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第10話

 六限目が終わり、陽は浮かない顔で廊下を歩いていた。  教室でキレるなんて、どうかしている。あのまま出てきてしまったが、一番迷惑を(こうむ)ったのは雄大だろう。  彼のことだ。上手く周りを落ち着かせてくれているのが目に見えるから、尚更申し訳なくなる。  お詫びに晩御飯を奢ろうと思って連絡を取ってみたが、今日は部活動があるらしく、空いていないようだった。  笑顔の絵文字と共に送られてきた「気にすんな」という言葉に、胸が打たれた。  今度、近所にある好きなケーキ屋でお詫びの品を買おうと決める。  頭を冷やしたくて、少し勉強をして帰ろうと静かな教室を探している時だった。  掲示板に貼られている一枚の写真に目が付いて、足を止める。  撮った場所は、山林だろうか。日の光が遮られた場所に、見たことのない小さな赤紫の花がいくつか咲いている。  雨が降った後のようで、花についた水滴は、まるで花が涙を流しているようだった。  琴線(きんせん)に触れるような——見ていると胸が締め付けられるような気持ちになるその写真から目が離せなくて動けずにいると、誰かが隣にやって来る。 「これは、カタクリという山地に咲く花だよ」  そう言って説明してくれたのは、郡司だった。 「誰が撮ったんですか?」 「相良雪君、だよ」 「えっ」  思わず声が出てしまう。昼間に会ったばかりの人の怒った顔がすぐ浮かんできて、目を見張る。 「カタクリの花言葉は、寂しさに耐える。……雪君は、無意識にシャッターを切ったみたいだけど、僕にはこの写真に彼の心が反映されていると思っているんだ」  寂しさに、耐える。  陽は、もう一つ隣に飾られた写真に目を向けた。それは、雪の中から黄金色の花がいくつも顔を出している写真だ。  寒い中でも花を咲かせる姿に、確かな意志と力強さを感じる。相良が撮った写真とは真逆のものを感じて複雑な心境になった。 「そっちは、雪君のお父さん……相良春樹君が撮った写真なんだ」 「ええっ」  また廊下に響くくらいの声を上げて郡司を見る。 「相良のお父さんも、この学校を卒業しているんですか?」 「うん。雪君と同じ、写真学科の卒業生だよ。この花は福寿草(ふくじゅそう)といって、雪の中でも強く花を咲かせる植物なんだ。花言葉は、幸せを招く」  郡司は説明を終えると、切なそうな目で二つの写真を見つめていた。 「春樹君は、僕の教え子でね。本当に明るくて、真っ直ぐな人だった。だから、訃報を聞いた時は、夢なんじゃないかと思ったよ」  訃報。その言葉に、心臓は大きく脈打つ。相良の父親は、もうこの世にいないということだ。  頭を殴られたようなショックを受けている陽の横で、郡司は目を閉じる。そして、微笑んだ。 「勝手に話したのがバレたら、雪君に嫌われちゃうね。僕は教師失格だ。……今日はこれから家に帰るのかい?」 「……はい」  空返事になったのは、まだショックを受けているからだった。 「そうか。気を付けて帰るんだよ」  郡司はそう言って背を向ける。 「何で、俺に話したんですか?」  その背中に声をかけると、郡司は足を止めて首を傾げた。 「んー、なんでかなぁ。長年生きて来た勘、みたいなものかな? 優しい冬が来そうな予感がするんだ」  郡司は不思議な言葉を残して去っていった。  結局、陽は勉強をせずに家に帰っていた。何だか、あの写真が目に焼き付いて離れない。  家に帰ると、いつも通り弟妹達が笑顔で出迎えてくれた。  遊んで欲しいとせがむ湊多と愛菜を宥めてから、自室へ向かう。  椅子に座ってスマホを確認すると、一通のメッセージが入っていた。開くと、それは美桜(みお)からだった。 『日曜日、予定がなかったら会いたいな』  日曜日は学校もバイトもないし、何の予定も入れていない。 『空いてるよ。どこか遊びに行こう。行きたい所、ある?』と返信を返す。  富樫美桜(とがしみお)。女子大学に通っている、陽の彼女だ。  美桜とは大学受験が終わった頃から付き合い始め、まだ一年も経っていない。  告白は、美桜からだった。  高校が一緒で、人当たりが良く、良い子だなと前々から思っていたから、断る理由もなくその場で返事をして今に至る。  美桜は同学年の男子からも人気だったらしく、雄大も陽と美桜が付き合ったことを知った時は(わめ)いていたのを覚えている。  恋愛ごとにそこまで興味がなかった陽でも、美桜は良い彼女だということが身をもって感じていた。  別々の大学に通っているから会う頻度は減ってしまったが、毎日連絡は取り合うし、休日や学校終わりにもこうして定期的に会っている。  美桜からはすぐに喜びの絵文字と、冬用のコートが欲しいという内容が送られて来た。陽も、ちょうどダウンを新調しようと思っていたから良いタイミングだ。  デートの時間と集合場所を打ち込み最後に絵文字をつけて返信ボタンを押そうとした瞬間、ふと、相良の顔が浮かんで思わず手が止まった。  つい口から出てしまった言葉が、相良を不快にさせてしまったのだ。  陽は美桜からプレゼントされた弾力のあるスマホカバーをいじりながら溜息を吐く。  男が綺麗なんて言葉を言われて怒らない訳がないだろう。いや、嬉しいと思う人もいるかもしれないが、きっとそれは少数の人間だ。  昼間に図書室で見かけた時は、本を探しながら歩く相良を、無意識に目で追っている自分がいた。  うなじまで伸ばした枯野色(かれのいろ)の髪と、細身の体が相まって何だか儚いものを見ているような気持ちになった。  そして、本を取ろうと必死に腕を伸ばす彼の姿を見ていると自然と体が動いていたのだ。  見開かれたその青い瞳が自分が映した時、本当に雪のようで美しいと思った。それが、口に出てしまっていたのだ。  今度会ったら、謝ろうと心に誓う。このまま和解できずに終わりたくはない。 「あきにいー! まだー!?」  廊下から湊多の呼ぶ声が聞こえて、陽は苦笑しながら起き上がる。 「はいはーい」  次はいつ会えるかな、そんなことを考えながらリビングに向かった。

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