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第25話

#シロ 「桜二、見て?」 オレはそう言うと、逆立ちしたまま両手で屈伸した。 「ハイハイ…凄いね…でも、危ないよ?」 彼は適当にそう言うと、オレの洗濯物を持ってきた鞄に入れた。 「危なくない。オレはこういう事をするのがお仕事なんだよ?」 体を仰け反らせて足を後ろに高く伸ばすと、桜二に視線を送って言った。 「桜二、見て?しゃちほこ!」 「お~お~凄いね…シロ君、雑技団みたいじゃないか…。ここは本当に病院なの?雑技団の宿舎みたいだよ…」 土田先生がそう言いながら病室へ入って来た。 ぷぷっ!雑技団の宿舎だって…変なの。 もう一度足を真上に上げて逆立ちすると、ゆっくり体の後ろに落として立ち上がった。 そして土田先生の目の前に行くと口を大きく開けて舌を出した。 「もう治ったよ?ラーメン食べても良い?」 「そうだね…どうかな?」 土田先生はそう言うと、手袋をはめてオレの舌を触り始める。 「んふふ!んふふふ!」 それがこしょぐったくて、オレは笑いながらも我慢して彼の触診を受ける。 「シロ…座って見て貰いなさいよ…全く…」 桜二がブツブツそう言いながら、オレの洗濯物を集めてる。 いつもの光景だ。 土田先生は指を立てると、オレの舌をゆっくりと撫でていく。 「桜二?土田先生がオレにいやらしい事した。」 「人聞きの悪い事言わないでよ。先生はシロ君の舌の触感を調べてるんだよ?問題は無さそうだけど、刺激が強い物は避けてね?例えば…キムチとか、南蛮漬けとか、激辛ラーメンとか…」 土田先生はそう言うと、オレの顎に手をあてて開いた口を閉じさせた。 「ふふ…」 眉を上げて変顔しながら土田先生がオレを見つめてくるから、オレも同じように眉を上げて彼を見つめた。 「シロ?昨日…抹茶ラテ4つ飲んだの?3つまでって言っただろ?…全く…」 桜二がブツブツ言いながらオレの生活の痕跡を辿っていても、オレは土田先生とにらめっこを続ける。 おもむろに土田先生が、目じりを下げて、嘘っぽい笑顔になった瞬間、吹き出して笑った。 「詐欺師みたいな顔になった!あ~はっはっは!」 オレはそう言って笑うと、桜二の背中に抱きついて言った。 「あの笑顔には裏がある!」 そんなオレを見て大笑いすると、土田先生は口を尖らせて言った。 「人聞きの悪い事言わないでよ…。ふふっ…そうだ。桜二さん、明日の話なんですけどね…2時くらいに面談をして…大丈夫そうだったら、今週末に退院の予定です。」 「やった~~!エッチが出来るね?桜二?」 彼の背中にスリスリしながらそう言うと、土田先生も、看護師さんも、視線を外して気まずそうにした。ふふっ 「…そ、そんな事、人前で言うもんじゃないよ?」 動揺した桜二がそう言ってオレのお尻を叩いた。 「いやん!」 ふざけてそう言うと、ケラケラ笑ってピルエットをして美しくポーズをとる。 完璧なポーズに、ブレない体幹、そしてどっしりとした重心。 「ほんと、シロ君はそうしていたら良いのに…どうしてふざけちゃうのかしら…」 看護師さんがそう言ってオレを見ると、項垂れて、首を横に振った。 なんだい!ふん! 「これはね、オレの緩急なんだよ?」 あれ以来、オレがここで発作を起こす事は無かった。だからか、ただの元気な人が入院している様な、不思議な状態が続いている。 それでも、土田先生がオレを見る目は、決して楽観的な雰囲気を出さなかった。 「じゃあ…シロ、行ってくるね…あんまり、わがまま言わないんだよ?」 桜二は念を押してそう言うと、そそくさと病室から出て行った。 彼は最近、朝一番にも顔を出してくれるようになったんだ。時間が出来るとお昼にも来てくれる。そして、夜にもまた来て、オレの生活の痕跡を見ては、ため息をついてる。 「桜二さんは…シロ君のお母さんみたいだね…?」 土田先生がそう言って笑うから、オレは教えてあげる。 「違うよ。全部知っておきたいんだ。オレが何をしたのか、何を食べたのか、どこで誰と話したのか、桜二は全部知っておきたいんだよ。そして、それが、彼の愛なんだ。」 「へぇ~」 感心した様にそう言うと、オレを見て土田先生が言った。 「シロ君はカウンセラー向きだね?偏った物の見方だけど、人の事が良く分かるんだ。君はね、とっても感受性が強くて、繊細で、優しいから…人の気持ちに敏感に気付いて、その人が何を思ってるのか、どうして欲しいのか分かっちゃうんだ。」 え? 首を傾げて土田先生を見つめて言った。 「そうなのかな~?」 「そうだよ。共感力が強すぎるのが玉に瑕だけど、それさえ自分で把握すれば君はもっと上手に生きていける。他人と自分との間に境界線を引いて、相手の思いを受け取り過ぎないことがポイントだよ?後は…意地悪な人の傍にはいない事。世の中、悪意を持った笑顔の人がいっぱいいるからね、そう言う人とはさよならする。」 指を立ててそう話す土田先生を見ながら、彼の楽しい解釈を聞いて、理解して、自分の物にしていく。 この人と話すと、今まで自分ひとりで抱えて来た“もろもろ”が違う色を付けて見える様になってくるんだ。 自分のせいだと思っていた事が…そうじゃないって分かった。 兄ちゃんの事も、桜二や勇吾の事も、自分が居るせいでみんなが傷付くんだと思っていた。でも、そんな事を思う事の方が、何よりも、おこがましいんだって分かった。 だって、彼らは自分で考えて行動しているだけなんだ。 オレのせいで…なんて思う事は、彼らの存在を否定する事になってるって、気が付いたんだ。 そして、それは、失礼な事だ。 「さて、散歩してくる~!」 オレはそう言って土田先生と別れると、意気揚々と中庭に向かった。 ここには心が疲れた人が沢山いて、みんなしょんぼりしてるんだ…でも、この庭に咲いた花は、どこでも、誰にでも、美しく微笑みかける。 桜二が持って来てくれたパーカーを頭から被ると、日差しの強い中庭に出て一つ一つ花を眺めて回る。 「おはよう?あれ、今日は…少し元気が無いみたいだ…」 オレはそう言ってしゃがみ込むと、花壇の外に生えた雑草を指先で撫でた。 昨日はここに白い小さな花を付けていたのに… 「おや…意外な所で会ったね…」 誰かに声を掛けられて顔を上げると、そこには画家の大塚さんがいた。 「あ…大塚さんだ。大塚さんも頭がおかしくなっちゃったの?」 オレはそう言うと、立ち上がって彼の傍に行った。 彼はイーゼルにスケッチブックを置いて、正面のベンチに佇む呆けた顔の女性を描いていた。 スケッチブックを覗き込むと、その中の彼女は、穏やかに微笑んでいた。 「あぁ…なんだ、絵を描いていたのか…」 オレはそう言うと、彼の椅子に一緒に腰かけて高くて青い空を見上げた。 …勇吾、帰ったの? そっちはどんな所? オレは、こんな所にいるよ… ただ、何も話さないで鉛筆が滑る音を聞いていると、冬なのに蝶々が飛んできて、イーゼルのてっぺんに止まった。 「あぁ…見て?可愛い…」 一緒に蝶々を眺めていると、大塚さんが鉛筆の先で触ろうとしたから、オレは彼の手を止めてクスクス笑って言った。 「やめて…可哀想だ。」 「ふふ…ごめんね。」 再び大塚さんが絵を描き始めると、イーゼルが揺れて、自然と蝶々は飛んで行ってしまった。 「あぁ…!可愛かったね?あの蝶は何しに来たと思う?」 ヒラヒラと空を泳ぐ蝶を見つめて聞くと、大塚さんはクスクス笑いながら言った。 「きっと、君を見に来たんだよ。」 ふふ…! ボサボサ頭の不精髭の癖に…ロマンチックな事を言うんだ。 「シロ君、何してるの?」 土田先生が中庭にやって来て、大塚さんにもたれかかって休んでいるオレを見つけると、クスクス笑いながら近づいて来る。 「さっき蝶々がここに止まったんだよ?何しに来たのか聞いたら、大塚さんが、くそ寒い事言ったんだよね?ね~?」 オレがそう言って彼の顔を覗き込むと、大塚さんはプルプル震えながら笑いを堪えていた。 …きっと自分の言った事を“くそ寒い”って言われて、おかしかったんだ。 だったら、笑えば良いのに…変な人。 「シロ君は、大塚さんと知り合いだったんだ。彼はたまにここに来て、患者さんの絵を描いてくれるんだよ。ご家族がとっても喜ぶんだ。」 土田先生はそう言うと、大塚さんにペコリと会釈した。彼は土田先生にペコリと会釈を返すと、無言のまま絵を描き続けた。 あれ…話さないんだ…。 あんなにおしゃべりなのに、ここでは話さないのかな? 「シロ君、お昼ご飯だよ?」 土田先生が手を差し伸べるから、オレは彼の手の上に自分の手を乗せて握った。 「シロ君、入院してるの?」 大塚さんがオレの顔を覗き込んでそう聞いて来るから、オレはにっこりと笑って彼に教えてあげた。 「そうだよ。オレはねプッツンしちゃったんだ。見て?これ?」 そう言って口を開くと、ベロンと舌を出して繋がれた傷痕を見せた。 「ひい!」 ふふっ! 怯えながらも大塚さんはオレの舌をまじまじと見ると、にっこりと笑って言った。 「で…いつまで居るの?」 「予定では、今週の末に退院出来るって…ね?」 オレがそう言って土田先生を見ると、彼は不思議そうな顔をして頷いて、オレと大塚さんの顔を何度も見た。 オレと彼が知り合いだと言う事が、土田先生には驚くような出来事だったみたいだ。 「ふふ…変なの!」 オレはそう言って立ち上がると、大塚さんに手を振って土田先生と病室へと戻って行く。 繋いだ手をブンブンと振りながら土田先生の顔を覗き込んで聞いた。 「今日のご飯はラーメン?」 彼は吹き出して笑うとすぐに言った。 「違うと思うよ…。ねえ?シロ君。君は不思議だね?大塚さんは、誰とも話さないんだよ?話したとしても、一言二言だけ…あんなに砕けた彼を、見た事が無かった。」 え? オレは逆に驚いて土田先生に言った。 「大塚さんは、桜二とも普通に話せるよ?きっと土田先生の事が嫌いなだけだよ。あはは…!ジロジロ人の事見てくるから、嫌だな~って思って、嫌ってるんだ。んふふ!きっと、そうだ!」 「あ~ははは!」 土田先生は大笑いすると、オレと繋いだ手を振り解いて演技がかって言った。 「酷い!傷ついた!」 ふふっ! 「わ~い!待て~!」 オレはそう言って、廊下を逃げ回る土田先生を追いかけて回った。 「…シロ君は、元気ね…」 呆れた様にそう呟く看護師さんを尻目に、土田先生を捕まえるとケラケラ笑って言った。 「先生の負けだから、ラーメン買ってきて?」 #依冬 「はい。はい。そうですか…分かりました。ありがとうございます。」 明日の面談が終わったら、今週末には退院出来そうだと、土田医師から連絡を受けた。 …やっと。 やっと、彼が退院できるんだ。 「はぁ…」 深い安堵のため息をつくと、丁度、プリンを買う行列の最前列にやって来た。 何個にしようかな… もうすぐ退院だから…そんなに沢山は要らないか。ふふ。 シロが好きな行列が出来るプリンを買うと、車の中のクーラーボックスに入れた。 運転席に乗り込むと、次の目的地へと向かう。 15:00から…会議で、17:00から税理士と年末調整の話をして… 後部座席のクーラーボックスを見て首を傾げる。 いつ、持って行けるかな… 桜二に頼んで、先に持って行ってもらおうかな…? いいや。 あいつの事だから、こんなに沢山買って…お腹を壊すとか何とか言って…大半を没収されそうだ。 もっと頭が柔らかければ良いのに、そうだな…勇吾さんくらい。 あぁ…あの人はあの人で、柔らかすぎるのか… シロの周りには、ろくな男がいないな。 あ…俺もか。 悩み事に、ろくでもない決着がついて、1人で吹き出して笑う。 忙しい筈なのに、コンサートが終わっても、東京に残ってシロの為に病院に来るんだ。 あの人は馬鹿だけど、シロの事を思ってる事に変わりはない様だ。 だとしたら…きっと会えなかった時間は、相当、辛かったはずだ。 意識が戻った事さえ知らないまま、イギリスに戻って…彼がどうなったのかと、いつも気にかけ続けるなんて…俺だったら病んでしまいそうだ。 俺がシロの話をしに行った時も…彼は余計な事は言わないで…ただ、シロの病院を聞き続けた。 なんだか、可哀想な事をしたよ。 同じような立場だからなのか…桜二や勇吾さんの気持ちが少しだけ分かる時があるんだよ。同じようにシロを思って、同じようにシロの役に立ちたがって… 結局俺たちは、彼のお兄さんには敵わない。 同等のポジションで…同等の愛を分けて貰ってるだけなのかもしれない。 そこに、一番も二番も無いのかもしれない。 だとしたら、勇吾さんはライバルじゃない。…同士だ。 シロを包囲する同士なんだ。 桜二と彼のいさかいが、シロの発作を酷くした原因かもしれないと、土田医師は言った。 桜二はそれを聞いて思い当たる節があるような顔をしていた。 俺に至っては何の話をしているのか、もっと具体的に言って貰わないと、分からなかった。 俺の大雑把さと大らかさが好きだってシロが良く言ってるけど…それって、ただのがさつな人みたいだ…。 でも、彼が好きなら…このままで居よう。 桜二は神経質。勇吾さんは浮ついてる。 …だから、俺は彼に大らかな愛をあげよう。 「抹茶ラテだって、プリンだって、食べたいだけ食べたら良いんだ。」 目の前の道路に向かってそう言うと、開き直って思いを巡らす。 彼が望むなら、何でも、幾らでも、与えて… 彼の為なら、どんな環境も整えて、準備して… 彼が喜ぶことが俺の幸せ。 #夏子 「桜二!こっちこっち!」 馬鹿勇吾の監視の目を潜り抜けて、やっとここまで逃げて来た。 あいつは、口では“良いよ…お前1人で行ってきなよ…”なんて言いながら、あれからあたしの行動を目を光らせて監視し続けてるんだ。 ちょっと外出する時も部屋の扉をこっそりと開いて、あたしの様子を伺ってるし…ちょっとタクシーで出かけようとすると、偶然を装って部屋から出て来るし…夜ご飯も一緒に食べに行きたがって、そこで聞かされるのは“桜ちゃんと、いつ会うの?”こんな話ばっかり… 全く!どこが”良いよ…お前1人で行ってきなよ…“なんだよ! シロの居場所を突き止めたくてウズウズしている様子だ… コンサートも終わって、何もする事が無いからか…困った事に、彼の目はあたしにだけ集中してる。 「…勇吾は?」 桜二はそう言って息を切らしながら駆け寄ってくると、周りをキョロキョロと見渡す。 「巻いたよ!」 あたしはそう言って、桜二の手を掴むと立ち止まらないで進んだ。 ぼやぼやしてるとすぐに見つかっちゃう! 「桜二、歩いて来たの?」 「だって…ここから、すぐ近くなんだ。」 警戒心が薄くなったのか、彼はキョトンとした顔でそう言うと、にっこりと笑って言った。 「コンサート大盛況だったみたいだな…良かったじゃないか。」 …はぁ 全く、シロと一緒に居るせいか、彼の毒はすっかり浄化されてしまった様だ。 肩を下げて地面に視線を落とすと、ため息と一緒に言った。 「まあね…勇吾の功績でしょ…。あれから必死に仕事に打ち込んでたから…。もしシロが目を覚ました時、自分たちの手がけたコンサートが失敗にでも終わってたら、示しがつかないとか何とか言って…現場の子たちと一緒になって、寝ないで調整してたからね…」 「そうか…」 桜二はポツリとそう言うと、伏し目がちになって言った。 「あの子の発作が酷くなった原因が…俺と勇吾のいさかいにあるかもしれないって…担当の先生が言ったんだ。確かに…シロは俺の顔色を窺って、気にしてる様子を見せるんだよ。知らないうちに、俺が彼を追い詰めていたみたいだ…。」 そう言った桜二の表情は、酷くどんよりしていた訳では無かった。むしろ、スッキリとした様子の彼に、首を傾げて聞いた。 「それで…?勇吾とあんたをシロの目の前で仲直りでもさせて、一件落着とか…そんなシナリオなの?」 彼は首を傾げると、笑って言った。 「本当、馬鹿みたいな話で信じられないかもしれないけど、発作の後…頭痛で苦しんでる彼に、勇吾を誉めるような下らない話をしたら、頭痛がピタリと止まったんだよ。あれを見せられてしまうと…あながち、そんな簡単な事で彼は救われるのかもしれないって…思ってしまうんだよ。俺は、シロが苦しまない様にしてあげたいんだ。」 へぇ… 「あの子って…人の気持ちに敏感だよね。あたしの事も…自分がしんどそうなのに、大丈夫?って声を掛けて来るし…。気付いちゃうんだろうね…他人の揺れる気持ちにさ。それが良い方に働くときもあるし…悪い方に働くこともあるんだ…」 あたしはそう言うと、チラッと後ろを振り返って見た。 気のせいか…コソッと物陰に隠れる人影を、見てしまった気がする… あちゃ…バレたか… 「この病院だよ…こじんまりとしてるけど、良い病院なんだ。」 桜二はそう言うと、あたしの先を歩いて病院の中へと入って行った。 勇吾…シロの居場所が分かったとしても、あんたは予定の日までここを訪れたらダメだよ!? そう、心であいつに電波を飛ばして…桜二の後ろを付いて行く。 隠れていた人影が物陰から飛び出して、ジャンプして喜んでいる姿を尻目に…病院へと入った。 コンコン 「ど~ぞ?」 桜二がノックした部屋の向こうからあの子の声がして…あの日の光景が蘇る。 白い部屋の中で、あの子はまるでフランス人形の様に真っ白な体を横たえて、両手両足を拘束された状態で、ベッドに寝かされていた… 口元は大きく腫れた舌が出ていて、痛々しい縫い痕を見せつけていた… 喉の奥まで挿管された管が、定期的に音を立てて彼に空気を送っていた。 「あ~!夏子さ~ん!」 まるでホスピスの様に落ち着いた空間を作った病室に、あの子は居た。 あたしを見つけると、嬉しそうに駆け寄って抱きついて来た… え…この子、本当にあの時の子なの? 動揺しながら彼の頬を掴んで自分に向けると、困ったような顔を向けて言った。 「ん、もう…ギュッてさせてよ!」 「ふふっ…シロ坊、お帰り…」 涙が落ちてあの子の髪を濡らす。 優しく背中を撫でて、シロが言った。 「夏子さん、ごめんね。心配かけたね?」 こんな時も…まず先に謝るなんて…本当に、この子は… あたしはあの子の背中を撫でて、ギュッと抱きしめると言った。 「良いの。あんたは謝らなくても良いの。心配したけど、それはあたしが勝手にした事だから、あんたが謝ったり、申し訳ないなんて思う必要はないの!」 そう言って彼のサラサラの髪を撫でてあげると、シロは嬉しそうに笑いながら、ポロリと涙を落とした。 あぁ…勇吾。あんた、きっと驚くよ? この子は、本当によく頑張った。 早く、勇吾に会わせてあげたいよ… あんなにどん底に落ちて、仕事に没頭する事であんたを忘れようとしていたんだ… でも、そんな事、出来なくて…影で泣いていたあいつを知ってるから。 早く会わせてあげたい。 勇吾のジュリエットに、会わせてあげたいよ。 「夏子さん?…コンサート行けなかったけど、凄い大盛況だったみたいだね?さすが、夏子さんと…勇吾だね?」 シロはそう言って微笑むと、少しだけ寂しそうな顔をしてあたしを見つめて来る。 言ったらダメだと思ってるの? 勇吾の話をしたら、ダメだと思ってるの? あたしはシロを抱きしめながらベッドに座ると、桜二や依冬君の目の前で彼の話を教えてあげる。 「…勇吾は、結構まじめにやったんだよ?最後の2日間は寝ていなかったと思う。ずっと現場にいて、いつの間にかスタッフジャンパーまで着せられてて、まるで現場のスタッフみたいになっててね…ふふ。叩き上げの人だから、その方が落ち着くんだろうけど、でも、それでも…一生懸命仕事していたよ。だから…今度会ったら、褒めてあげて。あんたが褒めてくれたら…きっと最高のご褒美だから。」 あたしがそう言うと、シロは目をキラキラ輝かせて笑顔になって言った。 「そうなの?…それは、凄いね?…会えたら。もし、会えたら、必ず言うよ。勇吾が一番凄いって…言うよ。あぁ…彼がそんなにして作り上げた舞台を…見たかったよ…」 ポロリと悲しみの涙を落とす彼は、勇吾の事を愛してるって…分かった。 きっと、ここに居るふたりも分かっているはずだ… 「そうだね…言ってあげてよ。」 きっと涙を流して、喜ぶはずだから… 「良い?あたしはここに住んでるから、何かあったら手紙を書きなさい。すぐに解決してあげるから。メールアドレスはこれで、電話番号はこっち。分かったわね?」 あたしはそう言ってあの子に連絡先とフランスの住所を教えると、強く抱きしめて、頭を撫でて褒めてあげる。 「偉かったね…シロ坊、偉かった。あんたは強い子だよ。誰よりも強い。そして、誰よりも優しい子なんだ…。あたしは、あんたが大好きだよ。」 シロはあたしの胸に興奮しながら言った。 「あぁ…夏子さん、今日のブラはノンワイヤーなの?凄く柔らかいね…?」 最低で、馬鹿。 でも、可愛い… だからあたしは少しだけオマケして胸を貸してやった。ふふ… 「…シロ、またね?」 そう言って彼の病室を出ると、桜二に聞いた。 「あの子、あんたに遠慮して勇吾の話をしたがらなかった。」 彼は顔を俯かせると、コクリと頷いて言った。 「…分かってる。」 「ビースト依冬にも勇吾の話はしないの?」 あたしはそう言って依冬君を覗いて見た。 「え…?そうですね。僕にも…しませんね。」 彼は怪訝な顔でそう言うと、首を傾げた。 ふぅん… それなら…確かにあの子の目の前で、仲直り作戦が有効かもしれない… あの子は真面目で優しいから、桜二の嫌がる事はしたくないんだ。 「ありがとうね…またね…」 病院の出口まで送ってもらうと、あたしはそう言って2人と別れた。 さて…ホテルに帰って…帰り支度をしよう。 明日の朝一で出国だ。 #シロ 「今日は4人でおしゃべりするの?」 朝から忙しなく動く桜二の背中に、ベッドに腰かけながら話しかけると、彼は俺を少しだけ振り返って言った。 「そうだよ。」 ふぅ~ん… …もうすぐ退院できる。 でも…アイドルのコンサートが終わって…夏子さんも彼も居なくなってしまった。 お別れのあいさつに来てくれた夏子さんは、ノンワイヤーブラだった。 勇吾は…来てくれなかった。 褒めてあげてなんて言ってたけど…彼は、オレの所に来なかったよ。 きっと、もう…忘れたいのかもしれない。 桜二でさえ怖がったオレの狂乱っぷりに…嫌になっちゃったんだ。 普通じゃない異常に、嫌になっちゃったんだ。 「大塚さんが、中庭に絵を描きに来るんだよ…?」 全然違う話題を彼に話して、頭の中から勇吾の事を消し去っていく。 もう…いないんだ。 …諦めろよ、シロ。 「そうなの?大塚さんって画家の大塚さん?」 桜二はそう言って振り返ると嬉しそうに笑って言った。 「凄いね…意外な所で出会うんだ。」 そうだね…確かに、オレもびっくりした。 「ふふっ!本当だね。土田先生が言っていたんだけどね、大塚さんはとっても無口みたいで…誰とも話さないんだって。土田先生にも、会釈くらいしかしなかった。不思議だね?オレ達がおしゃべりしたのは、確かに彼なのに…ふふっ」 オレはそう言って笑うと、桜二に両手を広げた。 「桜二…ギュッてして…」 オレがそう言うと、彼はすぐに傍に来て、オレの頭を抱きかかえて、ギュッと抱きしめてくれる。 だから、オレは彼のお腹に全力で抱きつくんだ…そうして、守ってもらう。 下らない思いを抱かない様に…守ってもらう。 「昨日、依冬がプリンを買って来てくれたんだ。桜二も一緒に食べよう?」 オレはそう言うと、冷蔵庫にしまった大量のプリンを一つ取り出して、桜二に手渡した。 自分の分を手に取って、スプーンを2本持つと、ひとつ桜二に渡してあげる。 「こだわりのプリン!美味しいひと口目、いただきます!」 気合を入れてそう言うと、ひとすくいしたプリンを口の中に入れる。 あぁ~!美味しい!! オレは両手で頬を挟んで、トロけながら言った。 「ん~~!美味しい!!やっぱり、ここのプリンは最高だ!」 桜二はニコニコ笑いながらそんなオレの顔を見ている。 そう…この人が、笑顔で居てくれることが…オレの幸せなんだ。 あんなに辛い思いをさせたんだ… 「あっ!」 突然桜二がそう言て、体を固めて何かを思い出した様子を見せる。 「…シロ、ちょっと出て来るね…依冬が来たら、先に土田先生の所に行ってて良いよ。」 桜二はそう言うと、上着を手に持って出かけて行った… もうすぐ約束の2時になるのに。 「は~い…」 オレの返事も聞かないうちに、急ぐ様に扉が閉まる前に居なくなった彼を首を傾げて見送ると、ゴロンとベッドに横になって、天井を見つめる。 「勇吾…今頃、ロンドン橋に乗ってるかな…それとも、寝てるかな…」 ポツリと呟いて彼の寝顔を思い出すと、クスッと笑いながら涙を落とした。 機嫌の悪い赤ちゃんみたいな顔だったな…ふふ コンコン 「どうぞ~」 オレはそう言うと慌てて袖で涙を拭った。 ガラ… 扉が開いた瞬間、とっても良い香りが部屋中を満たしていく。 これは…ユリの香りの様な…甘くて、でも上品な…香り。 良い香りに体を起こすと、首を伸ばして鼻をクンクンさせた。 次の瞬間、目の前を埋め尽くす程の美しい白い花が現れて、あまりの素敵な光景に自然と笑顔になって行く… 枝垂れた黄緑色の茎に大ぶりの白い花を沢山付けて、透明感を持った花びらは透けて見えそうに繊細で…がくの黄緑は、まるで産まれたばかりの様な初々しさを感じさせる。それらが幾重にも重なって、まるでカーテンの様に目の前を覆いつくした。 柔らかそうな白い花びらを指先でそっと撫でると、しっとりと濡れた様な触感に、うっとりとため息が零れる。 「…なんて、綺麗なんだ…」 ため息さえ、打ち消してしまうくらいの良い香りに包まれて、思いきり深呼吸すると胸の中が真っ白な色に染まっていく気がした。 まるでこの花たちが胸の中に咲いたみたいだ… 「素敵だ…勇吾…」 そう言うと、オレはベッドから立ち上がって、花のカーテンの中にそっと手を差し込んだ。 指先に触れた彼の頬をそっと撫でて、クスッと笑って言った。 「もう…帰ってしまったと、思っていたよ…」 彼は花の向こうで同じようにクスッと笑うと甘い声を聞かせてくれる。 「会いたかったよ…俺の愛しのジュリエット。」 彼の声に全身が痺れて、体を震わせながら涙を落とした。 彼の頬を撫で下ろして花のカーテンから手をひくと、ぐるりと後ろに回って彼の背中に抱きつく。 「勇吾…勇吾…!」 会いたかった…ずっと会いたかった…! 彼は花束を置くと、オレの体を正面から抱きしめて言った。 「シロ…良かった。目を覚まして…本当に良かった…」 彼の顔も見れないで…ただ彼の胸に思い切り抱きついて体を埋めて行く。 止まらない涙をそのままに、もう会えないと思った彼が目の前に現れた事に、驚きもしないで、ひたすら抱きしめ続ける。 「勇吾…」 やっと顔を上げられる様になると、彼の肩に顔を乗せてゆっくりと確かめていく。 両手に抱きしめた肩の筋肉…指先に触れる柔らかくて細い髪の毛…陶器の様な美しい肌…半開きの瞳… 「あぁ…勇吾…!」 彼の肩に両手を絡めると、うっとりと彼に溺れて熱いキスをした。 もう、会えないと思った…! もう、忘れていると思った…! もう…こんな風にオレを見つめてくれる事なんて無いと思った… 閉じた瞳から涙がボロボロとこぼれて、キスをした口が嗚咽を漏らして歪む。 「シロ…愛してるよ…」 そんな甘い言葉を…もう、聞くことなんて…無いと思ったんだ。 「ふふ…オレも…桜二と依冬の次に、勇吾を愛してるよ…」 オレはそう言って彼と見つめ合うと、涙を落としながらにっこりと笑った。 彼はオレの頬を撫でて微笑むと、オレと同じ様に涙を落として言った。 「光栄だよ…」 …この人は、本当に…なんて素敵な人なんだろう… 全てが美しくて、全てがお芝居の様で、まるで… お話の中の王子様… 「シロ君?時間だよ?…あれ?もしかして…勇吾さん?」 オレを呼びに来た土田先生は、勇吾を見つけて驚いたように目を丸くした。 オレは彼の持ってきた素敵な花束を、両手に持って掲げて見せた。 「ねえ、見て?とっても素敵でしょ?勇吾がくれた!」 勇吾の目の前で、花束を抱えたまま美しくピルエットをすると、片足を後ろに引いてバレリーナの様に丁寧にお辞儀をした。 「素敵なお花を…どうも、ありがとう。」 オレのお辞儀に、彼は右手を胸に当てると、王子様の様にお辞儀をし返した。 「ふふっ!勇吾~!」 吹き出して笑うと、土田先生に花束を渡して勇吾に思いきり抱き付いた。 彼はグルグルとオレを回すと、ギュッと両手で強く抱きしめてくれた。 「勇吾…勇吾…」 彼にクッタリと甘えていると、ハッと思い出したように顔を上げる。 …いけない。 こんな所…見られたら…大変だ! オレは勇吾の腕を掴むと、病室の扉を少し開いて廊下を確認する。 「…シロ君?」 後ろで土田先生が呼んでいても…ダメなんだ。 早くここから勇吾を連れ出さないと…見つかってしまう。 …知られてしまう! 「勇吾…来て、一緒に来て…」 オレはそう言って彼の腕を引っ張ると、コソコソと廊下を歩き始める。 奥から首を傾げた依冬がこちらへ向かって来るのが見えて、慌てて引き返すと、勇吾をベッドの中に隠してしまった。 「シロ!ちょっと、話を聞けって…!」 「だめ…だめ、依冬はめっちゃ怖いから…桜二より怖いから、だめ…」 そう言って騒ぐ勇吾を上からバシバシと叩いて黙らせる。 「土田先生?シロを呼びに行ったと思ったら花束なんて持って、どうしたんですか?シロ?もう約束の時間だよ?ほら、行こう…。ん?…何してるの?」 オレは依冬から視線を逸らすと、ドギマギしながら言った。 「ん…?今から行くから…先に行ってて?土田先生も、その花束を置いて…どっかに行って…!」 オレの様子に首を傾げた依冬がベッドに近付いて来るから、オレは必死に彼を抑えて言った。 「何もない!何でもない!あっちへ行ってよ!」 依冬がオレに抑えられる訳も無くて、ズルズルと逆に体を押されながらベッドの近くまで来てしまう。 「何だよ…シロ、どうしたの?桜二とエッチでもしてたの?」 依冬はそう言ってへらへら笑うと、暴れるオレを担いで布団を捲った。 「あーーーっ!だめーーーっ!」 オレは依冬の上でそう叫ぶと、そのまま暗転して気絶した。 「何で待ち合わせ場所にいなかったんだよ…!」 桜二が怒ってる声が聞こえて、オレは悲しくなった… 「だっていつまで経っても来ないから先に来たんだ。14:00からの予定だっただろ?あのまま待っていたら、遅刻するじゃないか。」 勇吾がそう言って、誰かがオレの髪を撫でて言った。 「ふざけてるだけかと思ったら…はぁ…まさか、勇吾さんを隠していたなんて…」 依冬がそう言って、大きなため息をついた。 頭がガンガン痛くなって来て、オレは瞼を開くと寝かされていたベッドから起き上がって、勇吾の腕を掴んだ。 「シロ…」 そう言って桜二が止めても、依冬が止めても、彼の腕を掴んだまま再び廊下を歩き始める。 あのまま、あそこにいたら、この人がまた殴られてしまう… 「シロ?俺の事…守ろうとしてくれてるの?」 頭痛をガンガンと響かせながら、オレは目の前のキラキラした渦さえ気にしないで前を歩き続ける。 「シロ…大丈夫。俺と桜ちゃんは仲直りしたよ…だから、大丈夫…」 そう言って勇吾がオレの体を抱きしめた。 え… 頭痛に歪んだ顔のまま勇吾を見上げると、彼はオレのおでこを撫でて言った。 「痛いんだろ?ここが。可哀そうに…大丈夫。俺はもう殴られない…。だから、逃げる必要は無いんだよ。」 「…嘘だぁ…」 首を振ってオレがそう言うと、勇吾はオレの頬を撫でながら言った。 「本当だ。シロ、俺を信じて…」 そう言って自分の胸にオレを押し付けると、大事そうに抱きかかえて病室へと戻って行く。 「ダメだ…勇吾、依冬は骨を折るから…ダメ、嫌だ…勇吾がそんな目に遭うの…見たくないし、怒った依冬も見たくない。怒った桜二も…見たくないんだ…」 オレはそう言って両目を抑えて首を振った… 内側から凄い圧迫感を感じる…まるで前の酷い発作の時の様だ… 「もう、仲直りしたから…何も心配しなくて良い。俺はお前を桜ちゃんから取ったりしないし、依冬君からも取ったりしない…独り占めしないで…みんなと仲良く出来る。だから、みんなも怒ったりしないんだよ…?」 勇吾はそう言うと、オレを抱きしめたまま桜二に言った。 「ね?桜ちゃん?俺たちは仲良しだよね?」 桜二は勇吾の顔を見て、不自然ににっこり笑うと頷いて言った。 「そうだよ?勇吾の事が大好きだ~あはは~!」 「俺は依冬君とも仲良しになったよ?」 勇吾はそう言うと今度は依冬に向かって言った。 「ね?依冬君?俺たちは仲良しだよね?」 「…えぇ?仲良しでは無いですけど、嫌いじゃないですよ。」 依冬は嫌な顔をしてそう言うと、オレを見て眉を上げてコクリと頷いた。 「本当…?」 オレは勇吾の顔を見上げてもう一度、聞いた。 「本当に…もう、桜二を虐めて、怒らせない?」 勇吾はハッとした顔をしてオレを見ると、瞳を細めて言った。 「あぁ…絶対にしない。お前が悲しむ事はしないよ…ごめんね。」 一気に頭の圧迫感から解放されて、崩れ落ちる様にしゃがみ込むと、両手で顔を抑えてうずくまる。 「シロ…?」 桜二がオレの背中を撫でて顔を覗き込んで来るから、オレは彼に顔を向けて大泣きしながら言った。 「良かったぁ…、も、もう…怒らないで…もう…もう…怒ったりしないで…えっく…えっく…あっぁああ…怖かった、怖かったのぉ…も、もうやなんだ…!」 まるで何かが噴火するみたいに、感情が爆発して大泣きが止まらない。 「ああ~ん!あ~ん!怖かったぁ…怖かったあ!!」 「ごめん…ごめんね…」 桜二がそう言ってオレを抱きしめて、勇吾がオレの顔を覗き込んで言う。 「ごめんね…シロ、もう大丈夫だよ…ごめんね、嫌だったんだな…ごめん。」 「俺は今回は関係ないけど、シロが怖がるなら殴ったりしないよ…?」 依冬がそう言って、オレを宥めるふたりを軽蔑するような目で見下ろす。 「さて…シロ君。頭痛はどうかな…さっきまできっと酷い頭痛が起きていた筈だけど…今はどうかな?まだ痛いかな?」 事の顛末を見ていた土田先生が、オレの瞳にライトを当てながらそう聞いて来た。 オレは首を横に振ると、彼を見上げて言った。 「うう…うっ…痛くない…痛くない!…うっうう…」 「良かった…」 そう言って安心した様に微笑むと、土田先生はオレの頭を撫でて涙が落ち着くまで待ってくれた。 どうやら…オレの頭痛は、桜二と勇吾が揉めると思うと、酷くなるみたいだ… なんだ、それ…馬鹿みたいだ。 「じゃ、じゃあ…なんで、今までも頭痛がしたの?そ、その時には…勇吾はいなかったのに…ひっく…オレは昔から、頭痛がしていたよ?」 「そうだね…。シロ君、おいで…ベッドに座って良いよ。」 土田先生はそう言うと、オレの体を抱えてベッドに座らせて、その隣に勇吾を置いた。そして、うんうんと頷くと、しゃがみ込んでオレの顔を覗き込みながら優しい口調で話し始めた。 「今日皆さんにお話ししたかった事は、ふたつあります。ひとつは桜二さんと勇吾さんの話。そして、もうひとつはもっと根深い話です。被虐待児は成長すると“サバイバー”なんて呼ばれたりします。それは幼いうちからサバイバルを経験して、生き残って来た彼らを言い得て妙な表現です。そのうちの何割かは、自己肯定感がとても低く、何でも自分のせいに感じて、自己嫌悪を抱えて苦しみながら生きています。」 そう話すと、土田先生はオレの手を握って話した。 「シロ君は…自分が嫌い。だから自分を必要以上に責めて虐めるんだ。それが強いと、頭痛が酷くなる…。桜二さんと勇吾さんの事でも、自分を責めたよね?頭痛で、自分に罰を与えてるんだ。お兄さんの事でも、自分を責めていたね…。オレのせいだ…オレがいなければ良かった…オレは汚い化け物で…産まれて来たらいけない物だったんだ…って。」 土田先生はそう言うと、オレの手をポンと叩いて言った。 「その気持ちが、罰を与えるみたいに自分を傷付けていた。だから、桜二さんと勇吾さんが仲直りして平和になったら、自分を責める必要が無くなって、頭痛が止んだ。」 オレは土田先生の手を払って言った。 「そんな…そんな面倒くさい事に周りを巻き込んで…オレは最悪じゃないか!」 「そう、それだよ!」 土田先生はオレを見つめると真剣な顔をして言った。 「その気持ちが、今、先生が話した事なんだよ?」 オレは耳を塞いで体を屈めると、首を横に振って言った。 「も、もう…最悪じゃないか!勇吾は本当はもっと早くにイギリスに帰らなくちゃいけなかったんだ!桜二だって、仕事の合間にわざわざ来てくれて…可哀想だ!依冬はオレの為に沢山情報を調べたり、病院や、先生の事まで、探してくれた…!なのに、オレは…こんなくだらない事で、みんなに迷惑をかけて…!もう、嫌だよ!」 歯を食いしばって、悔しくて、涙を流すと…土田先生が言った。 「じゃあ…シロ君。例えば…桜二さんが同じように苦しんでいたら、君ならどうする?迷惑だって思うかい?最悪だって…思うかい?面倒だって、煩わしく思うかい?」 え… オレは顔を上げると、桜二を見つめて言った。 「絶対思わない…何とかしてあげたいって思う…助けてあげたいって…思う。」 「みんな同じだよ?シロ君の事を助けてあげたいって思ってるんだ。先生は前に言ったよね?自分のせいだなんて思う事は相手に対して…失礼だよ?って。」 ボロボロと涙が落ちて、オレは勇吾の手を握って言った。 「この人は…イギリスに戻って…やらなきゃいけない事が山ほどあるんだ…。なのに、彼の足止めをしてしまった…オレはどうしたら良いのか分からない…」 「ありがとうって言いなさい。」 土田先生はそう言うと、オレの頬を撫でて言った。 「簡単だよ?感謝して、報いればいい。その為に、君がやる事は、自分を責める事じゃないんだ。ありがとうと言って、自分に罰を与える事を止める事だ。」 分からないよ… 分からない。 罰を与えることを止める事?そんな事…どうやったら良いのか、分からないよ。 「分かんない…方法が、分かんない…」 項垂れてオレが言うと、土田先生は瞳を細めて言った。 「これから一緒に方法を探して行こう?先生はその為の先生だよ?ラーメンを買ってくる先生じゃないんだ。ふふっ。ね?」 ふふ… 「そうか…先生は…先生だったんだ。」 オレはそう言って泣きながら笑うと、勇吾にそっと寄り添って、言った。 「勇吾、来てくれてありがとう…」 「…うん。」 彼は力強い手でオレを抱き寄せると、何度も頭を撫でてくれた。 土田先生はオレに幾つかの簡単な方法を教える。 「自分の事を認めてみよう。桜二さんと勇吾さんと依冬さん、みんなが好きで…みんなが大事。これを他の人の価値観に落とし込まないで、そうなんだから仕方がないじゃん!みたいに開き直ってみましょう。」 「うん…それなら簡単だ。」 オレはそう言うと、両手を握って土田先生の目の間で踏ん張った。 「…力は入れる必要はないよ。次に、何か失敗をしても、失敗した自分を受け入れましょう。今日は上手く行かなかった。でも、明日は上手く行くもん!と、声に出して言いましょう。」 土田先生の言葉を、依冬が一生懸命メモしているのを見て、オレは覚える必要がな いと、知った。 「うん。分かった!今日は気絶しちゃったけど、明日は気絶しないもん!」 土田先生はニコニコ笑って、オレの頭を撫でると言った。 「そうそう。そんな感じだよ?で、これは大丈夫だと思うんだけど、口から出す言葉は明るくていい言葉を使うようにしましょう。」 「オレは人の悪口は嫌いだよ?文句がある時は本人に直接言うもん!」 胸を張ってオレがそう言うと、桜二だけ首を傾げた。 「そうだね、シロ君からネガティブな言葉はあまり聞かない。じゃあ、最後に…毎日1回は、自分の小さい頃を想像して…幼い君を、大人の君が、優しく抱きしめてあげて欲しいんだ。怖がっていたら慰めて、笑っていたら一緒に笑ってあげて。可哀そうだと思ったら、思いきり泣いてあげて欲しいんだ。以上!」 え…? 土田先生が最後に言った言葉が気になって…オレは首を傾げて言った。 「小さい頃のオレ?兄ちゃんじゃなくて?」 「そうだよ。お兄さんは守らなくて良い。自分を抱きしめてあげるんだ。」 え… オレは戸惑った顔をして土田先生に言った。 「分からない…」 「目を瞑ってごらん?先生が一緒にどうやってやるのか…教えてあげるから。」 土田先生はそう言うと、オレの目に手をあてて真っ暗闇にした。 「…先生…グルグルのブラックホールは?あれはどうして出来たの?」 そこはかとない不安を感じて、オレは土田先生に違う話題を話しかける。でも、彼はそれを無視して、穏やかだけど力強い口調で言った。 「シロ君…そうだな、5歳の頃の君がいます。お母さんに殴られました。君は今、どこにいますか…?」 え…? 「…キッチンの…兄ちゃんの足元…」 真っ暗闇の中、オレンジ色の夕方の団地が映って…兄ちゃんの足元で、グスグスと鼻を鳴らす5歳のオレがいた。兄ちゃんは悲しそうな顔をして、料理をしながらオレの様子を伺ってる… 「兄ちゃんが…悲しそう…」 「うん。シロ君は何をしてるのか教えてくれる?」 オレ…? オレは…兄ちゃんの制服のズボンを弄って…何度も折り返してる… 「…兄ちゃんのズボンの裾を折って、遊んでる…」 「じゃあ…そのシロ君を後ろからギュッと抱きしめてみようか?」 え…? オレは、兄ちゃんを見つめて言った。 「先生?兄ちゃんが、とっても悲しそう…」 「…違うよ。シロ君を抱きしめてあげて?その子が一番傷ついてる。」 え… オレは兄ちゃんの足元の自分を、恐る恐る見下ろした。 虚ろなまなざしの自分と目が合って、突然沸き上がった恐怖に、訳も分からず思いきり…手を上げてしまった。 「あっ!気持ち悪くて、叩いちゃった…」 オレがそう言うと、土田先生は落ち着いた様子で言った。 「叩かないで、抱きしめてあげて。」 「無理だよ…怖いんだ。この子は怖いから、触りたくない…!」 「じゃあ…ちょっとだけ、手の先だけ触れる?」 「嫌だ!見たくもない!」 オレはそう言うと、土田先生の手を握って、自分の目元から外した。 「やだ…怖い。」 「うん。じゃあ、練習して、退院するまでに触れるようになろう…徐々に慣れて行けば良いよ。ね?」 驚いた… 想像しただけなのに…こんなに過去の自分を見る事が、苦痛だと思わなかった… 愕然としたまま桜二を見上げると、彼は瞳を潤ませて頷いて言った。 「…練習しようね。」 マジか… こんなに拒絶反応を示した自分に、不安しか無いよ。

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