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第3話

 五時を過ぎても編集者は一向に現れない。  小説の方も男に気をとられて全然進まない。  なんとか書き終え小説をコピーしたUSBメモリーを引き抜いた。 「終わりましたか?」  男が笑顔を向けてくる。  五時三十五分、男がカフェに来てから一時間以上経っている。 「まだいたのですか」 「はい、これが私の仕事ですから。尾道馨(おのみちかおる)先生」  男は名刺を差し出した。  彼が佐山慶介(さやまけいすけ)、付箋を書いた編集者だった。  佐山にUSBを渡すと彼は数冊のキャンパスノートを僕によこした。  佐山は自分のモバイルパソコンで、書き上ったばかりの小説を読み始めた。  いつもこの時は緊張する。  黙々と読み始めた佐山に気をとられながらも、目の前に置かれたノートを開いてみた。  そこには、癖が強い右上がりの僕の字が並んでいた。  ちょうど一年前の日付で始まっている。  事故以降の記憶が僕にはない。  毎朝毎朝、前日車に引かれそうになったところから始まる。  事故直後から、せいぜいその日一日の記憶を保つのがやっとになった。  事故前日までの日記は欠かさずパソコンの中に入っていた。だがそれ以降の日付はどこにも見当たらない。  こんな所にあったのか。 『いろえんぴつ』『ろうそく』『はなびら』……『ちよがみ』  いろは順に並んだタイトルの8冊のノートだった。 「最高傑作です! 心に響きました!!」  短編を読み終えた佐山が、身を乗り出し目を潤ませて叫んだ。  店内にいた数名の客全員がこちらを向いた。  客達に謝ろうと慌てて立ち上がった佐山は、その拍子にコーヒーカップを倒し僕の服を濡らした。 「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」  おしぼりで僕の服を拭きながら、僕にだか客にだかわからない謝罪を連呼している。 「ぷっ……くっくっくっ……もういいよ」 「すみません……」  日記を読んであふれそうだった涙を、僕は笑いでごまかしながら人差し指でぬぐった。 「着替えたいから……いつものように、僕の家へ来ないか」  いつものようにというフレーズを、心臓を弾ませながらやっとの思いで僕は口にした。

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