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第32話
さてさて…
依冬と別れて桜二の部屋に戻ってきたオレは、ダイニングテーブルに腰かけて、可愛い猫柄の便箋とにらめっこをしてる。
まず…何を書けば良いんだろう…
“拝啓…勇吾殿。本日はお日柄も良く、とっても辛い刀削麺を依冬と食べました。”
漢字を携帯電話で調べながら丁寧な字で書くと、冒頭のあいさつだけで疲れた…
「ふ~、疲れた…」
時計を見ると、3:00…
今日から、5:00になったらお店に行ってポールの練習をするんだ。
それまでに書き終わると良いな…
“小生、貴殿に拝借したアンナカレーニナを拝読いたしました。もっと美しい物かと思っていたら、中身はドロドロの昼ドラマの様でした。アンナは男に走った癖に、子供に会いたいなんて言ってましたが…甚だ疑問です。だって、彼女は家族を捨てたんだから。戻る資格も、子供を巻き込む権利も無いのでございます。不倫相手との間に生まれた子供が、旦那の元に帰る事で美談にするのが当時は流行ったのでしょうか?だって、ペレアスとメリザンドでも同じような展開になったではないですか?こんなものは美しくない。”
何か…変だな…
何でこんな書き方してるんだろ?
まあ、いいや…
“ところで、僕たち、3人で住むことになりました!ご報告です!”
まだ決まって無いけど…良いか。
“また、遊ぼうね!”
…こんな所かな…?空いた部分に可愛い猫の絵を描いてあげよう。
「ふんふんふ~ん…出来た~。」
便箋を綺麗に折り畳むと、コスモス色の綺麗な封筒に入れる。
「あ…そうだ…何か入れてあげよう…」
思い立ったように桜二のズッカケを履くと、六本木ヒルズの花屋に直行した。
本当は勇吾のくれた花を入れてあげたかったけど、あれは売って無かった…
だから、代わりに彼の様に綺麗な深紅の薔薇を1本買って来た。
水を入れたグラスを用意して、ダイニングテーブルに座り直す。
さてさて…
薔薇の花びらを一枚だけ摘んで封筒の中に入れると、薔薇をグラスに挿して匂いを嗅いだ。
この薔薇の一片をあなたに…
そんな思いを込めて、封筒にノリを付けて封印した。
「ふふ!出来た~!」
慣れない英語の宛名をシールに書いてぺたりと貼ると、再びズッカケを履いて郵便局へと向かう。
ここって、全て済むからラクチンだな…銀行もあるし…二度と行かないけどレンタルビデオ店もあるし…
「これ…お願いします…」
ドキドキしながら窓口で勇吾宛の手紙を出すと、受付のお姉さんは慣れた様子で重さを測って言った。
「はい~…110円です~」
安い…意外とそんな値段で海外に手紙って送れるんだ…へぇ…
やっと、彼に手紙を一通出すことが出来た。
「ふふっ!喜ぶかな?んふふ!」
不気味に笑いながら、1人、桜二の部屋へと戻って行く。
感性の豊かな彼だからこそ、封筒に入れた花びらを見たら…きっと喜ぶに違いないんだ!
「オレは洒落てると思わない?ふふ…」
ひとり呟いて、グラスに挿した薔薇の花を指先で優しく撫でた。
#勇吾
公演まで残り3週間…手元の3枚のチケットを見つめて、壁に飾ったあの子に言った。
「シロ?…送っても良い?」
1番前の…1番良い席…
12/26、27、28と3日間に渡って公開される、俺が企画、演出した大規模なストリップ公演は、前評判も良く、チケットが飛ぶように売れている様だ。
とりあえず、ガラガラでした…なんて事にはならなそうで良かった。
茶色い長細い封筒にチケットを3枚入れると、白い便箋を目の前に…ペンを持った腕が止まる。
何を書いたらいいのかな…
寂しくて死にそうだ…
恋しくて死にそうだ…
会いたくて震える…
「はぁ…」
こんな事書いたら、あの子が心配するじゃないか。
“シロたん、元気ですか?勇ちゃんはとっても元気です。”
まるで小学生並みの文章に、自分で書いておきながら吹き出して笑う。
“勇ちゃんのお仕事はとっても忙しくて、毎日ヘトヘトです…。こんな時、シロたんの事を思い出すと、とっても悲しくなります…”
んん…どうしても、話が悲しい方へと向かってしまうな…
壁に飾ったシロを見つめて、首を傾げて言う。
「シロたん、悲しい手紙は欲しくないよね…?」
そう…感じやすいあの子が心配しない様に、愛を伝えなくちゃダメなんだ。
“が、勇ちゃんは強い男なので、平気です。こちらの街並みはクリスマス一色になっています。シロと一緒に過ごせない勇ちゃんは…とっても悲しいです…が、お仕事を頑張るので、平気です。シロたんのお誕生日はいつですか?勇ちゃんが沢山プレゼントを贈ってあげます。ちなみに、勇ちゃんのお誕生日は4/20です。リボンのついたシロたんが欲しいです。”
知性のかけらも無いな…
自分の書いた手紙を読み返しながら、眉を顰める。
馬鹿みたいな文章だな…
もっと、ポエムみたいなものの方が良いのかな…?いいや、そんなもの送ってもシロには難解すぎて気持ちが伝わらないだろう。
これで…良いんだ。
“シロたんの好きな食べ物は何ですか?勇ちゃんは、特にありません。シロたんの好きな動物は何ですか?勇ちゃんは、猫ちゃんが好きです。特にシロたんのパジャマの猫ちゃんが好きです。脱がせるのも好きです。シロたんの笑顔が好きです。可愛くて、胸がキュンとなります。切れ長の目じりが下がって…とっても可愛いです。シロのサラサラの髪が好き、可愛い唇が好き、優しい眉毛が好き、シロの美しい手が好き、しなやかで美しい体が好き。お前の全てが大好き。愛してるよ。”
ペンを持つ手が震えて…便箋に落ちる涙を見て自分が泣いていると気付いた。
シロの主治医の提案で”文通”なんて取り組み始めたけど…思った以上に、俺に効いて来る。
この煩わしさと、この手間と、このジレンマは、まるで俺への試練みたいだよ。
言葉を選んで、相手を思い遣って、伝える方法を考えながら書くんだもんな。あの医師は中々のやり手だな…
そんな医師に巡り合えて良かったね…シロ。
お前はもうすぐ、自由になれそうだ。
…安心したよ。
封筒に手紙を入れると、自分の香水を一滴垂らして入れた…
きっとあの子の事だから、勇吾の匂いがするって…鼻をクンクンさせるんだ。ふふ。
可愛い俺のジュリエット。
手紙を胸ポケットにしまうと上着を着て、コートを手に持って部屋を出る。
これからオーケストラのマネージャーと現場で打ち合わせだ…
さぁ、忙しくなるぞ。
#シロ
「おっほっほ!どうだ~!」
5:00 三叉路の店にやって来て、オレはポールダンスの練習をしてる。
「脱げ~!」
うるせえジジイだな…
ステージの目の前の席に座って、支配人が電卓を片手に金勘定をしてる。
体は調整が済んだように順調に動いてくれた。でも、勘が戻って来ない。
あの鋭くて隙間をすり抜けて行くような…勘が戻って来ない。
これじゃあ…ただのエクササイズだ。
「ねえ。音を出してよ。」
太ももでポールに掴まって体を仰け反らせると、逆さに支配人を見つめてそう言った。
「ちっ!めんどくせえな!」
口が悪いジジイだな…
支配人はプリプリしながらDJブースに行くと、適当な音楽を流し始める。
「さんきゅ~」
オレはそう言うと、両手でポールに掴まって体を上へと持ち上げて行く。
前はこの後すぐにスピンして回る事が出来たんだ…でも、今は、この後どうやって次の動きに繋げていたのか…分からなくなった。
畜生…
考えなくても体が動いてくれると思っていた。
でも、現実は思った以上に厳しい。
勘が鈍った。
やり方を忘れたみたいに…魅せ方が分からなくなってしまった…
そんなオレの様子を下から見上げて支配人が言った。
「おい、久しぶりに登ってんだ。あんまり初めから前の様に出来るなんて思うな。それは当たり前の事なんだ。良いな?」
ふふ…優しいじゃないか。
でも…早く復帰したいのに、こんなに鈍らになってしまった自分に、不安しか感じないよ。
考えないでも踊れていた物がリセットされた様に上手く出来なくて、どんどん混乱して迷宮に嵌っていくみたいだ。
そもそも、ポールを持つ手は…これで良かったんだっけ…?
畜生…
こんな筈じゃないのに…
こんな姿でステージに上がったら、お終いだ。
輝きを失った…踊れなくなった…シロだ。
勇吾の演出で踊るなんて…夢のまた夢になってしまう。
こんな事じゃ…彼に会いに行けない…!
ポールの上で項垂れておでこをポールに擦り付けると、オレを見上げる支配人と目が合った…
「どれ、好きな曲でも掛けてやろう…何が良い?」
いつもよりも優しい支配人がそう言ってDJブースに向かった。
…そうだな…
「じゃあ…エアロスミスのDude流してよ…」
オレはそう言うと、音楽を聴きながら体を動かし続ける。
適度な音量でリクエストした曲が流れ始めると、首を横に振って頭を真っ白にして、音楽に乗っていく。つま先で調子を取ると、音楽の全体を思い出して見せ場までを逆算する。
緩急をつけて体の動きを付けると、ギターソロの入る部分で体を思いきりスピンさせていく。
「良いぞ~!」
支配人がそう言って声を掛けてくれる。
ふふっ…!
そうか…まずは見せたい部分を点で置いて…後を繋いで行けば良いのか…
思い出して来た。
問題はどうやって繋いでいくかだよな…
ポイント、ポイントはクオリティーを変えずにこなすことが出来るのに、スムーズに技を繋げていく方法が分からない。
出来ない…
「ダメだ…分からなくなった…」
そう言ってポールを降りると、ステージの上で突っ伏して泣いた。
「こんなんじゃ…ダメだ…」
入院していても体を調整する事を止めなかった。すぐに踊れるように、ちゃんと管理して来た。
それなのに…肝心の魅せる踊り方を忘れるなんて…
最悪だ。
「明日も練習すれば良い。それだけの事だろ…」
ステージの下で支配人がそう言って、オレの髪をポンポンと撫でる。
「違う…もう、もう…踊れなくなった…!あの時みたいに、気持ち良く踊れない。どうやってやっていたのか思い出せないんだ。ポールを掴む手の位置さえ…曖昧なんだ。」
グスグスと鼻をすすってうつ伏せたまま顔を振ると、支配人がステージの上に登って来て、オレを抱き起した。
「シロ…?どうしてそんなに焦るんだよ。焦る事無いだろ?ここはお前の店だぞ?優しいお爺ちゃんだっているし、みんなお前を知ってる。なのに、どうしてそんなに焦ってるんだ…」
そう言って足の間に抱えると、涙でグチャグチャになったオレの前髪を掻き分けて顔を覗き込んで言った。
「お前はつい最近、大きな壁を乗り越えたんだよ?そのせいで見える景色が少しだけ変わったんだ。でも、それは悪い事じゃない。見てる物自体は変わっていないんだ。見え方が少し変わっただけなんだよ。だから、慣れれば…元通りさ。」
オレの目から落ちる涙を何度も手のひらで拭って、優しい笑顔を向けて支配人がオレを抱きしめてくれる。
「うっ…うう…うっうう…ほんとぉ…?ほんとに…元通りになるのぉ…?」
「なるよ…もっと上手になる為の助走なんだ。」
本当かな…怖いよ。
このまま、踊れなくなるんじゃないかって…怖いよ。
支配人に抱きしめられながらユラユラ揺れていると、出勤してきたウェイターがオレ達を見て言った。
「あ~…とうとう支配人はシロを手に入れたのか~」
「そうだよ~。昨日の夜から今の今まで、ず~~っと、お爺ちゃんの介護セックスしてくれてたんだよね~?」
最悪だ…
すぐに、こうやってふざけ始めるんだから…
オレの髪をナデナデしながらチュッチュッと何度もキスしてくる支配人の顔を見上げて言った。
「明日も…練習しても良い?」
彼は少しだけ考えると、心配そうに眉を下げて言った。
「…良いよ。ただ、あまり思いつめるな。」
そう言ってオレの首に”見守り携帯”をかけると、ステージの上から降りて行った…
はぁ…こういう時、どうすれば良いんだろう。
何度も何度も繰り返し踊れば、勘は戻って来るもんなんだろうか…
そもそもどうやって覚えたのかさえ、分からない。
続々と従業員が出勤を始める店内に、ムーディーな照明が灯り始める。
オレはもう少しだけポールに触れて練習をする。
あんなに簡単に…あんなに上手に踊れていたのに…
…もっと上手になる為の、助走…?
とてもじゃないけど…そんな風には思えないよ。
カーテンの裏に退けると出勤を済ませた楓と目が合って、オレの落ち込んだ様子にすぐに眉毛を下げて抱きしめてくれた。
「楓…上手に出来なくなっちゃったぁ…」
「よしよし…よしよし…」
具体的な事なんて何も教えてくれないけど、優しく抱きしめて宥める様に腕を何度もさすってくれる。
それが…あったかくて、優しい。
勇吾に書いた手紙は4日ほどでイギリスに届くそうだ…
手紙に書けば良かった…
こういう時、どうしたら良いのか教えて欲しいって…書けば良かった。
メールじゃ書けない。電話じゃ言えない。
こんな弱音を…書けば良かった。
「はぁ…」
控え室で練習着からスーツに着替えると、首から”見守り携帯”をぶら下げて、楓にキスする。そして、階段を上ると支配人の隣に立って言った。
「今日も、よろしくお願いしまぁ~す。」
「ほ~い…」
店の開店時間になると、ひっきりなしにお客が入店してくる。
支配人が言うには、クリスマスの雰囲気に呑まれてこういう派手な店に来たがるんだって…
本当かな?
「シロ…今日もお手伝いしてるの~?偉いね?後で、おいで?お小遣いあげちゃうよ?ふふ…」
そう言って羽振りの良いお客さんが、オレの目の前でチップを大量に爆買いしていく。
金持ちだね…その買い方は依冬買いだよ?
「あの人って…ゲイ?」
店内に入店していく後姿を見つめながら支配人に小さい声で聞くと、彼は首を横に振って言った。
「…あの人?あぁ…橘さんは止めた方が良い。席には付くな。良いね?」
へぇ…何か悪い噂でもあるのかな…
オレは受付のカウンターに身を乗り出して、支配人の手元を覗き込みながら言った。
「何で…?」
彼は伏し目がちにオレを見ると、チップの整理をしながらつまらなそうに言った。
「お触りが過ぎるんだよ。この前はホステスの子が手でイカされてた。だから行っちゃダメだ。」
なんと!
クスクス笑うと、彼の顔を覗き込んで聞いた。
「出禁にしないの?」
「羽振りが良いんだ。それに、ホステスの子が気持ち良かった~!って言ってたからね?アハハ…!潮吹くタイプじゃなくて良かったよ…一大事だ。」
はぁ~~、乱れてるだろ?
それがこの店なんだよ…
「シロ君…」
弱々しい声で名前を呼ばれて体を返すと、大塚さんが言った通り、スケッチブックを片手にやって来た。
ふふ!
「大塚さ~ん!!」
オレはそう言って彼に抱きつくと、彼のスケッチブックを奪って中を覗いて見た。
「なぁんだ!何も描いてないじゃないの!」
そう言うと、困った顔をする彼に突き返してあげる。
「昨日と同じお金をちょうだい?」
オレがそう言って手を差し出すと、彼はにっこりと微笑んでオレの手のひらに黒いカードを置いた。
大塚アキオ…
カードに書かれた彼の名前をチェックすると、支配人に手渡してカードを切った。
「大塚さんの下の名前は、アキオなの?」
オレを見つめる彼にそう聞くと、にっこりと笑って頷いた。
心なしか、今日は昨日より髪の毛が整えられた印象だ。
もしかして…身だしなみを整えて来てくれたの?
ふふ!可愛いじゃないか!
「行ってきまぁス。」
支配人にそう言うと、オレは大塚さんの腕に自分の腕を通して、一緒に店内へと向かう。
「あ~あ…またこうやって、1人男がおかしくなっていくんだ…」
そんな支配人の声を無視して店内へ入ると、踊り場の上から下を見渡す。
「あ~、ステージ前は埋まっちゃったね…仕方ない、カウンター席へ行こう?」
オレがそう言うと、大塚さんはコクリと頷いて答える。
頷く癖が付いてるのか、無口な犬みたいで可愛い。
カウンター席に来ると、マスターがギョロッとオレを見つめて、大塚さんを見て、またオレを見る…
あはは、彼はオレが浮気してると思ってるんだね。
「お客さんだよ?飲み物をお出ししてよ。」
ムスッと頬を膨らませてそう言うと、慌て始めるマスターを無視して大塚さんを見て聞いた。
「何飲む~?」
「シロの好きなので良いい。」
へえ…
「じゃあ…レッドアイ2つ頂戴?オレはね、トマトジュース多めで!」
リコピンが体に良いんだ。
早速スケッチブックを開いて、鉛筆を握り始める彼を見つめる。
シロだなんて、呼び捨てにするなんて…意外と男だね?ふふっ!
童貞なのに!
ぷ~クスクス!クスクス!
「ねえ…シロ…君。」
あ~はっはっは!咄嗟に“君”を付けた!
「なぁに?アキオちゃん…」
オレはふざけてセクシーヴォイスでそう言うと、くねくねしながら大塚さんにセックスアピールして見た。
「やめてよ…普通の君が良いんだから…」
何だよ!全く!
大塚さんは困惑した表情をすると、速攻でオレの色気にダメ出しした。
勘が鈍ってるんだ…あらゆる方向で勘が鈍ってる…
「…アキオちゃんって呼んじゃダメ?」
首を傾げながらそう聞くと、彼は困惑した表情のまま言った。
「今日は…迷走してるね…」
「あ~はっはっは…はぁ…」
確かに…オレは迷走してる…
ため息を吐くと、眉を下げながら大塚さんに言った。
「ねえ?大塚さん?オレ、しばらく入院してたでしょ?それで、勘が鈍っちゃったみたいなんだよ…。ポールの練習をしたんだけど、前みたいに上手に踊れなくなってた。気ばかり焦るのに、全然どうやってやっていたのか思い出せないんだ…」
そう言うと目の前に出されたレッドアイを一口飲んで、舌でペロリと唇を舐める。
「それは…ある意味スランプだね…君が苦悩する姿、見てみたいよ。」
そう言ってスケッチブックを手に持つと、お腹に抱えて、オレを見ながら鉛筆を滑らせ始めた。
そんな大塚さんを見てマスターがオレを見て言った。
「…彼は、何してるの?」
「絵を描いてる。彼は画家だ。だから…絵を描く。ふふっ。」
オレのその答えに大塚さんはにっこりと笑顔になると、楽しそうに鉛筆を滑らせ始める。オレはそんな彼を無視して、頬杖を付きながら1人で喋った。
「スランプって何?どうすれば良いの…?前はセクシーさだって醸し出せたのに、今じゃあ大塚さんにダメ出しされるレベルになってる。童貞の大塚さんにダメ出しされるレベルだよ?それは…もう、絶望しかないよ。」
「ぷぷっ!」
彼が吹き出して笑っても、オレはこの先を考えると不安しかないよ…
「シロ…君?スランプって言うのは、1つの事を長く続けていれば必ず訪れるものだよ。それが何であっても、必ず訪れるものなんだ。どうやって抜け出すかはその人次第。諦めて他に行く人もいれば…突き抜けるまでひたすら続ける人もいる。」
大塚さんはそう言うと、スケッチブックのページをめくってオレの座ってる椅子をクルリと回した…
ろくろみたいに使うんじゃないよ…全く!
他のお客の方を向いて、背中の大塚さんに向けて話しかける。
「ねえ…突き抜けるまでどのくらいかかるの?もう…自信なくなっちゃったよ?」
彼はオレの背中にクスクスと笑い声をあてると、椅子をクルリと戻して言った。
「シロ君は気が付いていないけど、君はとってもセクシーだよ…?普通にしてる方が、とっても良い…」
なんと!
童貞の大塚さんはそんな事を言って、オレに色気を振り撒いて来る。
「ふふ…そうかな?」
彼の頬を撫でてそう言うと、手にこそばゆい髭に指を立てながら下に撫でてなぞっていく。
「あわあわあわあわ…」
大塚さんがそう言って動揺し始めるから…オレは少しだけ自信を回復した。
でも、彼は免疫0の童貞だ…話にならないよ。
椅子に戻って絵を描き始める大塚さんを、じっと見つめて聞いてみた。
「大塚さんはスランプになった事あるの?」
彼は口端を上げると、首を傾げて言った。
「しょっちゅうだよ…」
へぇ…
「あなたはそう言う時、どうするの?」
じっと彼の目元を見つめてそう尋ねると、彼はオレの目を見つめ返して言った。
「ひたすら…描き続ける。寝ないで、食べないで、ひたすら描き続ける。」
口元が緩んで、ニヤけて行くのが分かる…
凄いな…彼は、本物の画家さんだ。
ストイックで…孤独。
水泳選手がテレビで言っていた…自分自身との闘いってやつを、彼はいつもしてるんだ。
強いじゃないか…
「あらぁ~…シロが一緒に居る人は…みんなイケメンばかりだね~?ズルいじゃん、お姉さんにも紹介してよ~!」
突然、常連のお姉さまが乱入してくると、大塚さんの表情が一変した。
穏やかに笑っていた顔は強張った様に無表情になって、ゆったりと座っていた椅子から立ち上がると、距離を取る様に後ずさりする。
オレは彼が驚かない様にスマートにお姉さんを止めると、優しく周り右をさせて言った。
「ダメだよ…お姉さん、彼はオレの大切なお客様なんだ。それにね…この前、この店の常連のお姉さんに友達を紹介したら、一気に食べられて、結婚まで引きずり落とされたんだ。一瞬の出来事だったよ?それ以来ね、オレの大切な人は、この店のお姉さんには紹介しないって…心に決めたんだよ?」
「嘘つき!」
「ふふ、嘘じゃない。本当だ。本当に可哀想だったよ?俺、パパになるんだって…悲しそうに言ってたもん!」
オレがそう言うと、カウンターの中のマスターが布巾で目を拭った…あはは!
「シロのいじわる~!」
「はいはい…」
カウンター席からお姉さんを連れ出すとお友達の席まで送って、近くに立っていたウェイターに小声で言った。
「彼はオレの指名料を支払ってる。これ以上邪魔する様ならあの女を追い出してくれ。」
オレを見下ろすと、表情を変えずにウェイターが頷いて言った。
「…了解」
分別が付かない人っているだろ?そういう人はこの店では遊べない。
馬鹿はお断りの店なんだ。
「席を外してごめんね…?」
そう言って立ち上がったままの大塚さんを優しく撫でてあげると、椅子に座らせてスケッチブックを手に持たせてあげる。
そして何事も無かった様に隣の椅子に腰かけると、話しかけた。
「さっきの話の続きだけどさ…描き続けて、心がぽっきり折れる事って無いの?オレはね、今日そうだった…だって、全然上手に出来ないんだもの。エンエンって泣いちゃったよ?」
オレはそう言うと、レッドアイをゴクゴクと飲んで、舌でペロリと唇を舐めた。
「…泣いちゃったの?」
ポツリと大塚さんがそう聞いて来るから、彼を見て言った。
「泣いちゃったよ。可哀そうだろ?」
オレを見つめる瞳はまだ少し硬さを残す物の、穏やかに戻った。
あぁいうデリカシーのない人が嫌なのかな…
だって、マスターが目の前にいても…彼は穏やかに笑顔を作れるもの。
桜二も…人の領域に無礼に入って来るような人じゃないから、平気だったのかな…
面白い…
「可哀想だね…でも、泣いてる姿も絵に収めたいよ。」
ふふっ!鬼だな!
「じゃあ…明日5:00に、ここにおいでよ?オレが泣きながら練習してる所を見せてあげるよ?ふふっ!」
「シロ?だめだよ。支配人が良いって言わないよ?」
オレの軽口にマスターがストップをかける。
オレは肩をすくめて口を尖らせると、大塚さんを見て言った。
「ごめんね?だめみたいだ。」
彼はクスクス笑うと頷いて言った。
「良いよ…無理を言ってごめんね…?」
ふふッ!可愛い!
童貞だなんて信じられない、色気もちゃんとあるじゃないか!
「じゃあ…これは何でしょうか?」
「…亀?」
「あ~はっはっは!酷いな!これは太陽だよ?」
「え…」
スケッチブックをあっという間に一冊使い果たした大塚さんは、絵を描くことを止めてしまった。だから、オレが空いたスペースに絵を描いてクイズを出してるのに、彼には分からないみたいだ…
「絵心が無い!」
マスターがひと言そう言って、オレを見て眉毛を下げた。
「はぁ…?」
「ぷぷっ!」
マスターの言葉に大塚さんが吹き出して笑う。
ふふ…だいぶ、この雰囲気にも慣れて来たみたいだね?
でも、オレの絵に絵心が無いなんて…心外だな。兄ちゃんはいつも可愛いって言ってくれていたのに…!
オレはムッとしながら空いたスペースにまた絵を描いて大塚さんに見せた。
「ん、じゃあ…これは何でしょうか?」
「ん…」
彼は口元に手をあてると、ジッと考え始めてしまった…
「…きのこ?」
オレの顔を上目遣いで見つめながら、大塚さんがそう聞いて来るけど、これはきのこじゃない…
「おほ!そりゃ、おちんちんだろ?」
最低だ…
オレは悪ふざけするマスターをジト目で見つめて言った。
「違うもん!」
「おちんちんと、おたまたまだろ?」
最低だ!
カウンターに乗り上げて、マスターの頭をペシッと叩くと怒って言った。
「おたまじゃくしだもん!!馬鹿!」
「ぷぷっ!」
もう…!
「笑ったら、だめぇ~!」
オレは怒って、笑いを堪える大塚さんの胸を引っ叩いた。
「痛い…!ぷっ!あはは!」
叩かれたのに笑うなんて…彼はドМの童貞だ!
でも、その笑顔が子供みたいに可愛くて、一緒になって笑った。
「また明日、来てね~!」
大塚さんをタクシーに乗せると、そう言って手を振った。
この危険な歌舞伎町を、あの人1人で帰らせる事の危うさを理解し始めた。
彼は子供みたいに純真だ。
だけど、黒いカードなんて持って…お金持ちだ。
きっと作品を高く売ってるんだ。
彼の傍に居る…誰かがそれで儲けてる。
その人が、悪い人じゃない事を願うよ。
「あ~あ、彼はもうダメだな。毎日毎日、5万も6万も使って…すっからかんになるまでシロに搾り取られるんだ!」
支配人がそう言ってケラケラ笑ってる。
「あの人は有名な画家さんだ。個展も開いて、とっても上手な絵を描く。失礼しないでね?」
そう、彼はとっても繊細で綺麗なガラス工芸の様な人。
扱いが分からない人は触るのをやめて、遠くから見つめるだけにして?
「なぁんだよぉ…新しい男ばっかり作って…古い男にも優しくしろよぉ…」
いじけた様にそう言うと、エントランスの受付の中、支配人はオレの背中に抱きついて、腰をユラユラと揺らし始める…
まただ…
また、このセクハラに閉店まで耐えないといけないなんて…最悪だ。
オレの体を後ろから抱きしめてシャツのボタンを外して行くと、中に手を入れてオレの胸を触って来る…
「最低だな…エロジジイ、これってセクハラって言うんだぜ?知ってた?」
頭を彼に何度もぶつけて抗議すると、オレのおでこを片手で抑えて自分の方へと向ける。
そして、目の前に舌を出すと言った。
「舐めろ。」
ふふ…
オレの乳首を指先で撫でながら、鼻息を荒くする支配人にうっとりと瞳を色付けて言ってあげる。
「やぁだぁ…舐めないもん。お爺ちゃんが死んじゃうもん。」
「あぁ…ほんと、お前ってば、なんてエロいんだろう…堪んないよ?」
そう言ってオレの唇にキスして来ようとするから、オレは彼の目の前に”見守り携帯”を差し出して言った。
「これを押したら、桜二が飛んでくる。彼は喧嘩慣れしてるせいか…殴ってもびくともしないんだ。そして、彼のパンチはめちゃくちゃ痛い。勇吾の顔面がボコボコになった。良いのか!ジジイ、死ぬぞ!?」
支配人はオレの首からぶら下がる”見守り携帯”を忌々しそうに見つめると、ちッと舌打ちして言った。
「良いのか?俺を怒らせるとお前を首にしちゃうぞ?もっと触らせてよ…ねえ、良いだろ?可愛いんだから…はぁはぁ…」
最低だろ?
毎日の様に、この攻防は繰り返されてるんだ。
「依冬はもっと怖いぞ?彼は骨を破壊するからな!ジジイの骨粗しょう症の骨は粉々に砕かれるぞ!良いのか!」
「くそっ!くそっ!」
そう言って支配人が地団駄を踏むまでが、ルーティン化してる。
馬鹿みたいだろ?ふふ…
「今度、3人で一緒に住むことになったんだ…だから、オレの住居が変わる。」
大人しくなった支配人にそう言うと、彼はオレの髪を撫でて言った。
「彼らはお前を大事にしてくれるの…?不健全じゃないの?彼氏が2人なんてさ…イギリスに行ったあいつを入れたら、3人だ。今日の画家を入れたら、4人で、俺も入れたら、5人も彼氏がいることになるよ?それは多すぎだよ…。毎日1人を相手にしても、2日しかお休みが無いじゃないか…」
何を言ってるんだ…
オレは支配人の手元の電卓を指先で撫でると、クスクス笑いながら言った。
「桜二と依冬は、オレの大切な人…彼らが一緒に居てくれたら、安心するんだ。」
そんなオレの頬を撫でると、唇にチュッとキスして言った。
「俺が居ても、安心するだろ…?」
ふふ…!
「んふふ!そうだね…確かに。支配人はオレのお父さんみたいな人…」
「お父さんじゃないだろ…?」
そう言ってオレの足の間に太ももをねじ込むと、オレの腰を抱いて自分に抱き寄せて行く…
まただ…
またこうして…セクハラが始まるんだ。
「お父さんじゃない…おじ様だろ?シロのあしながおじ様だろ?」
「ぷぷっ…!何それ…足、そんなに長くないじゃん…」
キスするかしないかの駆け引きを楽しむみたいに、息がかかる距離に唇を近づけて、ジジイはオレの顔を見つめながら、オレの股間を太ももで撫でて来る。
全くしょうも無いな…これは少し、虐めてやるしか無いな…
「ねえ…どうしたいの…?オレとセックスしたいの?」
ここは賭けだ。
オレはジジイの首に両手をかけて、彼の髪を撫でてあげる。
「あふっ!」
明らかに動揺したジジイがオレを見つめて言った。
「良いのぉ?」
馬鹿タレ…
「だって…こんなにしちゃうくらい、オレに挿れたいんだろ?可哀想じゃないか…?」
そう言ってジジイの勃起したモノをズボンの上から扱いてあげる。
妙に元気が良いって…この前、罰を受けた時に知ってるから、もうビビらないよ?
「あふふ!シロ~!」
嬉しそうに腰を震わすジジイを見つめて…心の冷めを察せられない様に艶っぽい声を出してあげる。
「あぁ…おっきい…!こんなの…挿れたら、すぐにイッちゃうよぉ…」
「はぁはぁ…あぁ…気持ちい…」
首を伸ばして、すっかりその気になったジジイに、とどめを刺してやる。
扱く手をそのままに、彼の体を背後の棚に押し付けて、仰け反った首筋にねっとりと舌を這わせて、耳元で喘いであげる。
「あっああ…ん、気持ちい…!して…してよぉ…シロに…挿れてぇ…!!」
「はぁっ!」
そう言って、腰を震わせてズボンの中で果てたジジイを見つめる。
「あ~あ…馬鹿だな。替えのパンツとズボン…持ってるの?んふふ!あはは!」
そう言って高笑いすると、項垂れる支配人にねっとりとキスしてあげる。
「ダメだろ?もう…二度とセクハラしないで?」
彼の頬を撫でながらそう言うと、支配人はムッとして言った。
「…やだ」
あはは!
こいつは本当に、ろくでも無いジジイだ!
オレの頭を引っ叩いて、受付から出ると怒鳴って言った。
「着替えてくるから!金をちょろまかすなよ!」
どういう事だよ。全く!
ガニ股で移動する彼を見送って、閉店間際のエントランスを1人で過ごす。
この時間に飛び込みで来る客なんていない。
この店はチャージ料って言って、席代がかかるんだ。
ショーがある時間帯なら5500円のチャージ料も仕方が無いけど…
もう、ラストオーダーを迎える閉店間際なんだ。
さっさと帰り支度をしたいよ…
胸の“見守り携帯”を指で撫でながら、依冬と食べた刀削麺を思い出す。
辛かったな~…あれ、食べたの、凄いな…
「やあ…セブンスター、ひとつ頂戴。」
ぼんやりしてると、目の前にタバコをお求めのお客が来た。
「ハイハイ…500円です。」
オレはそう言うと、背後の棚からセブンスターを取って目の前のカウンターに置いた。
「シロ?どうして踊らないの?俺は君が踊るから通ってるのに…残念なんだよ?」
お客はそう言うと、オレの手を握って両手で包み込んだ。
顔を確認すると、開店の時に支配人がやめとけと言った…手でイカせる人…橘さんだった…
「あはは…ちょっと調子が悪くてね。…ごめんね?」
支配人…早く着替えて帰って来ないかな…
はぁ…あのジジイが恋しいよ?
「ダメだよ…。俺はシロを見に来てるのに…。これじゃあ詐欺だろ?」
そう言って握った手を滑らせて、オレの肘を撫でる。
橘さんは…お手手の遊びが好きなようだ…
「そうだね…それじゃあ、次ステージに立つときは…あなたのチップを派手に取ってあげるよ。約束するよ?」
オレはそう言うと、彼の手の中から自分の手を引き抜いて、ニコニコと笑顔を向けながら、カウンターの下にある緊急ボタンを押した。
このボタンはウェイターのインカムに繋がっていて、ピーって高音がなるんだ。
その音を聞いたウェイターが急いで駆け付けて来てくれるっていう、言わば非常事態のボタンだ。
予想通り、彼の背後に偶然を装ったウェイターがやって来て、オレに言った。
「シロ?そろそろ閉めるよ。」
「はぁ~い」
そんなやり取りを聞いて、目の前の彼は戦意が喪失した様に大きくため息をついた。
「…またね、シロ。さっきの約束…忘れないでね?」
橘さんはそう言うと、オレにウインクして店内へと戻って行った。
「ほぉ~い」
オレはそう言いながら、ウェイターを見つめて顔を歪めて言った。
「うえ~~!あの人はいつから常連になったの?あんな濃い人、一度会ったら忘れないよ?お触りが過ぎるよ?どうして出禁にならないの?」
オレの言葉に苦笑いすると、ウェイターは首を傾げて言った。
「支配人が羽振りが良いからって…ところで、何で1人でいるの。危ないだろ?全く…」
そうだ。支配人のお爺ちゃんがまだ帰って来ないんだ。
「ちょっと見て来る…」
お漏らししたのがショックだったのかな?
オレは支配人が消えて行った控え室に向かう。
エントランスの裏にある控え室。主にホストがここで着替えをしてるんだ。
コンコン…
「今、忙しい!」
ノックすると中から支配人の声が聞こえた…
「ねえ…さっき橘さんがオレの所まで来て、お触りして行ったよ?あの人、変な人だね?」
扉越しにそう言うと、支配人は息を荒くして言った。
「あっち行ってろ…」
その声と言葉で察した。
あのジジイはこの中で男、もしくは女とセックスしてる。
「はぁ…」
最低だろ?
彼らにはセックスなんて、ちょっとコーヒー飲むのと同じくらいの感覚なんだよ。
だから悪びれもしないし、隠す事でも無いんだ。
60歳も過ぎてるだろうに…元気だね…
あんな歳になっても、桜二はオレを抱いてくれるかな?
桜二がハゲたら…どうしようっ!!
「支配人が奥で誰かとエッチしてる~。」
エントランスに戻ってウェイターにそう言うと、気にする様子もなく頷くだけだった。
達観してるね?
オレは受付のカウンターの中に入ると、頬杖を付きながら外を眺めた。
「シロ~~!また来るね~~!バイバイ~!」
「また来てね~!」
閉店時間を迎えて、半ば強制的に店の外へと誘導されて行く酔っぱらったお客に手を振りながら、店の外に到着した桜二のメールを受け取る。
やっと支配人が奥から戻って来ると、オレの頭を引っ叩いて言った。
「イキそうな時に声を掛けるんじゃねえよっ!」
はぁ?
「知らねえよ!発情期ジジイ!」
オレはそう言って彼の足を蹴飛ばすと、やっと受付から出て、控室への階段を降りて行く。
ま~ったく、信じらんないね?
さっさと着替えを済ませると、階段を上ってエントランスでもめ始める酔っ払いの間を抜けて、桜二の車へと向かう。
「シロ。」
突然名前を呼ばれて、手を掴まれる。
「なに?」
振り返ると、橘さんがニヤけた顔でオレを見下ろしていた。
すぐに車のドアが閉まる音が後ろで聞こえて、オレの背中に温かい手が添えられる。
「…何か?」
彼はそう言うと、オレの腕を掴んだ橘さんの手の上に自分の手を置いて、ギュッと握った。
「殴らないで…お客だ。」
オレはそう言うと、橘さんに掴まれた腕を抜いて彼の車に乗り込んだ。
たまに居るんだよ…店を出た後に声を掛けて来る行儀の悪いお客がさ…
桜二に手を掴まれた橘さんが、焦ってたじろいでる姿を眺める。
どうだ…オレの男は怖いぞ?ふふ…
転げるように逃げて行く橘さんを目で追って、振り返って肩をすくめる桜二に笑顔を向けると、おいでおいでと手招きする。
「嫌になっちゃうよ。あの人しつこかったんだ…この前はホステスを手でイカせたって聞いたよ?」
運転席に座る桜二に抱きついてそう言うと、彼の頬に何度もキスする。
オレには見えなかったけど…橘さんの顔の変化を見たら何となく分かる。きっと、桜二はとっても怖い顔をしたんだ。
ビビっちゃうくらいの顔をして、とっても怖い事を言ったんだ。
「なぁんでそんな奴が出禁にならないんだ!」
桜二がそう言って笑うから、オレは言ってやった。
「銭ゲバの支配人が、羽振りが良いからって入れてる。でも、どうかな?桜二が怖かったから…もう来なくなっちゃうかもしれないな?どうかな?どうかな?」
オレはそう言って彼に熱烈なキスをすると、助手席に座ってシートベルトを付けた。
「あぁ…俺はシロのお店のお客を1人減らしちゃったね?」
ふふっ!
「そうだよ?怒られちゃうよ?ふふっ!」
お店の中でちやほやされるという事は、金をそれだけ落とすという事。
それを何か…勘違いしちゃう人がいる。
そういう人は、こういう怖い人に怒られるんだ。
彼の部屋に戻ると、一目散に寝室へ向かってベッドの下の”宝箱”を引っ張り出す。
「兄ちゃん?桜二がやっつけたんだよ?凄い格好良いだろ?ふふ…」
写真の中の兄ちゃんの頬を撫でると、胸に押し当てて深呼吸する。
兄ちゃん…
会いたいよ…
「シロ?お風呂入ろう…?」
そう言って寝室の入り口でこちらを覗く彼のシルエットを見つめる。
桜二…
「今日は何の名湯にしようかな~」
オレはそう言いながら兄ちゃんの写真を”宝箱”にしまってベッドの下に隠すと、両手を上げて桜二の元へと向かった。
「この前は…鬼怒川だったよ?」
桜二はそう言うと、入浴剤の箱をオレに手渡す。
「じゃあ…今日は、湯布院にしよう~!」
桜二と一緒に湯布院の湯に浸かると、彼が水鉄砲を作ってオレの顔面目掛けて発砲し始める…
「え~い、え~い!」
…これで32歳なんだよ?笑っちゃうよね?
「やめて!目に入るだろ?馬鹿なの?」
オレはそう言うと、手のひらいっぱいにお湯をすくって彼の顔面に掛けてあげる。
でも彼は目にお湯が入っても、びしょ濡れになっても、しつこくオレの顔に水鉄砲をかけ続ける…
…この満面の笑顔は何なの?
まるで子供みたいだ…
「ん、もう!馬鹿!」
怒ったオレがキーッとなって彼の頭を引っ叩くと、やっと水鉄砲を止めてオレを抱きしめてゆったりとお湯に浸かり始める。
「はぁ…桜二みたいなお馬鹿さんには、湯布院の湯は早かったみたいだね?」
まったりとお湯に浸かってそう言うと、彼はオレの背中にキスして言った。
「可愛い…」
全く、訳が分からないよ?
お気に入りのパジャマを着て、彼が隣に寝転がるベッドに入って、彼の脇腹に顔を埋めて行く。
「桜二?今日も大塚さんが来たよ。彼はアキオって名前なんだ。んふふ…」
「そう。今日はどうだったの?」
桜二はそう言ってオレの髪をサラサラと指の間でとかすとチュッとキスをする。
どう?
「ちょっとだけ髪型が整えられていて、デリカシーのない人が苦手だって分かった。後は…オレの描いた太陽を亀だって言って…おたまじゃくしをキノコだって言った…」
「ぷぷっ!」
頭の上で桜二が吹き出し笑いをするから、オレも一緒に笑って言った。
「変だよね?ふふっ!オレもびっくりして笑っちゃったんだよ?おたまじゃくしなんてさ…マスターはおちんちんだって言うんだよ?最低だよね?」
「え…ぷぷっ!ぶふふ!」
「おちんちんとおたまたまだって、描いた本人の前で言うんだもん、最低だよね?」
オレはそう言うと桜二のお腹を撫でて、彼らを笑う桜二に顔を擦り付けてスリスリする。
「ふ…シロの絵は…可愛いのにね?」
そうだろ?兄ちゃんもそう言ってくれたもの。
やっぱり、桜二は兄ちゃんと仲良しになれそうだ…
「ふふ…今日はポールの練習をしたから疲れちゃった…お休み…」
彼の手のひらにキスしてそう言うと、目を瞑って彼の匂いを嗅ぐ。
「頑張ったね…お休み…」
そんな彼の低くて素敵な声を聞いて、口元を緩める。
スランプって奴が一体どこまでしつこく付き纏ってくるのか…見当もつかない。
早く復帰したいのに…歯がゆい。
こんな時…どうしたら良いの?勇吾。
分からないよ…
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