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第10話「挨拶」

月曜日。 表参道にあるプロジェクト・イノベーションの事務所まで来る途中、懐かしいREAL STYLEの事務所の前を通った。 2人の中ではあまり良くない記憶の残る場所ではあるものの、ここで余計にお互いの絆が強くなったとも思えている。 1年前の大学2年生の春、今はもう大学を辞めてしまっている造建助手を務めていた菅原と言う男が原因で起こってしまった事件の最後の話し合いの場であり、造建の教授にして光緒の父親である大城吉春(おおしろよしはる)と共同経営者の西宮孝臣(にしみやたかおみ)が共に代表取締役を務めているアパレル会社が「REAL STYLE」だ。 「懐かしいな」 「行こう」 「え、あっ」 事務所の入っているビルの前で足を止めた義人と違い、あまりあのときの記憶を思い出したくない藤崎は足早にそこを通り過ぎていく。 彼が思い出したくないと言うよりは、義人に思い出させたくないと言う気持ちの方が大きいかもしれない。 藤崎はあの日からずっと、その記憶が思い出せない程義人の脳の奥深くまで沈んで、二度と浮かび上がってこない事を彼以上に願いながら過ごして来たのだ。 「藤崎、!」 後を追って小走りに藤崎の隣に並び直すと、義人は「ごめん」と小さく呟いた。 藤崎が不機嫌なように思えたのだ。 「ん?いや、ごめん。佐藤くんが悪いんじゃないよ。俺が思い出したくないだけ」 横断歩道の信号が赤に変わって立ち止まると、藤崎はふう、と息をついてそう言った。 その辛そうな表情をチラリと横目に見つめて、義人はこの1年と少しの間、何度も悪夢にうなされて夜中に飛び起きた事を思い出していた。 (ずっと迷惑かけてたからなあ) 菅原に襲われた義人は、話し合いが済んで全てが終わった後もその記憶にずっと悩まされてきた。 そしてそれを夢に見て飛び起き、取り乱して暴れる度に藤崎は何度も義人を抱きしめて落ち着かせ、眠りにつくまで一緒に起きていてくれたのだ。 (長かったな) 流石に1年経った今はそんな事も減っていた。 悪夢で起きる事はなくなり、夜中にふと目が覚めてもすぐに眠れている。 目の前の、あの日の菅原の顔が蘇る事は無くなったのだ。 「ありがとな」 「ん?」 周りには出勤途中のサラリーマンやOL、ランニング途中で足踏みしながら信号が変わるのを待っている男性、学生に見える男女のグループと、様々な人種がいる。 義人と藤崎はその人間達の後方、横断歩道から数歩離れたところで立ち止まっていた。 「何かちゃんと言ったことなかった気がしたからさ。あれね。ほら、夜中に起きたりしてたとき、ずっとそばにいてくれて寝るまで喋ったりしてくれたの、ありがとうってこと」 「んはは、いいのにそんなの」 「いやでも、」 義人が何か言いかけたとき、パッと信号が青に切り替わり、歩行者が行き交うときの低い電子音が流れ始めて人波が動いた。 「彼氏なんだから当たり前だよ」 「え、」 いつもの藤崎の手が、義人の腰をポン、と軽く叩いていく。 押されたように歩き出すと、隣を歩く藤崎はニコ、と義人の方を向いて笑った。 「、、ありがとう」 へにゃ、と吊られて、こちらも笑った。 「おはようございます。インターンでお世話になります、佐藤と藤崎です」 「お!佐藤!来たな〜!」 事務所の受け付けで挨拶をしていると、さっそく机の列の向こうにいた檜山が義人を見つけ、手を振りながら駆け寄って来てくれる。 短い髪に顎髭を生やした謂わゆる「ちょいワル」に見える男は、ニコニコと2人を小会議室1と書かれた部屋の中に通してくれる。 「今日からここ使うから、荷物とか置いといて。パソコンは後で一緒に持ってこような」 オフィスはビルの8階を打ち抜いてワンフロアとして出来ている。 全面ガラス張りの窓の反対側に机の海を挟んで何個か会議室が並んでいるが、それ以外には壁はない。 「あ、はい。ありがとうございます。あ、檜山さん、こっち」 「あ、そうだよな。えーとね、待ってな〜」 檜山はそう言いながらポケットの中を探り始め、明るい茶色の革製の名刺入れを取り出すとパカッと開けて中から1枚取り出した。 「はじめまして。藤崎くんだよね?佐藤と同じ予備校に行ってた、君達より5、6個歳上の檜山総一です。ここでデザイナーしてます」 藤崎の前に両手の指先で持った名刺を差し出すと、彼は檜山に合わせてお辞儀しながらそれを両手で受け取った。 「ご丁寧にありがとうございます」 にこ、と彼らしい完璧な笑みで返した。 第一印象なんて人それぞれで抱き方は違うだろうが、藤崎に関しては大体の人間が「イケメン」と思うに違いない。 義人はそう思いながら2人が言葉を交わす光景を何だか不思議なもののように見ていた。 大学に入ったばかりの頃は藤崎と付き合う気なんてなく、自分がこうして彼を連れ、檜山を訪ねる事があるなんてまったく思っていなかったからだ。 現実味があるようでない。 「藤崎久遠と申します。インターンの件もお受けしていただいて、ありがとうございます」 「いやいやいや!いいよ全然!募集かけるかーって言ってたとこだったし!2週間宜しくね!」 「はい。宜しくお願い致します」 「君、めちゃくちゃイケメンだなあ、、!」 義人は2人のやり取りを見つめながら、檜山の最後の言葉に、やはりな、と思った。 そして流石だなあと思った。 初対面の人間に堂々と挨拶を返し、更にお礼までサラサラと言ってのけた藤崎の余裕はやはり彼の持つ自信から来ているのだろうか。 大人相手でも決して狼狽える事がない彼を見習わなければと思いつつ、褒められた藤崎の顔面を見つめて少しだけ口元が緩んだ。 (まあ、顔はいいからなあ) ふふん、と得意気になりそうなのを堪え、別に褒められているのは自分ではないのだからと代わりにケホッ、と咳をして誤魔化し、表情筋に力を入れた。 最近こう言う事が多い。 藤崎が褒められると自分まで嬉しくなってしまう事が。 「あはは。そうですか?ありがとうございます」 「いやいやいや!絶対言われ慣れてるでしょイケメンて!佐藤、藤崎くん大学だとすごい人気なんじゃない?」 「人気ですね〜。1年のときから告白されなかった月がないですよ」 「ええ!?すご!!」 「佐藤くん盛りすぎね」 会議室の中には3人しかいないが、中々に賑やかになっている。 檜山はこれと言って堅苦しい人間でもなく、どちらかと言えばニコニコしていて愛嬌のある人懐こい性格をしている。 面倒見もいいし気さくだ。 義人も彼に久々に会う為少し緊張していたのだが、変わらず笑って歓迎してくれた彼に胸を撫で下ろし、とりあえず、肩に入っていた力を藤崎と共にフッと抜いた。 「じゃ、10時になったら朝礼するから。今ぁ〜、5分前か。ちょっと早いけど大会議室行こっか」 「はい」 「はい」 促されるままに小会議室1から出ると、先程よりも多くなった社員達の目が一斉に2人の方を向いた。 部屋から出てそちらへ軽くお辞儀をすると、檜山に連れられ、今度は2つ隣の、壁が緑色に塗られている大会議室と書かれた部屋に入った。 部屋の前方の壁の上部にかけられた時計が10時になる1分前には、壁沿いに社員全員が並び、時計の下に社長らしき男性が立って部屋のドアが閉められた。 社長らしき男性は、眼鏡をかけた50過ぎかと言う、少し乾いた黒い肌をした背の低い男だった。 クールビズでネクタイはしておらず、薄い水色の涼しそうな半袖のYシャツを着ている。 「おはよう。えー、今日からインターン生がー、2週間かな?来ると言うことで。みんな積極的に話しかけてね。2人も困ったことがあったら誰でもいいから捕まえて聞いていいからね。かたーい会社ではない筈なので、少なくとも僕はそう思ってるし定時で帰るので、ゆるっと宜しく。やることはやってね。宜しくお願いしますね」 「〜や」「〜やで」等は言わないが、彼が発した言葉は関西のイントネーションだった。 元々不動産の営業をしていたのが何かしらあってこっちに来たのだと檜山が言っていたのを思い出しつつ、隣の藤崎が頭を下げるのに釣られ、義人も軽くペコリと頭を下げた。 「お願い致します」 「宜しくお願い致します」 朝礼と言っても堅苦しくはない。 月曜日だから全員で集まってここまできちんと顔を合わせて挨拶するが、普段はそれぞれのデスクについたまま立ち上がり、「おはようございます」と全員で言うのと、大きな事故等がなかったかの確認だけして終わりだと言う。 各部署が手掛けている大きな案件、現場の話しと、連携する必要がありそうな案件の確認と話し合いの場を設けると言う連絡が終わると、最後に義人達に話しが振られた。 「じゃあインターンの2人、自己紹介だけしましょうか」 今日の朝礼当番である若い女性社員が2人に笑い掛けた。 「佐藤から。いいよ」 隣に立っていた檜山が「一歩前に」と手を振るので、義人は一歩前に出て頭を下げ、姿勢を正してから全体を見回しつつ自己紹介をする。 こう言うとき、どこに手を置いていたらいいか分からないなあ、と少し焦った。 「本日より2週間、インターン生としてお世話になります。静海美術大学造形建築デザイン学科から来ました、佐藤義人です。宜しくお願い致します」 最後に深くお辞儀をすると、ぱらぱらと拍手をされた。 「佐藤と同じく、静海美術大学造形建築デザイン学科から参りました、藤崎久遠です。宜しくお願い致します」 義人が下がったところで藤崎が前に出てそう言い、同じようにお辞儀をする。 義人は少しムッとした。 社長達から見えない位置にいる、明らかに今年か去年入社したばかりだろうと言う女性社員2人が、藤崎が挨拶を終えた瞬間にこそこそと話し合って嬉しそうに笑い合ったからだ。 (ほんっっとモテるな、コイツ) 義人が先程檜山に言った、入学してから今の今まで藤崎が告白されなかった月がないと言うのは本当の話しだった。 義人がいちいち数えていたのだから、間違いはない。

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