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第4話❀
雪は、忙しない手つきで鞄の中を漁っていた。ペンケースにも見当たらないし、ノートや教科書にも挟まっていない。
あのボールペンは、高校を入学する時に義父 から貰ったお守りのような物だ。
高校のテストも大学受験も、あれがあったから気持ちを強く持てた。
でも、どこを探しても見つからないのだ。
焦燥感に支配され、苦しくなり始めた呼吸を必死に落ち着かせながら自分の辿ってきた道を思い出す。
そうだ、前の教室に忘れて来たのかもしれない。
雪はすぐに立ち上がり教室を出た。まだ次の授業まで五分程時間がある。
間に合わないかもしれないが、ペンのことが気になりすぎて授業に集中なんて出来る訳がない。
それに、授業よりも単位よりも大切なものなのだ。
「スト―――ップ!」
駆け足で角を曲がった時、突然手首を掴まれてガクンと視界が上を向いた。
よろけるが何とか堪え、睨みつけるように振り返ると、目線の先には鶯色 の髪の青年が立っていた。
背は自分より十センチ程高く、健康的な肌とアーモンド型の瞳、そしてきゅっと上がった口角から彼が陰ではなく陽の性格であることが窺えた。
「ごめん、急に掴んだりして。これ、探しに行こうとしてた?」
青年が差し出してきた手の平の上には、金属製のボールペンが乗っていた。
ペンホルダーの一部が剥げているそれは、間違いなく義父からプレゼントされたボールペンだ。
なぜそれを、と聞く前に彼は自分よりも先に口を動かす。
「教室に忘れてたよ。気付いたのは郡司先生だけど」
にこっと笑ったその笑顔は太陽のようで、ペンを受け取ったことも忘れ固まってしまう。
「どうしたの?」
問いかけられ、はっとして手に感じる僅かな質量を落とさないように握り締めると、彼から視線を逸らした。
「わ、悪かった……」
「ううん。……大丈夫? 顔色、悪いよ?」
逸らした視線から覗き込んでくる顔に慌てて後退る。
その挙動で彼はパーソナルスペースに無理矢理入ってくる自分の苦手なタイプだと、瞬時に判断した。
しかし、嫌がっていることを察したのか相手は一歩下がり、再び微笑んだ。
「じゃあ、俺も次の授業があるから行くね」
「ばいばい」と手を振って、彼は外はねの髪を上下に揺らしながら走っていく。
悪いことをしてしまったかもしれない。
わざわざ届けに来てくれた上に、心配して声をかけてくれたのだ。それをあからさまに拒絶してしまった。
今度、改めてお礼がしたいと思うが、重要な部分の情報がないことに気が付く。
彼の名前も知らないし、どこの学科かも分からない。基本的に人と視線を合わせないように歩いているから顔なんて見たこともなかった。
でも、もう会うことがないかもしれない。それに、お礼といっても具体的にどうすればいいかなんて人付き合いのない自分には分かるはずもなく、むしろ会わない方が楽だと思った。
教室に戻ると、すぐに授業は始まった。いつも使っているペンは、手に良く馴染んだ。
家の扉を開け、玄関で靴を脱ぎ、洗面所で手洗いうがいをしてリビングに向かう。
どこの扉を開けても「おかえり」なんて声は聞こえない。声を出しても物音をたてても、返って来るのは静寂だけだ。
自分は今、義父と二人で暮らしている。義父の相良夏輝 は、同じ丹丘大学出身で、人柄も柔らかく争いごととは縁のない穏やかな性格をしている。正義感が強く、真面目なところも義父の特徴だ。
義父は大手の商社系の会社に勤めていて、朝から晩まで家を空けていることが多い。だから、家事の殆どを自分が行い、義父の負担を少しでも減らすようにしているのだ。
二人暮らしを始めたのは、七歳の時。
最初は仕事をしながらも家事を行っていた義父だったが、勤務時間の比率が偏り過ぎていて休日でも疲れ切った顔をしていたのを今でも覚えている。
それでも元気に振る舞う姿を見て、このままでは義父が壊れてしまう、自分にも何か出来ることはないかと考えた。
その結果、家事を行うようになったのだ。踏み台に乗らないと台所に届かない雪を見て義父は常に心配していたが、手際が良くなっていくのを目の当たりにして、少しずつ頼るようになってくれた。
もちろん働き詰めの義父と公園で遊んだりなんてしたことがないし、車もないからドライブも出来ない。二人で出かけたことなんて、夕飯の買い出しくらいだろう。
それでも、幸せだと言える。何一つ、不自由なことなんてない。
自分にとって、義父が健康で、幸せで笑っていてくれるならそれ以上望むものはないのだ。
でも——。
心にぽっかりと穴が開いたような感覚だけは、消えない。
むしろそれは年を重ねるごとに、蟻の巣のように小さな穴をいくつも作っていく。
義父への思いもきちんと自信を持って言えるし、そこに迷いはない。それなのに、何故なのだろう。
ソファに座ると程よく沈む弾力に思考が奪われる。
横になったまま側に置いてある鞄に手を入れた。指先につるつるした硬い触感が触れる。
取り出そうとしたが急に体が怠くなってきて、そのまま微睡 みに従い目を瞑った。
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