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第19話「安心」

「足痛い」 「え?」 もうすぐそこが駅の入り口だと言うのに、そう言って立ち止まり、藤崎はソロソロと閉店したビルの1階に入っている店のシャッターに近づき、上半身を倒して自分の靴へ手を伸ばす。 「大丈夫か?靴擦れ?」 義人がそう言って足を見るために彼の前に座り込んだ瞬間、視界が陰った。 「ぇ、?」 何だろうと思って顔を上げるとすぐそこにやたらと整った美しい顔があり、目が合った瞬間に弱ったように柔く微笑まれた。 「義人、好きだよ」 「ん、」 ちゅ、と、優しく突然に唇が重なる。 (あ、騙されたのか) 人通りの少ない道で、店のシャッターの前で座り込んだ為に街灯や駅の明かりも遠い。 上から押し付けられている藤崎の唇の柔らかさや温かさに目を瞑り、いつもなら抵抗する筈の義人が彼の頬を両手で包み込み、必死にキスをしていた。 (久遠、) 嫌だなあ、と思った。 告白されるところを見るのも、「俺と付き合ってるんです」と言えないのも、藤崎がいつも「彼女いないの?」と聞かれるのも。 (全部俺なのに、俺だけしか見てないのに、) 付け入る隙なんて与える訳がないのに、藤崎は前から、今も、この先もずっと、見た目がいいからとたくさんの女の子に狙われる。 その煩わしさを止めたいのに、「ゲイとバラなさい事で彼を守る」と決めた義人には何の力もない。 (俺の恋人なのに) 手のひらが触れている藤崎の頬が冷たく感じる。 義人の体温が高いのだ。 あの一瞬、街灯の下にいる藤崎が遠く思えたからか、今日は全部が切なく思えた。 「義人」 「ん、、」 「嫌がんないの、珍しいね」 「んー、、」 「嬉しいなあ」 周りに人はいない。 唇を離した藤崎は義人の照れた顔を見つめて自分から彼に近づいて距離を詰め、しゃがみ込んでいる義人のうなじに手を回し、コツンと額を合わせた。 「どうかした?怒ってる?」 「、、怒っては、ない、けど」 「そう?」 気にしていない。 気にしてなんていない。 誰が藤崎に惚れようと、アプローチしてこようと、藤崎久遠の恋人は自分だけなのだから。 なのに今日は切なかった。 街灯の下にいる藤崎を一瞬でも遠くにいると思ってしまったせいで、ぶり返した孤独感が消えず、何度考え直そうとしても寂しさや孤独感が消えない。 「久遠」 「ん?」 義人は藤崎がうなじに回した手に触れて、頭を倒して彼の手首に頬を擦り付ける。 彼の黒っぽい瞳は暗い店の前では余計に深い黒に見えて、奥が覗けず、藤崎はそんな事にすらドクンと胸が高鳴るのを感じた。 「エロいキスして」 「っ、、たまにそういうの言われると、すごいそそられる」 たまにしか言わないからこそ、またいいのだろう。 何だか不安そうな、不満そうな表情をして黙り込む義人の頬を包んで、再びゆっくりとその唇を塞いでいく。 べろりと下唇を舐められたのを合図に義人が少しだけ口を開くと、藤崎の厚みのある舌が口内に入った。 「ん、んっ、」 くちゅ、くちゅ、とねっとりとした舌がやたらゆっくりと義人の舌に絡んできて、急かすように舌を差し出しても味わうようにただ遅く、時間をかけて吸い上げられ、しゃぶられた。 「ん、ぅ、、ふ、んっ」 それはいつも以上に義人の呼吸を奪い、彼は少し酸欠になって苦しくも思えた。 夜とは言え、公共の場でこんな事をするのは馬鹿げている。 こう言う場でキスをしたり、周りに聞こえるようにセックスの話しをして愛情を確かめ合うような馬鹿なカップルではない筈なのに。 そんな事を思いつつも、義人も藤崎も、自分を止める事ができなかった。 (そっか、それなりに、俺達不安だったのかも) 大学で出会って、いつもは何もかも知って理解して受け入れてくれている友人達に囲まれ、彼らに守られ、彼らを守りながら生活している。 それが今回のインターンで初めて本当に2人きりで社会に身を投げた結果、あまりにもいつもと違って気をつけたり気を遣ったり、理解されない事が多くて、学生なりの余裕のなさで、2人とも知らず知らずに戸惑い、焦り、困惑していたのだ。 こんなところでキスをして、やっと身体の力が抜けた義人は、藤崎の舌を逆に吸い上げてやった。 (ごめんな、不安にさせて。不安になっちゃって) そう思いながらキスに応えて、2人はしばらくそのままでいた。 短いようで長かったインターンがやっと終わった。 これでようやく、夏休みが始まるのだ。 「ん、、苦しい、ん、藤崎、苦しい」 「ん、ごめんごめん。あー、だめだ、ごめん。夢中になった」 「んはは。んん、俺も」 やっと唇を離して見つめ合い、2人は照れながら笑い合った。 それでも、義人が柔らかい表情になって嬉しそうに笑うので、藤崎はやっと何か吹っ切れたんだなと安心して、彼のうなじから手を離す。 「帰ろっか」 先に立ち上がって手を伸ばすと、義人はコクンと頷いてその手を取った。 もう藤崎は遠くない。 体温の高さが分かるくらい、そばにいる。 「おい、大丈夫か?」 「、、あ、うん。ごめん大丈夫だよ」 友人の声にふと我に返り、買ったのに手に持ったまま飲んでいなかったミネラルウォーターのキャップを回して、ブチッと開けた。 (な、何で、、どういうこと、、) 目にしてしまった事を後悔している。 こんな日に遅くまで外にいるべきではなかったのだ。 いくら後悔してももう遅くて、口をつけて飲み始めたミネラルウォーターの冷たさに、これは現実なのだと突きつけられた気がした。 飲んで落ち着こうと思ったのに、これでは逆効果だ。 (何で、、何で、) 声には出せない。 涙は出ない。 ただ、後悔ばかり感じる。

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