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第9話❀
最悪だ。
図書館から出た雪は、校舎裏のベンチに座っていた。小さな池がある人気 の少ないこの場所は、気が立った心を落ち着かせてくれる。
どこにでもあるような、むしろ古めかしささえ感じるその庭は、今だけ神聖な場所のようだ。
丹丘大学に自然が多くて本当に良かった。
背もたれに腰掛け、曇り空を仰ぎながら大きな溜息を吐く。
溜息と一緒に嫌なことも全部空気に溶け込んで消えてしまえばいいのに、そうはならない。
一瞬でも、良い奴かもしれないと思った自分にも腹が立つのだ。
性格や言動に対して悪口を言われるのは慣れている。でも、顔について触れられることは雪にとっての地雷だ。
——お前は春樹 を唆 したあの女にそっくりだ!
罵倒された時の声がすぐ耳元で聞こえるようで、顔を顰めた。
目を閉じると朧げな記憶が両親の輪郭を形成していく。記憶の中の二人は、幸せそうに笑っていた。
雪の父である相良春樹 と母の相良秋穂 は、もう、この世にいない。雪が六歳の時に、交通事故で帰らぬ人となったのだ。
あの日は2月の終わりにも関わらず、大雪警報が各地で発令していた。
少しだけ実家に行ってくると車に乗って出かけた二人は、走行中にスリップして、電柱に激突した。即死だった。
家中に電話の音が鳴り響いていたけれど、一人の時は電話に出ないようにと言いつけられていたから、しつこい着信音から逃げるように二階で寝転がりながら本を読んでいた。
しばらくするとけたたましく鳴っていた着信音が止み、家の扉の開く音がして、雪は飛び起きて一階に駆け下りた。
おかえりなさい、そう言いかけて階段の途中で立ち止まる。そこに立っていたのは、父の弟の夏輝だった。
叔父には何度か会ったことがあって馴染みのある顔だったが、その鬼気迫る表情と叔父がここにいる理由が分からず頭は混乱していた。
両親が亡くなったことを知ったのはそれからすぐで、そこからの記憶はあまり覚えていない。
ただ、両親の魂と一緒に自分の心も死神に持っていかれた感覚のまま、雪は葬儀に立たされた。
親戚から哀れみの言葉や励ましの言葉をかけられた気がしたが、全く耳に入って来なかった。
しかし、二人の棺の前に立ち、鬼のような形相で突然叫び始めた男のことだけは、鮮明に覚えている。
——あの醜女 のせいだ。あいつのせいで春樹は死んだ!
後から知ったが、その人は春樹の父親であり、自分の祖父にあたる人物だった。
羽交い絞めにされても、それでも、祖父は叫んでいた。そして、ひん剥かれた目が雪を捉えた。
——お前は春樹を唆したあの女にそっくりだ!お前たちが居なければ、春樹は死ななかった!二度と私に顔を見せるな!
確かに、自分は母にそっくりだとよく周りから言われた。
母が綺麗だと褒められるのは誇らしかったし、そんな母に似ていると言われるのは嬉しかった。
でもあの瞬間、母も、今まで言われた言葉も、雪自身も、全部を否定されたのだ。
カラフルな世界は突如色を失い、白黒の世界に閉じ込められた気持ちだった。
そんな雪に、唯一手を差し伸べてくれた人が居た。それが、夏輝だった。
——俺と一緒に暮らそう、雪。
泣きそうな顔で笑う夏輝は、父に似ていた。葬式中、涙を流すことがなかった雪はあの時初めてその首に縋るようにしがみつき、泣いた。
今思えば、祖父の反対を押し切って自分を引き取ってくれた夏輝は、しばらく親戚中から責められたであろう。
けれど、絶対そんなことは言わなかったし、絶対耳に入らないようにしてくれていた。
大切に額縁に飾られていた美しい思い出だけが、あの日、全て火の海に包まれてしまったけれど、自分には夏輝がいる。それだけが救いだ。
「あ……」
空を見上げたまま、自然と声が漏れる。
また、名前聞き忘れた。
いや、聞いてどうする。どうせ名前を知ったところで、もう関わることはないのだから。
空は先程よりも暗くなっていて、吐く息も白い。
また、忌々しい季節がやってくる。
両親を奪ったものが自分の名前だなんて、世界はどこまでも残酷だ。
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