話し方も威圧的じゃ無い…。彼は意外と臆病なんです。ふふっ…。あと、ホラー映画が好きなくせに怖がりだから…いつも最後までちゃんと観れないんです。」
俺がそう話すと、土田医師は吹き出して笑った。
部屋中に響く様な大きな声で楽しそうに笑うから、こちらまで笑顔になって、気付いたら一緒に笑っていた。
あぁ…この人なら大丈夫だ。
今までシロの事を相談して来た心療内科医は数知れず…
有名と謳われるクリニックでは門前払いを受けた…理由は、面倒な案件だから。実際には、入院施設が無いから…と、言われたが、俺はそう感じた。
結局、金になるような薬を出すだけの心療内科だったって訳だ…
何件も心療内科、精神科を巡って分かった事の1つ。
医師はそれほど知識が豊富な訳では無いと言う事と、他人に興味などないと言う事。
そんな人が、心を病んだ人を、どうやって見るんだよ…
興味も無いのに…患者の話に適当に相槌を打って、薬を出す。そんな事、誰だって出来るじゃないか…
藁にもすがる思いで訪れた人は、そんな態度に、余計に傷ついてしまうんじゃないの?
シロをそんな目に遭わせる訳に行かないから、俺は慎重に病院を選んだ。
・優しい
・威圧的じゃ無い
・話を聞いてくれる
たったこれだけの条件を満たすクリニックの少なさに…正直、医師免許のはく奪を訴えたくなったね…教師もしかり、なったもん勝ちの世界だ。
絞り込まれたクリニックの中から、さらに厳選する為に俺はこんな条件を加えた。
・通いやすい
・入院施設がある
・担当医の経歴(海外での就労実績)
3番目の条件の理由は、別に、海外かぶれしている訳では無いんだ。日本の暗黙のセオリーを抜け出した見解と価値観に意義を感じたからだ。結局、ゆくゆくは型破りな彼を診療する事になるんだ。決めつけや、手順…そういう物に縛られて、患者を色眼鏡で見るような医師では務まらない。そう感じたからだ。
その点で、土田医師はホスピスという特異な場所でのカウンセラー経験がある。ホスピスとは治療しても回復の見込みのない人が、苦しい治療を止めて、穏やかに自分らしく最後を迎えられるように過ごせる場所だ…
その患者と、家族の両方を彼は診ていたんだ。
会って話してみて、良かった。
あの先生なら…シロをちゃんと診てくれる。
「ね?シロ?俺は頑張ったんだよ?今度サービスしてね…」
そう言って前をじっと見つめたままの彼の頬を撫でると、気のせいか…少しだけ微笑んだ気がした。
「ふふ…」
俺はそんな彼につられて笑った。
#桜二
土田医師と話してから、シロを見守る目にも余裕が生まれて、仕事をしながら朝や夕方に病院へ顔を出して彼と過ごす。そんな生活を過ごしていた。
職場復帰は予定通り行われて、彼のいないベッドで起きると、彼のいない部屋で朝の支度をして、彼のいない部屋に鍵を閉めると、彼のいない車に乗って、会社へと向かう。そんな…生活だ。
彼が土田医師のクリニックに入院して、1週間と半分…。10日になる。
鎮静剤や、睡眠薬、痛み止めなどの薬は一切使われず、起きている時の彼はほぼベッドの上で過ごしていた。目を見開いた表情は変わらないけど、物音に反応する様に、顔を動かすようになったんだ…
焦点は相変わらず合わないけれど、彼の意志で動く体に、喜んで泣いた。
今日は勇吾と夏子の携わったコンサートが行われる日…
彼が楽しみしていたKPOPアイドルのコンサートは…既に終わってしまった。
きっと、怒るだろうな…
一緒にコンサートに行く予定だった陽介先生には、俺から事情を話した。
彼の生い立ちを知っていた彼は、泣き出しそうな顔で言った。
「シロの目が覚めたら…必ず連絡ください。俺が代わりに推しのうちわを買っておくから…トレカも買っておくからって…必ず伝えてください…!」
推し…?
ストリップバーの支配人にも、楓君にも事情を話して、もしもの話も伝えておいた…
もし、彼が踊れなくなったら…どうか、彼のお客さんにはこの事は伝えないでくれ…と。
美しくて、華麗な彼のまま、終わらせてあげてくれと…お願いした。
彼は支配人の寵愛を受けていたから、こんな話を聞いたら、きっと悲しむと思っていたのに、支配人はケロッとした顔で言ったんだ。
「ちっ!仕方ねぇな…南国にバカンスに行ってる事にでもするか~。まぁ、目が覚めたら踊れなくても顔を出すように言っといてくれよ。」
俺の心配をよそに、支配人も楓君も、彼の復帰を信じていた。
「シロに似合いそうな衣装を買っておいたからって…伝えておいて下さい…。あと、年末に彼氏とイギリスに行くから…それまでに戻って来てって…言っといて?ふふ。」
楓君はそう言うと、目を潤ませて控え室へと戻って行った…
シロも降りた馴染みのある控え室への階段を…じっと見つめる。
今にも、彼が控室のドアを開いて出てきそうだ…
俺が控え室への階段をぼんやりと眺めていると、支配人が言った。
「彼氏さん…。俺は、コンビニで働くあの子に会った日から、ずっとあの子に恋をしてる変態のジジイだ…。あの子のステージは全て見て来た。そんな俺だから言える。シロは強い子だ。絶対に戻ってくる!だから、あんたも…頑張んな!」
そう言って涙を拭うと、背面に置かれたタバコの在庫を確認し始めた…
変態のジジイ…
「ふふ…ありがとうございます。」
俺はそう言って店を後にすると、そっと涙を拭った。
シロ…シロ…早く戻っておいでよ。
みんな待ってるよ…
お前に会いたいって…言ってるよ…?
それが9日前の出来事…
今日は仕事も早く終わって、夕方から彼の病室にいる。
「シロ?KPOPアイドルたちはコンサートもファンミーティングも終えて、韓国に帰っちゃったみたいだよ。残念だったね…また来年、行こうね…?」
俺はそう言って、彼の唇に塗れた脱脂綿を当てる。
乾燥して割れて来ちゃったんだ…
目が覚めたら…怒られるだろうな…
彼の唇にワセリンを薄く塗っていると、土田医師がペンライトを持って病室へ入って来て、俺を見て言った。
「桜二さん、今日ね…シロ君が声を出して笑ったって看護師が言っててね。ちょっとだけ聞いて見ようと思います。」
え…?
土田医師はそう言うと、シロのベッドを起こして、彼の体を起こした。
俺はすぐに体を避けると、土田医師がペンライトを当てて話しかける様子を見つめた。
「シロ君?ここが、どこだか…分かるかな?」
小さく囁く様な彼の声に、シロが言った。
「店だよ!バカやろ!」
「ははっ!シロ…!シロ…!!」
久しぶりに聞いた彼の声に、涙が止まらなくなって、彼の口の悪さに苦笑いする土田医師に笑顔を向けて言った。
「彼だ…!彼が…店にいるって…はは…あはは!」
俺の様子に頷いて答えると、土田医師は再びシロの瞳にペンライトを当てて聞いた。
「シロ君?…先生の顔、見えるかな?」
先ほどとは違って、彼は何も答えなかった…でも、両手を伸ばして、宙を掻く様に動かした。
「…起きる気に、なったかもしれない。」
そう言った土田医師の言葉に、嬉しさのあまり、俺は叫びそうになった。
しかし、その後、シロは土田医師の問いかけにも、目にあたるペンライトにも反応しなくなって、また静かに呆けた顔のまま、宙を見つめた。
久しぶりに彼の声を聞いた…
店だよ!バカやろ!だって…ふふ…ふふっ!
彼の頬を撫でながら、優しくキスをする。
「シロ…可愛いね。大好きだよ。早く、戻っておいで…?」
もう大丈夫、怖い発作も、どうすれば良いのか教えて貰おう?
お前が怖い物はすべて一緒に取り除いて行こう?
俺と依冬が一緒に居るから、大丈夫だよ。…そうだろ?
「シロは…強い子だよ…」
俺がそう言うと、彼の口元が緩んで、微笑んだ…
「シロ…」
驚いて目を丸くすると、彼の顔を覗き込みながら、もう一度、声を掛ける。
「シロ…聞こえてる?」
俺がそう聞いた瞬間、彼の黒目が動いて…俺を見つめて言った。
「聞こえてるよ?どうしてそんな事聞くのさ、ふふっ。」
あぁ…!
彼はそう言うと、涙を落として絶句する俺の顔を見つめて、不思議そうに首を傾げて言った。
「どうしたんだよ…桜二。ふふ…知らなかったよ?お前が兄ちゃんと仲良しだなんて…知らなかった!ふふっ!」
俺の頬を撫でる彼の手が、小さく震えて…
それを不思議そうに眺めて、彼が言った。
「あれ…力が入らない…」
俺は椅子から飛びあがると、廊下に出て大声で言った。
「土田先生!土田先生!!シロがっ…シロがっ!起きましたっ!!」
廊下の奥で看護師と話していた土田医師が、俺の声に、慌てて走って来る。
看護師を大勢連れて、土田医師が病室へ来ると、シロはキョトンと驚いた顔をした。
あぁ…!シロ…シロ…良かった…!
「シロ君…お帰り…」
土田医師がシロにそう言うと、彼は首を傾げてジッと顔を見つめていた。
きっと不思議なんだ。この状況も、この展開も…ふふっ!
シロが、俺の方を向いて…表情の付いた目を向けて言った。
「分かんない…」
「良いの。大丈夫…ちゃんと教えるから、大丈夫だよ…」
俺はそう言ってシロに微笑むと、一気に力が抜けて項垂れる。
まるで重力が一気に襲い掛かって来たみたいに、体が重たいのに…嬉しいんだ…!
良かった…本当に、良かった…!!
携帯電話を手に取って、依冬に電話をかけた。
呼び出し音を聞きながら、シロの手を握って…俺の手を握り返す彼の手のひらに、ボロボロと涙が落ちる。
「もしもし…」
依冬が電話に出て、嬉しくて、俺は声を震わせながら言った。
「依冬…シロが…シロが、戻ってきた…!」
「え…?」
依冬はそう言ったっきり、黙りこくってしまった…
信じられないんだ。
土田医師から、彼の意識が戻るのが…いつになるか、明言出来ないと言われていたんだ。
すぐに回復する人もいれば、3年後に戻ってきた人もいると聞いた…
可能性の話として…そのまま、帰らない人もいると聞いていた。
早くても、遅くても、支えていくつもりでいた…。
ニヤけた顔が元に戻らない俺を見て、シロが首を傾げながら言った。
「オレは…ずっと桜二の傍に居たのに…やれやれだな…ふふっ!」
「シローーーー!!」
彼の声を聞いて…俺の携帯が音割れするくらいの大絶叫を依冬がした。
「お帰り…シロ。」
俺は携帯電話を一方的に切ると、彼を優しく、目いっぱいの愛を込めて、抱きしめた。
「愛してるよ…良かった。愛してるよ…」
何度もそう言って、サラサラの彼の髪を撫でると、彼は、気持ち良さそうに目を細めた。
あぁ…
そっと唇にキスをして、彼のおでこと頬を撫でてあげる。
彼は俺の胸に両手を置いていつもの様に優しく撫でると、肩に手を滑らせて、ギュッと抱きしめてくれた。
あぁ…シロ…
目から涙があふれて、どんどん落ちていく。
こみあげて、喉の奥が苦しくなっても、彼と唇を付けたまま、嗚咽を漏らして泣いた。
良かった…本当に、良かった…
#シロ
気が付いたら入院していた。
木の腰壁に深いピンクの壁紙には小さな白い花が描かれていて、重厚な深緑の遮光カーテンと色の配色バランスが良く、落ち着いた雰囲気を出している。部屋の隅には暖色のスタンドの間接照明。
病室とは思えない、誰かの家の一部屋の様な調度品と、空間に、緊張感が和らぐ。
「シロ…シロ…良かった…!」
そう言ってオレの膝の上でオンオンと泣き続ける依冬の髪を撫でながら、オレは部屋を見渡して言った。
「ここに住もうかなぁ…?」
「もう!冗談にもならないよ!」
依冬がそう言ってオレの膝をバシバシと叩いた…
依冬と桜二の後ろで、ジッとオレを見つめるお医者にペコリと会釈をすると、彼はにっこりと微笑んで言った。
「シロ君…初めまして…先生は土田剛って言います。シロ君の担当の先生です。これから何かあったら、先生を呼んで良いからね?このボタンを押したら…看護師さんが来てくれます。困った事があったり、怖いって思ったら、すぐに呼んでね?」
オレの目を覗き込んで見つめると、眉を上げて言った。
「こんな事言うと構えてしまうかもしれないけど、ちゃんと伝えておくね?次、もし発作が起きたら、迷わずボタンを押して、我慢したりしないで。良いね?」
オレは土田先生にコクリと頷いて答えた。
「先生は部屋の隅っこに居るから…居ないものと思って…団欒を楽しんで?」
無理だ。めちゃめちゃ気になる…
そう言って本当に部屋の隅っこに移動する土田先生を見て、オレはケラケラ笑って言った。
「桜二、あの人、ちょっと変な人だね?」
オレがそう言うと、桜二は眉毛を下げて言った。
「シロ…良い先生なんだよ。失礼だから止めて…」
なぁんだ…桜二は彼の事を気に入ってるみたいだ…
オレは依冬の顔を見下ろすと、彼に小さい声で言った。
「依冬…?あの先生…ちょっと変な人だね…?」
俺の膝にスリスリと頬ずりしながら依冬がクスクス笑って言った。
「ふふっ…ダメだよ、シロ。土田先生は良い先生だ。失礼だよ。」
なぁんだ、ふたりとも彼の事を気に入ってるみたいだ…
ふぅん…
オレは部屋の隅っこに居る土田先生を見つめると、首を傾げて言った。
「土田先生?そんな隅っこにいないで、ここに来たら良いのに…」
「良いの?」
ニッコリと朗らかな笑顔を見せて、土田先生はオレのベッドの近くへとやって来た。
変な人だけど、ふたりが気に入ってるみたいだから…きっと良い人なんだ。
オレは彼の瞳をじっと見つめると、舌を出して言った。
「これ…どうにかならない?」
「あぁ…そうだな、もう少ししたら抜糸しようか…?」
土田先生はオレの舌を眺めてそう言うと、オレの膝でゴロゴロと我を忘れて甘えまくる依冬を見て言った。
「…結城さんは頑張って毅然としていたんですね。こんなに喜んで、甘えて、本当にシロ君の事が大好きなんだ…」
依冬はそんな事もお構いなしにオレの膝にゴロゴロしまくっている。
オレは彼の髪を撫でながら桜二を見て言った。
「桜二…お店どうした?KPOPアイドルのコンサートは?勇吾の…勇吾のコンサートは?」
彼は少し困った顔をして、オレの頬を撫でると言った。
「支配人さんと楓君には伝えてあるから大丈夫…。踊れなくても歩けるようになったら顔を見せろって言っていたよ。KPOPのコンサートは…残念だけど終わってしまった。陽介先生が“推し“のうちわと、トレカを買っておくからって言っていたよ。勇吾と夏子のコンサートは…今日から3日間あるよ。」
あぁ…KPOPアイドルのコンサート…
あぁ…
オレはぐったりと項垂れるとシクシク泣き始めた。
「せっかく…せっかく…良い席だったのに…すっごい良い席だったのに…!こんなのって無いよ…ずっと前から楽しみにしてたのに…!うっうう…うわぁん、うわぁん!」
「シロ…泣くなよ。次のコンサートがある時、知り合いに頼んで、また良い席にしてあげるから…泣くなよ…」
依冬がそう言ってオレの涙を拭ってくれるけど、桜二がオレの頭を撫でてくれるけど、知らないうちに時間が過ぎていて、楽しみにしていたKPOPアイドルのコンサートに行けなかった事が悲しくて…オレは泣き止まなかった。
「…こんなのって無いよ…うわぁん…うわぁん…」
「シロ君はKPOPアイドルが好きなんだね?コンサートを楽しみにしていたんだ…。発作が起きて、知らないうちに終わってしまっていて…とっても悲しいんだね。」
土田先生がそう言ってオレを見つめるから、オレは彼を見て頷いて答えた。
「そうだよ?だって…楽しみにしていたんだ…!」
「そうだね…シロ君は、とっても楽しみにしていたんだね。」
「…うん。」
オレはそう言って頷くと彼を見つめて言った。
「…でも…仕方がないよね…陽介先生もうちわを買ってくれてるし、トレカもゲットできたし…何もないよりはマシかな…」
「え?!」
桜二はオレの顔を見て、驚いた顔をして言った。
「シロ…もう、ごねないの?」
え…?だって…
「仕方がないじゃん…楽しみにしていたけど…もう終わっちゃったし、依冬が良い席にしてくれるって言うから…悲しいけど、ごねたりしないよ?」
そもそも、オレはごねたりしない。
桜二はオレの顔をまじまじと見ると、土田先生を振り返って言った。
「どうやったんですか?シロがごねないなんて…ありえない!」
どういう事だよ!!
オレは頬を膨らませると、桜二を小突いて言った。
「ねえ…勇吾はチケットくれた?」
「…いや」
「なぁんだ!みんなして、嘘つきばっかだな!桜二、オレの携帯取って?」
桜二はオレの顔を見つめて首を傾げて言った。
「…携帯電話でどうするの?」
「勇吾にメッセージを送って、何でチケットくれなかったんだ!って怒るんだ。当然だろ?だって、くれるって言ったんだ!」
プリプリ怒って桜二が渋々持ってきた携帯電話を奪う様に取ると、充電がされていない事に気付いて、地団駄を踏むようにベッドの上で足を動かして暴れた。
「んも~~!」
「あはは~、シロ…もっと動かして…!」
そう言って笑う依冬の頭をペシペシ叩いて折檻してると、土田先生が言った。
「シロ君、そろそろ体を休めて…もう疲れちゃってるから。お二人さんも、今日はもうお帰り下さい。また明日お見舞いに来てください。」
土田先生のその言葉に、ふたりはシュンと落ち込んだように表情を曇らせた。
「…また明日…」
そうポツリと呟いた依冬の瞳は、ウルウルと潤んで大粒の涙が目の縁でプルプルと震えた。
多分…オレが眠るのが怖いんだ。
また目を覚まさなくなるんじゃないかって…怖いんだ。
傍らの桜二を見上げて彼に手を伸ばすと、桜二は優しく瞳を細めてオレを抱きしめて言った。
「疲れたね…また、明日来るからね…シロ、お休み…」
彼の両手が優しく、強く、オレの髪や体を撫でて、まるで確かめる様にいちいち締め付ける。その締め付けが気持ち良くて、オレは彼の胸に顔を埋めて目を閉じた。
「桜二…桜二…」
ひとしきり抱きしめると体を離す桜二の代わりに、依冬に手を伸ばした。
「あぁ…シロ、明日もちゃんと起きてよ…?」
ふふっ…
口元を緩めて笑うと、依冬の胸に顔を擦り付けて言った。
「どうしようかな…」
「もう…!面白くないよ、そう言うの…」
いじけた声を出す依冬の背中をギュッと抱きしめて、彼の体に身を埋める。
あったかい…
「明日来る時、美味しいもの買って来て…」
オレはそう言って笑うと、土田先生に追い出される2人に手を振った。
「さて、ゆっくり見せて貰おうかな…?」
そう言って土田先生はオレのベッドの傍に来ると、舌のケガの具合を診た。
「すぐに縫合出来た事と、運よく安静に出来ていたから治りも早かったけど、だらんと切れちゃったみたいだからね…明後日ぐらいに抜糸して…様子を見て見ようか…?ご飯は…もう少し液体のを飲むしかないね…」
そんな…
液体のご飯なんて…ありえない。
「え…やだぁ…桜二の卵焼きが食べたい。プデチゲも、キムチも、桜二の作った焼きそばも食べたいのに…」
口を尖らせてオレがそう言うと、土田先生はクスクス笑って言った。
「なにもすぐに食べなくても、いつだって食べられるでしょ?彼はずっとシロ君の傍に居るんだから…」
なんだ…この人は、オレの事を…オレ達の事を、知ってるみたいだ。
伏し目がちにクスッと笑うと、オレは土田先生に言った。
「知らないうちに…何でも知ってる人が出来たみたいだ…。」
そんなオレの様子に目の奥に光を当てながら土田先生が言った。
「…嫌だった?」
嫌?
…そうだな…どうかな…
「ちょっと…嫌だった。」
オレがそう言うと、土田先生は瞳を細めて言った。
「ごめんね…」
「…何でも知ってるなら、教えてよ。勇吾の…ケガは大丈夫だったの?」
充電の切れた携帯電話を手のひらの中で転がしながらそう聞くと、土田先生は優しい声で静かに言った。
「…大丈夫だったよ。どこも折れたりして無かったって、結城さんが言っていたよ。」
あぁ…良かった。
「そうか…良かった。ありがとう…」
胸のつっかえが下りたみたいに安心すると、オレは携帯電話を持ち上げて土田先生に言った。
「これ、充電したいんだけど…良いかな?」
「待っててね…後で持って来てあげる。」
そう言ってオレの血圧を測って、心音を聞くと、土田先生が首を傾げて聞いて来た。
「桜二さんの名前が気に入ってるみたいだね?」
ぷぷっ!
突然に質問に吹き出して笑うと、彼を見上げてにっこりと笑って答えた。
「確かに…。だって、彼の名前には桜の花が咲いてるんだ…。自分の母親を彼は憎んでるけど…こんな素敵な名前を付けてくれたんだ…。途中でおかしくなってしまったけど、彼が生まれた時は…きっと大事に育てようって思っていたと思うんだ。だから、彼の名前が…好き。」
「わぁ…そうなんだね。」
土田先生はそう言って微笑むと、眉毛を下げて満面の笑顔で言った。
「素敵な理由だ…」
そうだろ?
暗くなった室内に間接照明がぼんやりと灯されて、誰も居なくなった病室で、ベッドにゴロンと寝転がって、充電中の携帯電話に付いたチンアナゴを撫でる。
兄ちゃん?オレはどうやら10日間も意識が無かったみたいだ…
桜二も依冬も凄い心配していた…
あんな酷い発作…もう二度と体験したくない。
体が千切れて行きそうな感覚も、目玉が飛び出しそうな感覚も、どれも鮮明に覚えていて、追いかけてしまいそうで…怖いんだ。
舌を口の中で転がして、鈍い痛みを感じながらぼんやりする…
発作や痙攣で間違って噛んだような傷じゃない…舌をかみ切って…死のうとしたみたいだ。
きっと、逃げ出したかったんだ…逃げても、逃げても付いて来る…自分から。
もう…この人と一緒に居るのが…嫌。
うんざりするくらい…嫌。
ボウッと明かりの灯った携帯電話を見ると、怒涛の様にメッセージの着信が表示される。その中の一件を見つめて…開けずに見つめた。
“わんじゃにむ”…
オレが店で発作を起こしたあの日、彼からメッセージが入っていたみたいだ。
“どこにいるの?”
その文字を見た瞬間、目の端から涙が落ちて…クスクス笑いながら悲しくて泣いた。
依冬の部屋を飛び出して自宅に帰ったあの日…
あの日からオレは携帯電話の電源を入れていなかったんだ…
「勇吾…オレの事、心配してくれていたの…?ふふっ…。だから、あの時も開店直後のお店に居て…支配人と一緒にオレを部屋まで運んでくれたんだね…」
シトシトと涙を流す気持ちが…悲しい気持ちだと分かった。
その一件だけの彼のメッセージに、オレの事なんて…忘れてしまったの?なんて…いじける自分が…まだ彼を好きで、どうしようもないクズだと分かって…悲しい。
発作が起きても…10日間意識が戻らなくても…目を覚ましたとしても…
オレが桜二を傷付けるクズなのは、変わらなかった…
また彼を苦しめてしまうのか…あんなに笑顔で、再びオレを見つめてくれた、オレに話しかけてくれた彼を…
また失う恐怖を感じないといけないのか…
こんな無間地獄に陥るくらいなら…目なんて覚まさない方が良かった。
眠ったまま死ねば良かった…
舌先を口の中で動かして、鈍い痛みを自分に与えて、達成出来なかった事に後悔をする。
オレはいつも死に損なるな…だから、
こいつが嫌いなんだ。
必死に生きようとする化け物…死んだ方が良い化け物…ほんと、お前には虫唾が走るよ。
頭の中がクラクラして、息が浅くなっていく。
枕もとに置かれたナースコールを見つめたまま、ただ自分の視界が暗くなっていくのを感じて…クスクス笑いながら言った。
「あぁ…もう、まただ…」
両手を上に上げて、ヒラヒラと落ちない桜を頭の上に漂わせて下から眺めると、病室の扉が開いて、土田先生がオレの顔を覗き込んで言った。
「…発作かな?」
オレは彼を見つめて笑うと言った。
「もう…死んでしまいたいよ…」
そのまま上に上げた両手の力が抜けて、だらんと自分に振って来る様を見ながら気絶した。
暗闇の中、慌ただしく会話をする誰かの話し声だけが耳に届いて、自分の隣に誰かの気配を感じる。
そっと触れた指先で撫でてみる。
あぁ…
それは兄ちゃんの感触。
ゴロンと体を寝返りさせて瞳を開いた。
「兄ちゃん…」
オレがそう言うと、目を閉じていた兄ちゃんがうっすらと瞳を開いて、口元を緩めて笑った。
やっと会えた様な気がして、兄ちゃんの胸の中に体を沈めると、両手を背中にまわして強く抱きしめた。
兄ちゃんの温かさも、兄ちゃんの匂いも、兄ちゃんの息遣いも…何も変わらないで、オレの体に沁み込んでいく。
締め付けるように抱きしめられて、疑う事も、悲しむ事も、傷付ける事も無い、温かい体にうっとりと体を沈めていくと、そっと目を閉じて言った。
「兄ちゃん…シロもここに居て良い…?」
「良いよ…」
頭の上で兄ちゃんがそう言うと、頬に触れた兄ちゃんの胸に低い声が響いて、小さく振動した。
良かった…
良かった。
「シロ君?」
名前を呼ばれて瞳を開くと、目の前にあった兄ちゃんの胸は無くなって、明るい天井とオレを覗き込む土田先生の目と目が合った。
ガンガンと頭を揺らす程の頭痛が起きて、オレは顔を歪めると土田先生を見て訴えた。
「い、痛い…!あっああ…!」
彼の腕を掴んで必死に痛みを訴えると、土田先生はいつの間にか繋いだオレの点滴に少しずつ薬を入れていく。
「深呼吸してね…?大丈夫、先生が居るからね…痛みが落ち着くまで、少し頑張ろう…。先生の手を掴んでて良いからね…。」
激しい頭痛とは対照的に彼の声は落ち着いていて、そんな俯瞰した態度に、痛みで興奮した気持ちが冷静になって来る。
「はぁ…はぁ…はぁはぁ…」
呼吸を整えながら、必死に土田先生の腕を掴んで、この激しい頭痛が落ち着くのを目を見開いて耐える。
土田先生は真剣な表情で、手元の腕時計を眺めながらオレを見下ろすと、じっと様子を伺っている。
徐々に薄れていく痛みを感じて、土田先生の腕を放すと彼を見上げて言った。
「あぁ…だんだん、良くなってきた…」
「そう…」
そう言って点滴の薬を入れるのを止めると、じっと様子を伺いながら腕時計を確認して時間をメモに記入した。
「シロ君?ナースコール押さなかったね…どうして?」
クッタリとベッドに項垂れるオレに容赦なくそう聞くと、土田先生は少し厳しい顔をして言った。
「この発作は心が関係してるから、厄介なんだ。だからね、起きた時間と治まった時間を把握して前後関係を記録したいんだ。…ねえ、どうしてナースコールを押さなかったのか、先生にだけ教えて。」
じんわりと滲む涙を目にそのまま溜めて、ジッと眉に力を込めると、土田先生を見つめると言った。
「死にたい…」
彼はオレの瞳を見つめ返すと、眉と肩を同時に下げて言った。
「そう…」
そう言ってベッドに座ると、オレの頭を撫でて部屋の壁をぼんやりと見つめた。
オレはそんな様子を眺めながらゆっくりと瞳を閉じて、眠った。
#勇吾
「午前中のリハーサルで見つかった動線の問題は、情報を共有してある?」
俺がそう聞くと、スタッフの子は気合の入った様子で元気に返事した。
「はい!もう全て、準備万端です!」
ふふ…
6:20から入場を開始して、7:00に開演。終わるのは…アンコールも含めると9:30くらいかな…
「はぁ…」
ダサいスタッフジャンパーを着せられて、インカムを付けられて、まるで動き回るスタッフみたいじゃないか…
俺の仕事はもう終わったのに…さっさと帰らないで、東京にまだ居たいなんて。
シロ…どうかな?もう、目を覚ましたかな…
それとも…眠ったままかな…
もう会わないのに…傍に居たいんだよ。
離れるのが、怖いんだ。
「勇吾、袖に行こう?」
夏子に呼ばれて、彼女と舞台袖に行ってお客の様子を眺める。
「凄いね…あんなヘボなのに、こんな集客力があるなんて、驚きね?」
夏子がそう言って感心するから、俺は肩をすくめて言った。
「広告会社が絡んだ持ち上げ式の人気だよ…。さも素晴らしい物の様に吹聴して、信じた人が同じように吹聴する。ネズミ式みたいに、それがどんどん広がって出来た空っぽな人気。偶像にはぴったりだ。」
楽屋の前では、後から売り出すコンサートDVDの為に、派手に円陣なんて組んで大騒ぎしてる声が聞こえる。
「あほくさ…」
「勇吾!」
夏子がムッとして俺の腕を小突いた。
開場の明かりが暗くなると、会場が静まり始める。
アイドル達がスタンバイを始める中、俺の頭の中にはあの子のステージが目の前に広がっていく…
煌々と輝く小さなステージで、目いっぱいの表現を上手に繋いで、美しく妖艶に踊る可憐なシロ。
それは彼の踊ってみせたジプシーのエスメラルダを彷彿とさせる。
情熱的で、強くて、悲しい…が故に、人を魅了して…心を掴むんだ。
大音量の音楽が会場を轟かせて地面を揺らす中、俺は舞台袖から降りると、両腕を組んだままモニターを眺めた。
自分の演出が加わった部分の、最終確認だ。
シロ…狂ってても良いんだ。
お前がお前である事に、何の変わりがあるというの…
薔薇は薔薇という名前じゃなくても良い香りがするんだよ。
お前も同じ…正気でも、狂ってても…甘くておいしい事に変わりは無いんだ。
こんなに狂おしいのに…忘れる事なんて出来るのかな…
「勇吾さん、明日の確認をしたいんですけど…」
そう言って声を掛けるスタッフの後ろを付いて行きながら、明るい廊下を歩いて、沢山置かれた花束を見つめる。
「綺麗な花だな…良い香りがして、あの子みたいだ。」
そう言って、白い大ぶりな花びらを沢山付けて柳の様に垂れる花束の前で、足を止める。
「え…あの子って、彼女ですか?ふへへ…」
そう言ってニヤけた顔で覗き込まれて、返答に困る。
「いや…。ねえ、これちょうだい?」
「どうせ全部は持って帰れないし…企業からのなんで、どうぞ?」
他とは違うこんな花を贈るなんて…センスが良いな…。
この企業は大成するぞ。ふふ…
俺はその花束を抱えて、良い香りに包まれながらあの子を思った。
この公演を最後まで見送ったら、俺はイギリスに帰るよ。シロ。
お前と出会った事も、愛した事も、忘れる事が出来るかな…?
そうでもしないと、馬鹿な俺は…すぐにお前に会いに行って、変わらない馬鹿さで、お前の周りをウロチョロして、お前を独占したいって…困らせてしまうから。
依冬君が面白い事を言ったんだ…シロの傍に居るには、俺は幼稚過ぎるって。
的を得ていて、妙だと思わないか?
「さて、お前は何て名前の花なんだ…」
自分の楽屋に自分宛じゃない花束を連れ込むと、ジロジロと観察する。
「ランなのかな…?それとも、ユリなのかな…?」
あの子が目を覚ましたら、同じ花を贈ってあげよう。きっと喜ぶに違いない。
匿名だったら…俺が送ったとはバレないだろ?
1人花束とにらめっこをして、騒がしい廊下の音を聞きながら首を傾げ続ける。
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